静かな兆し
――時間は少し遡る。
ギルドで祭り警備用の捕縛玉を受け取ったカイルとミレイユは、二人で指定区画の巡回に出ていた。
祭りの喧騒はすでに始まり、通りには色とりどりの布飾りと香ばしい匂いが漂う。
しかし、そんな賑わいの中でもカイルの表情は変わらない。
冷静な眼差しで周囲を観察しながら、人混みの中を迷いなく突き進んでいた。
その背を、ミレイユは必死に追いかける。
足取りは軽やかだが、周囲への警戒を一瞬も解かないカイルの動きに、ミレイユはただ感嘆するばかりだった。
それも当然だった。
カイルはすでにこの短時間で、ひったくりを一人、スリを二人捕らえている。
まるで風のような正確さで動き、誰も気づかぬうちに事を終わらせていた。
(すごい……)
ミレイユは胸の高鳴りを抑えきれず、少し離れた背中を見つめる。
陽光を浴びて輝くその髪と、迷いのない足取り。
しかし、そのスピードについていくのは容易ではない。
息を切らしながらも、ミレイユは小走りで後を追う。
(あ、あの……もう少し、ゆっくり……)
と心の中で訴えるが、声に出せない。
勇気を出して言おうとした瞬間、またカイルの足が速まる。
(ま、待ってください……!)
彼女のそんな必死さを知ってか知らずか、カイルは相変わらず前方を鋭く見据えていた。
その姿はまるで――戦場に立つ騎士のよう。
やがて、通りの角を抜けたところで、ミレイユは決心したように息を吸い込む。
「……あ、あのっ、カイルさん!」
その声は祭りのざわめきの中でもはっきりと響いた。
カイルは足を止め、静かに振り返る。
そして――一瞬で表情を柔らげた。
「どうした?」
いつもの凛々しい眼差しが、途端に優しさを帯びる。
「……あ、あの……」
ミレイユは少し躊躇いながら声を上げた。
彼女は両手を胸の前でそわそわと重ね、視線を泳がせている。
「一度、休憩を取りませんか? あの……朝から何も食べていませんし……」
最後の言葉に合わせるように、彼女の視線がちらりと露店のほうへ向かう。
そこでは香ばしい焼き肉串の匂いが漂い、湯気を上げたスープが並んでいた。
カイルはその視線の先を追い、そしてふっと笑みを漏らした。
「……そうだな。確かに、そろそろ腹も減る頃だ」
「じゃあ、朝飯にしよう」
その一言に、ミレイユの顔がぱあっと明るくなった。
まるで花が開いたように表情が輝く。
「そ、それじゃあ……何か買ってきますね!」
嬉しそうに声を弾ませ、露店へと向かおうとした――その時。
「いや、それには及ばないよ」
カイルは軽く手を伸ばして彼女を引き止めた。
腰のポーチから、包みのついた携帯食を二つ取り出す。
「これで済まそう」
そう言って、ひとつをミレイユに差し出す。
「……そ、そうですか……」
ミレイユの肩がわずかに落ちる。
嬉しさが一瞬でしぼむように、頬の笑みが儚く消えた。
彼女の視線は、まだ湯気を立てる露店の方を未練がましく見つめている。
「……?」
そんな様子を見て、カイルは少し首を傾げたが、何も言わず自分の携帯食の包みを開く。
味気ない携帯食を一口かじりながら、ミレイユはちらりと横に視線を向けた。
そこには、壁に背を預けながら立ったまま携帯食を口に運ぶカイルの姿。
その姿勢は、何気なく見えて実に隙がなかった。
視線は常に往来に注がれ、周囲の人々の動き一つひとつを捉えている。
その立ち姿からは、静かで確かな緊張感が漂っていた。
陽に照らされた髪が風に揺れ、精悍な横顔が一瞬だけ光を反射する。
(……かっこいい……)
ミレイユは無意識に見惚れてしまい、次の瞬間、自分が何を考えているのかに気づいて慌てて俯いた。
頬がほんのりと赤く染まり、指先で携帯食をいじりながら小さく息を漏らす。
(私なんか……ついて行くのが精いっぱいで……)
しょんぼりと肩を落とし、思わずため息がこぼれたその時――
「……お嬢さん、悩み事かえ?」
不意に、柔らかくもどこか掠れた声が背後からかけられた。
ミレイユは「ひゃっ」と小さく声を上げ、びくっと肩を震わせる。
慌てて振り返ると、すぐ隣――露店の一角に小さな机と布を張った屋台があった。
香草と線香のような香りが漂うその店は、どうやら占い屋のようだった。
店先には古びた水晶球や、見慣れない模様の札が並び、
その奥に座る人物は深くフードをかぶっている。
顔は影に隠れて見えない。
だが、くぐもった声の響きや、指先の節くれだった動きからして――たぶん年老いたじいさんなのだろう、とミレイユは思った。
「えっ、あ、あの……」
突然の呼びかけに戸惑いながらも、ミレイユは言葉を詰まらせる。
店主はゆっくりと顔を上げた。
フードの奥から覗く光が一瞬、ぼんやりと赤く揺れる。
「――若い娘のため息は、風を呼ぶ。迷いの風か、運命の風か……さて、どっちだろうな?」
掠れた声に不思議な響きが混じる。
ミレイユは思わず息を呑み、胸の奥がざわつくのを感じた。
そんな彼女の背後では――カイルが何も知らずに、静かに周囲を警戒し続けていた。
「……わかる、わかるぞ……お主の思い……」
低く掠れた声が、どこか湿った風のようにミレイユの耳に忍び込んだ。
占いの老人は、フードの奥から覗く口元をわずかに吊り上げ、
まるで全てを見透かしているかのような声色で続ける。
「しかし、それは――報われぬ思いじゃ」
ミレイユの身体がピクリと震えた。
喉がひゅっと鳴る。
(な、何を……言って……)
思う間もなく、老人の言葉が畳み掛けるように降ってくる。
「それは、お前さんも……感じておるのではないかえ?」
その声音は、まるで嘲るようでもあり、慈しむようでもあった。
核心を突かれたミレイユは、ぎゅっと唇を噛み、俯いた。
胸の奥が痛い――まるで、心の奥に隠していた弱さを抉り出されたように。
(私……私は……)
老人はその様子を見て、まるで満足そうに笑った。
「ふぉっふぉ……」
彼はゆっくりと手を伸ばし、古びた机の上に何か黒い粉のようなものを撒いた。
それは一瞬で小さな煙を立て、ふわりと薄紅色の光を放つ。
「ならば、どうするか?」
老人の声は途端に低く、湿った囁き声に変わる。
「簡単なことだえ。――変わるのさ」
「……変わる?」
ミレイユが小さく呟く。
「ああ……その思いに見合うだけ、身も、心も、濃く――色濃く染め上げるのじゃ」
その言葉は、まるで甘い毒のように、ミレイユの胸に滑り込んでくる。
優しく、しかし逃れられないほどに深く。
空気が揺れる。
耳鳴りのような音がして、ミレイユは思わず両手で肩を抱いた。
「……っ……あ、あたし……」
震える声が漏れる。
見えない何かが心の奥に絡みつき、囁きかけるようだった。
ミレイユは小さく息を呑み、俯いたまま肩を震わせた。
頬を伝う汗が冷たい。
頭上の空には、いつの間にか一片の雲が流れ、
祭りの喧騒が少しだけ遠ざかって聞こえた。
「……ミレイユ?」
カイルは隣から伝わる微かな震えに気づいた。
俯き、唇を噛みしめ、肩を抱くように小刻みに震えているミレイユの姿。
その瞳は焦点を失い、どこか遠くを見ていた。
カイルは静かに息を整え、そっとミレイユの肩に手を置く。
「こんな奴の言葉に――惑わされるな」
その声は静かで、しかし芯があった。
耳元にかかる低い声。
それは優しい包み込みと、確かな守りの響きを持っていた。
ミレイユの震えた肩が、少しだけ動きを止める。
彼の掌の温もりが、冷えた心の奥まで届くようだった。
「カイルさん……」
掠れるような声でそう呼びながら、ミレイユは小さくカイルの手に手を添えた。
カイルはその手をしっかりと握り返し、占いの老人を一瞥する。
「行こう」
そう言い、彼女をそっと引き寄せるようにして歩き出そうとした――その時、老人の掠れ声が、背後から静かに響いた。
「お主……お主は特に色濃くなっておる」
その言葉に、カイルの足が止まる。
老人はゆっくりと立ち上がり、皺だらけの指を一本、まっすぐカイルへと向けた。
「お前さんの輝かしい栄光……その光が強いほどに、影もまた深い。やがて――理想と現実の違いに、絶望するじゃろう」
「……黙れ」
低く、重いその一言に、路地の空気が一瞬で凍りついた。
カイルの瞳がわずかに細められ、鋭い光を宿す。
その威圧に、祭りのざわめきすら遠ざかっていくようだった。
だが老人は怯むことなく、むしろ愉悦の笑みを深めた。
「ほう……その目、実にいい。お前さんの未来に――幸あらんことを」
その声には、まるで呪いにも似た余韻があった。
カイルは鼻を鳴らし、言葉を返すこともなく踵を返す。
そのままミレイユの手を取り、群衆の中へと歩き出した。
背後で、老人の低い笑い声が微かに響く。
「……運命とは、色に溺れた者ほど、深く沈むものじゃて……」
その言葉を最後に、風が一陣、露店の布を揺らした。
振り返ったときには、そこに占いの屋台はもう――なかった。
カイルは無言のまま、ミレイユの肩を抱いて歩いていた。
その歩みはまるで――先ほどの占いの男から一刻も早く離れたい、そんな焦燥を映すように速まっていく。
彼の手はしっかりとミレイユの肩を包み、力強くも温かい。
だが、ミレイユの歩幅では追いつくのがやっとだった。
(カイルさん……はや……)
息が乱れ、胸が苦しくなっていく。
けれど彼の背中が頼もしくて、声をかけることもためらわれた。
ただ、その背に縋るように歩みを続ける――やがて、とうとう足がもつれかけたその瞬間、ミレイユは掠れた声で小さく呼びかける。
「あ、あの……」
けれどカイルの耳には届かない。
焦りに追い立てられたように、彼の足は止まらなかった。
(……カイルさん……)
次の瞬間、ミレイユは胸いっぱいに息を吸い込み、
勇気を振り絞るように声を張り上げた。
「あ、あのっ! カイルさん!!」
鋭く響いたその声に、カイルはハッと立ち止まる。
振り返った彼の顔には、はっと我に返ったような表情が浮かんでいた。
「す、すまない……ミレイユ」
焦りと申し訳なさが入り混じった声。
ミレイユは胸に手を当て、少し息を整えながら小さく首を振った。
「いえ……大丈夫です。ちょっと……びっくり、しただけです」
その言葉にカイルはほっと息を吐き、
ようやく足を緩めて、彼女に合わせるように歩き出した。
「よう、お疲れさん」
陽気な声とともに、群衆の間から姿を現したのはあの無精ひげのエルフだった。
片手を軽くあげ、まるで旧友にでも会ったかのように気さくに笑う。
「お前は……!」
カイルの瞳が鋭く光る。
瞬間、空気が一変した。
周囲のざわめきの中でも、その視線だけが鋭い刃のように突き刺さる。
「おいおい、そんな怖ぇ顔すんなって」
エルフはへらりと笑いながら両手を上げて見せた。
「それにしても……」
言葉を切ると、カイルとミレイユの姿を交互に眺め、
次第に口元がにやけていく。
「なんだよ、お硬い奴かと思ってたけど……案外やるじゃねぇか」
「うるさい」
カイルはピシャリと切り返し、眉をひそめる。
「これは警備の一環だ」
「へぇ、警備ねぇ」
エルフはまるで聞いちゃいない様子で、からかうように肩を揺らして笑った。
ミレイユは恥ずかしそうに俯き、頬を赤らめる。
その姿を見て、エルフはさらににやにやと笑みを深めた。
「そうかそうか、警備か! うんうん、そういうことにしておこうじゃねぇか!」
「貴様……!」
堪えきれず舌打ちをし、カイルは一歩踏み込むようにエルフを睨みつける。
「お前は何をやっていた?」
エルフはその視線を受けても、まるで動じない。
むしろ唇の端を上げ、不敵に笑う。
「言ったろ? 俺なりの警備ってやつさ」
軽く肩をすくめ、飄々としたその態度にカイルの苛立ちはさらに募る。
だが――その瞬間、エルフの目がふっと真剣な光を宿した。
「ま、冗談はさておきだ」
いつもの軽口とは違う、低く落ち着いた声。
「ちょっと……気になる情報があってな」
カイルの表情が変わる。
「気になる情報?」
エルフは一歩、近づいた。そして祭りの喧騒の中、誰にも聞こえぬように――カイルの耳元で囁く。
その声は小さく、風のように掻き消える。
しかし、聞いた瞬間――カイルの瞳が見開かれた。
「……なに?」
顔色が一瞬にして変わる。
ミレイユが心配そうに覗き込むが、カイルは何も言えず、ただ沈黙したままエルフを見つめていた。
エルフはその反応を見て、満足げに薄く笑う。
風が強く吹き抜け、祭りの旗がはためく。
――次の瞬間、静かな不穏が、街の底を流れ始めていた。




