聖女の祈り、結ばれる縁
教会の前に立つと、朝の光を受けた花飾りが風に揺れていた。
昨日、子供たちとセリナが飾りつけていた花々――淡い桃色の花弁に朝露が光り、まるで祝福のようにきらめいている。
「ここだ」
バニッシュが軽く息を整え、扉をノックした。
――コン、コン。
しばらくして、木の扉が軋む音とともにゆっくりと開く。
顔を出したのは、黒い修道服に白いヴェールをかけたシスター――セリナだった。
「あ……」
驚いたように目を瞬かせたあと、彼女はふわっと花が咲くような笑顔を浮かべる。
「バニッシュさん、来てくれたんですね」
両手を胸の前で合わせ、嬉しそうに微笑むその姿は、まるで聖母のように柔らかい。
「ああ。ちょっと頼みたいことがあってな」
バニッシュは気まずそうに後頭部をかく。
「頼みたいこと?」
セリナは小首を傾げ、澄んだ瞳で問い返した。
「実はな――」
バニッシュはスッと身体をずらし、背後にいたカイルを見せた。
カイルは左腕を押さえ、顔をしかめながらも平静を装っている。
その姿を見た瞬間、セリナの表情が一変した。
「た……大変!」
彼女は慌てて扉を大きく開き、スカートの裾を掴んで駆け寄る。
「どうぞ中へ! すぐに治療の準備をします!」
「すまない、助かる」
カイルが礼を言うと、セリナは力強く頷いた。
「そんな、お礼なんて……とにかく、中へどうぞ!」
その言葉には偽りのない純粋さがあった。
教会の中は、静謐そのものだった。
天窓から差し込む淡い光が、空気中の埃を金の粒子のように照らし、その先には――白大理石で作られた女神ルミナ=リュミエールの像が立っていた。
柔らかな微笑みを湛えたその像の前で、シスター・タリズが静かに祈りを捧げている。
「タリズさん!」
セリナの声に、祈りを終えたタリズがゆっくりと振り返る。
「あら、皆さん。今日はどうされたのですか?」
いつものように落ち着いた微笑みを浮かべるタリズ。
「タリズさん、カイルさんが怪我をされているようなのです!」
セリナが焦りを帯びた声で告げると、タリズはすぐにカイルの方へ視線を向けた。
血で袖を濡らしながら腕を押さえるカイル――その様子を見たタリズの表情が一瞬にして引き締まる。
「まぁ……大変だわ!」
彼女は即座に判断し、穏やかだが的確な声で指示を飛ばす。
「セリナ、奥の部屋へ案内して。それと聖水とお湯、清潔な布を用意してちょうだい」
「はいっ!」
セリナは素早く返事をして、バニッシュたちを奥の部屋へと案内する。
その部屋は、教会の執務室を兼ねた小さな治療室だった。
整然と並ぶ書類と祈祷書、壁には女神の紋章が刻まれた金の装飾。
質素ながらも、どこか神聖な気配が漂っている。
「こちらにお掛けください!」
セリナは椅子を引き、カイルを座らせるとすぐに準備に走った。
聖水の瓶を取り、お湯を沸かし、真新しい白布を揃える――その動作は手慣れており、無駄のない動きだった。
ほどなくして、タリズが部屋に入ってくる。
「さあ、見せてください」
彼女は静かに膝を折り、カイルの腕を確かめる。
深くはないが、切り傷は長く、血が滲み続けていた。
「少し染みますよ」
優しく告げると、タリズは聖水を手に取り、カイルの腕にそっとかけた。
――ジュッ。
血が薄まり、聖水の透明な輝きが傷を清めていく。
カイルは息を詰め、顔を歪めながらも声を押し殺す。
「ぐっ……!」
「我慢してください。すぐに終わります」
タリズは微笑みながらも、その手の動きには一切の迷いがなかった。
聖水で血を洗い流した後、彼女は立ち上がり、床に聖水で小さな魔法陣を描き始める。
淡い青白い光が円を形づくり、やがてカイルの身体を中心に広がっていった。
「女神ルミナよ――光の慈悲にて、この身の痛みを癒しを……」
タリズの祈りの言葉が部屋に響く。
その瞬間、陣がふわりと輝きを増し、柔らかな光がカイルを包み込んだ。
カイルの傷口がじわりと閉じ、血が止まり、皮膚が再生していく。
まるで時が巻き戻るように――セリナは祈るように手を組み、ミレイユは胸の前で息を呑んだ。
次第に、光が静かに収束していく。
柔らかな輝きがタリズの掌の中に集まり、やがて淡い残滓だけを残して消えていった。
部屋の空気には、女神の祈りの香気がまだ漂っている。
神聖な光が消えた後も、まるでそこに温もりが宿っているかのようだった。
「ふぅ……」
タリズは一息つき、額にかかった髪を整えながら優しく微笑む。
「これでもう大丈夫ですよ」
穏やかな声が響いた瞬間、室内の張り詰めた空気がふっと緩む。
「セリナ、後の処置は任せましたよ」
「はい、タリズさん」
セリナは静かに頷き、手早く準備を始める。
カイルの腕を見ると、先ほどまで血に濡れていたはずの肌が、まるで初めから傷などなかったかのように綺麗に塞がっていた。
流れ落ちた血すらも、光と共に浄化されたのだろう。
皮膚は健康な赤みを取り戻し、力強く再生していた。
「……すごいな」
思わずバニッシュが呟く。
その声には感嘆と、ほんの少しの敬意が混じっていた。
ミレイユは震える唇を押さえ、潤んだ瞳でカイルを見つめる。
「よ、よかった……!」
涙が頬を伝い、安堵に満ちた笑みが零れる。
セリナはお湯で湿らせた白布を取り、
そっとカイルの腕に触れ、傷の周囲を丁寧に拭き取り、残った血痕をやさしくぬぐっていく。
彼女の指先は慎重で、まるで壊れ物に触れるような繊細さだった。
布に残る赤が次第に薄くなり、最後には清らかな白だけが残る。
セリナは静かに息を吐き、別の布を取り出して腕に巻きつけた。
白布が柔らかく結ばれ、神聖な香がふわりと漂う。
セリナの指先は、まるで祈りの延長線のように静かで優しかった。
白布を結ぶたびに彼女の袖が小さく揺れ、淡い髪が頬をなでて落ちる。
カイルはその様子を、まるで時間が止まったかのように見つめていた。
その眼差しには、感謝だけではなく、何かもっと深い――言葉にできない温もりが宿っていた。
その様子を見ていたミレイユは、すぐ隣でぷくっと頬を膨らませた。
――まるで、見えない距離を測るように。
小さく「ふん」と鼻を鳴らし、腕を組む仕草がどこか子供っぽい。
そんな微妙な空気をよそに、バニッシュはいつも通りの調子でタリズに話しかけた。
「それにしても、完全治癒とは凄いな。タリズさんは……聖女だったりするのか?」
彼の問いに、タリズは目を細め、ふふっと柔らかく笑う。
「いいえ、違いますよ。私はただの年寄りのシスターです」
「でも、さっきの光は……」
「私のはね、真似事に過ぎません」
タリズは静かに首を振りながら諭すように言い添えた。
「本当の奇跡を起こす人というのは、もっと純粋で、もっと相応しい人がするものですよ」
その視線の先には、ちょうどカイルの腕の包帯を整えているセリナの姿があった。
彼女の周囲には、わずかに残る祈りの光がまだ漂っている。
バニッシュはその意味がすぐには飲み込めず、首をかしげる。
「そうなのか……一度でいいから本物の聖女様ってやつに会ってみたいもんだな」
タリズは小さく笑みをこぼし、口元に手を添えた。
「ふふふ……案外、もう出会っているかもしれませんよ」
その声にはどこか含みがあり、バニッシュはぽかんとしながら「?」と首を傾げた。
――だが、その言葉の意味を知るのは、もう少し先のことになる。
教会の白壁を背に、柔らかな夕光が差し込んでいた。
その前で、バニッシュたちは深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
バニッシュの声に続いて、カイルも静かに一礼する。
「助かりました。おかげで仕事に戻れそうです」
セリナは微笑みながら手を胸の前で合わせた。
「どうかご無事で。女神ルミナの加護がありますように」
その隣でタリズも柔らかく頷く。
「あなた方の道に、光があらんことを」
「じゃあ――警備に戻るか」
カイルが背を伸ばして言うと、バニッシュも笑ってうなずいた。
「そうだな。まだ祭りは終わっちゃいないしな」
そのすぐそばで、ミレイユはカイルの腕にそっと寄り添い、
まるで守るように彼を見つめていた。
3人が教会を離れようとした、そのとき――
「バニッシュさん」
タリズの静かな声が背中を呼び止めた。
振り返ると、彼女はどこか遠くを見るような瞳をしていた。
「あなた方の出会いは……セリナも含め、運命なのでしょう」
その声音には、確信にも似た静けさがあった。
バニッシュは思わず眉を上げる。
「運命……?」
タリズは一歩近づき、まるで祈るように言葉を紡ぐ。
「そして――あなたとカイルさんには、すでに深い縁が結ばれています。どうか……慈悲ある行動を」
その目は、まるで未来の悲劇を見通しているようだった。
だが、バニッシュにはその意味がわからない。
「……ああ、そうするよ」
軽く笑ってそう答え、彼はカイルたちの後を追った。
タリズはただ静かに見送る。
その掌には、まだ祈りの余韻が温かく残っていた。
――それが、後に二人の運命を左右する予言のような言葉だと、この時のバニッシュは気づいていなかった。




