試行錯誤の理論融合
バニッシュたちの試みは、まさに前人未到の領域だった。
彼が生涯をかけて構築してきた魔法理論――それは現代魔術に基づき、あらゆる属性に応用可能な《補助型術式》を中核としたもの。だが、いま彼が挑もうとしているのは、その理に二つの“異端”を組み合わせるという暴挙に他ならない。
一つは、古代魔法の原理。
それは――五大元素《火・水・風・土・雷》、さらに《光》と《闇》の七属性を“核”として扱い、そこに精霊召喚の魔法式を複雑に絡めた、古の叡智。
魔法とはすなわち、大地と天、光と影、そして精霊との対話である――その思想に基づき、術者の精神と自然の調和によって発動する、重層的かつ荘厳な魔術体系。
そしてもう一つは、魔族の魔法理論。
それは――空気のように世界に満ちる見えないエネルギー魔素と、血に刻まれた魔の遺伝子に根ざす、感情と本能による魔法。
術式や詠唱を持たず、怒りや恐怖、欲望や愛といった“内なる感情”が直接魔素に干渉し、環境にまで影響を及ぼす。発動すれば周囲に魔の波が走り、空気すら震える。
工房の片隅。
静寂に包まれた机の上には、年季の入った分厚い巻物――古代魔法の原書が広げられていた。
セレスティナがその書に指を這わせながら、そっと語る。
「古代魔法の根幹は、七つの属性――火・水・風・土・雷、そして光と闇。そして、それらに宿る精霊との《契約》によって力を引き出すの」
バニッシュは真剣な眼差しで、彼女の言葉に耳を傾ける。
「精霊と契るために必要なのは、二つ。一つは《理》――つまり、術式を司る知識と構築の論理。もう一つは《誓約》――心に刻まれた願い、想い、そして誠実さ。この二つが揃って、初めて精霊はその力を貸してくれるの」
「……ただの魔法式だけじゃ、動かせないってことか」
「ええ。精霊は、力を貸すに値する“人間の心”を見ているのよ」
バニッシュは巻物の中の魔法陣に目を落とした。
三重螺旋構造の魔法円。中心には属性核、その周囲に詠唱式と誓約の象徴文字。理と誓いのどちらが欠けても成立しない精緻な構成だった。
「精霊との契約は、契りであると同時に、試される儀式でもあるのね……」
セレスティナは静かに頷く。
「契約の言葉は、嘘をつけないの。誓ったそのときから、あなたの魂は見られていると思って」
彼女は指先に小さな光の粒を灯し、空中に描いた魔法陣へと触れる。
すると、そこから淡い光を帯びた蝶の精霊が生まれ、ふわりと羽ばたいてバニッシュの肩に舞い降りた。
光は優しく、だがその輝きには確かな重みがあった。
「精霊は力じゃない。理と誓いに応えて、共に歩む“存在”なの」
セレスティナの瞳が真っすぐにバニッシュを見つめる。
その言葉に、バニッシュの胸の奥が微かに熱くなった。
「精霊との契約に必要なのは、ただ“想い”を語るだけじゃないの」
セレスティナは巻物をめくりながら、静かに口を開いた。
バニッシュは隣で巻物の精緻な構造式に目を凝らす。そこには見慣れぬ古代文字と魔法陣、そして“誓約式”と刻まれた欄が並んでいた。
「《誓約》ってのは、つまり“願いの代償”……か?」
「ええ。けれど、代償というより“自分自身に課す制約”に近いわ。精霊は誓いの重さを見ているの」
セレスティナの指が、誓約式の構文に沿ってすらりと動く。
「たとえば、“戦いの間、眠らない”とか、“生涯、誰とも恋愛しない”とか。“一度立てた誓いを破れば、精霊はその力を引く”――それが古代契約の基本よ」
バニッシュは息を呑んだ。
そこには現代魔法にはない、“覚悟”の重さがあった。力を得るために、自らを縛る――それはまるで、神に願う儀式にも似ている。
「こりゃすげえな……魔法を使うってことが、これほど深い意味を持つとは」
そう呟いたバニッシュの表情に、心からの敬意が滲む。
すると、セレスティナはほんの少し口角を上げて、さらりと言った。
「ちなみに、私は――恋愛、できるわよ?」
「……は?」
一瞬、何かが止まった。
「……いや、なんで急にそんな情報が?」
「さっき例に出たでしょ、“恋愛をしない”って誓い。私はそんな縛りはしてないって意味」
そう言って、どこか楽しそうに微笑むセレスティナ。
バニッシュは咳払いひとつ、視線を巻物に戻すが、耳が妙に熱い。
「そ、そりゃまあ、良かったな……いや、別に俺がどうこうって話じゃなくてな? あくまでその、参考情報っていうかだな……」
工房の隅に、柔らかな笑い声と、やや焦った咳払いが響く。
「よし、じゃあ次はリュシアの番だな。教えてくれるか?」
セレスティナの講義を終えたバニッシュは、頭の中で七属性や精霊契約の構造を反芻しながら、机に肘をついて深いため息を吐いた。
そんな彼に、リュシアがぱっと顔を上げる。
「うん。じゃあ、次はわたしが担当するね。……準備できてる?」
セレスティナの落ち着いた雰囲気とは違い、リュシアの言葉にはどこか親しみやすい軽やかさがある。
「魔族の魔法理論って、言葉で説明するのがちょっと難しいんだ。だから、実際に感じてもらったほうが早いと思う」
「……つまり、座学はなしってことか?」
「ふふ、うん。“習うより慣れろ”ってやつかな」
そう言ってリュシアは窓の外を指差す。
場所は結界内の森の一角。鳥のさえずりと木々のざわめきが響く、静かな空間だった。
「この空間には“魔素”が満ちてるの。目には見えないけど、ちゃんと感じれば分かるはず。魔族はそれを、血と感情で扱うの」
「血と感情……?」
「うん。魔素はただのエネルギーじゃない。その人の想いや気配に反応するの。だから、同じ魔法でも使う人によって形が変わることもあるんだよ」
リュシアは手のひらをそっと掲げる。
次の瞬間、空気が震えたような感覚と共に、掌からふわりと魔素が立ち昇る。紫と黒が入り混じった揺らめく光。それはまるで、生き物のように蠢いていた。
「この魔素をどう動かすかは、頭で考えるより、心で感じるほうが大事。まずは、触れてみて」
バニッシュはリュシアに手を取られ、そっと目を閉じる。
彼女の手は温かく、その奥に確かに“流れ”のようなものがあった。
「……これは……」
言葉にならない感覚が、胸の奥から湧き上がる。
理論だけでは辿り着けない、魔族の“本質”のようなもの。
「うん、それ。それが魔族の魔法の入口。感情や想いを通して、魔素を動かす……」
リュシアの声が柔らかく響く。
彼女の魔法は生きている。精霊と理に縛られた古代魔法とは異なる、まさに“生の魔法”。
「……すごいな、まるで心と魔力が繋がったみたいだ」
「そう。だからね、使う側の気持ち次第で魔法は変わるの。優しくもなれるし、残酷にもなる……」
静かに語るリュシアの表情には、どこか寂しげな色が滲んでいた。
空気に漂う魔素の流れを感じ取る訓練を終えたバニッシュは、リュシアの言葉の中にあった“感情や血”というキーワードに、今までの常識が覆されるような衝撃を受けていた。
「……つまり、魔族の魔法って、術式を使って展開するんじゃないのか?」
バニッシュが思わず口にすると、リュシアはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。私たち魔族は、魔法を“構築”するというより、“感じて動かす”の。術式で精密に展開する人間の魔法とは、根本から違うんのよ」
「感情や……環境に左右されるって言ってたな。そんな魔法、本当に扱えるのか?」
「慣れれば、ね。でも感情が揺らげば、それだけ魔法の性質も変わっちゃう。だからこそ、魔族にとって“心を保つ”ことはすごく大事なの」
理性と構築が前提だった人間の魔法理論に比べ、あまりにも異質な魔族の魔法。
バニッシュは眉をひそめながら、ふとある疑問を口にした。
「じゃあ――属性の制限とかは? 人間は適性があるだろ。火が得意とか、水が苦手とか。魔族にもそういうの、あるのか?」
するとリュシアは、少し考えるように視線を空へ向け、ゆっくりと語り始める。
「あるよ。でも、それは“血”に依存するの。魔族の魔法適性は生まれつきで、そのほとんどが血統に由来してる」
「血……ってことは、家系か?」
「うん。たとえば、私の家系は“崩壊”と“再生”――ふたつの相反する魔力を代々受け継いでるの。それが混ざり合って、いまの私の魔力がある」
そう言ってリュシアは、両手をかざす。
掌に浮かぶのは、破壊の赤と再生の青が渦を巻く、不安定な魔素の奔流だった。
「同じ血族は、同じ属性を持つことが多いし、代を重ねるごとにその属性は色濃く、強くなるの。でも逆に、血が混じると適性が薄まって不安定にもなる」
「……なるほどな。魔族の魔法は、“理”じゃなく“血”と“心”に根ざしてる。お前たちが感情や信念を大事にする理由が、少しだけ分かった気がするよ」
真剣な表情のままそう呟いたバニッシュに、リュシアはほんの少しだけ、微笑んだ。
「ふふっ……分かってくれて、うれしい」
セレスティナから教わった古代魔法の原理。
リュシアから伝えられた魔族の魔法理論。
そして、自身が長年かけて組み上げてきた人間の魔法理論――。
バニッシュは、工房の奥にある魔法陣用の広間に一人で立っていた。
指先に魔力を集中させ、三つの理論を組み合わせた試験的な結界を描く。
「……やってやるさ。理屈は分かってきた。あとは、形にするだけだ」
まずは古代魔法の原理を基盤に据える。
七属性の核を中心に精霊召喚の構文を絡め、安定した魔力の流れを作り出す。
そこに魔族の魔法理論を重ねた。
感情と血による魔素制御を取り入れ、環境との共鳴を狙う。
さらに、バニッシュ独自の補助術式――術式を展開し、制御を最適化するための理論構成を付け加えた。
すべては整った。
あとは魔力を流し込み、術式を発動させるだけ。
――しかし。
術式が明滅する。
結界がぐらつき、魔力が暴れる。
「……なんだ!?」
構築したはずの結界が、内部でぶつかり合い、軋むような音を立てる。
――次の瞬間。
構成された術式は、淡く光を放っただけで、音もなく霧散した。
「……打ち消しあってる。理論同士が噛み合ってない」
バニッシュは唇を噛む。
古代魔法の繊細な“理”に、魔族の“感情と本能”がぶつかり合い、そこに人間の“合理性”が入ることで全体が崩壊してしまっていた。
魔法理論というのは、ただ並べれば強くなるものではない。
それぞれの“思想”と“構造”が、真逆のベクトルを向いているのだ。
「……一筋縄じゃいかないか、わかってはいたが……」
バニッシュは額の汗をぬぐい、再び術式の残滓が残る床を見下ろす。
それから数日――。
バニッシュは工房の中に籠りきりだった。
朝も夜もなく、机の上に広げられた魔法式と睨み合いながら、黙々と筆を走らせていた。
食事はまともに摂らず、睡眠もとっていない。
気づけば何時間も同じ姿勢のまま、ただ思索と検証を繰り返していた。
三つの魔法理論の融合。
古代魔法の緻密な構造と、魔族の感情に依る魔素の流れ、そして自分自身の理論。
いずれか一つを取っても難解なのに、それらを同時に組み合わせようとするなど――常識では無謀とさえ言える挑戦だった。
リュシアとセレスティナはそんなバニッシュを心配し、何度も工房の前に足を運んだ。
「バニッシュ……また食べてないわね」
「まったく、寝不足で倒れたらどうするつもりかしら……」
工房の扉は閉ざされたまま。
中からは、時折、術式が弾ける音と微かな火花だけが漏れてくる。
ライラも、フォルも、心配そうに何度も顔を覗かせた。
しかし、バニッシュは誰の声にも応じることなく、ただ一人で格闘し続けていた。
――そして。
「……やっぱり、無理なのか……?」
工房の中央で、バニッシュは項垂れていた。
幾度目かの試作結界が、淡く光を放った後に霧のように消えていった。
紙の束には何十通りもの式が走り書きされ、机の上はインクと焼け焦げの痕で埋め尽くされていた。
そのとき――。
空気が震えた。
「……っ?」
バニッシュの眉がぴくりと動く。
微かな――だが確かな結界の“揺らぎ”を感じ取ったのだ。
それは、今までに感じたことのない、歪みとも引力とも言える奇妙な感覚だった。
――揺らぎの源は、工房ではなかった。
感じたのは、バニッシュが張り巡らせた《魔の森》の広域結界、その“端”の方角からだった。
瞬時に判断したバニッシュは、外套の裾を翻して外へと飛び出す。
「セレスティナ、リュシア! ついて来てくれ!」
「わかったわ!」
「何が起こってるの!?」
二人も慌てて後を追う。森の空気は普段と変わらず静かだが、ただ一点――空間の歪みのような魔力の波動だけが確かに存在していた。
バニッシュはその波を頼りに木々を駆け抜ける。そして、結界の最も外縁に近い地帯へと辿り着いたその時だった。
「……人……か?」
地面に崩れるように倒れている、筋骨たくましい壮年の男。
全身に傷を負い、服は焼け焦げ、鉄の匂いと焦げた血の臭いが漂っていた。
その人物の足元には、亀裂の走った転移石の残骸が転がっている。
「……転移石?」
息を詰めるバニッシュ。そのすぐ後ろからセレスティナが言った。
「この人……生きてる。でも、かなりの重傷よ」
「この風格……普通の人間じゃないわ。何かが、あったのね」
バニッシュはすぐさま傷を確認し、回復術式を展開する。
魔力を流しながら、彼は男の顔を見た――そして、目を見開いた。
「この顔……まさか……ドワーフの伝説の鍛冶職人、グラド=ハンマル……!?」
バニッシュの声が森の静けさに溶けた。