聖堂に咲く出会い
カイルと別れ、バニッシュは一人で街の東通りを歩いていた。
買い食いできそうな屋台方面は、無情にもカイルに取られた。
仕方なく反対側の静かな通りを回るバニッシュは、腹を押さえながらぼやく。
「……腹へったなぁ~……」
陽射しが石畳を照らし、祭りの準備で街全体が慌ただしい。
装飾を吊るす職人の掛け声、踊り子の練習、祭具を運ぶ若者たちの笑い声――賑やかさの中で、ただ一人、空腹の男がため息を吐く。
「せめて何か食い物でも売ってねぇかな……」
キョロキョロと周囲を見渡しながら歩くバニッシュ。
だがこの通りは露店よりも装飾や資材を運ぶ人々が多く、屋台など影も形もない。
「うーん、こっちハズレか……」
そんなことを呟きながら角を曲がった、その瞬間――。
――どんっ。
「きゃっ!」
軽い衝突音と共に、小さな悲鳴が上がる。
バニッシュの視線の先で、一人の少女が尻もちをついていた。
「あっ、す、すまない! だ、大丈夫か!?」
慌ててバニッシュは手を差し出す。
少女はうずくまりながら顔を上げ――その姿に、バニッシュの目が思わず奪われた。
黒を基調としたシスター服。
白いフードの下から覗く淡い銀色の髪が、陽光を反射してきらめく。
小柄な身体に似合わぬほど豊かな胸元を隠すように、彼女は胸の前で十字を切る。
「ご、ごめんなさい……わたしの方こそ、前を見てなくて……」
柔らかな声。澄んだ琥珀の瞳には怯えと誠実さが宿っていた。
「い、いや、俺が悪かった。怪我はないか?」
バニッシュの差し出した手を、そっと掴む小さな手があった。
指先はひんやりと柔らかく、花の香りが微かに漂う。
彼女はその手を頼りに立ち上がり、胸の前で手を組むようにして小さく会釈した。
少女は顔を上げる。
光を受けた銀色の髪がふわりと揺れ、柔らかな笑みが咲く。
「だいじょうぶです。……ありがとうございます」
その微笑みは、春の陽だまりのように穏やかだった。
だがすぐに、少女の表情がはっとして曇る。
「あっ……お花が……」
地面には、色とりどりの花びらが散っていた。
バニッシュとぶつかった拍子に、抱えていた花束が落ちてしまったのだ。
「これは?」
バニッシュは腰を屈め、花を拾いながら尋ねる。
「明日のお祭りの飾り付けに使うお花なんです。教会で子どもたちと一緒に準備していて……」
拾い上げた花は、衝撃で茎が折れたり、花びらが散ったりしている。
とても飾りには使えそうにない。
本当に申し訳ない、とバニッシュは深く頭を下げた。
「すまない。前を見てなかったばっかりに……」
「いえ……大丈夫です。まだ時間もありますから、また摘んできますので」
そう言って微笑む少女の声は、慰めるように優しい。
だが、その優しさがかえって胸に刺さる。
「なら――俺も一緒に行こう」
「えっ? で、でも……」
少女は戸惑ったように目を瞬かせる。
「こういうのは二人でやった方が早いだろ? それに、ぶつかったのは俺のせいだ。責任を取らせてくれ」
バニッシュの言葉に、少女は数秒迷ったあと――ふっと表情を緩めた。
「……はい。じゃあ、一緒に」
そう答えると、彼女は籠を抱え直し、石畳の先を指差した。
「この先の丘に、たくさん咲いているんです」
「案内頼むよ、シスターさん」
「セリナです。セリナ・ルーミア」
「そうか。俺はバニッシュ・クラウゼンだ」
二人は顔を見合わせ、微笑を交わす。
風がふわりと吹き抜け、散った花びらが陽光を反射して舞い上がる。
――こうして、二人は並んで歩き出した。
まだ互いの運命を知らぬままに。
これが、後に勇者一行の一人、聖女のセリナと、バニッシュの出会いだった。
丘に、風が吹き抜け、色とりどりの花々が揺れ、バニッシュとセリナはその中で夢中になって花を摘んでいた。
「こんなに集められるなんて……ありがとうございます!」
両腕いっぱいに花を抱え、セリナは嬉しそうに微笑む。
その笑顔に、バニッシュは思わず目を細めた。
「これくらいどうってことないさ。さ、教会に戻ろう」
花籠を分担して持ち、二人は並んで坂を下っていく。
石畳に差す陽光が金色に染まり、どこか穏やかな時間が流れていた。
やがて、街の中に佇む小さな教会が見えてくる。
古びた鐘楼と白い壁――祭りの飾り付けが始まっており、入口では一人の年配のシスターが箒を手に掃除をしていた。
「あら、セリナ。お帰りなさい」
柔らかな声で振り向いたその初老のシスターは、優しい眼差しで二人を迎える。
「飾り用のお花、たくさん採れたみたいね」
「はい! 少し遅くなっちゃいましたけど……」
セリナは駆け寄り、息を弾ませながら答える。
「ふふ、大丈夫よ。ほら、子どもたちがお庭で待ってるわ」
シスター――タリズと呼ばれたその女性は、穏やかに微笑みながら視線をバニッシュに向けた。
「ところで、こちらの方は?」
「あっ、この方はお花を摘むのを手伝ってくださったバニッシュさんです!」
セリナが紹介すると、タリズは目を細め、丁寧に頭を下げた。
「まあ、そうでしたの。ありがとうございます。あなたのおかげで助かりました」
「い、いや、そんな大したことはしてませんよ」
バニッシュは頭をかきながら照れ笑いを浮かべる。
その仕草を見て、タリズは小さく頷くと、
「よかったら、中でお茶でもどうかしら?」と柔らかく声をかけた。
「い、いや、そんなお構いなく……」
遠慮しつつも、腹の虫が――ぐぅぅぅ、と容赦なく鳴った。
空気が一瞬止まり、セリナが目を丸くする。
次の瞬間、タリズはくすりと笑った。
「ふふ、パンとスープもありますので」
「……!」
バニッシュの顔が引きつり、真っ赤になる。
セリナも堪えきれずにふっと笑う。
「タリズさんのパンとスープ、とっても美味しいんですよ」
「……そ、そうか。じゃあ……ご馳走になろうかな」
観念したように頭をかき、バニッシュは頬をかいた。
「ええ、遠慮はいりませんよ」
タリズは微笑み、教会の扉を開ける。
セリナが小さく「どうぞ」と手を差し出し、
バニッシュはその後ろ姿を追うように、静かな礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
ステンドグラスから差す柔らかな光が床に虹色の模様を描く。
その光の中に立つセリナの姿は、どこか幻想的で――まるで聖女のようだった。
教会の扉をくぐると、タリズが柔らかな声で言った。
「それでは準備してきますので、お庭のほうで待っていてくださいね」
そう言って奥へと消えていく。
バニッシュは頷き、セリナの案内で中庭へと向かった。
教会の庭は花壇と木々に囲まれた、穏やかな空間だった。
陽光が差し込み、子どもたちの笑い声が風に乗って響いている。
おそらく六人ほどだろうか。三歳くらいの幼子から七歳ほどの子までが駆け回っていた。
「あっ、おねえちゃん!」
「セリナ姉ちゃんだ!」
子どもたちはセリナの姿を見つけると、一斉に笑顔を咲かせて駆け寄ってきた。
その勢いに、セリナは小さく笑いながらも受け止めるように両手を広げる。
「みんな、ただいま」
その声はまるで春風のように優しい。
子どもたちに囲まれたセリナは、抱えていた花かごをそっと見せた。
「ほら、飾り付け用のお花、いっぱい摘んできたよ」
「わあ~! きれいー!」
「いっぱいだー!」
子どもたちの目が輝き、嬉しそうに歓声をあげる。
その微笑ましい光景に、バニッシュも自然と頬が緩んだ。
だが――次の瞬間、場の空気が少し変わる。
「ねぇねぇ、セリナ姉ちゃん。その後ろの人、だれー?」
一人の子がセリナのスカートを引っ張りながら、不思議そうに尋ねた。
セリナは振り返り、バニッシュに微笑んでから答える。
「この人はね、お花を摘むのを手伝ってくれたの」
子どもたちは一斉にバニッシュへと視線を向ける。
じーっと、遠慮のない純粋な目。
バニッシュはその視線に気圧されながら、ぎこちなく笑って手を振った。
「よ、よろしくな……」
その瞬間、いたずらっ子の一人がニヤリと笑い――口を開く。
「おねえちゃんが男を連れてきたー!」
「えっ!? ち、違うよ!」
セリナの顔が一瞬で真っ赤になる。
「おとこー! おとこだー!」
「セリナ姉ちゃん、おとこ連れてきたー!」
面白がった他の子どもたちも、口々に騒ぎ出す。
バニッシュはどうしていいかわからず、ははは……と引きつった笑みを浮かべ、頭をかく。
だが次の瞬間――さらに爆弾が落ちた。
「でもさー、セリナ姉ちゃんの彼氏にしては……おっさんだね!」
「おっさんだー!」
「じじいー!」
庭に響く、無邪気すぎる罵倒。
セリナは顔を真っ赤にして慌てふためき、
「こ、こら! そんな失礼なこと言わないの!」と子どもたちを窘める。
バニッシュは――苦笑い。
引きつる口元をなんとか抑えながら、内心では冷静に呟いた。
(……このガキども、じじいは言いすぎだろ)
だが、そんな心中をよそに、セリナはまだ赤い頬のまま必死に子どもたちを宥めている。
その姿が妙に初々しく、バニッシュは不思議と胸の奥が温かくなるのを感じていた。
教会の扉がきいと音を立てて開く。
奥からタリズが姿を現した。
白いエプロンをかけ、顔には柔らかな笑みを浮かべている。
「さあ、みんな――食事の準備ができましたよ。テーブルと椅子を運んでくださいな」
パンッ、と軽く手を叩くと、子どもたちは一斉に「はーい!」と元気よく返事をする。
その声が庭に広がり、木々の葉がさらさらと揺れた。
子どもたちはわらわらと動き出し、小さな体で懸命に木製の椅子を運び、テーブルを引きずる。
その姿を見て、バニッシュも思わず苦笑いを浮かべる。
「手伝うよ」
そう言って袖をまくり、子どもたちに混じって椅子を運び出す。
「おっさん、力持ちだー!」
「じじい、すげー!」
「お、おっさん言うな!」
思わずバニッシュが突っ込みを入れると、子どもたちはキャッキャと笑いながら走り回る。
そんな微笑ましいやり取りを横目に、タリズとセリナが教会の奥から現れた。
二人の手には大きな鍋と籠に入った焼きたてのパン。
湯気とともに香ばしい香りが辺りに広がり、バニッシュの腹がまたもや正直に鳴った。
「おいしそう……」と呟く子どもたちに、セリナが優しく微笑む。
「もう少し待ってね。みんなの分、ちゃんとありますから」
準備が整うと、テーブルの上に白い布が敷かれ、素朴な木の皿が並べられていく。
バニッシュも皿を配りながら、次々に運ばれてくるパンとスープを受け取り、子どもたちに渡していった。
「ほら、順番に並べよ。こぼすなよー」
「はーい!」
笑い声と温かな香りが混ざり合い、庭は小さな食堂のような賑わいを見せていた。
やがて全員が席につくと、タリズが一歩前に出て、静かに両手を胸の前で重ねる。
「それでは――ささやかな食事と、この平和に感謝を込めて」
そう言って目を閉じ、指先で胸の前に小さく十字を切った。
その仕草に合わせて、セリナや子どもたちも目を閉じ、祈りを捧げる。
「女神 ルミナ=リュミエールの御名に感謝を――」
柔らかな声が風に乗り、鐘の音のように響く。
バニッシュは手を止め、その光景を見つめた。
静寂と温もりに包まれた瞬間――何か神聖なものが胸の奥に流れ込むような、不思議な感覚がした。
そして、慌てて周りを見渡し、見様見真似で手を合わせる。
ぎこちない十字を切りながらも、どこか心が落ち着くような気がした。
セリナが隣で小さく笑う。
「ふふ、上手ですよ」
「……見よう見まねだけどな」
照れくさそうに頭をかくバニッシュ。
その瞬間、風がふわりと吹き抜け、テーブルの上の花びらを揺らした。
穏やかな祈りの時間が過ぎ、子どもたちの「いただきます!」という声が庭に響き渡る。
――そして、バニッシュの心にも、ほんの少し平和という名の温もりが芽生えていた。




