祝福の火、破滅の瞳
セラの歌が静かに終わると、会場にはしばしの沈黙が訪れた。
誰もが息を飲み、言葉を忘れていた。
最後の一音が夜空に溶けると、やがてどこからともなく拍手が湧き上がる。
やがてそれは波のように広がり、拍手と歓声が一つになって祭りの夜を包み込んだ。
「すごかったね……」
セリナが胸に手を当て、まだ余韻に震える声で言う。
「うん……さすが女神様だなぁ」
ライラが目を細めて呟く。
セレスティナも静かに頷いた。
「セラさんの歌には、祈りの力がありました」
リュシアも小さく息を吐いて言う。
「ほんと、やるじゃない」
笑みがこぼれたその時、空を見上げれば、日はゆるやかに傾き始めていた。
西の空を紅く染める夕陽が山の端へと沈みかけ、長い一日の終わりを告げている。
祭りは、終盤へ。
中央広場――昼の喧騒を支えてきた丸太の木組みの前では、エルフと獣人たちが集まり、最後の準備を進めていた。
そこには昼のうちに積まれた、収穫の象徴たる作物の山。
それらは慎重に脇へと運ばれ、感謝の祈りとともに祭壇の横に並べられていく。
そして、夕陽が完全に沈んだその瞬間――カチッ、と火打石が打たれた。
小さな火が導火線を走り、次の瞬間、――ゴォッ! と、燃え上がるように炎が空を焦がした。
「おぉ~っ!」
人々の歓声が一斉に上がる。
炎は夜風に煽られ、黄金色の火の粉が星のように舞い上がる。
その光景は壮大で、まるで大地そのものが祝福の歌を歌っているかのようだった。
リュシアたちがその光を見上げる中、バニッシュは腰を上げた。
「よし――じゃあ、行ってくる」
その声にリュシアがすぐ反応する。
「今度は緊張しないでよね?」
にやりと笑うリュシアに、バニッシュは苦笑を浮かべた。
「ああ、わかってる」
「頑張ってくださいね」
セレスティナが穏やかに微笑み、両手を胸の前で組む。
「行ってらっしゃい、バニッシュさん」
セリナとライラが同時に声を合わせた。
バニッシュは軽く片手を上げ、仲間たちの顔を一人ずつ見やる。
「……ああ」
炎に照らされたその横顔は、昼間よりも少しだけ若々しくて見えた。
彼は静かに歩き出す。
ざわめく群衆の中を抜け、祭りの中央へ――焔に包まれた夜のステージへと向かっていく。
背後では、リュシアたちの笑い声と、弦楽器の余韻が混ざり合い、
あたたかな光が彼の背を押していた。
夜空に燃え上がる炎が、祭りの終わりを告げるように揺らめいていた。
焚き上げられた丸太の火は天へと昇り、赤と金の光が人々の頬を優しく照らしている。
ステージの上では、バニッシュ、フィリア、ツヅラが並んで立っていた。
背後に燃える炎を背負いながら、その姿はまるでこの拠点の象徴のようでもあった。
「えー……名残惜しくもあるが、収穫祭も、そろそろ終わりに近づいてきた」
バニッシュが声を上げると、ざわめいていた広場がすっと静まる。
炎の音だけが耳に届く中、彼の低く穏やかな声が夜気を渡っていった。
「皆が集い、力を合わせ、精を出してきたからこそ――今日の祭りがある」
その隣で、フィリアが一歩前に出て、眼鏡を指で押し上げながら言葉を継ぐ。
「そうだ。今日の一日で、私たちはここで共に生きるという形を改めて見つめ直したはずだ」
群衆の中から、真剣なまなざしが返ってくる。
獣人も、エルフも、仲間たちも――それぞれ違う種族が、同じ光のもとに集っていた。
ツヅラが扇を口元に当てて、いつもの艶やかな声で続ける。
「うちらは、種族の違うもん同士の集まりや。けど、ここは皆で築いた新しい家やさかい――」
扇を閉じ、胸の前でそっと手を組む。
「この先、ここで生きていく上で……共に手を取り合い、支え合っていくことを、皆で誓おうか」
静かな拍手が起こり、やがてそれが大きな波となって広がる。
炎の光がその拍手を映して、まるで大地が呼吸しているようだった。
バニッシュは小さく頷き、再び声を張る。
「最後に――もう一度、女神セラフィ=リュミエールと、この大いなる恵みに感謝しよう」
その言葉に呼応するように、メイラをはじめ、獣人とエルフの女性たちが動き出す。
昼のうちから仕込まれていた香ばしい料理が、木皿に盛られ、あたたかい湯気を立てて人々の手に渡っていく。
パンの香り、スープの匂い、焼き野菜の甘い風――祭りの夜を包む幸福の香り。
広場中がふわりと柔らかな空気に包まれた。
全員に料理が行き渡ったのを確認して、バニッシュが深く息を吸う。
「では――この収穫祭に感謝を――」
と言いかけた、その瞬間。
左隣のフィリアが一歩前へと進み出た。
「待て、バニッシュ」
「……え?」
フィリアは厳かに言葉を紡ぐ。
「ここで一つ、伝えるべきことがある」
右隣のツヅラがふふっと笑い、同じく前へ出る。
「せやな。――今が一番ええ時やろ」
バニッシュは眉をひそめる。
「お、おい、何の話だ?」
フィリアが咳払いをして宣言する。
「この拠点を統べ、導く者――」
ツヅラが続けた。
「その長として、うちらは――」
「――バニッシュ=クラウゼンを正式に任命する!」
「は?」
次の瞬間、広場が揺れた。
「おおおおおっ!!!」
歓声と拍手が爆発的に巻き起こる。
獣人たちは吠え、エルフたちは楽器を鳴らし、魔族の子どもまでもが飛び跳ねていた。
バニッシュは一瞬、何が起こったのか理解できないでいた。
「……え? ええええええええ!?」
と間抜けな声を上げてしまった。
「ちょ、ちょっと待て! 聞いてないぞ!? 任命って何だ!?」
ツヅラは扇の陰で愉快そうに笑う。
「ふふ、こういうサプライズは心に残るもんやで?」
フィリアはいつも通りの真顔で告げる。
「リーダーとして皆をまとめ、結界を張り、生活の基盤を築いた功労者――他に誰がふさわしいと思う?」
「いやいや、そうは言っても……!」
狼狽するバニッシュの肩を、ツヅラが軽く叩く。
「ええやんか、うちら全員、あんたに感謝しとるんや。素直に受け取り」
目の前では、リュシアやセレスティナ、セリナ、ライラたちが笑顔で拍手を送っていた。
「うだうだ言ってないでしっかりしなさいよ!」
「おめでと、バニッシュ!」
「リーダーらしくなってきましたね」
「うん、やっぱりバニッシュさんが一番だよ!」
歓声の波が広がり、火の粉が夜空に舞い上がる。
その光景に、バニッシュは頭をかきながら――苦笑交じりに、小さくため息をついた。
「……ったく、まいったな」
それでも、笑っていた。
炎に照らされたその笑顔は、どこか誇らしげで、優しかった。
――こうして、拠点の長・バニッシュ=クラウゼンが、皆の祝福の中で正式に誕生したのであった。
「ほな――最後まで、この収穫祭を楽しもうか」
ツヅラが扇を軽く鳴らしながら笑う。
その言葉に、ステージ上のバニッシュとフィリアも頷いた。
「うむ。今夜は存分に楽しもう」
「皆の努力の成果を味わう時間だな」
三人は観客の拍手に見送られながら、ゆっくりとステージを降りていく。
その直後、太鼓の低い響きが夜空を震わせた。
ドン――ドン――
獣人たちの大きな手が皮太鼓を打ち鳴らし、その音に呼応するように、
エルフたちが弦を爪弾く。
森の息吹のような音色と、荒野の心臓のような鼓動が混じり合い、広場全体を包み込んでいく。
人々は配られた料理を手に笑い合い、木の椀を掲げて乾杯し、香ばしい匂いと笑い声が夜風に溶けていった。
そして、中央――燃え盛るキャンプファイヤーの周りでは、子どもも大人も、種族の違いも忘れて、輪になって踊っている。
炎が照らすその輪は、まるで一つの“命”のように息づいていた。
――そんな中。
輪の外れ、少し離れた木陰で、一人の獣人が大きなため息をついていた。
「……はぁぁぁぁ……」
それは、肩幅も胸板も岩のように厚い、獣人の戦士ドルガだった。
その隣で、朧が串焼きを咥えながら眉をひそめる。
「……おい、宴の席でそんなため息をつかれると、メシが不味くなる」
「うるせぇ。結局……祭り中に、ライラさんに声を掛けられなかった俺の気持ちがわかるかよ」
「……あの時は強引に迫ったくせに、今さら臆するとはな」
朧が淡々と呟く。
「そ、それは……あの時は、勢いっていうか……! 今は顔を見るだけで緊張して、言葉が出ねぇんだよ……」
朧は串の肉をひと噛みし、呆れたようにため息をつく。
「獣の心臓を持ちながら、肝心なところで小動物とはな」
「ほっとけ……」
ドルガはうなだれ、火の粉が舞う空を見上げた。
その時だった。
「――ドルガさん」
背後から聞き慣れた声がした。
その瞬間、ドルガの耳がピクリと動き、体が硬直する。
ゆっくりと振り返ると、そこには――キャンプファイヤーの炎を背に立つライラの姿があった。
ドレスではなく、動きやすい民族風の衣装に着替え、頬はわずかに紅潮している。
「ら、ライラさん!?」
ドルガの声が裏返った。
ライラは一度深呼吸し、小さく頷く。
そして、少し震える手を前に出した。
「あ、あの……良かったら……一緒に、踊りませんか?」
その言葉はか細く、それでも確かな勇気の色を宿していた。
ドルガの瞳が見開かれ、次の瞬間、顔が真っ赤に染まる。
「――はいっ! よ、喜んでっ!!」
勢いよく立ち上がると、彼はライラの差し出した手を、まるで壊れ物を扱うようにそっと掴んだ。
その手は、温かく、柔らかかった。
「そ、それじゃ……行きましょう」
ライラが微笑む。
「お、おうっ!」
二人はゆっくりとキャンプファイヤーの輪の方へ歩いていく。
炎の明かりが二人の影を重ね合わせ、音楽と歓声がその背を押すように流れていった。
その様子を見送りながら、朧は串を口に咥えたまま、ふっと笑う。
「……ようやく一歩か」
夜風がその笑みを撫でていく。
焔の揺らめきの向こうでは、
不器用な二人がぎこちなくも楽しげに踊り始めていた。
「……あれ? ライラは?」
焚き火の明かりの下、串焼きを頬張っていたリュシアが、ふと顔を上げた。
辺りを見回すと、ライラの姿がどこにも見えない。
「ライラさんなら、勇気出してみるって」
隣に座っていたセリナが、少し照れくさそうに微笑みながら指をさす。
「ほら、あそこ」
リュシアたちが目を向けると――燃え盛るキャンプファイヤーの周りで、ぎこちなくも楽しげに踊る二人の姿があった。
ライラの頬は炎の光で紅く染まり、ドルガは大きな体を不器用に揺らしながらも、懸命にリズムを合わせようとしていた。
彼女の笑顔を見た瞬間、まるで胸の中に小さな灯りがともったようだった。
「……素敵ですね」
セレスティナが、微笑みながらそっと呟く。
「意外といい雰囲気じゃない」
リュシアは口の端を上げ、ニヤリと笑った。
「ま、あの子もようやく一歩前に進めたってわけね」
そんな彼女たちのもとに、背後から聞き慣れた声が届く。
「お前たちは踊らないのか?」
振り向けば、バニッシュが立っていた。
夜風に少し乱れた髪、手には空になった木のカップ。
祭りの熱気の中でも、どこか落ち着いた空気を纏っている。
「今から行こうとしてたところよ」
リュシアは立ち上がり、軽く腰に手を当てて言った。
それにつられるように、セレスティナとセリナも立ち上がる。
「では、参りましょうか」
「うん!」
四人はキャンプファイヤーの方へと向かおうとした――その時。
「……あ、そうだ」
リュシアがふいに足を止め、セリナの方に振り返った。
セリナがきょとんと目を瞬かせる。
「セリナさん、ごめんね」
リュシアはゆっくりと口を開いた。
「私……アナタのこと、誤解してた」
「誤解……?」
「黒の勇者の仲間だって聞いたとき、どうしても信用できなかったの」
リュシアは胸の前で手を組み、まっすぐにセリナの瞳を見つめる。
「でも、今は違う。あの勇者とは関係ない、私たちの“仲間”だって思える」
その瞳に、偽りはなかった。
「だから――これからもよろしくね」
そう言って、リュシアは右手を差し出した。
セリナの目が大きく見開かれ、唇が震える。
「リュシア……」
瞳に、じんわりと涙が浮かんだ。
「……ありがとう。私も――よろしくね」
震える声でそう言い、セリナはリュシアの手を取った。
その瞬間――ゾワリ、とまるで冷たい蛇が背骨を這い上がるような感覚が、セリナの体を走った。
それは――ほんの一瞬の出来事だった。
リュシアの温かい手を握った、その瞬間。
セリナの胸の奥から、何かが――蠢いた。
身体の奥底から、冷たいものが這い上がってくる。
それは血ではない、意識そのものを汚すような黒い奔流。
「……ッ!」
セリナは咄嗟にリュシアの手を振り払った。
「え……? セリナ?」
リュシアが驚いたように見上げる。
セリナの瞳は震え、呼吸は荒く、まるで見えない何かに締め付けられているようだった。
「は……っ、はぁ……あぁっ……!」
胸を押さえ、膝をつきかけながら、彼女の中で“それ”が目を覚ます。
炎の音が遠のき、目の前に広がる光景が――別の記憶に塗り替えられていく。
燃える街。
崩れ落ちる塔。
逃げ惑う人々の悲鳴。
赤い月の下、血に濡れた地で――自分は立っていた。
目の前には、倒れ伏す人影――子どもも、老人も、仲間でさえも。
そのすべてを焼き尽くし、滅ぼした。
獣人国ルガンディアも、エルフェインの里も――。
「……あ……」
嗚咽が喉を突く。
だが、その声はすぐに掻き消えた。
記憶の奔流が止まらない。
思い出してしまった。
自分が――赤き双眸の化け物。
この世界に災厄をもたらした“破滅の刻印”そのものだということを。
「……やめて……! やめてぇぇぇっ!!」
叫びと共に、セリナの身体から淡い黒の魔力が噴き出した。
その波動が周囲の空気を震わせ、近くの灯籠の光が一斉に揺らぐ。
リュシアが驚愕の声を上げる。
「セリナ!? 何、これ――っ!?」
セリナは震える足で後ずさる。
「……私……ごめんなさい……!」
「待って、セリナ!」
リュシアが手を伸ばす。
だがその瞬間、セリナの瞳が紅く染まった。
「リュシアさん……近づかないでっ!!!」
掠れた声を残し、セリナは駆け出した。
広場を横切り、夜の森の闇へと飛び込むように走り去っていく。
背後から、リュシアの叫びが追いかけた。
「――セリナぁっ!!!」
だが、その声もすぐに夜風に掻き消された。
祭りの笑い声と、焚き火の音。
それらがまだ響く中――誰も気づかぬまま、一つの闇が、拠点の外へと解き放たれていった。




