堕ちゆく勇者一行
その頃――
世界は、既に静かなる崩壊の最中にあった。
魔王の侵攻は止まることなく進み、南方の自由都市連合は瓦解。東の聖教圏では三つの大聖堂が燃え落ち、西の砂漠王国は、地図からその名を消していた。
滅びの炎は、人々の暮らしを蝕み、希望を焼き尽くす。
――今や、世界の三割が魔王の手によって塵と化していた。
しかしその最中にあって、誰よりも世界を救うべき者たち――勇者一行は、未だに動こうとはしなかった。
「この鍛錬剣、重すぎるな。もっと軽くて丈夫な金属はねぇのかよ」
ドワーフ王国・ヴォルグラントの鍛冶工房。勇者カイルは渋い顔で巨大な片刃剣を試し振りしながら、鍛冶職人に文句をつけていた。
「ふふ、こっちの新素材はどう?軽くて火力も通るわよ。魔王相手にもイケるんじゃない?」
ミレイユは装飾過多な魔法の杖を手に取り、炉の輝きに笑みを浮かべる。
「なー、腹減った。焼きたての岩トカゲ肉、もう出ねぇかな」
ガルドは隅で椅子に座り、爪をいじりながら鼻を鳴らした。
騒がしくも平和な空気のなか、誰一人、遠くで今も滅びゆく人々の悲鳴に耳を傾ける者はいなかった。
幾度となく送られた王都からの出撃要請は、未開封のまま放置され、机の端に積まれている。
「……ねぇ、本当にいいの? また街がひとつ、落ちたって聞いたけど」
唯一、不安そうに口にしたのは、聖女セリナだった。
だがその声は、鍛冶の槌音にかき消されるように、誰の耳にも届かない。
――勇者たちは、確かにそこにいた。
だが、その剣は振るわれず、杖は掲げられず、彼らの時間だけが、平穏な日常の中で鈍く、鈍く、過ぎていった。
地下の溶岩炉が唸りを上げる鍛冶工房で、勇者カイルの怒声が響いた。
「なんだよこれ……ガラクタばっかじゃねぇか!」
カイルは鍛えかけの剣を無造作に床へと放り投げた。カン、と甲高い音を立てて刃が石床に転がる。
「高尚な鍛冶職人がいるって聞いてわざわざ来てやったのによ……これじゃ王都の鍛冶屋と変わらねぇじゃねぇか!」
「……貴様、今なんと?」
顔に煤をつけた老ドワーフ職人が、音もなく立ち上がった。白髭を震わせながら、怒りに拳を握る。
「その剣は《熔神鋼》を鍛えたもの……我らドワーフの誇りじゃ。貴様のようなガキにガラクタ呼ばわりされる覚えはない!」
「はっ、誇りだ?その程度のモンで世界救えるなら、誰も苦労しねぇんだよ!」
カイルがにやりと挑発的に笑い、工房の空気が一気に険しくなる。
そのときだった。
工房の入り口がバンッと勢いよく開かれ、砂塵にまみれた一人の男が駆け込んできた。
「勇者カイル殿! 一刻を争う報せです!」
王都の紋章を刻んだ使者が、息を荒げて跪く。
「魔王軍が北域へ侵攻を開始……第三辺境砦が陥落しました。王よりの緊急要請です。至急、出撃を……!」
工房の空気が、ぴたりと止まる。
だがカイルは、使者の言葉を一蹴するように鼻で笑った。
「は? 見てわかんねぇのか? 今、装備整えてる最中だっつーの」
腰に手をあて、面倒くさそうに視線を逸らす。
「戦場に出る前の準備すら許されねぇのかよ。俺たちに死ねって言ってんのか?」
「ですが……このままでは、本当に世界が滅びます!」
使者が必死にすがるように叫ぶ。
だが、その懇願が逆鱗に触れた。
カイルが歩み寄り、使者の胸元を掴みあげた。
「……この俺に、指図してんじゃねぇぞ?」
その声は、低く、冷たい。
「世界が滅ぶ? 知らねぇよ。だったらテメェらで止めてみせろ。俺たちを便利な道具みてぇに扱ってんじゃねぇ」
怯える使者の顔を一瞥すると、カイルは無造作に手を離した。
使者は床に崩れ落ち、声を失ったまま震える。
「さあて……次はどの素材を試すかな」
何事もなかったかのように、カイルは工房の奥へと歩いていく。
ドワーフ国ヴォルグラント。火と鉄の王国。
勇者一行は、今日もまた――怒鳴り声を上げていた。
「ったく、どこ行ってもガラクタばっかじゃねぇか!」
カイルの怒声が鍛冶工房の石壁に反響する。
研磨途中の剣を壁に投げつけ、火花が散る。
「鍛えが甘ぇんだよ、こんなんじゃ魔王の皮もかすらねぇ!」
「……それは“お前の腕”の問題だろうが」
職人の一人が吐き捨てるように呟くと、ガルドがすかさず胸ぐらを掴みにかかる。
「テメェ今なんつった!」
「やめなよもう!」と、ミレイユが間に入るが火に油を注ぐだけだった。
結局、その日も揉め事だけを残し、勇者一行は工房を後にした。
夜――。
ドワーフ街の片隅にある石造りの酒場。
酔客の笑い声と、燻製肉の香りが充満する空間で、勇者たちは酒にまみれていた。
「ドワーフのクセに……腕のいい鍛冶屋が一人もいねぇとはなァ……」
カイルがジョッキを乱暴に置く。
「期待外れもいいとこよ。おれたちが世界救ってやってんだぜ? もっと誠意見せろってんだ」
「まあまあ……あんたちょっと飲みすぎ――」
「うるせぇよ!飲まなきゃやってらんねぇんだよ!」
険悪な雰囲気が漂うなか、セリナがぽつりと呟く。
「……やっぱりさ、バニッシュに戻ってもらった方がよかったんじゃ……」
その瞬間、空気が凍った。
カイルがガタンと席を立ち上がる。
「――あいつの名前を出すな」
その声は低く、重く、怒りと何か別の感情がにじんでいた。
「俺たちの足を引っ張ってたのは“あいつ”だ。戦えもしねぇのに、後ろから偉そうに術式ばっか並べて――!」
「でも、あの人がいなくなってから……」
ミレイユが小声で言いかけるが、睨まれて口を噤む。
場の空気は最悪だった。
重たい沈黙が、酒と煙に溶けていく。
――そのときだった。
ふと隣の席から聞こえてきた、年配ドワーフたちの囁き声。
「……グラドって名前、久々に聞いたな」
「アイツぁもうダメだ。鍛冶場どころか酒に溺れて寝床も焼きかけたらしいじゃねぇか」
「伝説の鍛冶職人だろ? 今じゃ伝説の酔っ払いだ」
その名を聞いた瞬間、カイルの目がぎらりと光る。
「グラド……ハンマル?」
椅子を蹴るように立ち上がり、隣のドワーフに詰め寄る。
「今、なんつった? グラドって、まさか《巨槌の焔王》グラド=ハンマルのことか?」
「な、なんだよお前らは!」
「いいから場所を言え!」
店中の視線が注がれる中、カイルは凄んで言い放つ。
「ようやく……見つけたぜ、“伝説の鍛冶屋”をな」
道中、ドワーフたちの工房街の外れ――人気のない谷あいに、ぽつんと建っていた一軒の古びた鍛冶小屋。
看板は傾き、扉は半ば崩れ落ち、外壁は煤けて黒ずんでいた。周囲には鉄屑と灰が転がり、野犬すら寄りつかない。
「……これが“伝説の鍛冶職人”の住処かよ」
カイルが眉をひそめ、鼻を鳴らす。
「汚っ……足、ぬかるみにハマったんだけど」
ミレイユがブーツを不快げに振るう。
「鍛冶場っていうより、ゴミ屋敷じゃねーか……」
ガルドがため息混じりに呟いた。
ギィィ――と、軋む音を立てて扉を押し開ける。
中には、煤と鉄錆の臭いが立ち込めていた。かつて鍛造に使われていたであろう炉は冷え切り、壁際には使い古された槌や鋼材が積まれている。
その中心。
ぐだりと崩れた椅子に座り、片手に酒瓶を握ったまま、ひときわ大きなドワーフがいた。
白くなりかけた髭は乱れ、かつて豪快だったであろう肩幅は今や背を丸めている。顔は赤く、目は虚ろ。
「……んだぁ? また借金取りか……それとも、昔の弟子のガキか?」
かすれた声が転がる。
火酒の瓶を煽るその男――グラド=ハンマル。
かつて《巨槌の焔王》と称えられた、伝説の鍛冶職人の成れの果てだった。
「チッ……こいつがホントに、あの伝説の?」
カイルが軽蔑の目を向ける。
「冗談でしょ……ただの酔っ払いじゃない」
ミレイユが眉をひそめる。
だが、その目の前で――
グラドは、空になった酒瓶を鍛造炉に向かって放り投げた。
カッシャン!と鋭い音が鳴り、酒瓶は寸分違わず炉の中央に突き刺さる。
「――うるせぇな。職人を値踏みすんなら、その目じゃなくて“仕上がり”で見やがれ」
重く、低く、どこか芯のある声。
一瞬、空気が震えた気がした。
そしてカイルは、思わず息を呑んだ。
グラドの足元には――砕けかけた炉の中に、“未完成の一振りの大剣”があった。
それは、今まで見てきたどの工房のものよりも――
美しく、鋭い“意志”を感じさせる剣だった。
グラド=ハンマルの鍛冶小屋。煤けた炉の前で、火酒の瓶を煽る男に、勇者カイルは一歩踏み出して言った。
「……お前が伝説の鍛冶職人、グラド=ハンマルだな?」
「だったら?」
「――剣を作ってほしい」
その言葉に、グラドの手が止まった。
ふぅ、と酒の匂いを吐き出しながら、ゆっくりと顔を上げる。
赤黒く濁った目が、勇者一行をひとりずつ見ていく。
カイル、ミレイユ、ガルド、セリナ――そしてまたカイルへと視線が戻った。
「……断る」
「は?」
「だから断るっつってんだ。帰れ」
静かな拒絶の言葉に、空気がぴんと張り詰める。
「金ならいくらでも払うぞ?」
カイルが懐から金貨袋を取り出して、ドンと机に置く。
「いらねぇよ。興味ねぇ」
「ならお酒?それとも女?」
ミレイユが腰に手を当て、呆れたように眉をひそめる。
「……金も施しもいらねぇ」
グラドはふいと顔をそらし、火の消えた炉を見つめた。
「俺は――気に入った奴にしか、槌を振るわねぇ主義なんでな」
「なら、俺たちは勇者パーティーだ。人類最強の精鋭ってやつだぜ?」
カイルが自信満々に胸を張る。
だがその言葉に、グラドは鼻で笑った。
「……はっ、笑わせんな。お前たちが“勇者パーティー”だぁ? なら、世も末だな」
「な……んだと?」
ガルドがずいっと前に出て、椅子を蹴った。
「喧嘩売ってんのか、ジジイ!」
「買ってやるよ。だがな、俺ぁ目を見りゃ分かるんだ」
グラドは椅子からゆらりと立ち上がる。
ドワーフとは思えぬほどの威圧感が、酒臭い空気を突き破って放たれた。
「お前らの“目”は腐ってる。誇りも覚悟も、見る影もねぇ。――特にお前だ」
グラドの太くて節だらけの指が、真っ直ぐカイルを指差した。
「お前の目は、最悪だ。誰かの命の重さを見ようともしねぇ。仲間すら駒にしか見えてねぇ」
「……っ!」
カイルの表情が引きつる。
ミレイユもセリナも、口をつぐんだ。
ガルドは怒りで拳を震わせるが、グラドの眼光に一歩も動けなかった。
「“伝説の職人”だなんだって持ち上げられてた頃にゃ、腐った野郎の剣なんざ、一本たりとも打った覚えはねぇんだよ」
グラドは再び椅子に腰を下ろし、酒瓶をラフに煽る。
「――帰れ。俺の火は、そう簡単には燃えねぇ」
工房を出た時、空気はどこか重たかった。
いや、重いのは空気じゃない。
――グラド=ハンマルという男の、背中に刻まれた“覚悟”そのものだった。
「……チッ、何が気に入った奴にしか槌は振らねぇ、だよ」
カイルが舌打ちしながら拳を握る。
「アンタがいつもみたいに金でゴリ押ししようとするからよ」
ミレイユがふてくされたように言うが、カイルは聞き流していた。
「でも、仕方ないですよね……あの人、たぶん色々あったんだと思う」
セリナがぽつりと呟くが、それに返事する者はいなかった。
ガルドが鼻を鳴らして言う。
「気に入った奴じゃなきゃ作らねぇ?じゃあなんだ、気に入られなきゃ武器もくれねぇのかよ。クソみてぇな職人気取りだぜ」
「また来ようぜ。説得し直すとか、弱み握るとか、何かあるだろ」
カイルがそう言って、勇者一行は工房を後にした。
ドワーフの酒と空気が、重く濁っていた。
酒場《鉄樽亭》の片隅、勇者一行は散らかったテーブルを囲んで座っていた。
「……チッ、あのクソジジイが」
カイルが空のジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。
「気に入った奴にしか槌は振らねぇ? バカかよ、世界が滅びそうだってのに――!」
ミレイユは小さくため息をつく。
「まあ、気持ちはわかるけどさ。でもあの感じ……あたしたち、完全に舐められてたよね」
「くっそ腹立つ……!」とガルドも拳を握りしめてうなった。
しばしの沈黙。
テーブルに頬杖をついたカイルが、ゆっくりと笑った。
「――なあ、ちょっと“いい方法”思いついちまったんだけどさ」
その声に、ミレイユが顔を上げる。
「は?」
カイルはニヤリと笑い、指を一本立てて言う。
「ドワーフ国と王都、両方にちょっと“圧”をかけるんだよ」
「……はぁ? 何言ってんの?」
「つまりよ、俺たちは“勇者パーティー”だ。世界の希望。国の顔。な?」
言いながら、カイルは手元の酒を一口煽る。
「そんな俺たちが、“ドワーフ国は協力を拒んだ”って情報を流したら、王都はどう思う?」
ミレイユの顔色が変わる。
「まさか、それで――」
「ああ。王都から『協力しないなら国交見直し』の圧力が来る。そんで国としては手打ちにするために“問題児”のグラドを――」
「追放、か……」
ガルドが思わず呟いた。
「そうなりゃ、あのジジイ、居場所を失う。仕事もねぇ、家もねぇ、信頼もねぇ――」
「そこに俺たちが“偶然”現れて、拾ってやるわけよ。勇者パーティー様がな」
ミレイユが声を潜めて言う。
「……それで武器を作らせる? 捨てた国と仲間の代わりに、ってこと?」
「そういうこった。プライドをへし折って、俺たちの犬にするのさ」
カイルの目が、酔いとは違う光を帯びていた。
「で、武器が完成したら――」
「ポイ、っとな」
ガルドが笑う。
「ゴミみたいに捨ててやろうぜ」
その言葉に、テーブルの周りの空気が、底冷えするように静まった。
唯一、セリナだけが苦い顔で言う。
「……そんなことして、本当に武器が手に入ると思ってるんですか?」
「信じさせればいいだけだろ? 希望とか絆とか、ジジイが好きそうな言葉を並べてやりゃ、勝手に信じるさ」
酒場のざわめきの中で、勇者たちの“作戦会議”は静かに、だが確実に歪んでいた。
誰も止めなかった。
――世界を救う者たちのはずなのに。
その言葉が、どこまでも空々しく響いた。