掟と義、二族の座談
「赤い……双眸の怪物……」
ツヅラとフィリアの言葉を聞いた瞬間、セリナはつきんと頭を押さえた。
鋭い痛みが脳裏を走り、視界がぐらりと揺らぐ。
「っ……!」
息を呑む。
まるで、長い間眠らされていた記憶を無理やり掘り起こされるかのような――そんな感覚だった。
霞む意識の奥で、かすかに赤い光が瞬く。
それが何なのか、どうして今になって疼くのか。セリナにはわからない。
(……何……今の……?)
額に手を当てながら疑問に沈むセリナをよそに、バニッシュは話を続ける。
「赤い双眸の怪物……」
低く呟き、顎に手を当てる。
一瞬、脳裏に浮かんだのは――かつて目にしたミレイユの“魔人化”した姿。
ぞわりと背を這い上がる戦慄に、無意識に歯を噛み締めた。
「そいつ……一体だけなのか?」
問いに、ツヅラは扇で口元を覆い、金の瞳を伏せる。
「そや。その一体だけで、うちらルガンディアは……崩壊したんや」
金の瞳が、炎の明かりに濡れているように見えた。
フィリアも静かに頷く。
「我らも敵うことなく、ただ蹂躙されるだけだった……」
厳格な声音に、悔しさと無力の色が滲んでいる。
「そんな……」
セレスティナが胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
聖女と呼ばれた少女の唇がかすかに震えていた。
「……で、他の人たちはどうしたのよ?」
沈黙を破ったのはリュシアだった。
強い声音を装いながらも、瞳の奥には焦燥と不安が揺れている。
ツヅラはリュシアを一瞥し――扇をぱたりと閉じた。
いつもの余裕の微笑は影を潜め、言葉が重く落ちる。
「……うちらも、逃げるのに必死だったさかい。皆……散り散りになって……」
金の瞳が細く震える。
あのツヅラでさえ、言葉を詰まらせた。
その沈痛な声が、焚き火のぱちぱちと弾ける音に溶けていく。
「……とにかく、今ここにいる者たちだけでも助かってよかった」
バニッシュはようやくひとつ息を吐き、背後に広がる焚き火の灯りを見やった。
「まだ開拓は途中だが、土地はある。ここにいれば、少なくとも安全は保てるはずだ」
その言葉に、安堵する声が少しだけ広がる。
だがすぐに、セレスティナが眉をひそめて不安を吐き出した。
「ですが……これだけの人数の食料を備蓄してはいません。冬に備える分でさえ足りていないのに……」
リュシアも腕を組み、唇を尖らせる。
「そうよ。ただでさえ食べ盛りのフォルやら、呑んだくれのドワーフのグラドがいるのに、これ以上人が増えたら……」
「う~ん……」
バニッシュは腕を組み、苦々しく天を仰いだ。
「そこは……今、畑が活性化している間にできるだけ広げて、どうにかするしかないだろうな」
希望を込めた言葉に、焚き火の周囲で小さなざわめきが起こる。
だが、鋭い声がそれを切り裂いた。
「案ずるな。我らエルフは、明日にでも里へ戻る」
静かに、しかしはっきりと告げたのはフィリアだった。
光を映した瞳は揺らぎなく、毅然とした態度に仲間のエルフたちも頷いている。
「なに言ってるんだ……」
バニッシュの表情が険しくなる。
「お前たちの里は……もう、あの怪物に……」
「それでもだ」
フィリアの声は揺るがない。
「それでも――我らはあの場所で生まれ、あの場所で死ぬ。それがエルフの掟」
その強い響きに、空気がぴんと張り詰めた。
「アンタ、またそんなこと言って!」
リュシアが勢いよく前に出る。
「掟だなんだって、それで仲間を捨てて死地に飛び込むつもり!? ふざけないで!」
しかしフィリアは鋭い眼光を返し、決して退かなかった。
「――我らの掟は絶対だ」
その声には、揺らぎなき誇りと決意が宿っていた。
そのやり取りを横目に、ツヅラは扇で口元を覆い、くすりと笑みを洩らした。
金の瞳が細まり、炎に照らされた笑みが妖しく煌めいた。
「……何がおかしい」
フィリアの双眸が鋭く細まり、焚き火越しにツヅラを射抜いた。
その視線は氷刃のように冷たく、ひとつの揺らぎも許さない。
ツヅラは扇で口元を隠したまま、金の瞳を細める。
笑みを含んだ声が、場を逆撫でするように響いた。
「いやぁ……アンタらエルフは“掟”はよう知っとるけど、“義”ってもんを知らんのやなと思うてな」
「……なんだと」
フィリアの眉がぴくりと動いた。
その怒りは焔にあおられる薪のように、瞬く間に燃え上がる。
「うちらもアンタらも、助けられた身やろ。差し伸べられた手ぇ振り払うんは――礼儀のなっとらん証拠や」
ツヅラの口調は穏やかだが、その言葉には容赦のない棘が潜んでいた。
金の瞳が焚き火の炎を映し、挑発するように煌めく。
「……我らは掟に従い生きてきた。それが我らの誇りだ」
フィリアの声は硬質で揺るぎなく、長命の種族が積み重ねてきた信念の重さを孕んでいた。
だがツヅラは、ふふふと笑う。
「掟なんぞに振り回されて死地に飛び込むんは――愚か者のすることや」
「我らの誇りを……愚弄するのか、女狐」
フィリアの声が鋭く跳ねる。
「ふん。愚か者に躾してるだけや、堅物」
火花が散るように二人の言葉がぶつかり合い、空気が一瞬で張り詰めた。
周囲の空気が熱を帯び、焚き火の炎さえ勢いを増したかのように揺らめく。
「お、おいおい……!」
バニッシュが思わず声を荒げる。
しかし二人の間に割って入るのは容易ではない。
リュシアは思わず一歩下がり、セレスティナもセリナも目を見開いて後退った。
迫力に圧され、誰一人として口を開けない。
「……お前に何が分かる。我らの掟の重みを、その意味を!」
フィリアの声は鋼のように張り詰め、焚き火の炎を震わせた。
だがツヅラは扇を下ろし、今度は笑みを消して重い声を返す。
「知らんなぁ。せやけどな、うちら獣人にも“掟”はある。けど、それは生きるためのもんや。死にに行く理由には使わん」
低く、重く、言葉が叩きつけられる。
その瞬間、フィリアの口が開きかけて――しかし、反論の言葉は喉で詰まった。
「アンタも長やろ」
ツヅラの金の瞳が細められ、鋭く光る。
「なら今生きとる者と、生き延びるのが筋やないんか」
焚き火の音だけが耳に残る。
フィリアは震える唇を結び、やがて絞り出すように言った。
「……我らとて、死にたくはない」
その声はか細く、だが真実を含んでいた。
次の瞬間、叫ぶように吐き出す。
「だが……我らは掟に従い生きる以外の術を知らない! それが……それが私のすべてなんだッ!」
毅然とした顔に、涙が滲んでいた。
誇りという名の枷。
掟は彼女たちを支えると同時に、逃れられぬ呪いとなっている――バニッシュはそう悟った。
だからこそ、静かに口を開く。
「……なら、ここから出て行くことに、俺は何も言わない」
ざわり、と周囲が揺れた。
皆の視線が、一斉にバニッシュへと集まる。
だが彼は落ち着き払って続けた。
「ただ――どのみち今は人手が必要だ。だから今しばらくは、ここで協力してほしい。それでいい」
一拍置き、はにかむように口元をゆるめる。
「これは……そういう契約ってことで、どうだ?」
フィリアは強張った表情のまま、しばし考え込んだ。
やがて小さく息を吐き、そっと視線を逸らす。
「……そ、そういうことならば」
その答えに、場の空気がふっと和らいだ。
ツヅラは扇を口元に戻し、くすりと笑って目を閉じる。
「契約、ねぇ。バニッシュはんらしいわ」
緊張が解けたことで、周囲から小さな安堵の吐息が広がった。
焚き火の炎がぱちりと弾け、ようやく夜に静けさが戻る。
「しかし……実際、食糧問題はどうするつもりなのだ?」
フィリアはこほんと咳払いを一つ。
涙の名残を振り払うように冷静な視線をバニッシュへと向けた。
「先ほど、“活性化”がどうのと言っていたが……それはどういうことだ?」
バニッシュは腕を組み、顎に手を当てながら、さらりと答える。
「ああ、それか。――セラのお祈りでな。この拠点の草木や土、畑なんかが活性化して、成長がやけに早くなってるんだ」
「……お祈り? セラ……?」
首を傾げるフィリア。
ツヅラも扇をゆるりと下ろし、珍しく真面目な顔を見せる。
「それは一体、誰なのだ?」
バニッシュは一切の溜めもなく、当然のように言った。
「セラは――セラフィ=リュミエール。女神さまだ。その女神のお祈りで、活性化してる」
――女神。
その一言に、フィリアもツヅラも同時に絶句する。
長い耳がピクリと震え、金の瞳が見開かれた。
「ば、バニッシュはん……」
ツヅラの声が裏返る。
扇で口元を隠しながらも、狼狽えを隠しきれない。
「こ、ここに……女神様がおるっちゅうんか!?」
「ああ。ここで暮らしてる」
あっけらかんと答えるバニッシュ。
「どどど……どうして女神様が、こんな場所におられるのだ!?」
フィリアも瞳を揺らし、威厳ある態度を忘れたように取り乱した。
「いや、空から降ってきたんだよ」
あまりにもさらりとした説明。
「……」
「……」
エルフの長も獣人の女も、言葉を失った。
常に冷静なはずのフィリアの眼鏡がずり落ちそうになり、ツヅラの扇は小刻みに震える。
その光景を背後で見ていたリュシアとセレスティナとセリナは――。
「……もうちょっと説明の仕方ってもんがあるでしょ」
リュシアが頭を押さえる。
「さすがに“空から降ってきた”だけじゃ混乱しますよ……」
セレスティナがため息をつき。
「わ、わたしまで恥ずかしくなってきた……」
セリナが顔を赤らめる。
バニッシュはといえば――三人の反応など意に介さず、首を傾げながらぽつりと呟いた。
「いや、事実を言っただけなんだけどな……」
場の空気は混沌としながらも、確かに“女神”という存在がここにいることが告げられた瞬間だった。
「バニッシュ~、話は終わった~?」
のんきで鈴のように響く声が広間に差し込んだ。
振り返れば、にこにこ顔で手を振るセラが、隣でパタパタと羽ばたく小さなパグを連れて姿を現す。
「ああ、セラ。ちょうど一段落したところだ」
バニッシュは片手を軽く挙げて応じた。
その瞬間――。
「ば、バニッシュはん……っ!」
「ま、まさか……そのお方が……!」
ツヅラとフィリアが同時に声を詰まらせ、愕然とする。
バニッシュは何でもない調子で言った。
「ああ。この娘が、女神様――セラフィ=リュミエールだ」
紹介の声が落ちた瞬間。
――ドサッ。
ツヅラとフィリアは即座に膝を地につけ、深々と頭を垂れた。
「ま、まさか女神様の加護のある土地とは知らず……!」
「不躾なことを、どうかお許しください……!」
声は震え、尊崇と畏怖が入り混じる。
「ん~? どうしたの?」
当のセラは首を傾げてきょとん顔。
状況が飲み込めず、隣のバニッシュを見上げる。
「いや……それは……」
バニッシュは返答に困り、頭をがしがしとかいた。
そんな空気を破ったのは、小さなパグだった。
テテッと二人の前に降り立つと、落ち着いた声で告げる。
「そう、かしこまらなくて結構ですよ。セラ様はお心が広い。それに、この地を加護しているのではなく――一時的に滞在しているだけなのですから」
「……っ、慈悲深いお言葉、ありがとうございます!」
「恐れ入ります……!」
フィリアもツヅラも、なおも頭を下げたまま声を震わせる。
当のセラは相変わらず小首を傾げ、目をぱちくり。
「ま、まあ……とにかく頭を上げてくれ」
バニッシュが苦笑交じりに声をかける。
ようやく二人は顔を上げ、緊張に強張った表情を見せた。
「とにかく、セラもみんなもここの住人だ。仲良くやろう」
バニッシュは朗らかに笑った。
その肩へ、ひらりと飛び乗るパグ。
頬に顔を近づけ、低くぼそりと囁く。
「……この方たちほどの敬意は必要ありませんが、貴方ほど無礼なのもどうかと思いますよ」
「ん? 何か言ったか?」
バニッシュが首を傾げると、パグはため息をつき、澄ました声で答えた。
「……なんでもありません」
セラは相変わらずにこにこと笑い、ツヅラとフィリアはなお動揺の面持ち。
だが拠点の空気は、不思議と和らいでいた。




