赤き双眸の怪物
その日。
バニッシュを探して工房へと足を運んだセリナは、戸口の前で軽くノックした。
「……バニッシュ?」
しんと静まり返った工房の中からは、返事が返ってこない。
首を傾げたセリナは、意を決して戸を開けると、そっと中に足を踏み入れた。
工房の中は、調合用に干された薬草の香りが漂い、机の上にはぎっしりと積まれた魔法理論の紙束が広がっている。
壁際には、グラドと共に組み上げた数々の装置が整然とも雑然ともつかぬ配置で並べられ、金属のきらめきと魔石の淡い光が薄暗い室内を照らしていた。
「わぁ……」
思わず小さく感嘆の声が漏れる。
その中央――ひときわ存在感を放つ大きな装置が据えられていた。
回路を組み合わせた複雑な機構、その中央に据えられた円環型の装置に鳴心環が組み込まれている。
「これ……何かしら……」
セリナは吸い寄せられるように近づき、そっと覗き込む。
その瞬間――
トクンッ……トクンッ……!
鳴心環が、まるで心臓の鼓動のように大きな拍動を刻み出した。
不意の衝撃に、セリナは小さく悲鳴を上げる。
「ひゃっ……!」
甲高い声が工房に響いた刹那、奥の方から足音が近づく。
布を払うように姿を現したのは、バニッシュだった。
「……セリナ?」
眉をひそめながら現れた彼に、セリナは慌てて両手を振る。
「あっ、その……あのっ……! 違うんです、私……ただ、バニッシュを呼びに来ただけで……これは、その……っ!」
言葉がまとまらず、あたふたと狼狽える。
視線は装置とバニッシュを行ったり来たりし、肩をすくめたまま小動物のように縮こまるセリナ。
バニッシュは一瞬だけ目を細め――そしてゆっくりと歩み寄った。
バニッシュの視線が装置の中心に釘付けになる。
淡い脈動を刻む鳴心環。
心臓の鼓動のように規則正しく、しかしどこか焦燥を帯びるようなリズムで――。
「バニッシュ……?」
心配そうに声をかけるセリナ。
その声音に、バニッシュははっと意識を取り戻したように顔を上げた。
「ああ……大丈夫だ」
低く答え、装置の枠から鳴心環を外す。
手の中に収めた瞬間、拍動はより鮮明に響き、指先にまで振動が伝わってくる。
「……これは……まるで、行き先を示しているみたいだ」
バニッシュの額に汗が浮かぶ。
ただの試作装置の一部であるはずの鳴心環が、あたかも意思を宿したように刻む方角を告げている――。
その異常に、彼の胸の奥で警鐘が鳴った。
「どういうことだ……?」
低く呟きながら、バニッシュは工房を後にしようとする。
拍を刻む鳴心環が導く方角――そこに何があるのかを確かめるために。
「待って、バニッシュ!」
慌てて立ち上がったセリナが、彼の後を追う。
「私も……一緒に行く」
決意を込めた声。
かつて仲間であった自分を拒むかもしれないと思っていたバニッシュの背中に、それでも寄り添うように言葉を投げかける。
バニッシュは一瞬足を止め、ちらりと振り返る。
その瞳に映るセリナの表情は、不安に揺れながらも確かな決意に満ちていた。
「……分かった。ただし、絶対に俺から離れるな」
そう告げると、バニッシュは歩を進める。
彼の手の中で鳴心環はなおも強く、導くように拍を刻み続けていた。
鳴心環が刻む拍に導かれ、二人は森を駆け抜けていく。
鬱蒼と生い茂る木々の間を縫い、張り巡らされた結界を抜けると、途端に空気の匂いが変わった。
血の鉄臭さと、獣の荒ぶる咆哮が大気を震わせる。
「……この先だ!」
バニッシュが短く声を張る。
セリナも必死に後を追い、二人は枝葉を薙ぎ払うようにして進んだ。
――そして。
森を抜けた瞬間、視界に飛び込んできたのは地獄のような光景だった。
広がる草原の中央、巨体の魔獣が咆哮をあげて暴れ狂っている。
漆黒の鬣を逆立て、赤熱した爪で大地を抉り、衝撃波のような風圧を撒き散らしていた。
「ぐっ……!」
「退けッ! 退けぇぇッ!」
その魔獣に挑んでいたのは、傷だらけの獣人たちと、矢を番えて応戦するエルフの戦士たち。
だが彼らの身体は既に血に塗れ、息も絶え絶えだった。
武器は欠け、盾は粉々に砕け、このままでは次の一撃で一掃されるのは火を見るより明らかだった。
「……あれは……!」
目を凝らしたバニッシュの視線が、一角にいる獣人たちを捕らえる。
筋骨隆々の戦士――ドルガ。
鋭い双刃を構える影法師のような男――朧。
そして、花魁のような姿ながらも凛とした声で指示を出す――ツヅラ。
「なっ……どういうことだ……!」
さらに視線を移すと、エルフの戦士の列に――透き通るような銀髪をなびかせた少女がいた。
気高き長、フィリア。
信じがたい光景に、バニッシュの思考は混乱する。
なぜ彼らがここに……どうして同じ敵と相対している……?
疑問が脳裏に次々と浮かぶが――。
ガアアアアアアッ!!!
魔獣の咆哮が、それらをすべて吹き飛ばした。
灼熱の爪が振り下ろされ、獣人の一人が吹き飛ばされる。
悲鳴が響き渡り、血が大地を濡らす。
「くっ……考えてる暇はない!」
バニッシュは叫んだ。
「とにかく助けるぞ!!」
「う、うん!」
セリナも杖を握り締め、震える声で応じる。
二人は息を合わせ、魔獣が牙を剥く戦場へと飛び込んでいった。
バニッシュは大地を蹴り、戦場へ飛び出した。
両の掌を前へ突き出すと、迸る魔力が渦を巻き、空間に幾重もの紋が描かれる。
「――鏡律封陣!」
瞬間、半透明の結界が展開され、獣人たちとエルフたちを包み込んだ。
次の刹那、魔獣の灼熱の爪が結界を叩きつける。
だが、その一撃は吸い込まれるように紋陣へと走り、反射――轟音と共に逆流し、魔獣自身の巨体を弾き飛ばした。
グオオオッ!?
体勢を崩す魔獣。地面を抉り、土煙が舞い上がる。
バニッシュはすかさず声を張り上げた。
「今だ! セリナッ!」
「で、でも……私……」
セリナの手が震える。
勇者一行にいた頃――詠唱が遅れ、上手く戦えなかったことを思い出す。
喉が詰まり、言葉が続かない。
「大丈夫だ!」
バニッシュの声が戦場を震わせた。
その瞳は真っ直ぐで、迷いなくセリナを射抜いていた。
「俺を信じろ!」
「……っ!」
一瞬、心が揺れる。
だが――彼の声は、彼女の胸に閉ざされていた不安を突き破った。
セリナは深く息を吸い込み、杖を高々と掲げる。
「――光よ、裁きの雨となりて! 聖煌の浄光!」
眩い光が杖先から溢れ出す。
その瞬間、バニッシュは同時に魔法陣を編み上げた。
「魔力供給転送陣――!」
彼の魔力がセリナに流れ込み、光が幾重にも重なって膨張する。
轟く閃光が一直線に放たれ、魔獣の全身を飲み込んだ。
ギャアアアアアアッ!!
大地を揺るがす悲鳴と共に、魔獣は光に貫かれ、巨体を痙攣させながら崩れ落ちる。
やがて黒煙となって溶けるように消え去った。
「……す、すごい……」
杖を握りしめたまま、セリナは息を呑んだ。
あれほどの威力――自分が放った魔法とは信じられない。
横に立つバニッシュへ視線を向け、掠れた声で問いかける。
「い、今の……バニッシュが……?」
彼は少しだけ頬をかき、照れ臭そうに口角を上げた。
「ちょっとした補助魔法さ」
短く、それだけ。
だがその言葉に、セリナの胸は熱く震えた。
自分を信じてくれたからこそ――自分も力を出せたのだと。
土煙が晴れていく。
その場にいた獣人たちとエルフたちは、呆然としたまま二人へ視線を向けていた。
救われた安堵と、目の前で繰り広げられた一瞬の出来事に言葉を失っている。
その中で、花魁の姿の凛とした佇まいの――ツヅラが傷ついた身体を支えながら、かすれた声で呟いた。
「……バニッシュはん……」
その声は、安心の響きを宿していた。
「一体……どうしたんだ!」
バニッシュは駆け寄り、血と泥にまみれた彼らの姿を目の当たりにする。
大柄なドルガも、俊敏な朧も、ツヅラまでもが全身傷だらけ。
さらに、エルフたちも矢筒を空にし、杖を杖ともつかぬほど力なく握り締めている。
かつての誇り高き戦士たちの姿は、今や疲労困憊の漂流者に等しかった。
「と、とにかく……ここで話すより、俺たちの拠点に行こう!」
バニッシュは即断した。
状況を理解するのは後だ。今は命を繋ぐことが先決だった。
セリナも頷き、すぐに杖を掲げて小規模な回復の光を散らす。
その光がわずかに獣人やエルフの足取りを軽くし、バニッシュは先頭に立って道を切り開いた。
――やがて。
拠点へ戻ったとき、その光景に待ち受けていた仲間たちの目が見開かれる。
「ちょ、ちょっと……なによこれ!?」
リュシアの叫びが、広場に響き渡った。
彼女の金の瞳が驚愕に揺れる。
振り返ったバニッシュは、短く答える。
「分からない。だが……とにかく今は手当てが先だ!」
その言葉に迷いはなかった。
ザイロとグラドはすぐに歩み寄り、重傷者を片腕で抱え上げる。
メイラは素早く薬草を煎じた壺を抱え出し、リュシアと共に傷口を洗い流していく。
セレスティナは冷静に動き回り、包帯を巻き、安定した手つきで治療を施す。
ライラもまた、女性や子供の負傷者を優しく支えながら、一人一人に声をかけた。
バニッシュとセリナは並んで立ち、両の掌から溢れる光を患部へと注ぐ。
回復の魔法がほころぶように傷を癒し、荒い呼吸が少しずつ整っていった。
こうして、拠点の広場はまるで臨時の野戦病院のようになっていった。
やがて数を数え、皆が息を呑む。
「……エルフは、およそ百人……フィリアも、その中に……」
セレスティナの声が震える。
「獣人は……二百人近いか……」
グラドが荒い息を吐きながら呟く。その中にはツヅラ、ドルガ、そして朧の姿もあった。
――三百を超える人々が、今この拠点に命を託していた。
混乱と困惑のただ中。
しかしそれでも、誰一人として動きを止める者はいなかった。
全員の手当てが終わり、ようやく安堵の吐息が拠点に満ちる。
だが休息に浸ってばかりはいられない。
「さて……みんなの仮設テントを張らんとな」
グラドがごつい腕を組み、ザイロと目を合わせる。
短い視線のやり取りで意志は通じ合った。
「自分たちの寝床だ。俺たちもやるぜ」
ドルガが立ち上がる。
片腕に包帯を巻きながらも、その眼光には光が宿っていた。
隣で朧も無言で腰を上げる。
「へっ、無茶はすんなよ」
グラドが渋く言い放つ。
ドルガは鼻で笑い、白い牙を見せた。
「じじいに言われたくねぇな!」
「誰がじじいだっ!」
互いのやり取りに、周囲にいた仲間たちから苦笑が漏れる。
そのままグラドとザイロ、動ける獣人やエルフを連れて、仮設テントの設営へ向かっていった。
広場に残ったバニッシュは、ツヅラとフィリアを前に腰を下ろす。
焚き火の炎が彼女たちの顔を照らし、影が長く伸びる。
「一体……どうしたんだ?」
低い声で問う。
ツヅラは手にした扇で口元を隠し、金の瞳を細めた。
妖しげな光を宿しながら、艶めいた声を落とす。
「――襲われたんや」
「襲われた? ……黒の勇者の兵か?」
バニッシュの問いに、ツヅラは首を振った。
焔の明滅に照らされたその金の瞳が、鋭く細められる。
「わからへん。ただ……赤い双眸の怪物やったことだけは確かや」
その言葉に、傍らのフィリアも口を開く。
彼女の声は清澄でありながら、深い重みを含んでいた。
「我らも同じだ」
十歳ほどの少女にしか見えない姿。
しかし、その立ち居振る舞いは年輪を重ねた長老のように威厳に満ちていた。
フィリアはすっと背筋を伸ばし、腕を組む。眼鏡の奥の瞳が鋭く光を帯び、反射した焔がレンズに一瞬閃いた。
焚き火の音だけが鳴る中、二人の証言が重苦しい空気を広間に満たしていく。