祈りが見えなくなった日
セリナは膝の上で小瓶を握りしめていた。
淡く青紫に光る液体が、月明かりを浴びて妖しく揺らめく。
(……あの男を、信じられない……)
胸の奥で必死にそう呟く。
だが同時に、この城に留まり続けることの限界も痛感していた。
勇者は狂い、仲間は死に、そして自分はただ恐怖に震えているだけ――。
「これは……毒かもしれない……。でも……」
唇を噛む。血の味が広がる。
もし毒なら、今ここで終わるだけ。
だが、このままここにいれば……いずれ、あの狂気に呑まれたカイルに殺される。
――なら。
セリナは震える指で、小瓶の栓を外した。
カチリと乾いた音が響く。
異様に不気味な香りが鼻を刺した。
「……っ……」
喉が凍りつきそうなほどの恐怖を押し殺し、目を固く閉じる。
そして一気に、液体を喉へと流し込んだ。
――ドロリとした不快な感触。
薬ではない。
水でもない。
ただ「異物」。それ以上でも以下でもなかった。
「――――っ!!」
次の瞬間、身体の奥底から灼けるような熱が走る。
胃から胸へ、胸から全身へと火が広がる。
皮膚の下で血が煮え滾るような錯覚。
「や、ああああああああああああああああああっ!!!」
絶叫が部屋を震わせた。
汗が滝のように吹き出し、髪が乱れ、手足が痙攣する。
爪先から頭の天辺まで、すべての神経が焼かれる。
祈りも、希望も、言葉さえも吹き飛ぶ。
あるのはただ――理性を喰らい尽くすほどの灼熱。
セリナは床に爪を立て、喉が裂けるほどの悲鳴を上げ続けた。
――絶叫が途切れた。
「セリナ様!? 大丈夫ですか!?」
外で見回りの兵が叫ぶ声が聞こえる。
だがセリナには返事をすることができなかった。
全身を焼き尽くすような痛みは収まり、荒い呼吸だけが残っていた。
――はぁ、はぁ……。
額から滴る汗を拭う余裕もなく、セリナは膝を抱え込みながら震えていた。
そのうち、外で兵が焦ったように叫び声を上げる。
「返事がない……! 破れ!」
次の瞬間、扉が体当たりで破られ、兵士が雪崩れ込む。
だが――兵士の視線は部屋の中を忙しく彷徨うばかりで、セリナを見つけることはなかった。
「どういうことだ……!? 絶叫が聞こえたのに……セリナ様がいない……?」
セリナの目が大きく見開かれる。
――見えていない。
兵士には、自分の姿が見えていないのだ。
(……薬は、本物……!?)
ふと、脳裏にフードの男の言葉がよぎる。
――「一時の間、姿を見えなくする薬」――。
ならば今が唯一の機会。
この地獄から抜け出すための、たった一度きりの道。
「……っ!」
セリナは歯を食いしばり、立ち上がった。
兵の肩を突き飛ばす。
「ぐっ!? な、何だ……風か!?」
兵は不可解そうに辺りを見回す。
その隙に、セリナは廊下を駆け出した。
石畳を叩く足音が自分だけに響く。
誰にも気づかれず、誰にも追われず――。
ただ、恐怖と焦りが背中を押す。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
長い廊下を抜け、暗い城門をくぐり抜ける。
夜風が頬を打つ。
初めて「自由」の匂いを感じた。
(とにかく……遠くへ逃げなくちゃ……!)
セリナは振り返らない。
ただひたすらに、城から遠ざかるように走り続けた。
――どれほど走ったのだろうか。
セリナはただ前だけを見つめ、息が切れ、呼吸が苦しくても足を止めなかった。
胸は焼けるように痛み、喉は枯れ、何度も地面に倒れそうになる。
枝に躓き、茨に腕を裂かれ、草で擦り傷を負いながらも、それでも必死に走り続けた。
行く当てもない。
バニッシュの居場所など知らない。
それでも――ただ、カイルの手の届かぬ場所へ。
「はぁ……はぁ……っ……!」
足元の段差に気づくことはなかった。
ガクンと身体が落ち、一メートルほどの高さから滑り落ちる。
「きゃ……っ!」
背中を打ちつけ、視界が揺らぐ。
もう立ち上がる体力も気力も残っていなかった。
霞む視界の中で、セリナはかすかに唇を動かす。
「……バニッシュ……」
その名を呟いた瞬間、意識は途切れた。
――夢を見た。
赤い炎が夜空を舐める。
恐怖に駆られた悲鳴が、怒号が、村全体を覆っていた。
人々は必死に抵抗しようとするが、次々と斃れていく。
(……ここは……村? いや、里……?)
焼け落ちる家屋の間を走り抜ける影――。
倒れる者たち。
よく見ると、その人々の耳は異様に長い。
「……エルフ……?」
火の海に沈む里の中央に、影が佇んでいた。
その影はゆっくりと振り返る。
――赤く輝く双眸。
光を失った瞳ではない。
燃えるような紅の眼光。
「……カイル……? それとも……」
その存在が誰なのか、判別する前に――
「っ――!」
セリナは飛び起きた。
冷や汗に濡れた体を抱きしめ、荒い息を吐く。
夢の中で見た光景が頭にこびりつき、震えが止まらない。
――あれは、予兆なのか。
それともただの悪夢なのか。
森の冷たい空気の中、セリナは一人、答えの出ない恐怖と共に身を縮めた。
耳にかすかなせせらぎが届いた。
近くに、小川が流れている。
セリナはよろめく身体を引きずりながら、その水辺へと歩み寄った。
手を伸ばし、指先で掬った冷たい水を口へ。
「……っ……」
ひび割れた唇を潤すように、一口、二口――やがて飢えた獣のように両手で水を掬い、必死に喉へと流し込んだ。
あの灼けるような感覚が、まだ身体の奥底に残っていた。
燃え盛る火を鎮火させるかのように、必死で水を飲む。
やがて喉も腹も冷たい水で満たされ、セリナはようやく顔を上げた。
小川の水面が揺れる。
そこには――擦り傷だらけで、恐怖に支配された自分の顔が映っていた。
「……ひどい顔……」
呟きは風に消えた。
指で頬をなぞると、そこには乾ききらない血と泥の感触が残る。
それは勇者の仲間として共に戦った頃の姿ではない。
ただ、逃げ惑い、震えるだけの、ひとりの女の姿。
セリナは震える足で立ち上がった。
もはや帰る場所も、頼るべき仲間もいない。
それでも――歩かなければならない。
どこへ向かうのかも分からず、ただ彷徨うように、一歩、また一歩。
その背を押すのは、恐怖か、それとも希望か。
セリナの足音だけが、森の静寂に吸い込まれていった。
自分が賞金首になっていることを、セリナはすでに知っている。
だから人里も、街道も――徹底的に避ける。
途中で拾った薄汚れた布を頭から被り、顔を隠すように歩く。
乾いた喉を潤すために立ち寄った小さな村では、極力言葉を発さず、最低限の食料だけを買い求めた。
会話を避け、視線を避け、ただ影のように。
再び街道を外れ、森を縫うように移動する。
やがて日は傾き、空は茜色から群青へと変わっていく。
見つけた洞穴に身を滑り込ませ、震える身体を抱くように布へと包まった。
焚き火の小さな炎が、心細く揺れる。
炎を見つめていると、自然と涙が零れ落ちた。
「……どうして……」
声は震え、かすれていた。
あの頃、信じていた仲間も、希望も、すべてが崩れ去った。
今残っているのは、恐怖と孤独だけ。
やがて意識は薄れ、眠りへと落ちていく。
――再び、夢を見る。
どこかが襲われている。
耳を裂く悲鳴、必死の怒号。
燃え盛る炎が夜を照らし、その中で血を吐くように倒れていく住民たち。
目を凝らす。
――獣人たちだ。
耳を裂かれるような断末魔をあげ、倒れていく。
その火の海を踏みしめ、影が立っていた。
赤い眼光が、狂気と絶望を宿して煌めく。
だがその奥に――微かに悲しみが混じっていた。
それは誰?
カイル? それとも――。
『……コレハ……ワタシ?』
呟いた瞬間、夢は破れた。
セリナははっと目を開ける。
気づけば夜明け前、木の幹に背を預けるようにして眠っていた。
荒く息を吐きながら額の汗を拭い、立ち上がろうとする。
夢の内容はすぐに霧のように薄れていった。
赤い眼光。炎に包まれる獣人の村。
……それが何を意味するのか、思い出せない。
ただ胸の奥に不安だけが残る。
セリナは虚ろな目で、また歩き出した。
行くあてもないまま、彷徨うように。
彷徨い始めて、どれほどの夜月が過ぎただろうか。
いつの間にか、セリナの姿はかつての静謐な「聖女」の面影を留めてはいなかった。
ボロ布を重ねたような衣は泥にまみれ、髪は風に乱れて枝や葉を絡ませている。
肌は擦り切れ、頬には土の粒が張りつき、足取りは死人のそれのように鈍い。
かつて祈りを捧げた穏やかな眼差しは消え、代わりに虚ろな光だけが瞳の奥で揺れていた──まるで、歩く亡霊である。
彷徨ううちに、セリナは二つのことに気づいていた。
一つは、眠るたびに必ず同じ悪夢を見るということ。
赤い眼光が燃える炎の中で誰かを襲う、その断片的で忌まわしい光景。
もう一つは、目覚めるといつも見慣れぬ場所にいること。
だが、どちらも彼女にとってはどうでもよかった。
いつしか足は「魔の森」へと迷い込んでいた。
冬の足音が近づいているのだろうか、風は冷たく肌を刺し、吐く息は白く濁った。
木々は葉を落とし、地面は凍てつき始めている。
体温を奪われ、セリナは幹に躓いて転んだ。
膝をつき、手をついて体を起こす気力もなく、ただその場にべたりと倒れ込む。
倒れた瞬間、なぜか不思議な「抜ける感覚」が全身を走った。
冷たい土の匂いのはずが、ふと暖かさがじんわりと体を包む。
外套の隙間から差し込む微かな暖気が、凍えた胸の奥を和らげていく。
(ああ、もうここで……いいかもしれない)
──そんな投げやりな諦念が、瞼を重くした。
その時だった。
「セリナ?」
──ひどく、懐かしい声が、森の静寂を切り裂いた。
霞む視界のなかで声の方へ目を向けると、黒い影がひとつ、樹間に立っていた。
冷気の空気の裂け目から差し込むように見えたその輪郭は、確かに人の形をしている。
ゆっくりと近づくその姿に、セリナの心が不思議と震えた。
暖かさは、ただの幻ではなかったのだろうか。
「バニッシュ……」
掠れた声が、意識の端でつぶやかれる。
その名は彼女の唇から零れると同時に、身体を包んでいた薄氷のような力が溶けるかのように、世界が途切れた。
セリナは、意識を落としていった。