闇より囁く声
漆黒の風が吹き荒れる城のてっぺん。
月光に照らされ、長い外套をはためかせながら――ひとりの男が佇んでいた。
深く被ったフードの奥、その両手には禍々しい瘴気を宿した黒いオーブ。
それを目の前に掲げ、まるで次なる贄を見定める審判者のように眺めている。
「……さて。次は、誰を差し出しましょうか」
その声音は、愉悦と退屈が入り混じった奇怪な調べ。
その時だった。
天空を震わせるような――清らかで力強い波動が降り注ぐ。
光。
それは神聖なる女神の神力。
星々を押しのけるように広がる光の波は、明らかに天界からのものだった。
フードの男は、フードの奥で視線を上げる。
見えない瞳が、月を越え、天を貫くように鋭く煌めいた。
「……女神たち、ですか」
嘲笑を含んだ声。
その口調は、まるで下卑た娯楽でも目にしたかのように軽やかだった。
「どうせ――次なる勇者を求め、光の導きを放ったのでしょう。……ですが――」
黒いオーブを掲げ、声を低める。
「勇者は死んでなどいない。すでに黒き勇者として、この地に再び生まれ落ちたのです。導きの光など――二度と灯るはずがない」
乾いた笑いが、夜空に溶けていった。
しかし、その瞳は笑っていなかった。
女神の力を「厄介」と評する冷たい光が、フードの奥でぎらついていた。
「……少し、試してみましょうか。この“力”を」
フードの男は黒いオーブに魔力を注ぎ込む。
瞬間、轟々と黒い瘴気が溢れ、周囲の空気を腐らせる。
オーブは裂けるように形を変え――禍々しい黒槍となった。
稲妻のような黒い光を纏い、空を裂く狂気の兵器。
「――往け」
フードの男は、槍を振りかぶり天へと投擲した。
黒槍は風を裂き、稲妻を散らしながら、一直線に天空を目指す。
その軌跡はまるで夜空に走る死の彗星。
そして、遥か天の彼方。
女神の光が瞬く天空で――
――ドオオオォォンッ!!!
爆ぜる音が地上にまで轟いた。
雲が裂け、光がかき消え、暗黒が覇を唱えるかのように広がる。
結果を確かめることはできない。
だが、それで十分だった。
フードの男は、ゆっくりと両手を広げ、不気味に笑った。
「ふふふ……抗うのならば、抗えばよい。光はいつだって、闇の糧となるのですから」
夜風が吹き荒れる。
はためくフードの裾とともに、その姿は暗闇に溶けていった。
冷たい石壁に囲まれた薄暗い部屋。
その片隅で、セリナは膝を抱え、うずくまって震えていた。
――ガルドは死んだ。
――ミレイユも死んだ。
そして、勇者であったはずのカイルは黒き勇者として狂気に堕ちていった。
かつて希望を信じた仲間たちは、もうここにはいない。
城を取り巻くのは、暴徒と化した者どもが築き上げた不気味な喧騒。
その中心にいるのは、もはや彼女の知る「勇者」ではなかった。
脳裏を焼きつける光景がある。
――カイルが、ガルドを屠った瞬間。
その時の紅蓮の炎、肉を焼く臭い。
次は自分なのではないか。
その恐怖に押し潰されそうになり、セリナは小さく祈りをつぶやいた。
「……女神様……どうか……」
彼女の声は震え、消え入るようだった。
バニッシュへと放った聖鳥伝声――。
あれも、いつ届くのかはわからない。
もしかすると届かないかもしれない。
届いたとしても、追放した自分を助けてくれるだろうか。
その疑念が、彼女の心をさらに深く暗く沈めていく。
――疑心。恐怖。孤独。
その果てに、セリナの瞳からは光が消えかけていた。
その時。
コン、コン――。
不意に扉を叩く音が響いた。
セリナの肩がビクリと跳ね上がり、胸の鼓動が急激に早まる。
「だ、誰……?」
恐る恐る声を漏らす。
返ってきたのは、扉の向こうから聞こえる低い声。
「……貴方様にお話がございます」
笑いを帯びた、耳を撫でるような囁き。
それは、まるで闇夜が手招きしているかのように甘く、不気味だった。
セリナの背筋に、冷たいものが這い上がる。
セリナは声を聞いた瞬間に理解した。
――あのフードの男だ。
カイルを闇へと誘い、狂気に染め、黒き勇者へと堕とした存在。
彼女にとって、その男は畏怖の対象であり、決して信用などできぬ悪夢そのものだった。
「……わ、私は……話なんてない!」
震える声で叫び、部屋の片隅で膝を抱え込む。
かすかな勇気を振り絞ったその言葉は、追い返すための必死の拒絶。
――だが。
扉の向こうから、湿った笑い声が響いた。
背筋を這い上がるような、不気味な愉悦を含んだ笑い。
「これは……貴方にとって、とても“いいお話”だと思いますよ」
耳にまとわりつく声に、セリナは首を振り、震える唇を噛む。
「そんなの……知らない! 私は、聞きたくない……!」
祈るように膝に顔を埋め、震えながら必死に拒絶する。
やがて、扉の向こうは静まり返った。
――沈黙。
セリナの呼吸が乱れる。
(……帰った?)
ほんの少し、安堵が胸を撫でたその時。
「ほんの少しだけですので」
耳元に囁くように、先ほどよりも近い声が響いた。
「――ッ!?」
セリナは驚愕して顔を上げる。
視線の先にあるのは、確かに鍵をかけたはずの扉。
だが、そこに立っているのは――。
どうやって入ってきたのか、わからない。
部屋の中で佇み、ゆっくりと首を傾げるその影。
深く被ったフードの奥から、不気味な笑みが滲み出ていた。
「ど……どうやって……」
声は震え、今にも途切れそうだった。
セリナの問いに、フードの奥で笑みを浮かべる気配が揺れる。
「そんな些細なこと、どうでもいいではありませんか」
低く湿った声が部屋に満ちる。
そして男は一歩、床を鳴らして踏み出した。
「来ないで!」
セリナは悲鳴を上げるように叫んだ。
しかしフードの男は肩をすくめ、わざとらしいため息を吐く。
「では……単刀直入に言いましょう」
声色が急に冷ややかに変わる。
「――貴方は、カイル様の側にいるべきではありません」
その言葉にセリナの心臓が跳ねた。
「どうやら貴方は、我らの思想と相容れぬようだ。そんな者が近くにいれば、カイル様の栄光への道は閉ざされてしまう」
フードの奥から、不気味な視線がセリナを射抜いた。
それは目に見えぬはずなのに、確かに突き刺さる“闇の眼差し”。
セリナは声を失った。
ただ震え、壁際で身を小さくすることしかできない。
「――なので」
刃のように冷たい言葉が、闇夜の囁きとなって降り落ちた。
セリナの口からは、声にならぬ息だけが漏れる。
その全身を絡め取るのは、逃れられぬ恐怖だった。
「……そんなに怯えなくて大丈夫ですよ」
猫を撫でるような柔らかな声。だがその声音の奥底に潜むのは、冷たい蛇の舌のような不気味さだった。
フードの奥で、にやりと笑う気配が広がる。
「私も鬼ではありません。ここまでついてきてくださったセリナ様に……ひとつ、提案があるのです」
男は人差し指を立てた。その仕草はまるで舞台役者のように芝居がかっている。
「……て、提案?」
セリナは疑心に満ちた瞳でフードの男を見上げた。
その瞬間、彼は懐からひとつの小瓶を取り出す。
――淡く青紫に光る液体が、闇の中で妖しく瞬いた。
「そ、それは……?」
「これは一時の間、貴方の姿を他の者から見えなくする薬です。これを飲めば、誰にも知られることなく――この城から出ることができるのですよ」
大げさに両手を広げ、舞台で台詞を放つかのように語るフードの男。
「な、なんで……そんなものを……」
声は震え、喉の奥でかすれる。
「――貴方はここから逃げ出したかったのでしょう?」
甘く、愉しむように放たれたその言葉。
セリナの背筋に冷たいものが走る。
まるで心の奥底をすべて見透かされたようで、言葉が喉に貼り付いた。
「ふふふ……これは提案なのです」
男は小瓶を掲げながら、ゆっくりと歩み寄る。
「これを飲み、ひっそりとここを離れるか。それとも――ここに残り、あの方の覇道の道に協力するか。二つに一つです」
最後の言葉は耳元で囁かれた。
魂にまで染み込むような低い囁き。
セリナは恐怖と困惑で息を乱し、ただ震えることしかできなかった。
やがて、フードの男は笑みを残したまま、霧のようにその場を離れようとする。
だがセリナは絞り出すように問いを投げた。
「……あ、あなたの……目的は……なに……?」
その声に、フードの男は立ち止まった。
フードの奥で、笑いが深まる。
「最初に申し上げたはずです――」
ゆっくりと振り返り、黒い影のように言葉を落とす。
「私はただ、あの方に。もう一度、栄光を取り戻していただきたいのですよ」
不気味に歪んだ笑い声が、部屋の中に残響する。
それは絶望を誘う悪魔の声だった。




