導きの光は灯らずとも、信じた未来を
「いーやーっ!!!」
天界を劈くような声が響いた。
その声の主は、他ならぬ女神セラフィ=リュミエール。
彼女は自宅の大理石の柱にしがみつき、必死に抵抗していた。
「セラ様、早く行かねば、また怒られてしまいます!」
裾をくわえて必死に引っ張る小さな神鳥パグ。
しかしセラは爪先にまで力を込め、柱にへばりついて離れようとしない。
「やーだーっ! 今日は下界でお祭りがあるの! だから私はそれを見るのーっ!」
「ですから、それは祈りが終わった後に見ましょうと言っているのです!」
パグは羽をばたつかせながら叫んだ。
今日は十二柱が揃い、新たな勇者の適正を持つ者を探し出すための大儀――女神たちが神力を合わせ祈りを捧げる、年に数度の神聖な儀式の日だ。
だというのに――
「終わってからじゃあ、もうお祭り終わってるもん!」
セラは子供のように頬をぷくっと膨らませ、意地でも動こうとしない。
「……はぁ……」
パグは深いため息をついた。
その小さな羽を広げ、セラの目の前に回り込むと、じっと瞳を覗き込む。
「いいですか、セラ様。下界のお祭りのためにも、今は世界に平和を取り戻さねばならないのです。それは……理解していらっしゃいますね?」
言葉を選び、諭すように。
だがセラは唇を尖らせたまま、視線を逸らす。
「……むー」
その姿はどう見ても拗ねた子供にしか見えず、女神らしい威厳はどこにもない。
パグは肩を落とし、羽を垂らした。
「とにかく……早く集まりに向かいましょう。これ以上遅れれば、また他の女神様方に叱られてしまいます」
「だったら、パグが代わりに行ってきてよ」
セラが言い放つと、パグは頭を抱えた。
「私が行っても意味がないでしょう……。勇者の適正を見抜けるのは、十二柱の神力が揃ってこそなのですから」
困り果てたパグの声だけが、花の香りに満ちた天界の風に虚しく溶けていった。
「……セラ」
背後から柔らかな声が響いた。
振り返ると、そこには統括の女神――セラの姉君、ルミナが立っていた。
「姉君様!」
パグが慌てて羽を畳み、恭しく頭を下げる。
一方でセラは柱にしがみついたまま、口を尖らせていた。
「……お姉様」
ちらりと視線を合わせるが、すぐにぷいっと横を向く。
その様子にルミナは苦笑し、静かに近づいた。
「セラ、今日は何の日かわかりますか?」
優しく問いかける。
だがセラは頬を膨らませたまま、黙り込んだ。
答えるつもりはさらさらない――という態度だった。
「……ふぅ」
ルミナは小さくため息をつき、ひと息整える。
そして懐から、あるものを取り出した。
「セラ。あなたが下界のお祭りを楽しみにしていたのは知っています」
すっと差し出された小包。
そこから立ちのぼる、甘く香ばしい匂い。
「……!」
セラの瞳がきらりと揺れた。
ほんの一瞬、視線が小包に吸い寄せられる。
次の瞬間――
「それって……!」
ぱぁっと花が咲いたように顔が明るくなり、柱にしがみついていた手が思わず緩む。
ルミナが手のひらを開くと、中には金色に焼かれた素朴な菓子。
下界のお祭りで供される焼き菓子――まるでスイートポテトのような甘味だった。
「今日の祈りに参加するのであれば……これを渡しましょう」
穏やかに、しかし確固たる声で告げるルミナ。
「そ、それは……!」
パグが慌てて声を上げかけたが――
ルミナがちらりと視線を送ると、言葉は喉の奥で凍りついた。
その一瞥は、威厳と慈愛を同時に宿す統括女神のものだった。
セラはというと――もう菓子から目を離せずにいた。
「で、でも……」
セラは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、目の前の焼き菓子を見つめながら小さく揺れる。
甘い香りに誘われながらも、一歩を踏み出せない。
――それは掟。
天界に地上の物を持ち込むことは許されない。
特に「食べ物」を口にするなど、女神の矜持に背く禁忌。
セラも、それだけは理解していた。
だからこそ、誘惑に負けそうな心を必死に抑えていた。
「…………っ」
唇を噛み、目を伏せる。
焼き菓子の黄金色の輝きが、余計に彼女の小さな心を揺さぶっていた。
そんな妹の姿を見つめながら――ルミナはふっと微笑んだ。
「……皆には内緒ですよ」
囁くように、しかしどこまでも優しい声音で。
「……っ!」
セラの顔が一瞬でぱぁっと明るくなった。
弾かれたようにルミナを見上げ、にこりと笑う。
「わかった!」
嬉しそうに両手を差し出し、焼き菓子を受け取るセラ。
その笑みは、まるで幼子のように無邪気で――ルミナの瞳に、思わず慈愛の光を宿させた。
「さあ、行きましょう。祈りの集いへ」
ルミナが促すと、セラは焼き菓子を大事そうに胸に抱きながら、軽やかな足取りで歩き出す。
掟も矜持も――それでも、姉の言葉を信じて。
パグはその後ろ姿をじっと見つめていた。
セラの姉君――ルミナ。
統括女神として世界を背負いながら、妹には母のような慈しみを注ぐ。
「…………」
神鳥は小さく目を細め、深く頷いた。
――このことは見なかったことにしよう。
彼は心にそう刻み、二人の後を静かに追った。
会議堂のさらに奥――
そこには勇者適正を測るためにのみ存在する、神秘の泉があった。
水面は一片の濁りもなく、まるで磨き抜かれた鏡面のごとく澄み渡っている。
神力によって清められ続けるその泉は、常に新生と調和の波動を湛え、触れる者の心を透かすといわれていた。
その泉をぐるりと取り囲むように――十二柱の女神たちが並び立つ。
天上を支配する十二の存在が、一堂に会して儀を執り行うのは数百年ぶりのことだった。
「……それでは、はじめます」
静謐な声で、統括する女神ルミナが告げた。
彼女は白き衣を揺らしながら、両の手を胸の前で重ね、ゆるやかに瞼を閉じる。
その仕草に倣い、他の十一柱もまた同じ動作をとった。
やがて十二の気配が揃い、会議堂の奥は一瞬にして神域のような静寂に包まれる。
「――我らに光の導き」
澄んだ声が重なり、祈りの言葉が響き渡った。
次の瞬間、女神たちの身体から淡く神力の光が立ち昇る。
それは炎でも風でもない――純粋なる「神意」の波動。
十二の光は、やがて泉の中央へと導かれるように集約されていった。
水面に触れた瞬間、光は輪を描くように広がり――泉の景色が、ゆっくりと変貌を始める。
白亜の天井も、石造りの柱も消え失せ、そこに現れたのは――果てなき闇と、星々が散りばめられた空間。
まるで宇宙そのものから世界を俯瞰しているかのような光景が、女神たちの瞳に映し出されていた。
通常であれば――この儀式によって、泉は応えを示す。
勇者の適正を持つ者を、ひとすじの光で導き出し、新たな時代の希望を告げるはずだった。
だが――。
澄んだ水面は、鏡のまま揺れることなく沈黙を保つ。
いかに十二柱が神力を注ごうとも、光はひとつも灯らなかった。
「……そんな……」
最初に声を漏らしたのは、眼鏡をかけた女神だった。
その指先は微かに震え、光を待ち続けていた瞳に影が差す。
「あり得ない……世界が滅びかけているというのに……」
「勇者の適正を持つ者が、一人も……?」
女神たちの顔に、次々と絶望が刻まれていく。
ざわめきはやがて重苦しい沈黙に変わり、会議堂全体を覆った。
――ただ一人を除いて。
セラ。
彼女は、泉を見つめながら、どこか夢を見る子供のように首を傾げていた。
その瞳は、他の誰とも違う一点を射抜いていた。
瞬間、セラの意識は光に吸い込まれるように引き寄せられ――気づけば、彼女は見知らぬ森の中に立っていた。
濃い霧。
湿った大地。
重苦しい空気に包まれたその場所は、女神たちが忌み嫌い、決して近づいてはならないとされる魔の森だった。
「……ここ……どこ?」
セラは胸に手をあて、辺りを見回した。
すぐに気づく。
――目の前に、見えない“壁”があることに。
触れた指先に伝わるのは、拒絶にも似た圧力。
しかし同時に、確かに「受け入れ」を示す温もりもあった。
矛盾する二つの感覚が、彼女の心を不思議と落ち着かせる。
「……入れるの?」
ぽつりと呟いた次の瞬間、彼女の身体はふわりと吸い込まれるように――結界の内へ。
そこに、ひとりの男がいた。
少年ではない。若者でもない。
――どこからどう見ても“おっさん”と呼ぶのがふさわしい影の姿。
顔は曖昧に霞み、判然としない。
ただ、その佇まいだけが温かく、優しく、力強い。
男は言葉を発しなかった。
ただ、ゆっくりと手を差し伸べる。
――まるで「おいで」とでも言うように。
セラは一瞬だけ迷ったが、すぐに微笑み、迷いなくその手を取った。
次の瞬間。
彼に導かれ、セラの目の前に広がった光景は――
どの女神も、どの人間も、誰しもが夢見ながら決して得られなかったものだった。
人間も、魔族も、エルフも、獣人も。
そしてまだ名も知らぬ異種族までもが、同じ場所で肩を並べ、笑い合い、暮らしている。
戦も憎しみもなく、ただ日常の喜びに満ち溢れた、理想郷。
「……きれい……」
セラの頬に、自然と涙が伝った。
胸の奥に熱が満ち、言葉にならない安らぎが広がっていく。
――そして。
気づけば、彼女の意識は泉の前に戻っていた。
他の女神たちが落胆の表情を浮かべる中、ただ一人、セラだけが夢のような微笑みを浮かべていた。
やがて泉の光は消え、会議堂には沈黙だけが残った。
「……やはり……もう、滅亡しか……」
「導きの光がひとつも灯らないなど……終わりだ……」
女神たちは口々に落胆を吐き出し、肩を落としながら静かに去っていった。
その背は重く、長き年月を支えてきた神々ですら希望を失ったことを物語っていた。
ルミナもまた、伏せた瞳に深い影を宿していた。
統括女神として、己が妹を前にしてもなお、世界の重みが胸を押し潰す。
――その時。
「……セラ?」
去りゆく女神たちの後、ただ一人動かぬ妹に気づき、ルミナは声をかけた。
セラは泉を見つめたまま、しばし固まったように沈黙していた。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、姉と視線を合わせる。
「……お姉様」
静かに、けれども澄み渡る声。
「私は――世界を信じるわ」
ルミナの目が揺れる。
「いずれ、人も、魔族も、エルフも、獣人も……みんな手を取り合ってくれる。私はそう思うの」
セラはにっこりと笑った。
それは幼さを残した無邪気な笑顔。
しかし同時に――確信のようであり、決断のようでもあった。
ルミナは一瞬だけ言葉を失い、ただその笑顔を見つめる。
妹の言葉が軽い夢想か、それとも未来を告げる神託か――
それを見極めることは、誰にもできなかった。