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冬支度と涙、そして甘い訪れ

 メイラはそっとリュシアの頬を撫で、零れ落ちた涙を指先で拭った。


 「ほら、そろそろみんな帰ってくるよ」


 柔らかに笑みを浮かべ、耳元で囁く。


 「……そんな顔、バニッシュさんに見せられないでしょ?」


 「っ……バ、バニッシュは関係ないでしょ!」


 思わず顔を真っ赤にして言い返すリュシア。

 その姿は、強がりながらもどこか子供のように見えて、メイラはふふっと優しく微笑んだ。

 ちょうどその時、入口から重い足音が響いた。


 「ただいま」


 「……お疲れさまです」


 バニッシュとセレスティナが、立派な猪を肩に担いで入ってきた。

 獲物の重量感に床板がぎしりと鳴る。


 「おお、立派な猪だこと。お疲れ様」


 メイラが笑顔で迎える。

 リュシアは慌てて背を向け、顔を見られないようにする。

 しかしバニッシュは、ふと彼女の目が赤く染まっていることに気づいた。


 「……どうした、リュシア。目が赤いぞ?」


 いつも通りの無骨な声音。けれどその問いかけは真っ直ぐで、余計にリュシアの胸をざわつかせる。


 「なっ……あ、アンタには関係ないでしょっ!」


 勢いよく言い放つと、倉庫へ駆けるように向かっていった。

 バニッシュは呆然とし、頭をがしがしと掻く。


 「……なんだ、あれは」


 ぽつりと呟く彼の隣で、メイラが静かに歩み寄り、小声で囁いた。


 「今は……そっとしてあげて」


 バニッシュは訝しげに眉を寄せつつも、それ以上追及はせず頷いた。

 メイラは手を軽く叩き、場を明るく切り替えるように声を上げる。


 「さて――他のみんなも戻ったら、昼食にしましょう」


 その声音には、家を支える母の強さと優しさが宿っていた。

 やがて、森の小道から軽やかな声が響いた。


 「お母さーん! こんなに採れたよ!」


 フォルが両腕いっぱいに籠を抱え、弾む足取りで戻ってくる。

 籠の中には色とりどりの木の実がぎっしり詰まっていた。


 「まぁ……たくさん採れたわね」


 メイラは優しく微笑み、フォルの頭を撫でる。


 「えへへっ!」


 はしゃぐ息子の横で、ライラも静かに籠を差し出した。


 「ありがとう、ライラ」


 メイラはその手を取って、ぎゅっと抱きしめる。

 ライラは少し恥ずかしそうに目を伏せ、それでも「……うん」と小さく返事をした。

 そんな二人を見たフォルが、すぐさま声を張り上げる。


 「ぼ、僕もー!」


 メイラはくすりと笑い、二人を同時に抱きしめた。

 小さな体と少し大きな体が、母の腕の中で温もりを分け合う。


 「……ふふ、よく頑張ったね」


 そこへ、斧を担いだザイロと、汗を拭きながら笑うグラドも帰ってきた。

 二人の背には束ねた薪木が山のように積まれている。


 「ただいま戻ったぞ」


 「いやぁ、これで当分の薪には困らねぇな!」


 全員が揃ったところで、昼食の席が整えられた。

 野菜を使った温かなスープと焼き芋、香草を添えたパン。

 質素ながらも、皆で囲む食卓は賑やかで温かかった。

 腹を満たしたあと、バニッシュが立ち上がり、午後の段取りを口にした。


 「さて……午後の役割を決めよう」


 ライラとフォルは取ってきた木の実の仕分けに回された。


 「この木の実はちょっと傷んでるから、よけておいて」


 「うん! これはいいやつだよ!」


 二人は小さな机に並べ、傷んだものを避け、状態の良い実だけを選り分けていく。

 それはやがて、はちみつ漬けとして保存される予定だ。

 一方、グラドは工房へと向かい、斧や鉈、農具の整備を始める。

 刃を研ぎ、油を差し、使える状態に整えてから薪木を倉庫へと運ぶ。

 その姿は豪快でありながら、手際の良さは熟練の職人そのものだった。

 ザイロとメイラは、バニッシュたちが仕留めた猪の解体に取りかかる。

 力強い腕で皮を裂き、刃を滑らせ、無駄なく肉を切り分けていく。

 横ではメイラが塩や香草を用意し、加工の段取りを進める。

 本来、二人だけでも十分にこなせる作業だった。だが――。


 「私もやるわ!」


 リュシアが強く申し出て、解体の場に加わった。

 慣れない手つきで刃を握り、最初は眉を寄せていたが、メイラの隣で必死に学びながら手を動かす。


 「……へぇ、根性あるじゃねぇか」


 グラドが感心したように声を上げると、リュシアは赤い顔で「うっさい!」と返す。

 その間に、バニッシュとセレスティナは再び森へと入っていった。


 「干し肉にするなら、あと一頭は確保しておきたいな」


 「はい。頑張りましょう」


 セレスティナは凛とした眼差しで頷き、バニッシュと共に森の奥へと足を踏み入れた。

 拠点はそれぞれの手で忙しく、しかし確かに前へと動いていた。

 冬を迎えるために――。

 そして、新たな未来を築くために。


 冬支度を始めてから、すでに数週間。

 拠点の倉庫には備蓄が積み重ねられつつあったが――。


 (……まだ足りない)


 バニッシュは食卓の端で額に手を当て、眉間に深い皺を刻んでいた。

 冬の寒さは厳しい。王都ですら越すためには相応の備えが必要だ。

 ましてやこの森の中では、甘い考えは命取りになる。

 畑の作物はまだ収穫できる段階にない。

 狩猟も、すでに獣たちが冬眠に入ったのか、成果をあげられずにいる。

 森の恵みはあるが、それも限界がある。

 結界装置はいまだ試作の段階のまま。

 ルガンディアの民を迎えるための整地も進んでいない。

 冬が訪れれば、どれも手をつけることはできなくなる。

 焦りと責任感が心を蝕み、ため息ばかりが漏れる。

 その時――。

 すっと、目の前に湯気を立てるカップが差し出された。

 顔を上げると、そこに立っていたのはリュシアだった。

 紅茶の入ったカップを、むすっとした顔で押し出す。


 「……す、すまない」


 バニッシュは思わず受け取り、苦笑しながら礼を言う。

 リュシアは自分のカップを持つと、無言でバニッシュの隣に腰を下ろした。

 ふたり、並んで一口ずつ飲む。

 すっきりとしたハーブの香りが広がり、張り詰めていた胸が少しだけ和らいでいく。

 ふう、と大きく息を吐いたバニッシュの横で、リュシアがカップを置いた。


 「まったく……一人で悩んでんじゃないわよ」


 赤と琥珀の瞳が、真っ直ぐに彼を射抜く。


 「私たち、一緒に暮らす仲間でしょ! ならまずは相談しなさいよ!」


 その言葉は、叱責でありながら、不器用な励ましでもあった。


 「……っ」


 バニッシュは思わずたじろぎ、そして――小さく笑った。

 自分がすべてを抱え込み、仲間を頼ることを忘れていたことに気づかされたからだ。


 「……すまん。俺が……一人で背負い込んでたな」


 ぽつりとこぼした言葉は、静かで、どこか安堵に満ちていた。


 その夜、バニッシュの呼びかけで全員が食卓に集まった。

 蝋燭の灯りが丸卓を照らし、外の風が窓を揺らしている。

 バニッシュは真剣な顔で口を開いた。


 「……現状、このままじゃ冬を越すには心許ない。備蓄もまだまだ足りない」


 場に緊張が走る。

 セレスティナが手を組み、静かに頷いた。


 「そうですね。森でも……もう獣の気配を感じられません。狩猟は期待できないでしょう」


 「じゃあ僕、木の実いっぱい取ってくるよ!」


 元気に手をあげたのはフォルだ。

 無邪気な笑みに、場の空気がわずかに和らぐ。


 「アンタはこれでも食べてなさい」


 ライラは小さくため息をつきながら、自分の分の茶菓子をフォルの前に差し出した。

 「やったー!」と喜ぶフォルは、茶菓子を食べ始める。


 「そうだなぁ……冬を乗り切るためには、酒ももう少し欲しいところだな」


 グラドが空の手で酒器を持つ真似をして、くいっと煽る仕草をする。


 「グラドは黙って」


 リュシアの指先がぴしっと突きつけられ、グラドは「たはは……」と肩をすくめるしかなかった。

 そのやり取りに小さな笑いが起きるが、やがてメイラが静かに頬へ手を添えた。


 「……本当は、買い出しができれば一番なんだけどねぇ」


 言葉が落ちると、卓を囲む全員(ただしフォルを除く)が、同じ思いを抱いた。

 ――買い出しには、大量の運搬の準備と人手がいる。

 それに……何より金がない。

 今まで自給自足でやってきた拠点には、蓄えられた資金というものが存在しなかったのだ。


 「……はぁ」


 誰からともなく、重たい溜め息がもれる。

 フォルだけは首を傾げながら茶菓子を頬張り、無邪気な笑顔を浮かべていた。


 翌朝。

 冷え込みが強まり、吐く息が白く溶ける。

 バニッシュの提案で狩猟メンバーが増えた。

 セレスティナとバニッシュは東へ。

 グラドとリュシアは南へと分かれて森を進む。


 「……獲物、いるかしら」


 リュシアは枝葉を払いながら、朱と琥珀の瞳を左右に巡らせる。

 冬を前にした森はどこか静かで、風の音さえ遠く聞こえた。

 その隣――。


 「むぅおっ!」


 いきなりグラドが声を張り、のしのしと地面を蹴って駆け出した。


 「ちょ、ちょっと! いきなり何なのよ!」


 慌ててリュシアも後を追う。

 ほどなくして、茂みの影で屈み込むグラドの背が見えた。

 息を整えながら隣にしゃがみ込んだリュシアは、怪訝そうに覗き込む。


 「……獲物の痕跡でもあったの?」


 「むぅ……コイツぁ……!」


 グラドが両手ですくい上げたのは、真紅に輝く果実の房だった。

 透き通るような皮の下には、濃密な魔素が脈打つように宿っている。


 「……果実?」


 リュシアが首を傾げる。


 「そうだ! こいつは魔紅果(まこうか)って代物だ! 魔族の秘匿酒の原料よ。高濃度の魔素を果実ごと圧縮して、樽の水に数週間漬け込むんだ。そうすりゃ――極上の酒になる!」


 にやり、と白い歯を見せて豪快に笑う。


 「……アンタ、何を見つけてんのよ」


 リュシアは呆れ果てた顔でため息をついた。


 「なぁリュシア、ほんのちょっとでいいから協力してくれ。な? な?」


 皺の深い顔を緩めながらが子犬のような目で懇願してくる光景に、リュシアは思わず額に手を当てる。


 「はぁ……しょうがないわね。ただし――獲物もちゃんと探すこと。いい?」


 ビシッと指先を突きつけると、グラドはご機嫌に腕をぐるぐると回した。


 「おお! 任せとけ! 今日の俺は働くぞぉ!」


 リュシアは肩を落としつつも、小さく笑みをこぼした。


 森の東――。

 静寂を裂くように、枝葉を踏む音だけが続く。

 木の上から周囲を見渡していたセレスティナが、蒼の瞳を細めて呟いた。


「……本当に、いませんね」


 木陰を探るバニッシュもまた、重々しく頷く。


「そうだな。獣の痕跡も見当たらない」


 冬を前にした森は、すでに気配を潜めている。

 風は冷たく、枯葉がさらさらと流れていくだけだ。


「どうしましょう……」


 セレスティナが枝に身を預けながら問う。

 バニッシュは顎に手を当て、思案の表情を浮かべた。


「……最悪は切り詰めて乗り切るしかない。だが――」


 言葉を切ったその瞳には、確信の持てない不安が滲んでいた。

 いくら備蓄を増やしても、冬の厳しさを思えば決して安心はできない。

 その時だった。

 ――天が、光に覆われた。


「なっ……!」


 まばゆい輝きが森を包み込む。

 セレスティナも思わず目を細め、バニッシュは反射的に剣へと手を伸ばす。

 その瞬間、全身を駆け抜ける奇妙な感覚。

 まるで、結界を“入る”のではなく、“すり抜ける”ような――そんな感覚が。


(……どういうことだ? 結界を……抜けてきた?)


 胸にざわりと嫌な予感が広がる。


「バニッシュさん! あれを!」


 セレスティナの声。

 指差す先へと視線を向けたバニッシュは、息を呑んだ。

 ――光の中心から、ひとりの少女が舞い降りてくる。

 白銀の衣をまとい、両手を胸に組み、瞼を閉じたままゆっくりと。

 顔立ちは幼く、儚さを残したまま。

 だが、その身を包む光だけは神聖で、見る者をひれ伏させるような威厳を帯びていた。

 やがて、ふわりと地に降り立つ。

 少女の足が森の土に触れた瞬間――天を覆っていた光が静かに収束した。

 長い睫毛が揺れ、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。

 現れた蒼の瞳は、涙を浮かべるように潤んでいた。

 そして、口を開き――。


「……焼き菓子、落としちゃった」


 むぅっと膨れたような声色。


「…………は?」


 バニッシュの思考が一瞬で止まった。

 セレスティナも呆然と目を瞬かせている。

 神々しい光を背負い、世界を揺るがすような登場を果たした女神は――。

 焼き菓子を落としたことを、しょんぼりと告げていた。

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