胸に秘めた涙、母の抱擁
森の奥――。
巨木が並ぶその一角で、ザイロとグラドは肩を並べ、斧を振るっていた。
「ふんッ!」
ザイロの斧が、乾いた音を立てて幹に食い込む。
巨体に見合う剛腕は木を揺らし、幾度かの打ち込みで太い幹が音を立てて倒れていった。
「おおっ、いい倒れっぷりじゃねえか!」
グラドは豪快に笑い、肩に担いでいた斧を振り下ろす。
刃は狙い違わず枝をはね飛ばし、乾いた枝葉がざざっと地面に散った。
「どうだ、俺の打った斧はよ!」
胸を張り、にやりと笑うグラド。
対してザイロは表情を変えず、枝を払った木を持ち上げ、淡々と答える。
「……問題ない」
それだけ。
だがグラドにとっては十分だった。
「ははっ、無口な褒め言葉ってやつだな!」
大笑しながら斧を振り回す姿は、まるで少年のようである。
二人の手で倒された木々は、適度な大きさに切り分けられ、日の当たる広場に整然と積まれていく。
冬を越すには膨大な薪が要る。――だがその山が少しずつ高くなるごとに、拠点を守る力が目に見えて増していくようで、自然と汗も苦にならなかった。
一方その頃。
ライラとフォルは森の浅い場所で木の実を集めていた。
枝を揺らすと、どさっと熟れた実が地面に落ちる。ライラはそれを籠に詰めていく。
「見て見てー! お姉ちゃん! 珍しい花があるよー!」
はしゃいだ声と共に、フォルが駆け寄ってくる。
その手には紫色の花が握られていた。
「花はいいから、あんたもちゃんと実を拾いなさい」
ライラは眉をひそめ、弟の額を軽く小突いた。
フォルは「えー!」と口を尖らせつつも、渋々と落ちている木の実を拾い始める。
「ほら、こっちにもしっかり実が落ちてるでしょ。籠に入れて」
「……うん」
言われた通り籠を抱え込むフォルの姿に、ライラはふっと表情を緩めた。
面倒を見ているはずなのに、不思議と心は温かくなる。
弟のはしゃぎ声と共に、袋は次第に重みを増していった。
森は薄暗く、落ち葉を踏む音さえも獣を警戒させる。
バニッシュは膝をつき、地面に残された獣の痕跡を丹念に調べていた。
蹄の跡、掘り返された土、わずかに折れた枝――。
「……ここを通ったな。まだ新しい」
小さく呟き、周囲を警戒するように視線を走らせる。
一方のセレスティナは軽やかに木から木へと飛び移り、高所から森の奥を見渡していた。
枝葉の間を渡るその姿は、まるで森に溶け込む鳥のようだ。
「流石だな、セレスティナ」
思わず感嘆を漏らすバニッシュ。
上から降り注ぐ声は、柔らかく微笑むような響きを帯びていた。
「いえ……そんなことはありません」
謙遜する言葉と共に、しなやかな動きで別の枝へと飛び移る。
その視線が鋭く光った瞬間――。
「バニッシュさん。ここから三十の距離……獲物がいます」
バニッシュは小さく頷き、気配を殺して前へと進む。
落ち葉を踏む音を最小限に抑え、獣道を抜けると――そこに影が動いた。
樹間に潜んでいたのは、冬眠前で丸々と太った一頭の猪だった。
「……よし」
バニッシュは静かに手を上げ、合図を送る。
セレスティナは即座に弓を構え、矢を番えた。
息を殺し、狙いを定める。
――シュッ。
矢が走り、猪の足に突き刺さる。
獣は耳を劈くような咆哮を上げ、暴れながら逃げようと突進する。
「させるか!」
バニッシュは瞬時に魔力を練り上げ、初級の風魔法を放った。
圧縮された風が爆ぜるように炸裂し、猪の巨体を横へと弾き飛ばす。
そのまま木に激突し、鈍い音を立てて地面に崩れ落ちた。
森に再び静寂が戻る。
セレスティナは枝から軽やかに飛び降り、息を整えながらも安堵の笑みを浮かべた。
「……やりましたね」
「ああ、いい連携だった」
バニッシュは頷き、倒れた獲物へと歩み寄る。
冬を越すための糧――その確かな実りを前に、二人は無言のまま視線を交わし、互いに小さな笑みをこぼした。
倒れ伏した猪へと歩み寄るセレスティナ。
その蒼の瞳に慎重さを宿しながらも、確認のために身を屈めた――瞬間。
ぎらり、と猪の目が光った。
「――っ!」
瀕死のはずの巨体が、最後の力を振り絞って突撃してきた。
まるで炎のように荒ぶる執念。
狙いは、目の前のセレスティナ。
「危ないっ!」
咄嗟に声を張り上げ、バニッシュが体を滑り込ませた。
セレスティナの肩を抱き寄せ、力任せに横へと跳ぶ。
直後、猪の巨体が二人の背後を轟音と共に駆け抜け――そのまま木へ激突。
鈍い衝撃音を響かせ、今度こそ完全に動かなくなった。
荒い息を整えながら、セレスティナは胸に手を当てる。
「……あ、ありがとうございます」
細い声が震えているのは、恐怖のせいか、それとも。
「ああ……無事でよかった」
安堵を吐き出しつつバニッシュが振り向くと――そこには至近距離で見上げるセレスティナの顔があった。
触れそうなほどの距離。
瞳が大きく揺れ、頬が淡く朱に染まっていく。
「……っ!」
バニッシュは反射的に顔を逸らし、慌てて距離を取った。
「す、すまん!」
頬が熱い。思わず頭を掻く仕草で誤魔化そうとするが、赤みは消えない。
セレスティナもまた視線を落とし、両手を胸元で重ねて小さく俯いた。
「い、いえ……」
互いに口数を失い、森の中に妙な沈黙が漂う。
その空気を断ち切るように、バニッシュが大げさに咳払いをした。
「と、とにかく……仕留めた獲物を運ぼう」
「そ、そうですね……!」
セレスティナも即座に同意し、慌ただしく立ち上がる。
猪の亡骸は確かに冬支度の大きな糧。
顔に残る赤みを互いに見ないふりをしながら、二人は黙々と獲物を担ぎ始めた。
拠点では、朝からメイラが忙しく立ち働いていた。
井戸から水を汲み、洗濯物を大きい桶に水を溜め、洗濯板で叩き、干し場に並べる。
その足で住居を掃き清め、昼食の仕込みをしながら畑に水やり、肥料蒔き、雑草取りをする。
――さらには、バニッシュたちが狩りから戻ればすぐに獲物を解体できるよう、調理台と刃物を整えておく。
ライラとフォルが集めてくる木の実のために、瓶詰め用の蜂蜜まできちんと用意していた。
「……ほんと、手際いいわね」
その一部始終を目にしていたリュシアが、思わず感嘆の声を漏らす。
蒼白な指先で布袋を整理しながらも、視線は忙しく動き回るメイラの背を追っていた。
メイラは振り返り、柔らかく微笑む。
「慣れればどうってことないよ。ほら、みんなそれぞれに忙しいからね。これくらいは、私がやらないと」
さらりと告げるその言葉に、リュシアは内心で眉をひそめる。
(これくらい、って量じゃないわよ……)
倉庫の棚を調べ、備蓄の干し野菜や穀物を数えながら、改めて思う。
この小さな身体のどこにそんな力があるのか――そう問いかけたくなるほど、メイラの手は止まらない。
「……ほんと、メイラはすごいわ」
素直に呟いたリュシアの言葉に、メイラはまた笑った。
「リュシアだって、家族を持てばこれくらいできるようになるよ」
「か、かぞく……っ!?」
その響きに、リュシアの心臓が跳ねた。
脳裏に浮かんだのは、ひとりの男の顔――バニッシュ。
頼りなくて、頑固で、それでいて誰よりも仲間を守ろうとする背中。
その姿を思い浮かべた途端、頬に熱が差し込み、みるみるうちに朱に染まっていく。
「な、な、何を言ってるのよメイラっ!」
慌てて言葉を取り繕うも、赤みは消えず、耳まで熱い。
メイラはそんな彼女を見て、くすりと微笑むだけだった。
「……ふふ」
昼食の仕込みを進める台所。
煮込み鍋からは香草と野菜の甘い香りが立ちのぼり、湯気が白く漂っていた。
メイラは小柄な体で手際よく包丁を動かし、刻んだ根菜を次々と鍋に放り込む。
その隣では、リュシアが木べらを手にし、ぐつぐつと煮立つ鍋を静かにかき回していた。
しばしの沈黙。
薪の爆ぜる音と煮立つ音だけが響く中、メイラがふと横目をやり、穏やかな声で口を開いた。
「……リュシアちゃん。なにか、悩み事でもあるのかい?」
「っ……!」
リュシアの肩がびくりと震える。
木べらを握る指先に力が入り、煮汁が波紋を広げた。
彼女の胸奥に眠るのは――ルガンディアでの死闘で呼び覚まされてしまった、忌まわしい記憶。
――自分は、魔王の娘。
その中に宿るのは、災厄と崩壊の力。
記憶の中で、玉座の父が冷たく告げた声が蘇る。
『――受け継ぎし“崩壊と災厄”の力は、いずれすべてを壊すだろう』
その言葉が呪いのように絡みつき、恐怖と不安が心を締めつけて離さない。
けれど――それを誰にも悟られるわけにはいかなかった。
「……な、悩み事なんて……ないわよ」
唇から零れた声は、思ったよりも弱々しかった。
否定の言葉の最後はかすれ、意志の強さを装うにはあまりにも脆い。
メイラはそんなリュシアをじっと見つめ、けれど深く追及はしなかった。
静かに、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「……そうかい」
煮立つ鍋を木べらでかき混ぜるリュシアの隣で、メイラはふと手を止め、遠くを懐かしむように目を細めた。
「……ライラもね、そうだったんだよ」
「え……?」
不意の言葉にリュシアは瞬きをし、何のことか分からずメイラの横顔を見つめる。
メイラは微笑みを浮かべたまま、静かに言葉を紡いだ。
「あの子もね、自分の心を押し殺して、周りに迷惑をかけないようにって……そうやって小さい頃から我慢する子だったの」
「ライラが……?」
リュシアは意外そうに呟く。
いつもきりっとしていて、弟のフォルの面倒を見ているしっかり者の姿しか知らなかった。
メイラは木の匙を手に取り、そっと鍋をひと混ぜする。
そして懐かしむように柔らかな笑みをこぼした。
「私たち夫婦はね、中々子供ができなくて……長いこと悩んだ時期があったの。だから、ライラが生まれた時はね、それはもう……嬉しくてたまらなかったのよ」
声は穏やかだが、その奥には当時の苦悩と歓喜の入り混じった深みがにじんでいた。
リュシアは黙って耳を傾ける。
「そりゃあもう、可愛くて可愛くてね。私もザイロも、あの子を抱きしめては“ありがとう”って何度も言ったの。三人で過ごす日々は、本当に幸せだった」
メイラの表情には、母としての慈愛があふれていた。
その姿を見つめながら、リュシアの胸の奥で何か温かいものが静かに広がっていく。
メイラはしばらく鍋を見つめていたが、やがてぽつりと続けた。
「……それからしばらくして、フォルが生まれたの」
木べらで静かに湯をかき混ぜながら、遠い日を懐かしむように声を重ねる。
「あの子たち、年が離れているでしょう? ライラが十二の時にフォルが生まれたから……私たちもフォルにばかり手を焼いてね」
柔らかな笑みを浮かべるが、その奥に苦笑が混じっている。
「最初はライラも怒ったのよ。『どうしてフォルばっかり』って。私たちも……“お姉ちゃんなんだから”って、つい我慢するように言ってしまった」
リュシアは小さく目を見開き、真剣に耳を傾ける。
メイラは続けた。
「ライラは頭のいい子だからね。ある時から一生懸命にフォルの面倒を見るようになったの。それを見て、私たちは安心してしまったのよ。……でもね」
ふっと視線を落とし、少し間を置く。
「ある時、ライラが高熱を出してね。私もザイロも大慌てで、一晩中、ずっと看病したの」
その声に、当時の緊迫した空気が重なる。
メイラの表情がやわらぎ、しかし瞳の奥は切なさを帯びていた。
「翌朝、目を覚ましたライラが……涙を流しながら言ったのよ。『ずっと寂しかった』って。私たちの前で、初めて子供らしく泣いたの」
リュシアは息を呑む。
メイラは苦しげに、それでも優しい笑みを浮かべながら言葉を重ねた。
「その時、ようやく気づいたの。あの子に、すごく我慢をさせていたんだって」
そして――リュシアの方へ視線を向ける。
その瞳は母のように温かく、優しさに満ちていた。
「だからね……なんとなく分かるんだよ」
リュシアは、胸の奥が張り裂けそうだった。
――打ち明けたい。
でも同時に、口にするのが怖かった。
自分が魔王の娘であり、災厄の力を継ぐ存在だと知られたら……。
きっと、みんな自分から離れていってしまう。
この拠点に居場所はなくなる。
そう思うだけで、喉にせり上がった言葉は、刃のように鋭く胸を刺して止まった。
(……言えない……! 言ったら、全部が壊れちゃう……!)
苦しさが胸を締めつけ、もどかしさに震える。
次の瞬間、頬を熱いものがつたった。
自分でも止められない涙だった。
「……っ」
唇を噛み、声を殺す。
それでも溢れる涙は止まらず、頬を濡らし続ける。
その時――。
メイラがそっと、リュシアを抱きしめた。
「……無理をしなくていいんだよ」
母のように穏やかな声。
背に回された腕の温もりは、凍えた心に染み入るようだった。
「自分の気持ちに整理がついた時……その時に、話してちょうだい」
優しい囁きは、リュシアの最後の防波堤を崩した。
声を押し殺しながら、彼女はメイラの腕の中で泣いた。
泣くことしかできなかった。
けれどその涙は、確かに「ひとりではない」と気づかせてくれるものだった。