女神セラフィ=リュミエール
バニッシュたちが獣人国ルガンディアをたってから5日が過ぎた頃、王都では衝撃が走った。
王都・政庁、非常評議の間、重い扉が閉まった瞬間、室内の空気は鉛に変わった。
壁一面の魔導地図に、赤の斑点が次々と塗り足されていく。光点が消える音はしない。だが誰もが、聞こえもしないはずの断末魔を耳奥で聞いた。
「……獣人国ルガンディア、陥落確定」
報告官の声はかすれていた。
昨夜から休息がないのだ。
いや、ここ数日、誰もまともに眠っていない。
「続報。エルフの里エルフェイン――本樹が焼失。神木の魔力が逆流、森そのものが崩落……生存者は、未確認」
会議卓の上、記録水晶がひび割れた光を吐いた。
椅子が軋む。誰かが祈る仕草をしかけ、指を途中で止める。
祈りは、効かなかった。
「……これで――」
執政長官が唇を噛む。補佐官が無言で数字の札を差し出す。
最前列の将軍が、重い鎧の手でそれを受け取り、卓上に置いた。
「世界の……四割だ」
わずか数語が、海より重かった。
沈黙。蝋燭の炎だけが揺れて、壁の陰影を震わせる。
窓外では鐘が鳴る。弔いか、警鐘か、もう判じがたい。
「勇者を失い、黒の旗が市井を荒らす。治安は瓦解の瀬戸際だ。補充兵も徴税も、もはや回らぬ」
「市中の“黒き勇者礼賛”は増えています。『秩序は恐怖で鋳る』などという落書きが……」
「やめてくれ」
若い文官が小さく吐き、口元を押さえる。
彼の机には、ルガンディアへ向けて出したはずの援軍要請書が、未投函のまま積み上がっていた。
「……神は、いるのか」
老臣が誰にともなく呟いた。
誰も答えない。
否定も、肯定も、ここでは贅沢だ。
「希望に替わるものを用意せねば、人は耐えられん」
執政長官が、ゆっくりと立ち上がった。
目の下の隈は深い。
だが声は真っ直ぐに通る。
「――決めよう。我らは“人間だけ”ではもう持たぬ。背に腹は代えられぬ。残る種族へ、全方面に伝令を飛ばす」
ざわめき。
反対の言葉はすぐにこない。
皆、わかっていたからだ。
これは“恥”であり、“現実”でもある。
「対象は――」
補佐官が巻物を開く。
紋章が連なる。
高地の民《竜人族》、海の都《海人族》、地下街連合《ダークエルフ族》、樹海の里《妖精族》、遊牧同盟《鬼人族》……名が呼ばれるたび、地図の上に印をつけていく。
「対等の盟約を提示する。徴兵ではない、“並び立つ”盟約だ」
「人の法を押し通せば、必ず亀裂が生まれます」
短い答えに、室内の視線が集まる。
執政長官は、しばし皆の顔を見渡した。
そこに“人間の都の矜持”はもうない。
あるのは、燃え残った責務だけだ。
「生き延びるために、我らは自らの“地位”を降りる」
「伝令は誰が行く」
「私が」
将軍が片膝をつく。
髭に灰が絡んでいる。
彼はこの三日で二つの前線を落とした。
勝ちではない。撤退の指揮だ。
「いや、軍の長は城に残れ。代わりに――」
執政長官は、窓辺の影に目をやった。
そこに、黒い外套の男が一人、壁にもたれて立っている。
情報局の長だ。
「……やりましょう」
低い声が答えた。
彼は卓上の地図へ歩み寄り、いくつかの点に小さな刃を刺した。
人の通らない獣道、潮汐が作る隠し瀬、古い坑道の横穴――地図の裏に描かれていた“細い救い”が、現実の上に立ち上がる。
「使者は三系統で同時に走らせる。魔導転移の残骸を避け、視認できる星を道標にする。交渉役は――」
「学匠院から言語士を四名、聖教残存派から中立の神学者を二名、工巧会から技術録官を三名。……それと」
「それと?」
「……民間の語り部を、一名」
室内がわずかにざわついた。
老臣が目を細める。
「なぜ語り部だ」
「物語は、信義より速く届くからです」
補佐官の声が、疲労の奥で凪いだ水面のように静かだった。
人は信じたいものを掴む。
難しい条文より、焚き火の傍の一話が国境を越えることがある。
希望が死んだと言うなら、まず“語”を火種にするしかない。
「よかろう。――布告を作る」
執政長官が羽根ペンを取る。
言葉を選ぶ時間はない。
だが、誤れば誰かが死ぬ。
「名義は王都ではなく、“人類連合臨時評議”。椅子は空席のままでいい。座るのは、来る者だ」
筆が走る。
告
此度、世界の四割が滅びに呑まれた。
我らは、孤立の誇りを捨てる。
種の名を問わず、まだ灯る火を持つ者は、共に“円卓”へ。
互いの違いを縛らず、互いの力を束ねるために。
敵はただ一つ――滅びである。
書き終えた瞬間、魔導鐘が鳴り渡る。。
情報局の長が顔を上げる。
「行け」
ひと言に、部屋が動く。
扉が閉まる。
残った者たちは、短く息を吐いた。
「……苦渋だな」
「苦渋の選択だ」
「だが、飲める。今はな」
老臣が、祈りにも似た所作で額に手を当てる。
そこは、地上からは決して届かぬ場所。
天へと伸びる無限の白壁に囲まれ、天上から絶え間なく降り注ぐ神々しき光が、大理石の床を淡く照らしていた。
純白の円卓を中心に、十二の座席が並んでいる――いや、正確には十一。
ひとつだけ空いたままの椅子が、その場の異質さを際立たせていた。
「……これは、深刻な事態です」
静けさを破ったのは、切れ長の瞳を持つ女神だった。
声は清澄でありながらも、確かな緊張を孕んでいる。
「世界はすでに四割を失いました」
その言葉に、別の女神がクイッと眼鏡のブリッジを押し上げる。
理知的な瞳が、冷ややかに事実を告げた。
「地上には我らの加護を授けた“勇者”が存在していたはず。しかし、その勇者は……すでに姿を消しています」
「どういうことですの!? 勇者がいなくなった?!」
翡翠の冠を戴く女神が椅子を叩き、声を荒げる。
その隣の女神も、憂慮を隠さぬ顔で続けた。
「それでは、世界を誰が守るのです! 魔王に対抗する術は――!」
「地上は今まさに炎に呑まれつつあるというのに……!」
席のあちこちから、声が飛び交う。
嘆き、憤り、疑念、焦燥。
そのどれもが、天上の白壁に反響して会議堂を揺るがせた。
「――静まりなさい」
その一言で、空気が凍りついた。
中央奥の席に座す、統括の女神が凛とした声を放ったのだ。
彼女の言葉は鐘の音のように澄みわたり、瞬時に他の女神たちの口を閉ざさせる。
長い沈黙の後、統括の女神は深くため息を吐いた。
その翡翠の瞳は、議場にいる一人ひとりをゆっくりと見渡していく。
「……各々の言いたいことは理解しています」
柔らかくも冷徹な声音。だが、その後に紡がれた言葉は、会議堂の空気をさらに張り詰めさせた。
「それよりも――ひとつ。セラはどうしたのですか?」
しん、と静まり返る。
全員の視線が、同じ一点へと吸い寄せられた。
空いたままの椅子へ。
「……は?」
誰かが、思わず声を漏らす。
次の瞬間、残る十一柱の女神は同時に思い至った。
――また、あの子は。
苛立ちを滲ませる者もいれば、呆れを隠さず肩をすくめる者もいた。
だが、確かなのはただひとつ。
女神セラフィ=リュミエールは、またしてもこの会議に姿を現していない。
世界が滅びに瀕しているというのに――。
会議堂から遥かに離れた場所。
そこは、四季の概念すら無意味に思えるほど、絶え間なく花が咲き誇る一面の花畑だった。
白も赤も紫も、どの花も陽光を受けてゆらゆらと揺れ、風が吹けば甘い香りが波のように漂っていく。
そんな楽園の真ん中に――花に埋もれるように、すやすやと眠る少女の姿があった。
透き通るような白い肌。腰まで流れる桃色のような髪。
薄桃色の唇がわずかに開き、寝息に合わせて頬が小さく上下する。
女神セラフィ=リュミエール。
天界を統べる十二柱の一柱にして、その呼び名を縮め、皆からは親しみを込めて「セラ」と呼ばれていた。
「……むにゃ……ふわぁ……」
胸の上で小さな手を組み、いかにも幸せそうに眠るセラ。
会議をサボっているのではない。
そもそも会議があることを「聞いていなかった」のだ。
いや、正確に言えば――知らされてはいた。
だが、告げられた言葉が右から左へと抜け落ち、お散歩とお昼寝という日課が優先された結果である。
花畑の隅から、小鳥が一羽、ちょんちょんと跳ねてきた。
黄金の羽根を持つその鳥は、天界に棲む神鳥の一種。
女神たちの使い魔としても知られている。
小鳥は、すやすやと眠るセラの頬を小さなくちばしでつついた。
「むにゃ……くすぐったい……うみゅ……」
むずがるように片手で頬をかき、寝返りを打つセラ。
花弁がぱらぱらと舞い散り、その顔を飾るように降りかかった。
安らかで、穏やかで――。
世界が滅びに向かっているなどとは、到底信じられないような光景だった。
しかし、その時。
――ゴロゴロゴロッ!!
晴れ渡る天界の空に似つかわしくない、落雷のような声が轟いた。
『セラーーーッ!!!』
「ひゃああっ!?」
セラの身体が飛び起きる。
銀の髪が宙に舞い、花びらが弾けるように散った。
大きく見開いた蒼の瞳が、驚きのあまり潤んでいる。
「な、なに……? え、え、いまの雷……?」
寝起きのぼんやりとした顔のまま、きょろきょろと辺りを見渡すセラ。
その声は確かに雷鳴のごとく響き渡った――女神会議堂から。
セラはきょろきょろと辺りを見回した。
空は晴れ渡り、花畑はどこまでも続き、小鳥のさえずりと風の音しか聞こえない。
「……あれ? なんだぁ、夢だったのかなぁ」
小首を傾げ、胸を撫で下ろしたセラは、ふわあと大きなあくびをひとつ。
そしてそのまま花の上に再びごろんと寝転がり、目を閉じようとした。
――そのとき。
「セラ様」
さきほど彼女の頬をつついていた神鳥が、羽ばたきも軽やかに彼女の顔の前へ舞い降りる。
金色の羽根が陽を反射し、小さな声でしかしはっきりと告げた。
「今日、大事な会議があったのではありませんか?」
「……かいぎ~?」
セラはまるで聞き慣れない単語を口にされた子供のように、きょとんと瞬きを繰り返す。
そして「えーと……」と呟きながら、懐から何かを取り出した。
それは、まるで小学生が使うような可愛らしい手帳だった。
表紙にはお花やリボンのシールが貼られ、天界の女神というよりは街角の少女が持っていそうな代物である。
「えーっと、今日は~……」
ぱらりと手帳を開き、セラは中を覗き込む。
だが、眉を寄せてしばらく眺めたあと――
「……う~ん、そんな予定は入ってないね~」
と、拍子抜けするほど間延びした声を出した。
神鳥は、セラの肩へとひょいと飛び移り、その手帳を覗き込む。
「……」
そこに広がっていたのは、純白を思わせる真っ白なページ。
そう、一行も、ただの一度も、何も書かれていない。
理由は単純だ。
セラは一度たりとも予定をメモしたことなどなく、興味のあること――お散歩、昼寝、おやつの時間――以外は、右から左へと聞き流してしまうのだ。
「……はぁ」
神鳥はセラの肩の上で、羽をすぼめて深いため息をもらした。
その吐息は小さくとも、どこか世界の未来を憂うように重たかった。
「ん~? どうしたの? 眠いなら一緒にお昼寝する?」
屈託のない笑顔で問いかけるセラに、神鳥はただ天を仰ぐばかりだった。
「セラ様。今日は“下界について十二柱で会議する”と、先ほどご連絡があったはずです」
神鳥は仕切り直すように、真剣な声で言葉を放った。
花畑に漂う呑気な空気に似つかわしくない、硬い声音。
「ええ~、そうなの~?」
セラは頬をふくらませ、ぷくっと不満顔。
その表情は神々しさよりも、駄々っ子のそれに近い。
「もっと早く言ってほしいな~」
「ですから、先ほども申し上げましたでしょう……」
肩でため息をつく神鳥。
だが諦めることなく、翼をぱたぱたと揺らしながらセラを促す。
「とにかく、会議堂に向かいましょう。皆、すでにお待ちなのです」
「ん~……しょうがないなぁ」
セラは大げさに肩を落としながらも、ひょいと立ち上がる。
白い衣が花畑の風に揺れ、その姿はどこか無垢で幻想的ですらあった。
だが――
――きゅるるるるぅ~。
間の抜けた音が、静寂の花畑に響く。
「……?」
駆け出そうとした格好のまま、セラはぴたりと固まった。
神鳥が怪訝そうに首を傾げる。
「どうなさいました、セラ様?」
「……あ」
セラはぽん、と手を合わせた。
「そういえば、まだお昼ご飯食べてなかったわ!」
その瞳がきらきらと輝く。
次の瞬間、彼女は会議堂ではなく、自宅の方向へと足を向けていた。
「……セラ様っ!」
慌てて肩に乗ったままの神鳥が叫ぶ。
「会議が先です! お昼は後にしてください!」
「でも~、今はお腹が空いてるんだもん。考えられるのは“ごはん”のことだけっ!」
まるで当然だと言わんばかりに胸を張るセラ。
その姿に、神鳥は再び深く深くため息をつくしかなかった。
――そう、女神セラフィ=リュミエールは、一度にひとつのことしか考えられない。
彼女の世界は、いつもきらきらと“今”だけで満ちているのだった。
「さあ、お昼ご飯を食べましょう!」
神鳥の必死の静止も聞かず、セラは軽やかな足取りで花畑を抜け、自分の家へ帰ろうとした。
白い衣がひらひらと揺れ、まるで散歩帰りの少女のように呑気である。
――その時だった。
ぐいっ、と後ろから首根っこを掴まれる。
「あら?」
セラが振り返ると、そこにいたのは――額に青筋を浮かべた、統括の女神。
その冷え冷えとした瞳には、雷鳴のごとき怒気が宿っていた。
「セ~ラ~……」
低く、底冷えするような声。
花畑の空気が一瞬で凍りつく。
だが当のセラは、首を傾げてにこりと笑った。
「あら、お姉様。どうしましたの?」
まるで他人事のように、きょとんとした顔で問う。
統括の女神の眉が、ぴくぴくと震える。
「……貴方。会議があるから“必ず出席するように”って、私が言いましたよね?」
「あら、そうでしたっけ?」
セラは悪びれることなく、ぽんと手を合わせる。
「でも、今からお昼ご飯を食べるんですよ?」
その言葉に、統括の女神は額を押さえ、深いため息を吐いた。
「……もういい。ご飯は後です。――いいから、いらっしゃい!」
そのままセラの腕をがしっと掴み、ずるずると会議堂の方へと引きずっていく。
「えぇ~っ!? ご飯~! ご飯がぁ~!」
セラは抵抗するが、統括の女神の腕力には敵わない。
花畑に間抜けな叫び声がこだまする。
その後ろで、神鳥は小さく翼をすぼめ、またもやため息を落とした。
「……これで本当に、世界は守れるのでしょうか」
天界の空に、神鳥のぼやきが虚しく溶けていった。