玉座の狂笑 ― 祈りは夜に飛ぶ
バニッシュたちが獣人国ルガンディアを発ってから数日後――。
「――どういうことだァッ!!」
玉座の間に、カイルの怒声が轟いた。
唇をわなわなと震わせ、眉間に深い皺を刻み込むその顔は、怒りに燃える獣そのもの。
その形相に、傍らのセリナは息を呑み、思わず一歩退いて身を縮めた。
「お伝えした通りです」
だが、フードの男は動じることなくさらりと言い放つ。
その声音には冷たさと、どこか愉悦の色すら漂っていた。
「――獣人国ルガンディア侵攻は失敗。そして……ミレイユ様は命を落とされました。」
「……ッ!」
カイルの瞳に憎悪の火が燃え上がる。
ギリ、と歯が軋む音が玉座に響く。
「……貴様――!」
低く唸り、フードの男を睨みつける。
「貴様、そこにいたんじゃないのか! なぜミレイユを助けなかったッ!?」
怒声が弾け、空気が震える。
しかしフードの男は、ため息をつくかのように肩を竦めた。
「私にも不足の事態がありました。故に、手を差し伸べることができなかったのです」
悪びれる色は一片もない。
むしろ、それを楽しんでいるかのような響きだった。
「貴様ァ――ッ!!」
カイルは咆哮と共に立ち上がり、荒々しく歩み寄る。
その手がフードの男の首を鷲掴みにし、容易く持ち上げた。
ゴリ、と骨の軋む音。
今にも叩き潰さんばかりの勢いで、カイルの指に力が籠もる。
「……やれやれ」
フードの男は苦痛の声一つ漏らさず、淡々と口を開いた。
「今ここで私を殺したところで、彼女は帰ってきませんよ」
「ッ……!」
「それに――」
フードの奥で、見えるはずのない瞳がギラリと光った気配を放つ。
その声音は甘く、しかし刃のように鋭かった。
「覇道を歩むお方ならば、多少の犠牲は覚悟していたはず。違いますか……勇者カイル様?」
カイルは唇を噛みしめ、掴んだ腕にさらに力を込める。
ギリギリと歯を軋ませながら――怒りと、否応なく突きつけられた現実の間で揺れていた。
「……それよりも」
首を掴まれ宙に吊られながらも、フードの男は涼しげに言葉を続けた。
「――ミレイユ様の命を奪った人物に、興味はありませんか?」
カイルの顔に張りついた怒気が、刹那揺らぐ。
「……なに?」
怒りに歪んだ眉がぴくりと跳ね、鋭い双眸がフードの奥を射抜く。
フードの男の口元が、見えぬはずなのに確かにニヤリと歪んだ気配を放った。
「ええ……貴方の大切な仲間であるミレイユ様の“最後”。――映像として、残してございます」
その声音には愉悦がにじみ出ていた。
懐から取り出されたのは漆黒のオーブ。
それはただの記録具ではない。
ミレイユを魔人化させ、なおかつ彼女の亡骸を取り込んだ忌まわしき器。
フードの男がわずかに魔力を注ぐと、オーブはふわりと鈍い光を宿しながら宙に浮かび上がる。
次の瞬間、赤黒い光が広がり、虚空に像を結んだ。
――そこに映し出されたのは、戦場。
荒れ果てた大地に、咆哮と閃光が交錯する。
雷撃を纏うミレイユの姿があった。
必死に敵へ魔法を叩き込んでいる。
そして彼女の前に――ひとりの男。
懐かしくも憎悪を呼び起こす顔。
かつて共に旅をし、そして自ら追放した男――
バニッシュ=クラウゼン。
「……ッ!」
カイルの瞳が見開かれる。
唇が震え、思考が一瞬にして白に塗り潰される。
映像の中で、バニッシュは無言のまま剣を振るう。
ミレイユの防御魔法を突き破り、その胸を貫いた。
血が舞い、ミレイユの悲鳴が虚空に木霊する。
その場にいたセリナも、口元を押さえて蒼白になった。
彼女の眼には、仲間の死と同時に――「バニッシュ」の姿が刻まれていく。
しかし――その映像には、ひとつの真実が抜き取られていた。
本来ならばミレイユが魔人化した姿。
だがそれは綺麗に編集され、痕跡すらない。
残されたのは、ただひとつの結末。
――バニッシュが、ミレイユを殺したという事実だけ。
玉座の間に映像が消えると同時に、カイルは硬直したまま動けなくなっていた。
握り締めた拳は白く染まり、歯がギリギリと音を立てる。
「バ……ニッシュ……」
震えと共に吐き出されたその名は、かつての仲間のものではなかった。
――もはや殺意に塗れた、敵の名であった。
カイルの腕から力が抜け落ちる。
掴み上げていたフードの男の首を離すと、その身体はふわりと音もなく床に着地した。
「……なぜだ……なぜ奴がいる……!」
怒りと憎悪で歯を軋ませ、両腕を震わせながらカイルが問い詰める。
その瞳は血走り、まるで答えを拒絶したいかのように揺れていた。
「奴……とは?」
フードの奥から淡々と返る声。
だがその抑揚の裏には、薄気味悪い笑みが滲んでいた。
「映像に映っていた男だ! あの男――バニッシュだッ!」
怒声が玉座の間に響き渡る。
その名を吐き出した瞬間、空気はより一層重く濁った。
フードの男は胸に手を添え、芝居がかった所作で軽く頭を下げる。
「僭越ながら、その男に関しては……私も存じ上げません」
どこまでも舞台役者のような演技を崩さぬ口ぶり。
だがその直後――フードの奥で、決して見えるはずのない口元が、確かにニヤリと歪んだ気配を放った。
「ですが……カイル様。貴方とその男との間には――縁がお有りのようですね」
「……ッ!」
カイルは言葉を詰まらせ、目を泳がせる。
握り締めた拳が震え、やがて絞り出すように吐き出した。
「俺と奴に……縁などない! あいつとの縁は――もう断ち切ったんだ!」
俯き、唇を強く噛む。
その姿は、まるで己の影を必死に振り払おうとする者のようだった。
フードの男はその様子を静かに見つめる。
まるで心の奥底まで透かして覗き込むような眼差しで。
そして――すっと。
カイルに顔を近づけ、甘やかな囁きを落とした。
「いいえ。……貴方とあの男との間には、まだ“縁”がある」
声は低く、しかし耳朶に直接染み込むような響き。
「それは深く、深く……魂にまで根付いた縁。簡単に断ち切れるような浅いものではありません」
その言葉は、呪いにも似た響きを持ってカイルの胸に沈んでいく。
カイルはゆっくりと顔を上げ、フードの男を見た。
そこにあったのは、もはや怒りの仮面ではない。
――救いを求めるかのように縋り付く、弱さと渇望に満ちた表情だった。
「……どうすればいい?」
かすれ、震える声。
先ほどまで玉座を揺るがすほどの怒声を放っていたカイルの口から、まるで迷子の子供のような問いが漏れた。
フードの奥で笑みを隠さぬフードの男は、静かに歩み寄る。
「方法はひとつしかありませんよ。」
低く、甘い響き。
すぐ目の前に立ち、カイルの胸元へと人差し指をトンと軽く突き立てる。
「――それは、貴方自身が一番よくわかっているはずです。」
その瞬間、カイルの目が大きく見開かれた。
心の奥底で、乾き切った薪に火打石の火花が散るように、ぽっ……と小さな炎が生まれる。
フードの男はその火を見逃さず、最後の一押しを与える。
「思い出しなさい。貴方はあの男にすべてを奪われた。――地位も、名誉も。そして……大切な女さえも――」
囁きは毒蜜のように甘く、魂に染み入る。
フードの男はスッと一歩退き、黒い布の奥で愉悦を隠しもしない。
カイルの胸に芽生えた炎は、瞬く間に燃え広がる。
怒り、憎悪、妬み、恥辱、復讐――あらゆる負の感情が混ざり合い、黒き業火へと姿を変えた。
「……っは、はは……!」
笑いが零れる。
唇が裂け、歯茎をむき出しにして笑うその顔は、もはや勇者のものではなかった。
怒りに歪んだのではなく、狂気に蝕まれ醜く変じた怪物の顔。
「う……あぁ……!」
その姿を目にしたセリナは、恐怖に押し潰されるように後ずさった。
胸を抑え、震える指先で必死に聖句を唱えようとするが、声は掠れ、言葉にならない。
一方でフードの男は、静かに――まるで芝居小屋の観客のように両手を打ち合わせ、楽しげに笑った。
「素晴らしい……それでこそ覇道を往く者。さぁ、その炎で全てを焼き尽くすのです――勇者カイル様!」
黒い炎に呑まれた勇者は、もう戻れない。
その瞬間、玉座の間には、狂気と歓喜だけが満ちていた。
「――ハハッ、ハハハハハハァァッ!!!」
玉座の間にカイルの笑い声が、石壁に反響し、狂気の残響となって響き渡った。
その笑みは醜悪に歪み、もはやかつての英雄の面影など一欠片も残してはいない。
「そうだ……そうだ!追放だと?あんなもの、生ぬるかった!最初から……最初から殺しておけばよかったんだァァァッ!!」
両手を天に掲げ、狂ったように叫ぶカイル。
その姿を直視できず、セリナは唇を噛みしめ、恐怖に怯えながら背を向ける。
耐え切れなかった。――彼女の知る「勇者カイル」は、もうそこにはいない。
やがてセリナは、音を殺すように足を運び、ひっそりと玉座の間を抜け出した。
その頃、フードの男は、既に玉座の間から姿を消し、城壁に佇んでいた。
夜風に長い外套を揺らしながら、見えぬ口元で愉快そうに笑う。
「ふふふ……人間とは実に愚かな生き物です」
月を背に、声は冷たく響く。
「ほんの些細な躓きで、簡単に転げ落ちていく。深く、深く、どこまでも……」
だが次の瞬間、フードの奥の瞳に鋭い光が宿った。
「……しかし同時に、逆境の中でしぶとく立ち上がろうとするのもまた人間。あの男――バニッシュ、と言いましたか。あの瞳は危険ですね。あれは、かつて私が見た……“あの目”に酷似している」
オーブに映し出された映像を思い返しながら、思案に沈むフードの男。
低く呟く。
「こちらも大分仕上がってきましたが……まだ、あと一押しが必要――」
そのとき、ふと視界の端に動く影を捉える。
城壁の下のテラスに、小走りで駆け出る人影――セリナ。
フードの奥で、不気味な笑みが浮かぶ。
「……そう。あとほんの“一押し”が」
呟きと同時に、その姿は霧に溶けるように掻き消えた。
――バニッシュが仲間を傷つけるはずがない。
セリナは確信していた。あの映像は間違いだ、何かの細工がある。
そして――もし彼なら、今のカイルを止められるかもしれない。
その一縷の望みに縋るように、セリナは小走りでテラスへ駆け出した。
夜風にさらされ、肩で息をしながら立ち止まる。
(……逃げ出すわけにはいかない。今しかない……!)
両手を胸の前に組み、祈るように魔力を解き放つ。
展開されるのは聖教秘伝の光魔法――聖鳥伝声。
本来は迷える魂の声を、祈りと共に遠くの者へと届ける術。
時間はかかるが、必ず想いは届くと伝えられている。
「お願い……バニッシュ……!」
白光は小さな鳥の姿を取り、セリナの掌から羽ばたいた。
夜空へ、星々へ、遥か遠くへ――。
その直後。
「……セリナ」
低い声が背後から響いた。
身体がビクリと跳ね、振り返ったセリナの視界に映ったのは――カイル。
だがそこに狂気の笑みはなく、ただ虚ろな目をした静かな顔。
光を失った瞳で、彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
「……ミレイユが死んだ。……仲間はもう、俺たちだけだ」
囁くような声。
セリナの喉がひゅ、と細く鳴り、恐怖で半歩後ずさった。
しかしカイルは構わず歩み寄り――すっと、彼女を包むように抱きしめた。
「お前も……寂しいだろう」
耳元で落とされる声は、かつての勇者の優しさを模した何か。
セリナは答えられず、ただ震えるしかなかった。
「……頼む。お前だけは……お前だけは、俺の前から消えないでくれ……」
縋りつくようなその声に、セリナは言葉を返せなかった。
恐怖と哀れみと混乱が心を絡め取り――ただ黙って、震える体を抱かれるままにしていた。




