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帰還、そして小さな日常

 翌朝――といっても、グラドが見事な二日酔いをこしらえたせいで、実際の出立は昼をとうに回っていた。

 広場の端で荷を括る音、革紐の鳴る乾いた調子、出発の準備を整えるバニッシュたち。

 グラドは額に濡れ布を貼り、目許をしかめて打ちひしがれている。


「うぅ……頭が割れる……。誰だ、昨夜の樽を空にしたのは……」


「あなたよ」リュシアが即答し、ふんと横を向く。


「二日酔いで転移に巻き込まれて吐かれたら、私がアンタを燃やすからね」


「おお怖い……いやほんと勘弁してくれ……」


 そんなやりとりに、周囲からくすくすと笑いが漏れた。

 見送りにはツヅラ、ドルガ、朧をはじめ、兵も民も大勢が集まっている。

 ひとりひとりの顔に、勝利と喪失を同時に抱えた色が宿る。

 手当ての包帯が目立つ者、腕を吊ったまま杖に寄りかかる者、幼子の手を強く握る母――それでも皆、今日の別れを前向きなものにしようと努めていた。

 セレスティナが、転移陣の基礎紋を地面に描き始める。

 指先から淡光が流れ、石畳に星の文様が咲いていく。

 魔法陣は折り重なる円弧と幾何の線で構成され、中心には拠点座標の刻印が浮かんだ。


「座標、誤差なし。安定層、良好です」


「さすがはセレスティナ殿だ」


朧が短く言い、薄く口角を上げる。


「ありがとうございます」


 セレスティナは控えめに頭を下げたが、その頬はわずかに紅を差している。


 ドルガが大股で近づいてきて、豪快にリュシアに話す。


「しばしの別れってやつだな、相棒!」


「アンタは次合う時は、デリカシーっていうのを身に着けなさい」


リュシアが腕を組んで睨む。


「お、おう……それは……努力する」


 場が和む。ツヅラはやや離れたところで扇を半ば閉じ、金の瞳を細めてこちらを眺めていた。

 やがて、やわらかな足取りで歩み出る。


「ほな、こっちも準備ができ次第、連絡させてもろてええか? 人を動かす段取り、根回し、ようけ時間がいりますさいかい」


「ああ、待っている」


 バニッシュが真っ直ぐに応じる。


 ツヅラは扇を傾け、ふいとバニッシュのそばへ寄った。

 距離が一息で縮む。

 艶やかな香が鼻先をかすめる。


「それまで――寂しなると思うけど、我慢してや?」


 すっと伸びた白い指先が、彼の頬をくすぐるように撫でた。

 バニッシュの顔にみるみる血が上る。


「こ、こらッ!」


 左右から同時に声。

 リュシアとセレスティナが寸前で割り込み、ツヅラの指をぴしりとかわした。

 リュシアはほっぺをふくらませ、セレスティナは勇気を振り絞ったように眉を寄せる。


「公共の場でそういうのは、よくないです……!」


「あら、えらいヤキモチやさんらに囲まれてしもたなぁ」


 ツヅラはころころと笑い、肩をすくめた。

 朧は無言で手を差し出す。

 セレスティナが両手で包むように握り返し、短く見つめ合う。

 言葉よりも確かなものが、その一瞬に交わされた。

 広場の空気が、名残惜しさと希望で満ちていく。

 バニッシュは皆の顔をひとつひとつ目に刻んだ。


「行こう。――帰りを待つ者たちのところへ」


 バニッシュの合図で、セレスティナが呪句を紡ぐ。

 星紋が眩く脈動し、薄い霧のような光が足元から立ち上がった。


「みんな、達者でな!」


 グラドがまだ青い顔で腕を振る。

 ドルガが拳を突き上げ、朧は静かに目礼し、ツヅラは扇を閉じて胸元で重ねた。

 見送りの群衆から、拍手と鬨の声が起こる。

 光が高まり、視界が白に飲まれる。


 ――転移。


 空気の密度が変わり、遠い鈴の音のような残響が消えていく。


 セレスティナの転移魔法陣が淡い光を収め、バニッシュたちはようやく拠点の大地に帰還した。

 見慣れた空気、湿った土の匂い、そして懐かしい木壁や畑の景色――そのすべてが、遠征から戻った者たちの胸に安堵を広げていく。


「……帰ってきたな」


 バニッシュは深く息を吐き、胸元に手をやった。

 そこから取り出したのは、ルガンディアで手に入れた鳴心環。

 小さな環状の心具はかすかに拍を刻み、その度にバニッシュの胸奥にも記憶が響いた。

 灰毛の託した想い、ツヅラの決断、そして亡き者たちの声。


「これを使えば……結界装置をもっと確かなものにできるはずだ」


 決意を固めたようにバニッシュは顔を上げ、振り返る。


「グラド! さっそく作業に――」


 声を掛けられたグラドは、頭を押さえながらふらふらと手を振った。


「悪いが今日は無理だ……まだ酒が残っとる。ちょっと寝かせてくれ……」


 そのまま工房ではなく、自分の小屋へと千鳥足で消えていく。


「やれやれ……」


 バニッシュは苦笑し、頭を掻いた。

 その背後――気づけばリュシアとセレスティナは、既に温泉へと向かっている。


「お、おい……! まったく……」


 溜息をつきながらも、バニッシュは一転して真剣な表情に戻る。

 彼は拠点の獣人家族の家を訪れた。

 そこにはザイロが静かに腰を下ろしていた。


「……ルガンディアの人たちを、この拠点に迎え入れたいと思ってる」


 バニッシュの言葉に、ザイロはただ静かに耳を傾ける。

 やがて、太い首がゆっくりと縦に動いた。

 その頷きに胸をなでおろし、二人はさっそく作業に入る。

 拠点の周囲、空き地を開墾し、獣人たちが住めるよう土地を整えていく。

 だが――斧を振るいながら、バニッシュはふと眉をひそめた。


(……ん? なんだ、この感覚……)


 体が重い。鈍い。全身に鉛を流し込まれたような感覚がまとわりつく。


「ま、まさか……年か……?」


 脳裏をよぎった言葉に、思わず口元が引きつる。


「いやいや、俺はまだ三十代だぞ! そんなわけが――」


 ふふん、と首を振って否定する。

 その様子をじっと見ていた少年フォルが、にやりと笑った。


「ねぇ、バニッシュさん。なんかじいさんみたいだよ!」


 ぐさり――。

 言葉が胸に突き刺さり、バニッシュの口元が引きつる。


「こらっ!」


 すぐさま姉のライラが弟を嗜めた。

 お姉さんらしいきっぱりとした声。

 その一方で、ライラはバニッシュに向き直り、柔らかく眉を下げる。


「バニッシュさんも長旅で疲れてるんです。今日はゆっくり休んだほうがいいですよ」


「い、いや……俺はまだまだやれる……!」


 言いかけた瞬間、背後から大きな手が肩に乗った。

 ザイロだった。無骨な顔は変わらぬまま、しかしその眼差しは静かで頼もしい。


「……あとは俺がやっておく」


 低く、揺るぎない声。その言葉に、バニッシュの頑固な抵抗も音を立てて崩れた。


「……すまん。じゃあ、頼む」


 肩の力を抜いたバニッシュは、その足で温泉へと向かった。

 湯煙の中、心地よい熱に体を沈める。

 筋肉に溜まっていた疲労がじわじわとほどけていく。


「……はぁ……生き返る……」


 湯面に映るのは、戦場で見せた険しい顔ではなく、ただ疲れたおっさんの顔だった。

 その夜、バニッシュは仮設の我が家に戻り、静かに横たわる。

 外では風が木々を揺らし、遠くの鍛冶場からはグラドの豪快ないびきが響いていた。


 目を閉じる。

 胸の鳴心環が、静かに一度だけ脈を打つ。

 翌朝。

 少し遅めに目を覚ましたバニッシュは、大きく伸びをしてから外へ出た。

 外の空気は澄んでいて、昨日の疲れを和らげるように優しかった。

 視線を向けると、畑ではリュシアとライラが並んで鍬を振るっている。

 まだ朝の柔らかな光の中、土を耕す二人の姿はどこか微笑ましい。

 奥ではメイラが朝食の支度をしており、湯気の立つ鍋からは香ばしい匂いが漂ってきていた。

 フォルとセレスティナは、どうやら一緒に森へ木の実を採りに行っているらしい。

 ザイロは相変わらず寡黙に鍬を振り下ろし、獣人たちのための土地を黙々と整地している。

 その背には揺るぎない頼もしさがあった。

 一方でグラドは――拠点の片隅から、豪快ないびきが聞こえてくる。まだ寝ているようだ。


「……あら、やっと起きてきたわね」


 畑仕事の手を止め、リュシアが腰に手を当てながらバニッシュを睨む。


「す、すまない」


 バニッシュは苦笑しながら、手を顔の前で立てるようにして謝罪の仕草をする。

 その様子を見ていたライラは、口元を押さえながらくすくすと笑った。


「ふふっ……まるで兄妹みたいですね」


 リュシアは顔を赤らめて「だ、誰が!」と小さく声を上げるが、すぐに畑仕事へと戻っていった。

 ライラも笑みを残したまま再び鍬を振るう。

 バニッシュも気を取り直し、ザイロのもとへ歩み寄る。

 無言でうなずき合い、二人で整地作業に加わった。

 しばらくして、家の方からメイラの声が響く。


「ごはん、できましたよー」


 その声に誘われて、皆が外の食卓へと集まってくる。

 ちょうどタイミングよく、森からフォルとセレスティナも戻ってきた。

 フォルは籠いっぱいの木の実を抱え、得意げな顔をしている。

 セレスティナも微笑みながら後ろに続く。

 最後に、頭を掻きながら大きなあくびをするグラドがのそりと起きてきた。

 円卓に並べられた料理を前に、全員で手を合わせ、ささやかながら賑やかな朝食が始まった。


「アンタ、寝すぎよ!」


 リュシアが容赦なくグラドに突っ込む。


「たはは……いやぁ、酒がなかなか抜けなくてな」


 グラドは豪快に笑い、誤魔化すように頭をかいた。

 そんなやり取りを聞きながら、ザイロが口を開く。


「……バニッシュ。あとどれだけ整地が必要だ?」


「そうだな……獣人国の民をすべて迎えるとなると、相当だな。だが、とりあえずは仮設住宅を並べられる程度には広げておきたい」


 バニッシュは大まかな範囲を指で示し、説明する。

 フォルはセレスティナの横で、採ってきた木の実を得意げに見せびらかす。


「見て! こんな大きいのが採れたんだ! それに、珍しい花も見つけたんだよ!」


 その言葉にメイラは「まぁ」と嬉しそうに頷き、ライラも優しい目で弟を見つめる。

 セレスティナは「すごいですね」と微笑みながら褒めてやり、フォルは鼻を高くする。

 他愛もない会話が飛び交い、食卓には笑い声が満ちていく。

 今はただ穏やかな日常を分かち合うひととき。

 バニッシュはそんな仲間たちを見渡し、胸の奥で小さく息を吐いた。


(……ああ、やっぱり俺は、こういう時間を守りたいんだ)


 朝食を終えると、拠点は再び慌ただしく動き出した。

 グラドがようやく目を覚まし、頭をかきながら現れると、バニッシュはザイロに整地を任せ、グラドと共に工房へ向かう。

 工房といっても、以前ミルルが巨大化したことで半壊し、今は布を張った簡易の屋根があるだけの場所だ。

 だが、中にはバニッシュとグラドが拾い集めた魔鉱や木材、道具が並び、まさしく「作業場」と呼ぶにふさわしい空気が漂っている。


「さーて、やっと仕事に取り掛かれるな」


 バニッシュが図面を広げると、グラドは不敵に笑いながら腕をまくる。


「結界装置だろ? よっしゃ、さっさと始めようぜ」


 一方、ザイロは寡黙に斧を振るい、木を伐り倒しては整地を進めていた。

 汗が背に流れても表情ひとつ変えず、その姿は山のように揺るぎない。

 リュシア、ライラ、フォル、セレスティナは温泉へと向かう。

 大浴場は広く、一人二人で掃除できるものではない。

 まず、リュシアとライラが浴槽に栓をしてお湯を抜き、男湯と女湯で手分けして磨き始める。

 石造りの浴槽は広く、力を込めてこすらなければ落ちない湯垢も多い。


「ったく、広すぎるわね……」


 腰に手を当てるリュシアに、隣の浴場を掃除していたライラはくすっと笑い、柔らかく返す。


「でも、終わったらきっと気持ちいいお湯になりますよ」


 セレスティナとフォルは浴槽周りの柱や床、椅子の拭き掃除を担当する。

 セレスティナは真面目に手を動かすが、フォルは途中で雑巾を剣のように振り回し、遊び始める。


「やーい、魔物め、成敗!」


 フォルが走り回ると、ライラが素早く捕まえて窘める。


「もう! お風呂は遊ぶところじゃないでしょ!」


「ごめんなさーい」


 フォルは舌を出し、再び雑巾を持たされた。

 セレスティナは苦笑しながらも「がんばりましょう」と声をかけ、掃除を続ける。


 その間、メイラは台所で鍋や器を片付け、洗濯物を干し、さらにみんなの住む家々を掃除していた。

 小柄な体ながら働き者で、誰よりも早く動き回る姿は、拠点の空気を整える母のような存在だ。

 午前中の作業を終える頃には、汗で額を光らせた面々が再び食卓へと集まり、簡素ながらも温かな昼食を囲んだ。

 畑から採れた野菜のスープに、パン代わりの焼き芋。

 飾り気はないが、皆の努力が詰まった食事に自然と笑みがこぼれる。

 昼食後も作業は続く。

 リュシア、ライラ、セレスティナ、フォルは残りの温泉掃除を仕上げ、床を磨き、桶や椅子を整然と並べ直す。

 温泉全体が、ようやく元の清潔さを取り戻していく。

 メイラは夕食の準備に取りかかり、煮込み料理の香りが漂い始める。

 ザイロは整地の作業を中断し、今度は半壊したままのバニッシュの家に向かう。

 石と木材を手際よく組み直し、傷んだ梁を補強していく。

 その姿には無口ながら「守るべき場所を整える」という確かな決意があった。


 バニッシュとグラドは再び工房で作業台に向かい、結界装置の構築を進める。

 二人のやり取りは次第に熱を帯び、工房には金槌の音と魔力の響きが交錯していく。

 拠点は、それぞれが役割を果たし、確かに新しい未来へ向かって動き出していた。

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