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閉ざした心を開ける温かな場所

 朝の光が差し込むなか、セレスティナはまだ固い表情のまま、静かに座っていた。

 昨晩、ライラとの会話で「傷が癒えるまで」と心に決め、この場所にとどまることにしたものの――人を信用するには、あまりにも多くのものを失ってきた。そう簡単には割り切れない。

 そんなセレスティナのもとに、バニッシュが薬を持って現れる。


「おはよう。朝飯の前に薬だ、飲んでくれ」


 彼はいつもと変わらぬ落ち着いた態度で、器を差し出した。

 セレスティナは受け取ったものの、視線を合わせず、口を閉ざしたまま何も言わない。


「……やれやれ、今日も黙秘か」


 バニッシュは苦笑まじりに頭をかきながらも、それ以上は何も言わず、薬の器を置いて去っていく。

 ――今日は、ザイロたち獣人家族の住居が完成する日だった。

 バニッシュとザイロは、朝から大工仕事の仕上げに取りかかっていた。

 木材を組み上げ、屋根を張り、最後の装飾まできっちりと手を抜かずに整える。


「……これで、完成だな」


「ああ。立派な家になった」


 二人が互いの手のひらを打ち合わせると、フォルが「やったー!!」と飛び跳ね、メイラが涙ぐみながら「ほんとに、ありがとう」と言った。

 リュシアとライラも、静かにその光景を見守っている。

 少し離れた木陰から、その様子をセレスティナは見ていた。

 彼女の表情は硬いままだが、どこか――ほんの少しだけ、目元がやわらかい。

 しばらくして、メイラが腕によりをかけて作ったご馳走がテーブルの上に並べられる。

 焼きたてのパン、香ばしいスープ、野菜の煮込みに果実の甘煮。次々と並ぶ彩り豊かな料理に、皆が歓声を上げる。


「うまそーっ!!」


 フォルが思わず大声を上げ、テーブルの周りをくるくる回っていたが、ふと視線を巡らせ、木陰にいるセレスティナの姿に気づいた。


「……あっ」


 テーブルから駆け出し、スープやパンを丁寧に取り分けて、皿に盛ると、両手に持って駆け寄っていく。


「ねえ、これ、お姉ちゃんの分っ!」


 差し出された皿に、セレスティナはわずかに目を見開いた。


「……私に?」


「うん! おうち、できたんだよ! すっごくカッコいいんだよ!」


 無邪気な笑顔。屈託のない瞳。

 セレスティナは、しばし黙ったままその皿を見つめていたが、やがてそっと手を伸ばし、受け取った。


「……ありがとう」


 その言葉は、小さく、かすれていた。

 フォルは嬉しそうに頷き、またみんなのところへ走っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、セレスティナは、ほんの少しだけ、口元を緩める。

 その瞬間、バニッシュと視線が交錯した。

 セレスティナは、ぱっと目を逸らし、背中を向けた。


 セレスティナは、森の奥にある小高い岩陰に腰掛けていた。

 そこからは、拠点の様子がよく見えた。

 ――否、見えるようにあえてそこを選んだのだ。

 眼下では、バニッシュとザイロが丸太を担ぎ、拠点の一角に新たな倉庫を建てている。

 食料や薬草、日用品を保存するための備蓄施設らしい。

 ふたりとも寡黙だが、互いの息はぴったりで、言葉がなくとも作業は進んでいく。

 その合間、バニッシュは弓を手にして狩りに出かけ、ザイロは力仕事を請け負い、薪を割り、地を耕していた。

 一方でメイラは、小屋の前で干した布を取り込みながら、ぐつぐつと煮込む鍋の中を覗き込んでいた。

 掃除、洗濯、食事の準備――そのすべてを淡々とこなしながら、空いた時間には薬草を摘みに出かけて調合する姿もある。

 穏やかで、優しく、たおやか。

 だが、その手際には無駄がなく、どこか逞しさすら感じた。

 畑では、リュシアとライラが野菜の手入れをしていた。

 どちらも真剣な表情だが、フォルが後ろからこっそり水をかけては姉に叱られ、笑い声をあげて逃げていく。


「もう! ちゃんとやりなさいって言ってるでしょ!」


 そんなライラの叱責も、どこか微笑ましい。

 時折フォルは遊び疲れると、ふらりとバニッシュの元に駆け寄り、肩にぶら下がっては笑いながら引きずられていた。

 またあるときは、ふと思い出したようにセレスティナのもとへ現れては、他愛のない話を一方的に語っていった。


「今日はトカゲが3匹出たよ! でも全部逃げられちゃった!」


 セレスティナはそれに対して言葉を返すことは少なかったが――

 フォルが駆けていく後ろ姿を、どこか名残惜しそうに目で追ってしまう自分に、ふと気づいた。

 種族も違う。価値観も、過去も、傷の深さも違う。

 それなのに、ここでは誰もが自然に役割を担い、助け合って生きていた。

 誰かが誰かを見下したり、支配したりすることもない。

 与えられるのではなく、できることを持ち寄って、分かち合っている。


(……どうして、だろう)


 その光景は、どこか奇妙で――けれど、なぜか。

 ……不思議と、心が静かになる。

 セレスティナは手にした弓を握りしめ、少しだけ顔を伏せた。

 まだ心の中にある痛みや警戒が、完全に消えたわけではない。

 でも、ほんの少しだけ、目の奥の緊張がほどけた気がした。

 それは、風の匂いのように。

 この森の空気のように――静かで、優しいものだった。


 木漏れ日が静かに揺れる森の中。

 セレスティナは、拠点から少し離れた岩に腰を下ろし、遠くの空を見つめていた。

 気づけば、思い出していたのは――遠く離れた、エルフの里の記憶。

 澄んだ空気、白く光る樹々、整然とした街並み。

 ――そして、冷たく整いすぎた秩序。

 エルフの里は、美しかった。

 けれどその美しさは、自由を許さない規律の檻だった。

 規律、戒律、掟。

 それがこの種族の誇りであり、支配であり、他種族を蔑む理由でもあった。


 「人間など粗野で愚か、獣人など野蛮、ドワーフなど粗雑、魔族など論外」


 幼いころから、そう教え込まれてきた。

 自分たちこそが至高の種。

 それが“誇り”とされていた。

 ――でも、私は、違った。

 セレスティナは目を閉じる。

 思い出すのは、父の笑顔だった。

 彼は変わり者だった。

 若い頃に冒険者となり、世界を巡った。

 人間の街、ドワーフの砦、獣人の村、魔族の領地――

 どこへ行っても笑いながら語っていた。


「セレス、お前は知らないだろう? ドワーフの鍛冶場は熱気と音と魂で溢れてるんだ」


「獣人の村では踊りと歌が絶えない。魔族の子供はちょっと怖いが……意外と礼儀正しいんだぞ」


「種族なんてただの見た目の違いさ。心の中は、誰もが同じように悩み、笑い、泣くんだ」


 ――あの時の私は、目を輝かせていた。

 いつか、父のように冒険者になって、たくさんの種族と出会い、友達になりたい。

 そう思っていた。

 ……だが、夢は砕かれた。

 父は“異端者”とされた。

 他種族を認める言動をしたことで、長老会に睨まれた。

 それだけならまだしも――彼は、エルフの掟で禁忌とされる《古代魔法》を使えた。

 それは、すなわち“力を持った異物”として、排除の対象となることを意味した。

 そして……父は処された。

 裁きのとき、父は何も言わずに微笑んでいた。

 最後の言葉は、まだ耳に残っている。


「……セレス、お前は、お前の道を行きなさい。誰のものでもない、お前自身の人生を」


 私は追放された。

 父の力を受け継ぐ者として。

 異端者として。

 私はエルフでありながら、エルフに否定された。

 だから、私は決めた。

 ――私は冒険者になる。

 父のように、自由に生きるんだ。

 種族の壁など関係ない、そんな世界で……。

 だが、現実は、残酷だった。

 冒険者となって組んだパーティーは、私の弓の腕を利用した。

 距離を詰めようともせず、心を開こうともせず、ただ「便利な道具」として。

 そっけない態度になったのは、きっと私の方だったのだろう。

 だけど、信じるにはあまりにも、裏切りの数が多すぎた。

 そして、最後のパーティー。

 私は……“慰み者にしよう”と囁かれた。

 そしてあの夜、あの魔物に襲われた。

 仲間たちは逃げ、私は一人残された。

 生き延びるために……父から受け継いだ古代魔法を使った。

 燃え上がる魔力、崩れる森。

 命を削るように放った力で、私はようやく……逃げおおせた。


 ――そして、今ここにいる。


 人間、魔族、獣人が共に暮らす、不思議な場所に。


(……こんな場所が、本当にあるなんて)


 信じられない。それでも、確かにここにある。

 セレスティナは、胸の奥がじくりと痛むのを感じながら、目を開いた。

 彼女の中にある“信じたい”という思いが、ほんのわずかに、芽吹きかけていた。


 その日、朝の光が柔らかく差し込む頃。

 セレスティナはいつものように、拠点から少し離れた丘の上の木陰で、静かに本を開いていた。

 とはいっても、内容に意識は向いておらず、視線の先にはいつもと変わらぬ拠点の暮らしが広がっている。

 それはどこか夢のようで、けれど現実としてそこにある――人間、魔族、獣人が共に生きる、あり得ない日常。


「セレスお姉ちゃん!」


 唐突に背後から声をかけられ、セレスティナはびくりと肩を揺らした。

 振り返れば、そこには元気な顔をした獣人の少年――フォルが立っていた。

 彼はこそこそと人差し指を唇に当てて、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。


「ねぇ、ちょっとだけ来てほしいとこがあるんだ。内緒だよ、ナイショ!」


「……私に、ですか?」


 戸惑いながらも問い返すと、フォルはこくこくと頷いた。


「うん、すごく綺麗なとこなんだ。誰にも教えてない秘密の場所。セレスお姉ちゃんにだけ、特別!」


 その言葉に、セレスティナの胸がわずかに波立つ。

 彼の言葉が嘘でないことはわかる。無垢で真っ直ぐで、まるで昔、自分が夢見ていた“冒険”の世界を思い出させるような――そんな眼差しだった。


(……どうせ、少し歩くだけ。あの子なりに、気を遣っているのだろうし)


 それに、気づかぬうちにどこか心が疲れていた自分にとって、その無邪気な誘いはどこか救いにも思えた。


「わかりました。少しだけ、ですよ」


 そう答えると、フォルは嬉しそうに跳ねるように笑った。


「やったー! じゃあ、こっちこっち、しーっ、誰にも見つかっちゃダメだからね!」


 そう言いながら、フォルは身をかがめ、こそこそと拠点の物陰へと身を滑り込ませていく。

 セレスティナも、彼に続くように静かに立ち上がり、いつの間にか本を閉じていた。

 二人は、建設中の倉庫や畑の陰を縫うように進み、音も立てずに拠点の外へと出た。

 風が木々の葉を揺らす音、鳥のさえずり。

 拠点のざわめきが遠ざかるたび、セレスティナの胸にひとつ、またひとつ、静かな不安と期待が芽生える。


(……秘密の場所、ね)


 フォルの背中を見ながら、セレスティナはふと、小さな頃に父と一緒に歩いた森の小道を思い出していた。

 あの頃と同じように、誰かの後ろを信じてついていくという感覚が――少しだけ、懐かしく感じられた。


 フォルに連れられ、獣道のような細い森の小道を抜けた先――そこは、まるで別世界だった。

 深い緑の樹々の合間から、淡く差し込む陽の光。

 小鳥たちのさえずりがどこか遠く、風はそっと肌を撫で、

 そして目の前には、まるで空をそのまま落としたかのように澄んだ――泉。


「……っ」


 思わず息を呑むセレスティナ。

 あの“魔の森”の中に、これほどまでに穏やかで清浄な場所が存在するなど、誰が想像しただろうか。

 泉の水面は風に揺れて、キラキラと宝石のように煌めいていた。

 水底には青く透き通る石や、小さな魚の群れ。岸辺には柔らかな苔と白い小花が咲き乱れている。


「ね! すごく綺麗でしょ!」


 フォルが満面の笑顔で泉の方へと駆け出す。

 足を水にちゃぷちゃぷと浸し、ズボンの裾をまくり上げて、無邪気にはしゃぐように水しぶきを立てた。

 泉の水は冷たく、心地よく、少年の笑い声が森に反響して広がっていく。


(……まるで、夢みたい)


 セレスティナは、思わず頬をゆるめていた。

 ふと、幼い頃に父と訪れた精霊の泉を思い出す――同じように、そこも誰にも知られていない静寂の聖域だった。

 そのとき。


 ――ギギギッ……グルルル……


 森の奥、茂みの向こう。空気が凍るような低く、唸るような音が響いた。

 セレスティナの笑顔が凍りつく。


「フォル、下がって」


 彼女は即座に前へ出て、鋭い視線を茂みに向ける。

 そして――咆哮。


ドンッッッ!


 空気を裂き、地が揺れた。

 木々の間から現れたのは、尋常でない大きさの影。


 ――巨大な、獣。


 全身は黒々とした硬質な毛に覆われ、背には岩のようなこぶがいくつも重なり、口からは刃のような牙が覗いている。

 その双眸は赤く輝き、まるでこの森の闇をそのまま具現化したかのような圧迫感。


(魔獣……っ!)


 セレスティナの表情が一気に強張る。

 その瞬間、彼女の脳裏を駆けたのは最悪の現実だった。

 ――ここは、バニッシュの張った結界の外。


 本来、森にうごめく危険な存在は、結界によって近づけさせないはずだった。

 しかし今、自分たちはその“外側”にいる。


「フォル、走って――っ!」


 声を上げた時にはもう遅く、フォルは恐怖に支配され、腰を抜かしてその場に座り込んでいた。

 魔獣はその小さな命を確実に仕留めようと、ずしん……ずしん……と一歩ずつ接近してくる。

 セレスティナは叫びそうになる心を押し殺し、震える脚に力を込めて前に出た。

 だが――


(くっ……!)


 痛む。回復しきっていない身体が、無理をすればすぐにでも崩れそうだった。

 それでも。


「……もう何も、失いたくない……!」


 彼女の目が、蒼く輝く。

 震える手を伸ばし、彼女は咄嗟に古代魔法陣を描き始める。


 ――古代魔法《転位結晶陣アステリズム・ゲート


 ただ、魔力が安定しない。

 結界外の空間は魔力の流れが乱れやすく、さらに彼女の身体も限界寸前。

 このままでは、どこへ飛ぶかも分からない。

 それでも。


「……せめて、フォルだけは……!」


 セレスティナは叫ぶように術式を完成させ、フォルを包み込むように魔力を注ぎ込む――

 光が走り、少年の姿が掻き消えた。

 同時に、彼女の身体もまた、制御不能の転移によって――


 ――空へと、弾け飛んだ。


 眩い光が一閃したかと思えば、バニッシュたちの前にフォルの小さな体が転移魔法によって唐突に現れた。


「……フォル!?」


 驚きに目を見開くバニッシュ。

 同時にリュシアも振り向き、呆気にとられたように声を上げる。


「えっ、どういう――」


 しかし、次の瞬間――


「セレスお姉ちゃんがっ……!!」


 フォルが崩れ落ちるように地面に膝をつき、顔をくしゃくしゃにして泣き叫んだ。

 その表情は、恐怖と後悔と――そして“助けを求める必死さ”で満ちていた。


「魔獣が、出てきて……!  泉で……お姉ちゃんが僕だけ、転移で逃がして……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、バニッシュの顔から感情が消えた。


「リュシア、索敵できるか?!」


「任せなさい……」


 リュシアの瞳が紅く輝き、世界を貫く。

 これは彼女の魔族としての特殊能力――《魔眼:深界視》。

 空間の乱れと魔力の痕跡を捉え、遠方の存在を透視することができる。

 風が唸り、魔力が流れる。


「……見えた。上よ! 遥か上空!」


 リュシアが指差した先――そこには、かすかに煌めく転移の残滓があった。

 空。この森の木々を遥かに超えた、高高度の空域――


(まさか、転移魔法が暴走して上空に……!?)


 地面に叩きつけられれば、生き残る道はない。

 だが迷っている暇などなかった。


「リュシア――俺を飛ばせ」


「……は?」


「お前が俺を空まで吹っ飛ばす。俺がセレスを受け止める」


 リュシアは一瞬だけ眉をひそめた。だが、すぐに息を吐く。


「……アンタってやつは……ほんっとうに無茶するんだから」


 肩を回しながら、彼女は魔力を練る。

 その手から風の魔法陣が展開し始める。


「風圧と重力制御、精密射出を混ぜた魔族式の“加速魔法”。ぶっ飛ばすのは得意なの」


「信じてる。あとは任せてくれ」


 バニッシュは地面を蹴って前へ。


「絶対に……落とすなよッ!」


「――言われなくても!」


 ドンッッ――!


 烈風が地を割った。

 リュシアの手から放たれた魔法の奔流が、バニッシュの背を撃ち抜く。

 その瞬間、彼の体は空を裂き、弾丸のように大気中を駆け上がっていった。

 森の木々が一瞬で小さくなり、空と雲が迫る。

 ――目指すは、ただ一人。落下してくるセレスティナ・エルグレア。

 空はどこまでも蒼く、風は突き刺すように冷たい。

 セレスティナ・エルグレアは、ただ空を落ちていた。

 視界がぐるぐると回り、下にあるはずの地面が天井のように迫ってくる。

 感覚が麻痺し始め、意識が薄れかけていた。


(ああ……ここまでか……)


 魔力は不安定で、傷は裂け、転移魔法の反動も酷い。

 体は思うように動かず、ただ風に身を任せて堕ちていく――その時だった。


「――掴まれ!!」


 突如、視界の中に現れた影。

 セレスティナの瞳が大きく見開かれる。

 蒼穹を裂くように飛来した影、それは――


「……バニッシュ……?」


 セレスティナの喉がかすかに震えた。

 なぜ。どうして――あの男が、ここに?

 彼女の思考が混乱する間もなく、バニッシュは彼女の目の前に肉薄していた。

 手を伸ばし、風を切って叫ぶ。


「迷ってる暇はない! 掴め!」


 その声は――迷いがなかった。

 怒りでも、責めでもなく。

 ただ、助けようとする者の声だった。

 セレスティナは無意識のまま、差し伸べられたその手に、自らの手を伸ばしていた。


 ガシッ――


 互いの手が、強く結ばれる。

 次の瞬間、バニッシュの身体がセレスティナを一気に引き寄せた。


「っ……!」


 気がつけば、彼の腕の中にいた。

 抱きかかえるようにして、自分を庇うように――風を切って落ちていく。


「しっかり掴まってろ!」


 バニッシュが叫ぶと同時に、足元に魔法陣が二重、三重に展開される。


《風魔法・緩降陣》――

 空気の層を分断し、落下の速度を段階的に殺す風の術式。


《結界展開・軟衝転位陣》――

 魔力の反発で落下エネルギーを拡散し、衝撃を消す防御式。


 二つの魔法を同時に、重ねて発動するその技術は、常人には不可能な“合わせ技”。

 魔力が交差し、風が舞い、空気が震える。


 一気に速度が殺され、まるで大気に抱きしめられるように、二人の落下は緩やかなものへと変わっていった。

 視界の先に、森の木々が見える。

 さらに下には、心配そうに空を見上げる小さな影たち――

 フォル。ライラ。リュシア。ザイロ。メイラ。

 そして、彼らの生きる拠点。


「……助けに……来たの……?」


 風の音の中、セレスティナがぽつりと呟く。

 それに対し、バニッシュはただ一言だけ、静かに答えた。


「仲間を見捨てたりしない」


 その言葉は、セレスティナの胸の奥で何かを揺らした。

 忘れかけていた、かつての夢。

 失ったと思っていた、誰かと共に生きる未来。

 やがて二人は、風に乗り――無事、仲間たちの待つ地上へと降り立った。


 風と魔力の余韻を残しながら、バニッシュとセレスティナはゆっくりと地上へと降り立った。

 森の葉がざわめき、木漏れ日が揺れる中、最初にその静寂を破ったのは――


「セレスお姉ちゃん!!」


 小さな足音が駆け寄る。

 泣きじゃくる声とともに、フォルがセレスティナに抱きついた。

 その瞳は涙でぐしゃぐしゃになりながらも、

 どこか安心したように、全身で“無事”を喜んでいた。


「……フォル……ごめんね、怖い思いをさせて……」


 傷ついた体を支えながら、セレスティナは膝をつき、そっとフォルの頭に手を置いた。


「セレスティナ!」


 今度はライラとメイラが駆け寄り、安堵と涙をにじませながら彼女を見つめる。


「本当に、無事でよかった……ありがとう……!」


「あなたが、あの子を守ってくれて……本当にありがとう……!」


 涙ながらに言葉を伝える二人に、セレスティナは戸惑いを隠せなかった。

 それは、あまりに温かく、優しすぎる言葉だったから。

 少し遅れてザイロがゆっくりと歩み寄ると、何も言わず、

 ただ深々と、頭を下げた。

 その仕草に、セレスティナの瞳が揺れる。


(私は……感謝されるようなことをしたわけじゃない……)


(むしろ……迷惑をかけたのに……)


「……ごめんなさい……私のせいで……」


 そう呟くセレスティナの隣で、バニッシュはその肩に手を添えたまま、柔らかく言った。


「いや、違う。――フォルを助けてくれてありがとう。お前がいなければ、助からなかった」


 その言葉に、セレスティナはまたしても言葉を失う。

 罪を問われると思っていた。

 責められると覚悟していた。

 だが返ってきたのは、感謝の言葉だった。

 バニッシュの手は、まだそっと肩に残されたまま――

 それを見たリュシアが、ぴくりと眉をひそめ、ややむっとした顔で咳払いを一つ。


「……謝る気があるなら、ここで返していきなさい。これから、ね」


 静かに、だがはっきりとした言葉だった。

 セレスティナはその言葉に戸惑い、沈黙する。

 だが――視線をゆっくりと周囲に向けた時。

 優しく微笑むメイラ。

 涙を浮かべながらも笑顔を見せるライラ。

 無言でうなずくザイロ。

 そして、まっすぐな瞳でこちらを見るリュシア。


(……こんな私を、まだ受け入れようとしてくれている……?)


(誰も……責めていない……)


 その事実が、胸の奥に温かく染み込んでいく。

 喉の奥が熱くなり、胸がぎゅっと締めつけられた。

 そして、長く閉ざしていた扉の隙間から――ひとしずく、言葉がこぼれ落ちた。


「……ありがとう……」


 小さく、それでも確かな声で。

 セレスティナの瞳が、ほんのわずかに潤みながら、笑った。

 それは、彼女がこの場所で“はじめて見せた笑顔”だった。


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