堕ちた栄光、狂気の雷
軍幕の中に響いたのは、怒声と机を叩きつける乾いた衝撃音だった。
報せを受けたミレイユの紅い瞳は怒りに燃え、絹のような金の髪を振り乱していた。
「……何よこれは! ラグナが……バルグが……敗れた!? 西も東も兵が退いたですって!? ありえない、ありえないわ!!」
彼女の声は鋭い刃となり、震える兵士の鼓膜を裂いた。
戦場で勇猛果敢に斧を振るう獣人兵ですら、その目の前の女の怒気に比べればまだ安らぎがあるように思えるほどだった。
「お、恐れながら……敵は予想以上に……抵抗が激しく……」
「黙れ!」
机の上の銀の燭台が跳ね、紙束が宙に舞った。
怯える兵士は膝を折り、言葉を飲み込むしかない。
護衛として脇に控えていた二人の兵も息を呑み、ただ鋭い眼差しで主を守るべく立ち尽くしていた。
その刹那――。
ドサッ。
背後で何かが崩れ落ちる音が響いた。
「……なに?」
ミレイユは鋭く振り返る。
そこには、報せを持ち込んだ兵が白目を剥き、床に崩れていた。
さらに護衛の兵たちまでもが、糸の切れた人形のように次々と地に伏していく。
すべてが一瞬だった。
「ば、馬鹿な……!」
言葉を絞り出したミレイユの喉を、冷たい空気が掴んだ。
軍幕の中に満ちるのは、戦場の喧噪とは違う、張り詰めた気配。
その帳をかき分けるように、二つの影が静かに足を踏み入れた。
ひとりは灰色の毛をまとう獣人――灰毛。
鋭い耳は周囲を探り、瞳は氷刃のように光っていた。
もうひとりは、背筋を伸ばした人間の男。
その瞳は静かに燃える光を宿し、右の腰に下げた剣の柄に触れることなく、ただ佇んでいるだけで圧を放っていた。
――バニッシュ。
軍幕の灯火が二人の姿を映し出す。
恐怖に凍りついたミレイユの耳に、幕外の戦の音が遠のいていくように感じられた。
軍幕の中、ただならぬ静寂が訪れた。
倒れ伏した兵たちの上で、女は目を見開いたまま言葉を失っていた。
「……バニッシュ」
その名を吐き捨てるように紡ぐミレイユ。
視線の先に立つ男は、かつて彼女と同じ旗の下にあった者――勇者一行の一員。
仲間の盾となり、理論で補い、決して前に出ない。目立たず、冴えず、若さも華もない。
だから追放した。
あの時は、それで正しいと思っていた。
だが――。
バニッシュが去ったあの日から、歯車は狂い始めた。
輝きは鈍り、賞賛は薄れ、栄光は砂のように零れ落ちていった。
栄光を蝕んだ元凶。
それが目の前に再び姿を現し、しかも獣人を引き連れている。
「なんで……なんでアンタがここにいるのよ!」
ミレイユの声は驚愕に染まり、やがて怒気を帯びて膨れ上がった。
その目には嫌悪と憎悪が滲み、かつての仲間に向けるべき温もりなど欠片も残されていなかった。
バニッシュはその眼差しを正面から受け止める。
表情は揺るがず、ただ静かに、苦渋を含んだ声を漏らした。
「……出来れば、この戦いから引いてくれないか」
「――はぁ?」
あまりに拍子抜けした言葉に、ミレイユは素っ頓狂な声をあげる。
そして次の瞬間、張り詰めた空気を破るように、甲高い笑いが軍幕に響いた。
「キャハハハハッ! なによ、それ! なんで私たちが引かなきゃならないの? 冗談でしょ? アンタ、正気?」
その笑いは狂気を孕み、兵を眠らせた静謐を嘲るかのように響き渡る。
バニッシュは苦虫を嚙み潰したような表情で、歯を食いしばりながら言葉を紡ぐ。
「……お前たちは“世界の希望の光”のはずだった。なのに、どうしてこんなことをしている? これじゃまるで――」
「――悪、とでも?」
ミレイユの声がかぶせて遮る。
紅の唇が艶めかしく吊り上がり、瞳には妖艶で不気味な光が宿る。
その雰囲気に、言葉を続けようとしたバニッシュの口は自然と止まった。
軍幕の中に流れる空気は、女が放つ異様な気配に支配されていた。
「……そう。そうね」
ミレイユは薄く笑い、遠い過去を思い返すように目を細めた。
その声は艶やかでありながら、どこか底の抜けた空虚さを帯びている。
「確かに、かつて私たちの栄光は地に堕ちたわ」
紅の爪が卓を撫でる。コツ、コツ、と乾いた音が軍幕の中に響く。
その仕草は冷静さを装っていたが、指先には憎悪が刻み込まれていた。
バニッシュは眉をひそめる。
「……何が言いたい」
ミレイユはゆっくりと顔を上げ、薄ら笑いを浮かべる。
「でもね、気づいたの。間違っていたのは私たちじゃない」
「――気づいた?」
バニッシュの声には険が混じる。
ミレイユの瞳が妖しく光る。
「ええ。間違っていたのは、この“世界”のほうなんだってね」
その言葉に、バニッシュの胸奥が冷たく凍りついた。
彼女は、かつて同じ道を歩いた仲間だった。
信じていた理想も、夢も、栄光も――共に背負ったはずだった。
しかし、目の前の女の声にはもう何の迷いもない。
狂気の熱に彩られた確信だけが宿っている。
「だから、私たちは新たな力を手に入れたの!」
彼女は広げた両腕で軍幕そのものを抱くように叫ぶ。
「そして、この世界に――新たな秩序を刻むのよ! 私たちこそが世界の頂点に立つに相応しいのだから!」
その宣言は戦鼓のように響き渡り、倒れ伏す兵士たちすら震わせる。
瞳は狂気に満ち、虚空を見つめるその姿はもはや人ではなかった。
疑問も、逡巡も、理性の影すら存在しない。
バニッシュは言葉を失った。
胸の奥で浮かぶのは、どうしようもない喪失感だった。
かつての仲間。共に笑い合った日々は、もう戻らない。
そこに立つのは、ただ自らの妄執に取り憑かれた狂信者の姿だけ。
隣に立つ灰毛が、低く、しかしはっきりと囁く。
「……この者は、もう」
灰毛の低い囁きが、軍幕の中を張り詰めさせる。
その声は冷徹な真実を告げていた。
バニッシュは息を呑む。
胸の奥で、鈍い痛みが走った。
(……そうなのか。もう、ミレイユは――)
かつて共に剣を振るった仲間。
笑い、支え合い、語り合った日々。
だが今、目の前にいるのはその面影すら残していない。
バニッシュは拳を握りしめた。
諦めるしかないと頭では理解している。
だが、心が追いつかない。
その沈黙を嘲笑うように、ミレイユの唇が歪む。
「……ふふっ。何をそんなに沈んでいるのかしら? ああ、わかった」
彼女は妖艶に身を反らし、笑い声を響かせる。
「まさかまだ、“仲間”だなんて思っているの? だったら本当にお人好しね、バニッシュ」
「……ミレイユ」
かろうじて名前を呼ぶバニッシュの声は、痛みに震えていた。
だがミレイユは冷酷に切り捨てる。
「そうよ。私たちは変わったの。お前のことなんか、もうどうでもいい。大切なのは、この世界を正すこと。弱き者どもを踏み潰し、強き者だけが生き残る。それこそが真の秩序――! それが私たちの“救済”よ!」
狂気に彩られた宣言。
その双眸は紅の光を宿し、まるで怪物のように煌めいた。
灰毛が一歩前に出る。
殺気を隠さず、牙を剥き出す獣のように低く唸った。
「……この狂気を、放っておくわけにはいかぬ。バニッシュ殿」
その声は、決断を迫る声だった。
仲間か、敵か――。
ここで選ばなければならない。
バニッシュは目を閉じ、深く息を吐く。
胸に去来するのは、苦く、痛ましい記憶。
しかし同時に、彼の背中を押すのは――今この瞬間も戦場で必死に守り合う仲間たちの姿。
ゆっくりと目を開けたとき、バニッシュの瞳には迷いはなかった。
「……ならば、俺が止める」
静かな宣言が、軍幕の中に響き渡った。
その声に、ミレイユは小さく肩を震わせ――そして次の瞬間、甲高い笑い声を上げた。
「キャハハハ! いいわ! やっぱりそうじゃなくちゃ!お荷物だと切り捨てられたあんたが、今度は私を止める? ――滑稽だわ!」
狂笑と共に、ミレイユの身体から禍々しい魔力が噴き出す。
紫黒の光が軍幕を満たし、壁を震わせた。
その光景を前にしても、バニッシュは一歩も退かない。
静かに剣の柄に手を添え、灰毛と視線を交わす。
「行くぞ」
灰毛は頷いた。
「……承知」
狂気の女と、止める者。
かつて仲間であった者同士が、いま敵として相対する。
軍幕の空気は爆ぜる寸前の炎のように震え、決戦の刻が迫っていた。
ミレイユの妖艶な声が軍幕の中に響き渡る。
「――来たりて、世界を穿て。紫黒の理よ、我が身に宿れ」
紫黒の光が渦を巻き、床を焼き焦がすようにして広がる。
魔法陣が展開されると同時に、重苦しい圧が場を支配した。
「……まずいッ!」
バニッシュは即座に動いた。
灰毛を庇うように前へ躍り出ると、掌を地に突き、瞬時に結界を張り巡らせる。
次の瞬間―― 紫黒の魔法陣から奔流のように雷撃が炸裂した。
「獄雷殲閃ッ!」
轟音と共に紫黒の稲光が軍幕を貫き、空気そのものを裂き焼き尽くす。
幕布は一瞬で吹き飛び、土煙と閃光が戦場を暴き出す。
結界に雷が直撃した。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃に、結界が悲鳴を上げる。
稲妻は幾重にも重なり、紫黒の奔流が壁を叩きつけるように襲いかかった。
バニッシュの額から汗が噴き出し、腕が軋む。
必死に耐えたが――結界の膜は黒焦げに焼け爛れ、ついには砕け散った。
「な、なんて威力だ……! 俺の知ってる魔法じゃない……」
驚愕と共に吐き出すバニッシュ。
雷そのものの暴力に加え、纏う気配は明らかに“何かに侵食された”異質さを孕んでいた。
瓦礫と煙が散る中、灰毛が槍を構えて一歩前に出る。
背筋を伸ばし、低く唸るように声を発した。
「……バニッシュ殿、あれはもう“人”の魔法ではない」
周囲に控えていた獣人兵たちも即座に反応する。
数名が飛び出し、ミレイユを取り囲む形に布陣を整えた。
それぞれが武器を握り、瞳に決死の光を宿す。
だが、その中心に立つミレイユは、不敵に笑んでいた。
燃え残る雷光が彼女の肢体を照らし、瞳は紫黒に妖しく輝いている。
「キャハハ……いいわね。その顔。絶望と恐怖が入り混じってる」
彼女はゆっくりと手を掲げる。
「見せてあげるわ。これが“世界の理”をねじ曲げる、新しい力――私が選ばれた証よ!」
獣人兵たちの背筋に悪寒が走った。
その笑みは、かつて仲間と笑い合っていたミレイユのものではなかった。
雷撃を纏ったミレイユの身体は、ふわりと宙に浮き上がった。
彼女の周囲を奔る稲光は黒紫に染まり、ただの魔力の揺らぎではなく、まるで生き物のように空間を這い回る。
「キャハハハッ! そうよ、これこそが私の雷撃! お前たちごときが抗えるものじゃない!」
狂気を孕んだ高笑いが軍幕を失った戦場に木霊する。
灰毛の部下たちはその異様な光景に息を呑み、自然と半歩後ずさった。
槍を構える手が震える。
目の前にいるのは、かつて「勇者パーティー」の一員だったはずの女性――だが、その姿はもはや“人”ではなかった。
ミレイユは右手を天に掲げる。その指先から、紫黒の稲光が縦横無尽に走る。
「来たりなさい……黒雷招来陣――!」
詠唱と共に、天を覆う漆黒の雲が瞬く間に現れた。
空は稲妻で埋め尽くされ、雷鳴が連鎖するように轟き渡る。
雷雲の中心で脈動する光は、まるで世界そのものが怒り狂っているかのようだった。
「……っ、これは……!」
獣人兵たちは頭上を仰ぎ見て、膝が震えるのを必死に堪える。
その中で、ただ一人、バニッシュが前に出た。
瞳に宿るのは恐怖ではなく、静かな覚悟。
「灰毛、部下たちから目を離すな。……持ちこたえるぞ」
低く呟くと、バニッシュは両腕を広げた。
掌から迸った光が円を描くように広がり、仲間たちを包み込む。
彼が編み上げたのは、いくつもの層に重なる結界魔法――
さらに、その表面には補助魔法の紋様が浮かび上がり、力を強化し、抵抗を補う術式が重ねられていく。
仲間一人ひとりに結界が張られ、盾のように彼らを護る。
灰毛の部下たちは目を見開いた。
「こ、これが……バニッシュ殿の……!」
紫黒の雷雲が不気味に唸る。
まるで意思を持つかのように、ミレイユの掲げる掌に従って雷撃が蠢いていた。
次の瞬間、大地をも焼き尽くす暴雷が振り下ろされるだろう。