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戦禍の巨獣、沈黙す――氷葬極環《アイス・エリュシオン》

 振り下ろされようとした斧皇裂刃の構え――その手元を、鋭い氷矢が穿った。


「――氷風穿矢グレイシャル・ゲイルアロー!」


 白藍の閃光が直線を走り、巨腕に突き刺さる。

 爆ぜる氷気が瞬く間に戦斧の柄ごと凍り付かせた。

 バルグは咆哮し、片腕を無理やり振り抜く。

 凍結した氷が砕け散り、破片が無数の刃となって地を抉った。

 ――だがその巨眼が捉えたはずのセレスティナは、すでにそこにいない。


「……っ!」


 視線を振り向けた瞬間、背後からまた矢が閃く。

 彼女は紋を踏み、転位結晶陣(アステリズム・ゲート)で後背へ移動していたのだ。

 放たれる矢が大気を切り裂き、巨体の脚部を凍てつかせる。


「がぁぁぁッ!」


 バルグは戦斧を振り回し、氷を粉砕しながら背を翻す。

 しかし、振り返った先に再びセレスティナの姿はない。


「――こちらです」


 淡い声と共に、別の角度から氷矢が撃ち込まれる。

 腕、脚、肩、背。次々と部位を凍らされる巨獣は、砕いても砕いても、再び別の部位を凍結させられ、完全に翻弄されていた。

 斧皇の巨威は振るわれぬまま、ただ氷を砕く破砕音ばかりが戦場に響く。

 セレスティナの魔法は決して致命を与えるものではなかった。

 だが、その目的はただ一つ――。


「……奴を足止めしている間に、私は……」


 朧は既に影を伝い、戦場を巡っていた。

 静寂を纏った彼の手には、銀環が淡く脈打っている。


 ――鳴心環。


 拍を整えるように、彼は一つの環を地に置き、指で紋を描く。

 環は心臓の鼓動のように小さく鳴動し、青白い光を広げた。


「ひとつ……」


 影へと再び沈み、彼は次の地点へ移る。

 六つの座標。その中心にバルグを閉じ込めるための大陣を描くのだ。

 だが設置は容易ではない。

 鳴心環はただ置くだけでは力を示さない。

 そこに宿る“拍”を整え、大地の律動と響かせなければならない。

 そのわずかな時間ですら、この戦場では命取りだ。


「……今はただ、あの娘に託すのみ」


 セレスティナの矢がまた炸裂する。

 氷の鎖が巨獣の四肢を縛り、砕かれるたびに粉雪の霧が舞った。

 バルグは翻弄され、足を止めざるを得ない。

 その間に――二つ目の鳴心環が設置される。

 影の中で息を整え、朧は低く呟いた。


「残り、四つ……」


 巨獣の咆哮が大地を揺らし、氷片の飛沫が刃となって散る。

 その只中で、セレスティナは唇を噛み締め、再び弓弦を引いた。


「時間を……稼がなければ……!」


 ――轟音。


 振り下ろされた戦斧の衝撃波が、大地をえぐり裂いた。

 星紋が砕け散る寸前、セレスティナは咄嗟に身を翻し転移を完了する。

 しかし逃げ切れはしなかった。振動が全身を叩き、爆風に煽られて弓ごと吹き飛ばされる。


「っ……!」


 身体が土に叩き付けられ、肺から息が抜ける。

 脛に鋭い痛みが走った。

 転げながらも必死に立ち上がるセレスティナ。

 その膝は震え、足首は血で濡れていた。


「セレスティナ殿!」


 朧の叫びが響く。

 影を伝い飛び出そうとした彼を、次の瞬間、無数の光矢が遮った。


「ダメです……なりません!」


 声は弱くとも、その矢の雨は凛としていた。

 光矢雨ルミナリー・アローシャワーが放たれ、バルグの足元を叩く。

 大地に光の杭が突き立ち、巨獣の足取りを一瞬鈍らせる。

 セレスティナは血の滲む足を押さえもせず、弓を再び構えた。

 必死に、ただ必死に、彼女は時間を稼ぎ続けている。


「……っ!」


 朧は奥歯を噛みしめた。

 彼女の放つ矢がなければ、自分が設置する鳴心環など夢物語だ。

 ここで止まれば――その覚悟が、無駄になる。


「ならば……拙者はただ、前を見て走るのみ!」


 影が走り、三つ目に続き、四つ目の環が大地に沈む。

 青白い拍動が土中に響き、環が鼓動するたびに大地そのものが脈を刻むようだった。


 一方、セレスティナ。

 先の一撃で悟った。

 バルグは転移の仕組みを見抜いた――星紋を狙っている。

 ならば、と彼女は弓を強く握り、唇を噛んだ。


「一か所では狙われる……なら、惑わせればいい」


 矢を番えると同時に、五つの転位結晶陣が花弁のように散り展開する。

 淡い星光が五方に広がり、それぞれが彼女の可能性を映し出す。


 ――次の瞬間、セレスティナはその中の一つに身を移した。


 バルグは吼え、巨斧を掲げる。


「ぐぅぉぉおおおっ!」


 勘と直感を頼りに、一つの星紋を選び、戦斧を振り下ろした。

 衝撃波が天地を割り、その地帯を粉砕する。

 だが、そこには――誰もいなかった。


「外れです」


 静かな声が、背後から響いた。

 氷の冷気を纏った矢が疾風のように飛ぶ。

 氷風穿矢グレイシャル・ゲイルアロー――。

 矢はバルグの肩口を凍らせ、巨体を再び白に縛る。


「ぬうううッ!」


 砕け散る氷片と共に巨獣が吠える。

 その巨声の中で、セレスティナの瞳は決して揺らがなかった。

 セレスティナは知っていた。

 自分が、弱いということを。


 ――バニッシュには届かない。

 彼の緻密な魔法理論も、積み重ねた実戦の経験も、自分にはない。


 ――リュシアにも届かない。

 彼女の炎はただの火力ではない。心から迸る激情が、魔を薙ぎ払う剛烈な力となる。


 古代魔法を使える自分。

 だがそれだけでは、彼らに追いつけない。

 肩を並べて歩むには、まだ足りない。

 ずっと背中を追い続けるだけ。

 それを痛感したのは、一度や二度ではなかった。


 ――魔の森。

 フォルに連れられて行った秘密の場所。

 そこで襲い掛かった魔獣から、彼を逃がすので精一杯だった。


 ――エルフェインの戦い。

 守りたいと願いながら、結局は何一つ役に立たなかった。

 その事実は今でも胸に重くのしかかっている。


「……それでも」


 唇を噛み、矢羽を握る。

 瞳に浮かぶ涙を振り払い、セレスティナは星紋を散らす。


 ――追いつきたい。

 ――肩を並べて歩きたい。

 ――もう、ただ背を追うだけの自分ではいたくない。


 その一心で彼女は新たな力を求め、氷の古代魔法を覚えた。

 だが今、それすらも足止めするのが精一杯。

 バルグという巨獣の前では、全てが焼け石に水に思えた。

 転移――星紋が散りばめられ、彼女の身体が瞬間ごとに移ろう。

 氷風穿矢――氷と風を纏わせた矢が放たれる。

 巨躯を翻弄し、動きを鈍らせる。

 だがその代償はあまりに大きい。

 魔力はすでに尽きていた。

 それでも無理矢理、己の生命から絞り出す。

 骨の髄を削るような痛みに、視界は霞み、呼吸は浅くなる。


「……っ」


 足元がふらつく。

 怪我をした足からは血が滴り、土を赤く染める。

 それでもセレスティナは止まらない。

 彼女の矢が止まれば、その瞬間すべてが終わる。

 矢を放つたび、身体の芯が削がれていく。

 転移するたび、魂の奥底を抉られるような感覚に襲われる。

 命を削っていると、分かっている。


 それでも――


「止まれない……!」


 か細い声。だがその眼差しは確かに、巨獣を睨み据えていた。

 ――その姿を、朧は視界の端で見ていた。

 五つ目の鳴心環が、地に沈み、青白い鼓動を放つ。

 あと一つ。それで全てが繋がり、奴に対抗する術が完成する。

 だが時間が足りない。

 セレスティナの魔力は、もう限界を越えている。

 今にも倒れそうな足取りで、それでも彼女は矢を番え続ける。

 焦りに喉が灼けそうになる。

 影走りの冷静さを誇る朧でさえ、唇を噛み、己の無力を呪う。


 ――それでも彼は足を止めなかった。


 「セレスティナ殿……! 必ず繋げまする!」


 歯を食いしばり、六つ目の地点へと疾走する。

 その背中を押すのは、今にも崩れそうになりながらも決して折れぬ少女の矢だった。

 セレスティナの命を削る一射一射が、彼に最後の一歩を刻ませていた。

 戦場を揺らすのは、戦禍の巨獣バルグの咆哮。

 瀕死のはずの相手に弄ばれたという怒りが、その胸奥から噴き出す。

 黒鉄の甲冑に響く低い唸りは次第に膨れ上がり、やがて天地を震わせる獣声となった。

 その時だった。

 セレスティナが転移した残光と、影に紛れていた朧の動きが、偶然にも重なった。

 いままで気配を絶っていた朧――その存在に、バルグの血走った瞳が捉えたのだ。


「……ッ!」


 朧の背筋に冷たいものが走る。

 ――気付かれた。

 最後の鳴心環を設置するため、彼は地に膝をつき、鼓動を刻む環を静かに据えようとしていた。

 だが、そこで目が合ってしまった。

 巨獣の視線は刃そのもの。

 標的はセレスティナから、完全に朧へと切り替わる。


「まずい……!」


 声にならぬ呻きと共に、朧の指先は止まらない。

 鳴心環の設置には拍を整える繊細な作業が必要だ。

 一度でも中断すれば、これまでの苦労が水泡に帰す。

 セレスティナも、その変化に気付いていた。

 氷風穿矢を即座に番え、放つ。

 だが、怒りに燃えるバルグは意に介さぬ。

 迫り来る矢をその身に受け、氷を砕きながら戦斧を振り上げる。


 ――斧皇裂刃。


 その構えを見た瞬間、セレスティナの血の気が引いた。

 このままでは朧が討たれる。鳴心環は未完成。全てが終わる。

 ふらつく身体で、彼女は迷わず星紋へと跳ぶ。

 転移の先は、バルグの真正面。


「セレスティナ殿! なりませぬ!」


 朧の叫びも虚しく、彼女は己の身を盾とした。

 振り下ろされた戦斧――その軌道を、ほんのわずかに逸らす。


「くっ……!」


 衝撃が彼女の身体を貫き、血が宙を舞う。

 セレスティナは倒れ込み、その場に崩れた。

 だが、その一瞬のずれが命を繋ぐ。

 斧皇裂刃の刃筋は逸れ、朧の横を掠めていった。

 轟音と共に大地が抉れ、砂塵が舞い上がる。

 歯を食いしばり、耐える朧。

 その衝撃の中でも、彼は最後の鳴心環を据え置いた。


「……完了ッ!」


 震える声で叫び、朧は振り返る。

 セレスティナは血に濡れながら、それでも薄い微笑みを浮かべていた。


「……私に……かまわず……はやく……」


 絞り出すような声。

 その覚悟に、朧の胸が熱くなる。


「ふざけるな! 我が仲間を見捨ててなど行けるものか!」


 バルグは倒れ伏す彼女に狙いを定め、戦斧を振り上げる。

 朧は即座にスキルを発動した。


「――影命!」


 闇から分身体が飛び出す。

 三体がバルグの腕、胴、足に取り付き、残る五体が鋼を編み込んだ糸でその巨体を縛り上げる。

 本体はセレスティナを抱きかかえ、後方へと飛ぶ。

 だが、相手は巨獣。

 次の瞬間、圧倒的な膂力が分身も糸も薙ぎ払い、戦斧が振り下ろされた。


「……ッぐぅう!」


 斬撃を背で受け、鮮血を吐きながらも、朧は吹き飛ばされる勢いを利用して離脱に成功する。

 抱えていたセレスティナはその腕から零れ落ち、二人して地面を転がった。

 視界が霞む。呼吸が荒い。

 だが――まだ終わらせるわけにはいかない。


「……無駄には、せぬ……!」


 這うようにして立ち上がり、鳴心環に手を添える。


 ――その瞬間。


 六つの環が、互いの拍を響かせ始めた。

 脈動は波紋のように広がり、やがて一つの陣を描き出す。


「六芒陣……」


 大地に刻まれるのは、光の星紋。

 その中心に、巨獣バルグの影が立つ。


「これが……我らの勝利だッ!」


 朧の叫びと共に、陣が輝きを増した。

 拍が共鳴し、地鳴りのような振動が戦場全体を包み込む。

 六芒星の中心で、光と影と音が重なり合い――爆発的な衝撃柱が立ち昇った。

 それは防御も装甲も関係なく、内部を破壊する凶烈な共振の力。


 「グォオオオオオオオオオオオオッ!」


 巨獣の咆哮が大地を裂く。

 衝撃の柱はバルグを飲み込み、振動はその肉体を内側から砕き続けた。

 戦場全体が、その轟きと閃光に覆われた。

 大地を揺らした共振の残光が、ようやく収まっていった。

 光柱が消えた戦場には、焼け爛れた土と崩れた瓦礫の匂いが漂っている。

 その中心に――まだ立っている影があった。


 「……っ」


 朧の喉から、乾いた音が漏れる。

 そこに立つのは、戦禍の巨獣バルグ。

 鎧は無残にひび割れ、ところどころ崩れ落ちていた。

 鋼の断片が土に散らばり、肉を覆うはずの鉄壁はほとんど原形をとどめていない。

 それでも、その巨体は倒れなかった。


 「ば、ばかな……」


 共振――鳴心環の六芒星は、あらゆる装甲を内部から砕く切り札。

 それですら、バルグを屠ることはできなかった。

 影走りたちはざわめき、朧の背筋に冷たい絶望が走る。

 その時、バルグの眼光が赤く光った。

 赤き輝きは怒りと屈辱にどす黒く染まり、戦場を射抜く。

 その目に宿るのは、獲物を最後まで狩り殺そうとする狂気。


「……ッ!」


 バルグは吼えるように息を吐き、両手で戦斧を振りかぶった。

 その動きはゆるやかでありながら、誰の目にもわかる――最大にして最高の威力。

 すべてを叩き割る必殺の一撃。


 「斧皇裂刃……」


 朧は、死を悟った。

 既に身を守る影すら残っていない。

 ここまでか――その覚悟を飲み込んだ瞬間だった。


 ――天より、光が降り注いだ。


 それは白き霜を伴い、雪解けにも似た冷たい気配を抱いていた。

 淡青の輝きが戦場を染め、空に広がる巨大な魔法陣が浮かび上がる。


 「こ、これは……!」


 淡青の魔法陣は、鳴心環の描き出した六芒星すら霞むほどに巨大だった。

 その中心に立つのは、血に濡れ、傷つき、なお立ち上がったひとりの少女。


 セレスティナ。


 すでに魔力は尽きているはずだった。

 だが彼女は最後の最後に――仲間を守るためだけに残していた。

 古代に伝わる大魔法。


 「――氷葬極環(アイス・エリュシオン)!」


 かすれた声が戦場に響き渡る。

 瞬間、天空から奔流のように霜が降り注いだ。

 バルグの巨体に突き刺さり、全身を白き氷に閉じ込めていく。


 「グオオオオオッ!!」


 最後の咆哮が、空を裂いた。

 斧皇裂刃の構えを取ったまま、その巨腕は凍り付く。

 怒りも、屈辱も、全てを宿した眼光が最後まで輝きを放っていた。

 だが――その光も、やがて氷の中で静かに消えた。

 戦場に残ったのは、氷柱と化した巨獣の姿。

 その咆哮の余韻が、凍てつく風と共に虚空に散っていく。


 「……勝った……のか」


 影走りたちの誰かが、震える声で呟いた。

 やがてその声が連鎖のように広がり、喜びの叫びへと変わる。

 黒の勇者の兵たちはその光景を見て戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 朧は膝を折り、かろうじて意識をつなぐ。

 視線の先では、セレスティナがその場に崩れ落ちていた。


 「セレスティナ殿!」


 駆け寄ろうとしたが、全身が痛み、すぐには動けない。

 代わりに影走りたちが駆けつけ、彼女を支えた。

 セレスティナは苦しげに息を吐きながらも、微笑を浮かべた。

 その眼差しには、もう怯えも迷いもなかった。


 「……やっと、少しは……肩を並べられた、でしょうか……」


 その声は、かすかに震えていたが、確かな誇りを宿していた。

 影走りたちはその言葉を聞き、深く頭を垂れた。


 「かたじけない……」


 「あなたのおかげで……」


 感謝と安堵の言葉が次々に口をつく。

 彼らは朧とセレスティナを慎重に抱え上げ、救護隊のもとへと急いだ。

 凍り付いた巨獣の残骸を背に――。

 戦場に吹く風は冷たかったが、その冷たさは勝利を告げる静けさでもあった。

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