戦禍の巨獣、斧皇裂刃
東でリュシアとドルガが老獪なラグナと対峙していたその刻――。
西側の戦線では、セレスティナと朧もまた、「戦禍の巨獣」バルグを迎え撃っていた。
空気そのものが震える。
巨体が一歩進むごとに、大地は呻き、砂塵が舞い上がる。
全身を覆う漆黒の鎧。その一枚一枚が分厚く、まるで鋼鉄の城壁のようだった。
関節部分にすら、鎖のように編まれた鉄鱗が隙間なく重なり合っている。
「――っ!」
セレスティナが矢をつがえ、弦を弾く。
風を裂いた光矢が、バルグの膝裏を狙って真直ぐに突き刺さる。
だが。
――ギィンッ!
耳をつんざく金属音と共に、矢は弾かれ、虚空に砕け散った。
バルグは止まらない。
歩を緩めることすらなく、ただ前へと進む。
「……通らない」
セレスティナは唇を噛む。
関節を射抜ける手応えがあるはずの角度でも、鎧は矢を拒んだ。
「セレスティナ殿、退けッ!」
低く走る声。朧だ。
影のように滑り込み、バルグの足元へと潜り込む。
鎧の隙を縫い、肘の下、膝の裏、首の継ぎ目――。
目にも留まらぬ速さで刃を閃かせ、次の瞬間にはもう後方へと飛び退く。
だが。
キィンッ……!
刃は通らない。
薄く線を刻んだかに見えた箇所すら、すぐさま鎧が自己修復するかのように重なり合い、傷の影をも消していた。
「……ば、化け物め」
朧の呼吸が乱れる。
彼ほどの忍びが、刃の一つも通せぬ相手など、出会ったことがなかった。
バルグは小さく息を吐いた。
それだけで、山風のような圧力が辺りを覆う。
「――散れ」
低く重い声。
次の瞬間、戦斧が横薙ぎに振るわれた。
ドゴォンッ!!
地が砕け、空気が爆ぜる。
周囲を囲んでいた影走りの戦士たちが、一斉に吹き飛ばされ、枝のように折れ、血を吐き、転がった。
「ぐっ――!」
「まだ、立て……ッ!」
呻き声をあげながらも、影走りたちは再び立ち上がろうとする。
だがその姿は痛々しい。
立ち上がった端から、巨体の一歩で叩き潰される。
「くっ……これでは、こちらの負傷ばかり……」
セレスティナは矢をつがえ続けるが、心は重く沈んでいた。
狙いは確かだ。矢筋は正しい。だが矢はことごとく通らない。
敵は前進を止めず、こちらの兵ばかりが傷ついていく。
「セレスティナ殿!」
朧が短く叫ぶ。彼の声は鋼のように冷静だったが、その背ににじむ血が無惨に赤かった。
何度も回避と斬撃を繰り返すうちに、彼もまた限界に近づきつつあった。
バルグは歩を止めぬまま、鎧の隙間から低く嗤った。
「小賢しい……蟻のような刃も、羽虫の矢も……この身を傷つけることすら叶わぬ」
そして、戦斧を高く掲げる。
陽を遮る影が、大地を覆った。
セレスティナは息を詰め、弓を引き絞った。
白木の弓肢に古代語の囁きが刻まれ、彼女の魔力と風が絡み合う。
矢羽に刻まれた紋様が淡く光り、矢そのものが螺旋の風を纏いはじめた。
「――疾風穿弓!」
放たれた矢は、音を裂く。
空気をねじり、銃弾のような速度でバルグの巨体に迫る。
狙いは鎧の関節、唯一の綻び。
鋭い螺旋を描き、肩口へ突き立った。
だが――。
甲冑に走った音は「突き抜ける」響きではなかった。
硬質な響きと共に、矢は鎧に刺さったまま、肉体に届かず止まった。
バルグは眉一つ動かさず、その太い指で矢を掴み――ぐしゃり、と簡単にへし折る。
「……嘘……」
セレスティナの唇から、無意識に震えた吐息が漏れた。
風を乗せた矢すら通らぬ鎧。
弓使いにとって、それは絶望の象徴。
しかし巨獣は止まらない。
ずしん、と大地を揺らし、一歩。
さらにずしん、とまた一歩。
その背後では、黒の勇者の兵たちが鬨の声をあげ、波となって押し寄せてくる。
「これでも……ダメなの……!」
セレスティナは弓を握る指先に力を込め、悔しげに唇を噛んだ。
その横で、静かに刃のような声がした。
「――いいえ、十分です」
朧だった。
彼は迷いなく、巨獣へと一直線に駆けだした。
その姿は影の矢。
黒布を揺らし、地を滑るように走り出す。
バルグの巨腕が動く。
握られた戦斧が、雷鳴のような風切り音を立て、縦に振り下ろされた。
それは大木をも粉砕する死の一撃。
だが――朧の身体は、ひらりと流れた。
まるで月影が水面を滑るように、しなやかにその一撃を躱す。
「スキル――影命」
朧の声が、低く短く響く。
次の瞬間、彼の姿は九つに分かたれた。
九人の朧が残像のように駆け、バルグの肩口――セレスティナの矢が刺さった場所へ一斉に殺到する。
刃が閃き、音が重なる。
九人分の斬撃が、一点に集中した。
甲冑が悲鳴を上げ、わずかに、だが確かに――ひびが入った。
セレスティナの瞳が見開かれる。
「……通った……!」
しかし巨獣は倒れぬ。
逆に――戦斧を大きく振り回した。
その動きはもはや斧ではなく、棍棒のような豪腕の一掃。
「っ――!」
分身たちは次々に薙ぎ払われ、煙のように掻き消えた。
本体の朧は、最後の一歩で身をひるがえし、空へ舞う。
そして、セレスティナの隣――丘の上に、音もなく華麗に着地した。
「……やはり、ただの巨躯ではありませんね」
朧は低く呟き、再び影のように姿勢を沈める。
セレスティナは弓を握り直し、肩で息をつきながらも頷いた。
「でも……確かに届く。あなたの刃と、私の矢で……!」
二人の視線は、巨獣バルグのひび割れた肩口へと重なった。
その巨体はなお健在。
だが、確かに――傷を刻めたのだ。
セレスティナは弓を握る手を震わせながらも、己の使命を思い出すように深く息を吐いた。
空を仰ぎ、詠唱を紡ぐ。
「――光よ、矢となり、闇を裂け……光矢雨!」
光の紋が天へと広がり、そこから無数の矢が生まれ落ちる。
流星群のごとき光矢は、大地を覆い尽くすほどの密度でバルグに殺到した。
だが――。
「ヌゥンッ!!」
巨獣の咆哮と共に、戦斧が振り抜かれた。
その一撃はただの振り下ろしではない。
斧皇の名を冠する覇道の力。剛腕が大気を裂き、目に見えるほどの衝撃波を伴って奔流する。
轟音が戦場を揺るがした。
矢雨はことごとく吹き飛ばされ、光の粒子となって虚空へと散っていく。
余波すらも暴風と化し、セレスティナの銀髪を無造作に荒らし、彼女の身体を後方に押し流した。
「くっ――!」
必死に地へ踏みとどまるセレスティナ。視界が揺れる。
バルグは、戦斧を振り抜いた姿勢でぎしりと止まっていた。
――その刹那。
影が揺らぐ。
朧が音もなく駆け出し、スキルを放った。
「――影命」
刹那、九人の朧が生まれ、まるで黒い舞踏のようにバルグの周囲へ散開する。
それぞれの手から放たれた鋼を編み込んだ糸が閃光を反射し、巨獣の四肢と胴を縛り付けた。
地を震わせて進んでいた巨体が、一瞬止まる。
「今です!」
朧の声が鋭く響いた。
「……っ!」
セレスティナは応えるように、再び弓を引き絞った。
肩に走ったあのひび。そこだけが唯一の突破口。
「――光矢雨!」
光矢が再び奔流し、ひびへと集中する。
無数の光が一点へ集まり、爆ぜるような輝きを放った。
だが。
「――ォォオオオオオッ!」
バルグが咆哮をあげた。
鎖を断ち切るかのように全身の筋肉が膨張し、糸を持っていた分身体を薙ぎ払う。
分身は霧散し、本体の朧も後方へ大きく吹き飛ばされる。
セレスティナの放った矢群は肩口に届く寸前で逸れ、甲冑に弾かれて散った。
――突破口は、砕けない。
「なっ……!」
セレスティナの声が震える。
次の瞬間。
バルグの斧が天へ掲げられた。
黒鉄の戦斧に魔力が渦を巻き、地鳴りのような響きが広がる。
「斧皇裂刃――ッ!!」
振り下ろされた瞬間、斬撃は空気を裂き、地を割る衝撃となって奔流した。
斧から放たれた巨大な斬撃は、まるで山を裂くかのように一直線に伸びる。
「――ッ!」
セレスティナは弓を盾にするようにして跳躍し、朧もまた影へと身を滑らせた。
斬撃は地面をえぐり、炎と砂塵を撒き散らす。
その軌道の先――ルガンディアの防壁があった。
轟音と共に防壁が抉れ、巨大な亀裂が走る。
石片が宙を舞い、悲鳴が遠くから響いた。
――その一撃の余波だけで、国を護る城郭が砕かれた。
巨獣バルグは歩みを止めず、ただ笑った。
その鎧に傷はなく、ただ圧倒的な絶望だけが戦場に降り注ぐ。
「な、なんて威力なの……!」
セレスティナの喉から漏れた声は乾いていた。斧皇裂刃――今しがた防壁を抉った一撃の余韻がなお空に残り、石塵が陽光の中で白く漂う。
朧が横目で防壁の亀裂を測り、低く唸る。
「――あんなものを食らい続けていては、防壁がもたん」
前へ。巨影――戦禍の巨獣バルグは、すでに次の構えへと移っている。
巨斧を肩に担ぎ、踏み込みと同時に魔力を斧頭へ巻き上げる独特の予備動作。
肩、肘、手首、背筋の撓みまでがひと続きの“予告”だ。
「まさか、連発できるのか……?」
朧の耳がひくりと震えた。
セレスティナは躊躇しない。弓を下げ、足元に指先で素早く星紋を描く。
「――転位結晶陣」
淡金の星がひとつ、足元で弾け、視界がたわむ。
同時に彼女の身は軽やかな残像だけを残して空間をくぐり抜け、巨獣の背後へと“跳ぶ”。
着地と同時に半身、最短の射位。
「疾風穿弓!」
風の筋道を束ねた鋭矢が、バルグの頸背の隙へ走る。
だが巨獣は反射で振り返り、ためらいなく斧皇の軌を切り替えた。
「斧皇裂刃ッ!」
空間が悲鳴を上げる。
セレスティナは第二の星紋を踏み、ふたたび“元の座標”へ跳び戻った。
直後、巨斬撃は黒の勇者の兵を数十人巻き込み、遠くで黒い旗がまとめて吹き飛ぶ。
朧が息を継ぎ、短く頭を下げる。
「かたじけない、セレスティナ殿」
「いえ……ですが――このままでは」
セレスティナの視線が鋭くなる。
巨獣は斧を引き、またも構えへと移る。
躊躇がない。あの怪物は、撃つ度に自らを削っている気配がないのだ。
朧は一歩、前へ。影の張力が足もとに集まる。
「一つ、彼奴に通ずるやもしれぬ“技”がある」
セレスティナは横目で朧を見る。
「……時間が要るのですね」
「心得が早い。されど今の我らでは足止めすら叶わん」
セレスティナはふと微笑み、弓弦を指で弾いた。
澄んだ音が彼女自身の胸の内側を整える。
「――時間を稼げばいいのですね?」
「む、無理です。今の彼奴は、我ら二人で協けあっても――」
「大丈夫です。私にも考えがありますから。それに――今は、それに賭けるしかないでしょう?」
瞳が、まっすぐ巨獣を射抜いた。
朧はその眼に迷いがないのを見て、短く頷く。
「承知。ならば、彼奴の足止めを――頼む」
「お任せを」
セレスティナは一度だけ深呼吸をした。
そして、眼前に立ちはだかるバルグを見据える。
その瞳には覚悟の灯が宿っていた。




