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崩壊の魔力と獣人の絆

 爆煙がゆるやかに晴れていく。

 焦げた大地、立ち枯れた草、砕けた岩の残骸。

 熱気と煙の中で、黒壇の杖は真っ二つに折れ、瓦礫のように転がっていた。

 その中央に、ラグナは大の字に倒れていた。


 「……はぁ、はぁ……」


 膝から崩れ落ちるようにしてリュシアは座り込む。

 全身から汗が噴き出し、指先は震え、視界も霞んでいる。

 魔力をすべて吐き出し尽くしたのだ。


 「へへ……やったか……」


 ドルガもまた、身体中に傷を負いながら、なおも笑みを浮かべていた。

 毛並みは血で濡れ、息は荒い。

 それでもその笑顔は勝利の味を噛みしめていた。

 黒の勇者の兵たちは、主の敗北を悟ったのか、次々と武器を投げ捨て、士気を失い、背を向けて逃げていく。

 戦場に残るのは、荒れ果てた地と、勝利の余韻。


 そのはずだった。


 ――ひょっ、ひょっ、ひょっ……。


 空気を歪めるような笑い声が響いた。

 リュシアとドルガの表情が固まる。


 「……う、そ……」


 視線の先、倒れていたラグナの口元が吊り上がっていた。


 「まさか……わしが……このわしが……小娘と、獣風情に……ここまでやられるとはのぅ……」


 ラグナの身体から、黒い霧がじわりと滲み出す。

 それは血でも煙でもない。おぞましい瘴気。

 見ただけで胃が軋むような悪意の濁流が、大地に染み込んでいく。


 「な、なんなのよ、これ……っ!」


 リュシアは呻き、立ち上がろうとするが、体が重くて動かない。

 ただその光景に震えながら、必死に目を逸らさずに見つめる。

 ドルガは獣の本能で理解した。


 「あれは……ッ!」


 呻きながらも構え直す。爪を立て、牙を剥き、限界を超えた体を無理やり動かす。

 ラグナの全身を瘴気が覆い尽くす。

 黒衣が裂け、皮膚がひび割れ、覗いた肉体は血肉ではなく禍々しい闇の結晶に覆われていた。

 杖の残骸が砕け散り、その代わりに瘴気が腕の先で槍のように伸びる。


 「こ、これは……魔人……!?」


 リュシアの顔から血の気が引く。


 「くそ……しつこいじいさんだぜ……ッ!」


 ドルガは歯を食いしばり、なおも立ちはだかる。

 瘴気が霧散する。そこに立っていたのは、もはや老獪な仙翁ではなかった。

 痩せ衰えた肉体は影も形もなく、黒き角が頭から突き出し、赤い双眸が闇の中で怪しく光っていた。

 口元からは黒炎が洩れ、まるで深淵そのものが人の形をとったかのようだった。

 ラグナ――否、魔人と化したその存在が、嗤う。


 「……第二幕の始まりじゃ……のぅ」


 戦場に、再び絶望が満ちていった。

 ラグナはゆっくりと顔を上げ、痩せ細った指を空に向けて――「トン」と軽く弾いた。

 その瞬間。

 澄んだ鈴の音でも、耳障りな鐘の響きでもない。

 ――言葉にできぬ、おぞましい音色が戦場を覆い尽くした。

 ぎぃぃ、と鉄を削るような、ざわざわと皮膚の下を這い回るような。

 音の正体を知覚するよりも早く、リュシアとドルガの耳を灼くように突き刺し、脳の奥を直接かき乱す。


「な、なんだ……!? ぐああっ、頭が……!」


「やめ……っ、耳が……っ!」


 思わず耳を塞ぐリュシアとドルガ。

 だが、それ以上に凄惨な光景が広がった。

 周囲にいた獣人兵たちが、一人、また一人と。

 白目を剥き、泡を吹き、その場に崩れ落ちていく。

 呻き声すらなく、次々と命を絶たれていく仲間たち。


「な、なんだ!? なにがどうなってやがるッ!!」


 ドルガは叫ぶが、答えは返ってこない。

 ただ、ラグナの口元から「ひょひょひょ」と禍々しい笑いが零れるばかり。


 「……わしは“心葬の仙翁”ラグナ。精神を操り、心を砕き、魂ごと屠る……それが、わしの本来の力よ。」


 ぞっとする宣告。

 老いた外見にそぐわぬその声音は、今や魔人のもの。


 「てめぇ……よくも……俺の仲間を……!」


 獣人としての矜持を踏みにじられた怒りに燃え、ドルガは立ち上がり吼える。

 咆哮とともに喉奥から迸るのはスキル――咆牙。

 空気を震わせ、大地を裂き、凄まじい轟音の衝撃波がラグナを襲う。

 だが。


 「……なんとも心地よい、そよ風じゃのう。」


 ラグナは微動だにせず、笑みを崩さぬままその一撃を受け止めた。

 咆牙は彼の黒き外殻に触れるより前に掻き消え、ただ風のように散った。


 「……なっ!?」


 ドルガの目が見開かれた刹那。

 ラグナの指先が再び空を突く。


 「――音葬衝波。」


 魔人の姿で放たれるその一撃は、先ほどまでの比ではなかった。

 地鳴りのような衝撃が走り、大気が唸りを上げて押し潰す。

 ドルガの巨躯が、まるで木の葉のように吹き飛ばされ、地を転がる。


 「ぐっ……は、ぁ……!」


 獣人の豪腕を誇る彼でさえ、立ち上がることすらできないほどの一撃。

 その姿に、リュシアは悲鳴を上げた。


 「ドルガっ!!」


 しかし、彼女自身もまた、もはや立つ力を持たなかった。

 魔力はとうに使い果たし、残るは燃え尽きた身体と、わずかな意思だけ。

 ゆっくりと歩み寄ってくるラグナ。

 瘴気を纏いし魔人の双眸が、リュシアの赤と琥珀の瞳を射抜く。


 「ふむ……その瞳。やはり魔族か。……面白い。お主にはまだ利用価値がありそうじゃのう。」


 「……な、にを……」


 声を震わせるリュシアに、ラグナは淡々と告げる。


 「獣人兵の代わりに、わしの兵力となってもらおうか。」


 すっと、黒き手が彼女にかざされる。

 リュシアは咄嗟に魔力を練ろうとするが――。


 「くっ……!」


 手のひらに仄かな光が生まれるも、それは瞬時に掻き消えた。

 尽きた魔力は、もう彼女の炎を支えることはできない。


 「じょ……嬢ちゃん……! にげろ……っ!」


 血を吐きながら、地に伏したままドルガが叫ぶ。

 だが――その声は、無情な黒き音色にかき消された。


 「ひょひょひょ……逃がすものか。」


 ラグナが放ったのは、精神を侵す闇の旋律。

 それは耳ではなく、魂そのものに響く“黒き音”だった。


 「――あっ……」


 リュシアの視界が急速に黒く染まっていく。

 地も、空も、戦場の叫びも遠ざかり、ただ底なしの闇が彼女を呑み込む。


 「ま、まさか……私……」


 最後に見たのは、ゆがんだラグナの笑み。

 そしてリュシアの精神は、記憶の奥底へと、奈落の底へと落ちていった――。


 ――深淵。

 底の知れぬ闇に、少女は落ちていった。

 音も、色も、存在さえも吸い込む虚無。

 だがその果てで、確かに声が響いた。


 ――リュシア。


 懐かしいようで、恐ろしくもある声。

 胸の奥をざわつかせ、幼い頃の夢の残滓を揺さぶる声。

 その景色は、記憶だった。

 高い天井、石の柱、黒曜石を積み上げた荘厳な城内。

 玉座に腰掛けるのは、一人の強大な存在。

 その眼差しは深淵そのもので、世界を俯瞰する魔王――モンプチ。

 小さな少女――幼き日のリュシアは、その玉座を見上げて叫んでいた。


 「なんで!? なんで私たちは他の種族と共に暮らせないの!」


 モンプチは腕を肘掛けに置き、重く静かな声を落とす。


 「それが我らの理だからだ」


 「そんなの嘘よ! だって一緒に笑い合えるはずだもの!」


 玉座の影は短く黙し、やがて伏せられた瞳から低い声が紡がれた。


 「……お前にも解る時が来る。たとえ他種族と偽りの暮らしを送ったとしても――お前の中に宿る、我から受け継ぎし“崩壊と災厄”の力は、いずれすべてを壊すだろう」


 ――記憶は、そこでぷつりと途切れた。


 暗闇の中、声が再び押し寄せる。

 ――すべてを壊し。

 ――すべてを飲み込み。

 ――災厄の力を今。

 ――解き放とう。



 ラグナの音色が響き、リュシアの瞳は虚ろに沈み、首が垂れた。


 「嬢ちゃん……逃げろ……ッ」


 這いずりながら伸ばすドルガの声は、震えと血で濁っていた。


 「ひょひょひょ……」


 ラグナは禍々しい笑みを浮かべ、黒く濁った音を紡ぐ。

 リュシアの身体は操りの波に呑まれかけた。

 だが次の瞬間――。


 ――ドンッ!


 彼女の内側から、崩壊の魔力が奔流となって溢れ出した。

 空気が裂け、地面が悲鳴を上げる。

 エルフェインで暴走した時の比ではない。

 世界そのものを押し潰すかのような圧力が、四方八方へ奔った。


 「な、なに……ッ!?」


 余裕の笑みを浮かべていたラグナの顔から、初めて愕然の色が浮かんだ。

 リュシアはふわりと宙に舞い上がる。

 赤と琥珀の瞳は黒紫の光に染まり、その視線は魔王を彷彿とさせる威圧を帯びていた。

 その圧力は、精神を喰らうはずのラグナすら後ずさるほど。


 「お……お主、まさか……」


 言葉を言い切るより早く。

 リュシアの唇が紡いだ。


 「――崩滅葬界(カタストロフィア)


 黒紫の魔法陣が幾重にも展開し、世界そのものを崩すかのような魔力が一気に放たれる。

 奔流は嵐のように荒れ狂い、大気を裂き、大地を削り、周囲の黒の兵もろともラグナを呑み込んだ。

 轟音と共に、戦場が閃光に沈んだ。

 轟々と吹き荒れる崩壊の奔流は、大地を裂き、空を歪ませ、世界そのものを削り取るかのようだった。

 ラグナを消し飛ばした余波が収まる間もなく、その中心でリュシアは宙に浮かび、黒紫の光を宿す瞳から涙にも似た煌めきを零していた。

 だがその光は涙ではなく、すべてを呑み込み壊し尽くす災厄の力。

 少女の心を焼き切り、存在そのものを闇へと沈めようとする狂気の奔流だった。


 「……嬢ちゃん……!」


 呻くようにして立ち上がったのは、砕牙のドルガ。

 全身は裂傷と血にまみれ、まともに立っていることすら奇跡に近い。

 それでも彼は牙を剥き、拳を握り、立ち向かう。

 ――彼女を、このまま闇に落とすわけにはいかない。

 仲間を、戦友を、そしてあの気高い少女を絶望に呑ませてなるものか。


 「アンタに……その場所は似合わねぇ!獣人は、絶対に仲間を見捨てねぇ!」


 荒れ狂う魔力の渦の中で、ドルガの声が吠える。


 「獣人国ルガンディア――砕牙のドルガ!必ずお前を連れ戻すッ!」


 懐から取り出したのは、小さな輪。


 《鳴心環》


 拍を刻み、心を繋ぐ誓いの証。

 ドルガはそれを握りしめ、吹き荒れる崩壊の魔力の奔流へ突き進んだ。


 ――ゴウッ!


 風圧だけで肉体が裂けるかのような衝撃。

 魔力の奔流はあまりに凶悪で、わずかに気を抜けば即座に吹き飛ばされる。

 それでも一歩、一歩と前へ。

 血を吐き、爪が地を抉り、膝が折れそうになりながら、それでも進む。

 だが限界は近い。

 ドルガの体はとうに限界を超えていた。

 傷は開き、視界は赤く染まり、足は鉛のように重い。

 ――これ以上は進めない。

 絶望が喉に迫りかけた、その瞬間。

 ドンッ、と背に力が加わった。

 押し返すように、支えるように。

 振り返れば、そこには傷だらけの獣人兵たちがいた。


 「た、隊長……!」


 「俺たちも行きます!俺たちも……獣人の一人として仲間を見捨てない!」


 「お、お前ら……!」


 涙にも似た熱が胸を突く。

 ドルガはニヤリと笑った。


 「へっ……良い心意気だ!行くぞ野郎どもォ!」


 彼らの背が彼を押す。

 仲間の想いが、彼を前へと導く。

 獣人の誇りが、砕けかけた心を再び燃やす。

 前方では、リュシアが叫び続けていた。

 その声は悲鳴であり、呪詛であり、葛藤の咆哮。


 「――あぁぁぁぁあああああッ!」


 災厄の力が少女を喰らい尽くす前の、最後の抵抗にも思えた。


 「嬢ちゃん……もうちょっとだ!」


 必死に手を伸ばす。

 暴走する魔力に削がれながら、ついにその距離が手の届くほどに近づいた。

 ドルガは掲げた。《鳴心環》を。


 ――ドクン。


 まるで心臓が鳴るかのように、環がひとつ拍を刻む。

 続けざまにドクン、ドクンと鼓動が響く。

 それは混沌を鎮める律動。

 狂気を焼き切る日常の温もり。

 誰かと笑い合うための拍。


 「帰ってこい、嬢ちゃん……!お前の居場所は――ここだッ!」


 鳴心環の響きが、崩壊の魔力を包み込むように広がった。

 奔流は次第に弱まり、世界を削っていた黒紫の奔流が収束を始める。

 リュシアの体はゆっくりと宙から降り、地に足をつけた。

 宿っていた黒紫の光が消え、彼女の瞳はいつもの深紅と琥珀へと戻る。


 「……はっ……」


 呼吸が震える。

 目に映ったのは、満身創痍のドルガの姿。

 その巨体は限界を超えていたが、彼は満足そうに笑った。


 「……言ったろ……俺達は……あきらめが……悪い……んだ……」


 そう呟き、彼の体は崩れるように地へ倒れ込む。


 「ドルガ!」


 リュシアは叫ぶ。

 だが返ってきたのは、力強いいびきだった。


 「ぐがぁぁあ……ぐぅ……」


 あまりに堂々とした寝息に、後ろで彼を支えていた獣人兵たちが安堵の笑みを浮かべる。


 「……隊長は、このくらいじゃ死にませんよ」


 その言葉に、リュシアは胸の奥が温かくなり、力なく笑った。

 しかし彼女もまた限界だった。

 魔力を使い果たし、暴走の反動に体も心も削り切られ、糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。


 「リュシア殿!」


 慌てて駆け寄る獣人兵たち。

 急ぎ救護隊を呼び、二人の体を抱え介助する。

 戦場に響いていた災厄の奔流は止み、静寂が訪れていた。

 リュシアの頬に安らぎが戻り、ドルガの豪快ないびきが場を和ませる。

 ――仲間は、決して見捨てない。

 その誇りと絆が、ひとりの少女を闇から引き戻したのだった。

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