気高きエルフ、セレスティナ=エルグレア
セレスティナ=エルグレアは、卓越した弓の腕を持つエルフの少女だった。
その射撃精度は驚異的で、数百メートル先の標的をも正確に射抜き、戦闘では常に後方から冷静に援護を行っていた。
彼女の古代魔法の知識と魔力操作の技巧も、危機的状況を打破する手段として重宝された。
――だが、あくまで「戦力」として、である。
彼女のいた冒険者パーティー《紅牙の牙》は、実力よりも人数と派手さで目立とうとするような連中だった。
リーダーの男、ダルコは口がうまく、ギルドでは「統率力あるリーダー」と評判だったが、裏では粗暴で短気な性格を隠さない。
その周囲には、ダルコに媚びを売る男たちと、彼をチヤホヤする女たちが取り巻いていた。
セレスティナがその輪に入ることはなかった。
「……おーい、エルフ。荷物、持てる分は持てよな」
「回復薬、勝手に使うなよ? お前の矢なんか、当たるかどうか信用してねぇし」
彼女が返事をしないと、彼らは聞こえよがしに舌打ちをしたり、鼻で笑ったりする。
だが戦闘になると掌を返すように――
「おい、次の狙撃! 早く撃て!」
「てめえだけ逃げるなよ、後衛だろ!」
命令を飛ばし、彼女の力量を当然のように頼りきった。
だが、戦闘が終わればまた冷たくあしらい、焚火を囲む輪には加えず、食事を分けるのも後回し。
ある夜、焚火の陰で仲間たちが囁く声が聞こえてきた。
「なぁ、アイツ最近、態度悪くねえか?」
「もともとだろ。口もきかねぇ、飯も一緒に食わねぇ、色気もねぇ」
「エルフって長寿だから調子乗ってんだよ、きっと。いい気になってんだろ」
「……どうする? 今度の遠征でちょっと“懲らしめて”やるか」
その声は、笑い混じりの悪意に満ちていた。
「ふふ、慰み者にして、情報だけ吐かせて――後は適当なとこで、な?」
誰かがくくっと喉を鳴らして笑った。
「でもさ、アイツの古代魔法、けっこう使えるんだろ?」
「使えるのは道具だって同じだ。壊れたら捨てればいい。次を探すだけさ」
――それが、彼女に与えられた“仲間”からの評価だった。
セレスティナは、その会話を全て聞いていた。
だが、焚火の光の届かぬ闇の中で、彼女はただ静かに目を閉じた。
心は怒りも、悲しみも通り越して、何も感じなくなっていた。
孤独は、慣れていた。
だが、人に道具として扱われる感覚だけは、いつまで経っても馴染まなかった。
魔王軍の進撃は、突如として始まった。
空が濁り、地を這うような瘴気が森を覆う。
古代遺跡の探索依頼の帰り道、《紅牙の牙》の面々は、峡谷を抜ける狭路に差し掛かっていた。
そこで、"それ"は現れた。
――漆黒の魔狼、三つ首を持つ獣魔。
「な、なんだあれ……!? 聞いてねぇぞ、こんな魔物!!」
「っくそ、逃げろ!! 全員、散開して――ぐあッ!!」
咆哮一閃。
先頭にいた斥候が影も形もなく吹き飛ばされ、肉と骨の破片が雨のように降った。
「く、来るなァァァ!!」
ダルコが震える手で剣を振るうが、刃は皮膚を掠めることもなく、逆に喉を喰いちぎられる。
女の悲鳴、男の絶叫、地を引き裂く爪音。
パーティーは為す術もなく蹂躙され、一人また一人と消えていく。
訓練不足の即席パーティーは、一瞬で壊滅した。
セレスティナはその光景を見つめていた。
仲間の誰も、彼女を守らなかった。
いや、それどころか――
「おい、エルフ! 囮になれよ!」
「魔法使えるんだろ!? 何とかしろよォ!!」
――最後まで、彼らは“使い捨て”の道具として、彼女を前に突き出した。
「……死なない。まだ……ここでは……!」
傷つきながらも、セレスティナは最後の力を振り絞る。
矢を番え、魔力を練る。
古代語の詠唱が、血に染まる空に淡く響く。
「《フォル・レイヴ・アース――天葬の矢羽根よ、命脈を裂け》」
放たれた光の矢は、魔狼の右目を抉った。
同時に展開した《転移結界》が、空間を歪ませる。
全身を引き裂くような魔力の痛み。
骨がきしみ、視界が歪む。
それでも、彼女は“生き延びる”ことを選んだ。
転移の光の中、背後で何かが砕ける音がした。
自分がかつていた場所、そして“居場所”と呼ばれることのなかった隊――
全てが、そこに消えた。
足を引きずり、血を滴らせながら、彼女はひたすら走った。
誰もいない方へ、光のない方へ。
意識の輪郭がぼやけていく中で、足元に広がる奇妙な魔法陣の痕跡に気づく。
「……これは……結界?」
転げるようにその境界を越えた瞬間、
ぴたりと空気が変わる。
――そして、次の瞬間。
彼女は、静寂に包まれた森の中にいた。
澄んだ空気、風に揺れる葉音、優しく波打つ魔力の膜。
「……ここは?」
膝から崩れ落ちた。
魔力も、体力も、気力も、すべてを使い果たしていた。
しかし、不思議と温かい感覚があった。
この森は、どこか“拒まない”。
気づけば、鳥がさえずり、小さな動物が木陰から彼女を見つめていた。
――結界。
高度に精密で、だが温もりのある守護結界。
それが、バニッシュ=クラウゼンの結んだ結界だった。
「……生きて、いいの?」
その問いに、風が答えた。
そして彼女は、そのまま意識を手放した。
森は静かに、傷だらけの彼女を包み込む。
夕暮れの光が森を金色に染めるころ――
拠点中央にある石造りの術式盤が、かすかに脈動した。
リュシア「……結界が揺れたわね」
薪を割っていたリュシアが振り返る。
その瞳が、わずかな魔力の歪みをとらえていた。
「……ああ。誰かが“迷い込んだ”みたいだ」
結界の核石に触れていたバニッシュもまた、揺らぎの波動を感じ取っていた。
この結界は、敵を拒み、迷い人を受け入れる――
それでも、内部に干渉があれば、必ず感知できるよう設計されている。
リュシア「ただの通りすがりじゃない。……かなり深い傷を負ってる魔力の乱れがあるわ」
バニッシュは頷き、傍らの荷物をまとめる。
「ザイロたちはここに残ってもらう。リュシア、行けるか?」
「当然でしょ。私がいなきゃ、あんた倒れられないでしょ?」
軽口を叩きつつも、準備万端とばかりに腰に手を当てるリュシア。
拠点にはメイラとザイロ、そして子どもたちを残す。
バニッシュとリュシアは、結界の揺らぎが発生した北東の森へと急いだ。
木々の間を縫うように駆け、風の流れを読みながら魔力の痕跡をたどる。
そして――
「……いた!」
苔むした古木の根元。
枯れ葉にまみれ、ぐったりと倒れる一人の少女。
紫がかった銀髪、切れ長の美しい目元は閉じられ、呼吸は浅い。
衣服は破れ、肩からは血がにじんでいる。魔力の消耗もひどく、意識は完全に途切れていた。
「高位の魔力……ただの冒険者じゃないわね。これは……エルフ?」
「それに古代の術式痕……かなりの使い手だ。……放ってはおけないな」
バニッシュはすぐに自らの外套を脱ぎ、少女を覆うと、そっと抱き上げた。
「拠点まで持つ?」
「ああ。結界が彼女を受け入れたってことは……今は“守るべき命”なんだろう」
リュシアは一瞬だけ、その言葉に目を伏せる。
「……まったく。ほんと、あんたってそういうとこあるのよね」
そう言いつつも、彼女の指先はすでに簡易の《回復術》を唱え、少女の出血を止めていた。
森の中に風が吹く。
その風は、迷い込んだ少女に新たな運命を告げるように、優しくそよいだ――
柔らかな布の感触。
冷たい額と、胸元に感じる包帯の締め付け。
――そして、痛み。
セレスティナ=エルグレアは、ゆっくりとまぶたを開けた。
視界に映るのは、木材を組んで作られた素朴な天井。
見慣れぬ場所だ。すぐに全身を警戒モードへと切り替える。
身体を起こそうとした瞬間、肩から背中にかけて鋭い痛みが走った。
「っ……」
呻きながらも、すぐさま目を走らせ、近くに置かれていた短剣に手を伸ばす。
「……起きたか」
その声は、すぐそばから聞こえた。
低く、落ち着いた、だが油断ならぬ男の声。
視線を向けると、焚き火の傍らにいる男が、こちらを見ていた。
無骨な外套を羽織り、静かに薬草を煮ている――それが、バニッシュ=クラウゼンだった。
「安心しろ。……まだ傷は癒えていないはずだ」
そう言うと、彼はそっと湯気の立つ椀を持って近づいてくる。
セレスティナは短剣に指をかけたまま、鋭い目を向けた。
「……ここは、どこ?」
「魔の森の中にある俺たちの拠点だ。あんたが倒れていたのは、俺の張った結界の中だよ。結界が揺らいだから見に行ったら――あんたがいた。だから、助けた。それだけだ」
簡潔な説明。
だが、その中に偽りの色はない。少なくとも、表面上は――。
「……信じられない」
「別に信じなくていい。だが、薬は飲んでおけ。今のあんたじゃ、立ち上がることもできんだろ」
そう言って差し出された椀からは、ほんのりと甘い香りが立ちのぼっていた。
毒の気配は……感じられない。
セレスティナは椀を受け取らないまま、瞳を細めた。
思い出すのは、魔物の襲われ。炎に焼かれ、崩れる瓦礫。
仲間たちが、自分を置いて逃げ――いや、捨てた瞬間。
必死に逃げて辿り着いた先が森の中―――。
何かを拒むようで、受け入れる不思議な場所だった。
……そのとき、木の扉がカラリと開いた。
「目を覚ましたのね」
少女の声。
ふわりと風が舞い込み、深紫の髪が揺れる。
中に入ってきたのは、リュシア=モンプチだった。
その姿を見た瞬間、セレスティナの体が硬直する。
「魔族……!」
反射的に短剣に手を伸ばしかけ、すぐに傷が疼いた。
「っぐ……!」
呻き声とともに、身体を伏せる。
「落ち着け、彼女はここにいる仲間だ」
バニッシュが静かに制する。
だが、セレスティナは睨むように言った。
「魔族に……“善い者”など、いるはずがない」
その言葉に、リュシアが一瞬だけ眉をひそめた。
「ふん。そう言われるのには慣れてるわ。今さらどうってことないけどね」
そっぽを向きながら、冷ややかに言い放つ。
だが、その場に漂う空気は、どこか張り詰めていた。
その緊張を破ったのは、さらに後から入ってきた二つの声だった。
「お姉ちゃん、目覚めたの?」
「よかった」
バタバタと走り込んできたのは、獣耳と尻尾を持つ兄妹――ライラとフォルだった。
セレスティナは、その姿に驚愕する。
魔族に、獣人に、そして人間……この空間には、あり得ない種族の共存が成り立っている。
信じられないというように、彼女は口を開く。
「ここは……いったい、何なの……?」
誰も答えなかった。
だがその静けさの中で、バニッシュが最後にぽつりと言った。
「ここは――そういう場所なんだ。迷った者がたどり着く、ちょっとした隠れ家さ」
セレスティナは、ただ呆然とその言葉を受け止めるしかなかった。
夕方、あのベッドの部屋にて。
バニッシュは椅子に腰かけたまま、静かにセレスティナの様子を見つめていた。
彼女は窓の方に視線を向けたまま、口を閉ざし続けている。
包帯越しに時折顔をしかめるが、それでも言葉は出ない。
「……何か、事情があるんだろ?」
バニッシュの問いかけにも、セレスティナは表情を動かさなかった。
まるで心の奥に頑丈な鍵をかけているように――誰にも踏み込ませる気配がない。
バニッシュは少し肩をすくめ、立ち上がる。
「無理に聞く気はない。話したくなったらでいい。ここは、自由に使って構わないから」
それだけ言って、彼は部屋を出て行った。
外では、リュシアが壁に寄りかかりながら待っていた。
「どうするの?」
腕を組みながら、真っ直ぐな目で問う。
「どうって……? まあ、いろいろ事情があるんだろうし、しばらくそっとしておこうかと思ってる」
バニッシュは気だるげに答えるが、リュシアはため息をついた。
「そうじゃなくて。このままだと、あの娘……あの怪我のまま出ていくわよ」
その言葉に、バニッシュの足が止まる。
しばらく考えるように目を伏せたあと、静かに呟いた。
「……それは、あの娘が決めたことだ。俺には咎められない」
「……もう、あんたってほんと、優しすぎるのよ」
そして――夜。
森の中に月光が差し込む。
家の扉がゆっくりと軋んだ音を立てて開く。
包帯の隙間からまだ血の滲む身体を引きずりながら、セレスティナはそっと拠点を出る。
その手には小さな荷袋が握られ、背負った弓もかろうじて担がれていた。
――ここには、長居すべきじゃない。
人間も、魔族も、獣人も共に暮らすこの空間は、自分にとって――あまりに、眩しすぎた。
しかし、その前に、静かに影が現れる。
「……どこに行くの?」
声の主は、ライラだった。
焚き火の残り香を背に、彼女は片手に湯気の立つ木椀を持っていた。
「……お前たちには関係ない」
セレスティナは、冷たく言い放つ。
だがライラは臆せず、淡々と告げる。
「まだ傷、癒えてないでしょ。……それに、今日、ご飯食べてなかったよね?」
その言葉に、セレスティナの足が止まる。
「……」
「持ってきたんだ、スープ。温かいうちに食べよ。立ってると痛むでしょ」
差し出されたスープの匂いが、ふわりと鼻先をくすぐる。
滋味深い香草と野菜の甘みが、空腹の胃にやさしく呼びかけてくる。
セレスティナは、しばしその場に立ち尽くした。
警戒のまなざしは、まだ解けない。
それでも、彼女の指が……ほんのわずかに、揺れた。
その場に座り込み、差し出されたスープをじっと見つめる。
そして、ひと匙。
――熱い。でも、やさしい味。
「……なんで、こんなことを?」
ぽつりとこぼれた問いに、ライラは少し目を伏せたあと、小さく笑った。
「昔の私なら、きっと追い出してた。でも……今は、違う」
月明かりの下、スープをすする二人の影が、ゆっくりと寄り添っていった。
「……少しだけ、話してもいい?」
返事を待たず、ライラは語り始めた。
「昔、私たち獣人の村が人間に襲われたの。理由なんて……ないようなもの。『危険だ』『いずれ裏切る』『魔王に加担する』って決めつけられて、ただ、それだけで。」
ライラの表情は穏やかだったが、その目の奥には深い痛みが宿っていた。
「村は燃やされて、仲間も家族も散り散りになった。私と、弟のフォルと、父さん母さんだけが逃げのびて……それでも、どこへ行っても追われて、恐れられて、差別されて。だから……人間のこと、怖かったの。」
セレスティナは、スープから立ち上る湯気を見つめたまま、黙っていた。
「……ここにたどり着いた時も、最初は警戒してた。バニッシュさんのことなんて、とても信じられなかった。でも、フォルは無邪気に懐いてて……」
ライラは小さく笑う。
「……リュシアさんに背中を押されて、勇気を出して話をしてみたの。そしたらね……あの人も、自分も仲間に見捨てられて、だから、人と関わらず一人で生きていこうってしてたって。」
少しだけ、セレスティナの瞳が揺れる。
「だけど、気がついたらリュシアさんがいて私達家族が来て、それでもバニッシュさんは、私たちを追い出さなかった。怒ることもなく、拠点に住まわせてくれて……ここに来て初めて、人間に“受け入れられた”って感じたの。」
セレスティナの喉が、かすかに動いた。
「……だけど、私は……」
ようやく、セレスティナが言葉をこぼした。
「私は、人間に裏切られて……捨てられた。今でも信じられない。優しさも、言葉も、全部嘘に思える……!」
その吐き捨てるような声には、傷の痛みと、心の痛みが滲んでいた。
ライラはそれを否定しなかった。ただ、穏やかな声で言う。
「……今すぐ答えを出さなくていいと思うよ。信じるのって、簡単じゃないもん。でもね、せめて……せめて傷が治るまでは、ここにいてほしいな」
そう言ってセレスティナの手を握った。
その手はとても暖かく、やさしいものだった。