紅炎と獣牙、誇りの誓い
ツヅラが捕らえられる少し前。東側の丘陵は、霧が切り刻まれた布のように千切れ、焦げと鉄の匂いが重く沈んでいた。
割れた盾と折れた槍の影が点々と転がる。
丘の肩に張った柵列の内側で、リュシアは額の汗を拭いながら視線を走らせた。
瞳が一瞬きつく細まる。
「……なに?」
戦列の縁が、波のように不規則に揺れている。
押しているはずの圧が、見えない手で逆なでされるみたいに崩れ、踏み込みの間合いが噛み合わない。
彼女は鼻先で熱い息を吐き、指に残る火の余韻を抑え込んだ。
「わからねぇ」
肩に丸太を乗せたような巨躯――砕牙のドルガが、低く唸って前方を睨む。
焦げ茶の毛並みに戦塵が張りつき、胸甲には新しい傷が白く走っていた。
「だが、この状況は悪い気がする。部隊を下げる。丘で整え直す。――全隊、下がれっ!」
号令が飛ぶ。尾で合図を返した兵が段を下り、楯の列が崩れないよう半歩ずつ退く……はずだった。
だが、列の一角。二、三、五――何人かが足を止めた。
まるで見えない杭に踝を縫いとめられたように、地面に根を下ろしてしまったかのように。
「何してやがる、下がれ!」
ドルガが吠える。怒鳴声は太鼓のように響いた。
だが、止まった兵は振り向かなかった――一拍の遅れののち、ゆっくりと、ぎこちなく首だけがこちらを向く。
困惑と焦燥が滲んだ顔だった。
瞳孔はわずかに開き、牙は震え、唇は「すまねぇ」と形を作りながら音にならない。
「……おい」
その瞬間、戦列の向こうで黒い旗が揺れた。
黒衣の兵が薄ら笑いを浮かべ、杖一本を中心に同心円のように間合いを空けている。
そこに――異様な気配が立っていた。
ゆるり、と。黒檀の杖を地に点じ、白髯を風に遊ばせる細身の翁。心葬の仙翁、ラグナ。
杖の先に吊られた小鈴が、風でも触れていないのにかすかに鳴った。チリン――とたったそれだけ。
なのに、ざわり、と空気が逆毛立つ。
止まっていた獣人兵が、踵を返した。仲間に向けて、刃を振り下ろす。
「やめろ!」
ドルガが駆ける。太い腕が楯をねじ込み、斜めから入った剣を受け止めた。
金属音がはじけ、火花が散る。刃を振るったのは、昨日まで一緒に塩肉をかじって笑っていた若い狼面だ。
瞳は泣いていた。涙は流れないのに、瞳そのものが泣くときの色をしている。
「体が――勝手に……!」
歯を鳴らしながら彼は呻く。
肩は自分の意思で止まり、腕は自分の意思で震え、なのに脚だけが、腰だけが、知らない律で前へ出る。
「下がりなさい!」
リュシアが叫ぶ。
掌に火がともり、紅が花のように開く。
だが、火を放とうとした刹那、彼女の前に巨影が割り込んだ。
「どきなさい、ドルガ!」
「駄目だ、嬢ちゃん!」
ドルガは片腕でリュシアを押しやり、自ら楯を高く掲げた。
操られた部下の刃が楯に当たり、骨にひびく重い衝撃が伝わる。
彼は押し返さない。ただ受ける。
押し返してしまえば、楯の向こう側の仲間の骨が折れるからだ。
「何してるのよ、あんた!」
「こいつらは俺の大切な部下だ!」
ドルガの喉が裂ける。
咆哮は怒りの音色をして、それでいて、どこまでも優しい。
「俺たち獣人は――決して仲間を裏切らねえ!」
言葉は、操られた者の耳にも届いた。
楯を叩いていた腕が一瞬だけ止まり、刃の角度がわずかに鈍る。
「た、隊長……!」
かすれた呼び声が楯越しに漏れた。
嗅ぎ慣れた汗の匂いと工房の油――全てがそこにあるのに、身体だけが遠い。
彼は自分の足を見下ろし、震えた。
「離れて、ドルガ!」
リュシアは歯を食いしばり、炎の奔流を抑えつけたまま叫ぶ。
紅は一度解き放てば選り分ける余地なく燃やしてしまう。
仲間の背を焦がさぬよう、彼女は炎を細く、鞭のように編み、地に叩きつけてラグナと黒の兵の間に炎の帯を走らせる。
だが――トン、と。乾いた一打。
ラグナの杖が地面を指でつつくみたいに軽く触れた。
鈴がチリン、と笑い、空気のどこかから糸の束が引き出される。
操られた兵の足が、再び動く。炎の帯を避けるように、最短の角度で、仲間の間合いへ斜めに切り込んでくる。
彼らの視線は「やめろ」と訴え、筋肉は「やれ」と命じられ、命令の主はどこにも見えない。
「やめろって言ってるだろうがぁっ!」
ドルガの楯が軋む。
肩で受け、腰で受け、脚で受ける。
彼はあえて重心を後ろへ置き、刃筋を外して膝でからめ取る。
投げない。折らない。倒れたら護る者がいなくなるからだ。
黒の勇者の兵の列が、にじりと前へ出る。
薄ら笑いが増え、矢筒の矢が一本、また一本と抜かれていく。
彼らは仲間割れの隙を嗅ぎ、そこへ刃を差し込むことに慣れていた。
「ドルガ、このままじゃ挟まれる!」
「わかってらぁ! だが、こいつらに刃は向けねえ!」
リュシアは舌を打った。
熱が喉の奥で泡立ち、視界の端で揺れるラグナの白髯が腹立たしいほど穏やかに見える。
操られた獣人兵の刃が、容赦なくドルガの楯を叩いた。
火花が飛ぶ。骨へ沈む鈍痛に歯を食いしばり、彼は吼える。
「目ぇ覚ませ、てめぇら!――正気に戻れ!」
返ってくるのは、止まらぬ刃と、泣きそうな瞳だけだった。
腕は振り下ろし、脚は前へ出るのに、顔だけが必死に首を横へ振っている。
意志と肉体の綱が切れ、心だけが助けを求めている。
丘の肩で小鈴がひとつ鳴った。
チリン――澄んだ響きが、戦場の雑音を縫い、胸の内側へ針のように刺さってくる。
「無駄じゃよ」
ひょっひょっひょ、と白髯の老仙が笑う。
黒檀の杖を軽く突き、ラグナは半眼のままこちらを眺めていた。
まるで散歩でもしているかのような足取り、だがその鈴の一打ごとに、仲間の動きがわずかに歪む。
ドルガは睨み上げる。
喉の奥で野太い唸りが生まれ、次の瞬間――紅い閃光が、空気を裏返した。
視界が爆ぜ、熱が風になって顔を撫でる。
爆炎の尾が一本の槍と化し、一直線にラグナの胸を衝いた。
「嬢ちゃん!」
ドルガの叫びと同時に、炎の主が駆ける。
火の衣をひるがえし、リュシアは地を蹴った。
瞳は真っ直ぐ、標的だけを射抜いている。
「こいつは私が相手する!」
「だが――」
「あんた、そっちをお願い!大事な仲間なんでしょ!」
言葉が楔になって胸へ刺さる。
ドルガは息を呑み、一瞬だけ苦笑した。
ああ、まったく、若いくせに言うことがいっちょ前だ。
「……すまねぇ!」
彼は踵を返し、操られた部下たちの前へ立つ。
楯を広げ、刃筋を受け流し、踏み込みを肩で殺す。
攻めない。断たない。ただ、戻ってくる場所を守る。
紅の爆煙が渦巻き、風がそれを裂く。
煙が薄くなり、ラグナの姿が露になる――はずだった。
「……っ」
リュシアの眉がわずかに動く。
そこに立っていたのは、ラグナではない。
黒の勇者の兵だ。盾を合わせ、列を作り、主の前へ身を差し出している。
鎧は爆炎で黒く焼け、布は炭のように崩れ、男たちは膝を折って倒れた。
どさ、どさ、と二、三歩分遅れて地へ落ちる音。
胸甲の縁がひしゃげ、手甲が外れ、焦げた指が小さく痙攣する。
彼らの瞳は虚ろで、だが恐怖も痛みも映していない。
痛みを感じる余地すら奪われ、ただ命令の形に固定されていた――そうとしか思えない表情だった。
「不意打ちとは、なかなかのじゃじゃ馬娘じゃのう」
紅の帷が散り、ラグナが笑っていた。鈴がからんと揺れ、白髯が煤を払う。
自分の兵を前へ押し出したのは彼だ。
合図ひとつで盾と化し、焼け死ぬことさえ「役割」として飲み込ませた。
喉の奥が冷える。
怒りは熱いはずなのに、リュシアの胸に満ちたのは氷のような感情だった。
「他人を操るアンタよりはマシよ」
彼女は低く言い、足を一歩だけずらす。
焦げついた風が戦場を駆け抜ける。
東の前線はなお乱れ、操られた獣人兵の咆哮が響いていた。
リュシアは唇を結び、両手を前に広げる。足元の大地に赤々とした紋が浮かび、複雑な幾何が次々と重なっていく。
――爆炎魔法陣。空気が灼け、周囲の兵たちが思わず顔を覆うほどの熱気が走った。
黒檀の杖を支えに、ラグナは口の端を吊り上げる。
「また爆ぜるか、小娘」
彼は鈴を一振り。
チリンと響く音に操られた獣人兵が動き、ラグナの前へと歩み出て壁を作った。
焦点を失った瞳。強靭な肉体が、ただ主の盾として並び立つ。
「嬢ちゃん、駄目だ!」
前線で部下を受け止めていたドルガが吼える。
声には焦りと祈りが混じっていた。
爆炎が直撃すれば、部下たちは灰になる。
操られているとはいえ、大切な仲間。
ドルガにとって見過ごせるものではなかった。
だがリュシアは、口元をつり上げた。
「そんな小細工、いつまでも通用するわけないでしょ!」
彼女の声と共に、魔法陣の中心から炎が弾ける。
だがそれは巨大な一撃ではなかった。
掌ほどの小さな火球がいくつも生まれ、流星のように宙へ舞い上がる。
数は十、二十ではない。細やかな軌跡を描き、獣人兵の隙間を縫うように飛び交った。
「……なに?」
ラグナの目が一瞬だけ細められる。
操られた兵を盾にする、その策は絶対と信じていた。
だが、火球はまるで生き物のように兵の脇をすり抜け、後方に立つ老仙へと向かう。
直後――爆ぜた。
ラグナを狙った火球が次々と炸裂し、轟音と共に爆風が前へ押し寄せる。
操られていた獣人兵たちは直撃を免れたものの、衝撃に吹き飛ばされ土の上を転がった。
焦げ跡を残し、擦り傷や打撲に呻くが――その瞳からは操りの色が消えていた。
「ぐっ……! 俺たちは……」
「隊長……すま、ねぇ……!」
自由を取り戻した獣人兵たちが荒い呼吸で呻き、涙を滲ませる。
その刃はもう、仲間に向けられることはなかった。
ドルガは全身で受けていた圧がふっと軽くなったのを感じる。
咄嗟に振り返り、リュシアの姿を見て――思わず苦笑を漏らした。
「嬢ちゃん……意外と器用なことが出来るんだな」
炎の鞭を思わせる軌跡を残した少女は、プイと横を向いた。
頬はうっすらと赤い。
「うっさいわね。文句ある?」
不機嫌そうに吐き捨てる声は、どこか照れを含んでいた。
リュシアは知っている。
これは己だけの力ではない。
バニッシュやセレスティナから繰り返し叩き込まれた教えがあった。
静かな言葉を思い出す。
赤き瞳に力強い炎が宿る。
爆風の残滓の中で、ラグナはわずかに口元を歪めた。
焦げ跡に覆われた衣を払いながら、愉悦と興味をない交ぜにした眼差しで少女を見つめる。
「ほう……なるほど。火を散らし、隙間を縫うか。じゃじゃ馬娘、思った以上に――」
リュシアは聞かない。
すでに次の火球を編み出し、赤い光を指先に纏わせていた。
「――次、行くわよ」
横合いから、ずしりと大地を踏み鳴らす足音。
砕牙のドルガが、血を拭いもせずに並び立った。
鎖帷子は裂け、肩口には黒々とした爪痕。腕は小刻みに震えているのに、牙はむき、目は死んでいない。
「俺もやるぜ」
「アンタ、その状態で何言ってんのよ」
獣人兵の槍を片腕で受け流し、拳で柄をへし折る。
その反動で傷口がぱっくり開くのが見え、リュシアは思わず眉を寄せた。
「へっ、こんな傷どうってことねぇ」
強がりだ。
明らかに無理を重ねる匂いがする。
火の気配は人の熱にも敏い。
彼の息は荒く、鼓動は速い。それでも、足は半歩も引かない。
「そんなわけ――」
言い切る前に、ドルガが唸るように遮った。
「それに――!コイツは俺の仲間に同士討ちをさせた。絶対に許さねぇ」
低い声。喉の奥で、獣の誓いが鳴った。
その一言に、リュシアは飲みかけた言葉を呑み込む。
脳裏に、エルフェインのファルンの背がよぎった。
誇りのために己の意思も願いも押し殺す、あの頑固者の横顔。
(――同じだ)
怒りだけじゃない。
群れの名を、仲間の名を、背に負う強情さ。
そこへ水は差せない。差しちゃいけない。
リュシアは火球をひとつ増やし、顎だけでラグナの方角を指した。
土煙の向こう、黒壇の杖がゆらりと動き、鈴がちりりと笑う。
操られた獣人たちの瞳は曇り、その手が震えたまま刃を握っている。
「……わかったわ」
短く、はっきりと。その瞳が射抜く先は、異様な老仙――心葬の仙翁ラグナ。
火の衣が肩口で揺れ、温度が一段上がる。
「ただし――死ぬんじゃないわよ」
彼女の声音は冷たく、熱い。
ドルガが鼻で笑い、槍の折れ柄を投げ捨てると、背の大剣を抜いた。
刃渡りに刻まれた咬み跡が、幾多の戦の総数を語る。
「ははっ! 当然だ!」
互いに半歩、前へ。
リュシアは火球の列をわずかに解き、細い糸で互いを繋ぐ。
爆ぜれば衝撃を鎖のように連鎖させ、間を穿つ算段。
ドルガは踏み込みの拍を彼女の呼吸に合わせ、咆哮を喉奥で噛み殺す。
風が一度、止んだ。
土と血と焦げ革の匂いの中で、二人の気配だけが澄んで立つ。
ドルガは膝の屈伸で地を掴み、足裏の感覚だけを頼りに重心を落とす。
遠くで太鼓が二度鳴り、鈴が一度、ちりり。
心葬の鈴音に、火の娘の指が答えた。獣の隊長の踵が、石を噛んだ。
紅と牙、並び立つ。次の瞬間に備え、ただ、構える。




