黒檻に囚われし女狐
牙門の上、冷たく張り詰めた空気が揺れる。
戦場の怒号と鉄の衝突音が遠くに響き、風が血と煙を運んでくる中で――その場だけは異様な静けさに包まれていた。
ツヅラは背筋を揺るがすことなく、金の瞳でフードの男を射抜いていた。
その眼差しは炎のように熱く、氷のように冷たい。
獣王国ルガンディアの影の支配者と噂される女狐の瞳に見据えられ、常人ならば一歩も動けなくなるだろう。
だが、フードの男は違った。
薄暗い布の奥で唇がわずかに動き、まだ言葉を紡ごうとしたその刹那――。
「撃てッ!」
ツヅラの背後に控えていた二人の門番が、弦を引き絞った。
音は刃を抜くよりも鋭く、矢は二条の閃光となって空気を裂いた。
狙いは寸分の狂いもなくフードの男の胸と喉。
獣人の鍛え上げられた腕から放たれた矢は、岩すら砕く威力を持つ。
しかし――。
カン、と乾いた金属音がした。
矢は届かない。
黒く濁った膜のような結界が、フードの男の周囲にいつの間にか張られていたのだ。
矢は触れた瞬間に弾かれ、木屑となって砕け散る。
門番たちの顔が驚愕に染まるよりも早く、フードの男は両手を大げさに広げ、舞台役者のように肩をすくめてみせた。
「やれやれ……事を荒立てるつもりはなかったのですがねぇ」
その声音は愉快そうでありながら、背筋に薄気味悪い冷気を這わせる。
フードの奥から覗く笑みは、闇に浮かぶ三日月のように不気味だった。
そして、男はゆっくりと右の手を門番たちへ向ける。
指先から溢れるのは、濃密に淀んだ黒の魔素。
「――混魂の葬歌」
呪言が吐き出された瞬間、空気が歪んだ。
門番二人の目がひっくり返り、白目を剥いたかと思うと、口から濁った息を洩らし、そのまま崩れ落ちる。
指先や尾は痙攣し、意識はすでに混沌の彼方に沈んでいた。
だがツヅラは動じない。
ただ涼やかな横顔のまま、金の瞳だけをさらに鋭く光らせた。
フードの男は崩れた兵を一瞥し、再びツヅラへと手を差し伸べる。
「できれば穏便に済ませたかったのです。……ですから、どうか我らに従っていただけませんか?」
その声音は柔和にすら聞こえる。
だがその奥底には、他者を支配し弄ぶ者特有の冷たさが潜んでいた。
ツヅラは短く息を吐き、涼やかな声で応じた。
「穏便にやと? ――なら手順がまちごうとったな」
その声は静謐でありながら、殺気を孕んでいる。
瞳の奥で金色が怪しく揺らめいた。
次の瞬間、空気が重く沈む。
大地が呻き、空気が圧し潰されるような感覚が走った。
「――跪き」
ツヅラが紡いだのは、彼女固有のスキル――群律。
言葉そのものが力となり、命じられた対象の身を縛る。
重力のような圧が、フードの男の肩と背を押し潰した。
結界の黒が波紋のように揺れ、床板がきしむ。
「ほう……これが、あなたのスキル――《群律》ですか」
フードの男は膝を折りそうになりながらも、あたかも余裕を失っていないかのように振る舞う。
口元からは嘲弄めいた笑みが洩れた。
ツヅラの金の瞳がさらに細められる。
「うちの群律に耐えるとは……なかなか高位のもんのようやな」
凛とした声が響く。
その声音には敵を称える余裕すら漂っていた。
フードの男は軽く首を振り、芝居がかった口調で答える。
「いえいえ、私など取るに足らぬ存在。……ですが、あなたの力は私には通用しません」
フードの奥で、確かに笑う気配があった。
挑発的で、煽るような笑み。
「ですので――どうか大人しく、降伏していただきたいのです」
「……降伏?」
ツヅラは一歩前へ出た。
その声音は低く、雷鳴の前触れのように響いた。
「あんた……あまりなめんといてや」
金の瞳が怪しく光る。
次の瞬間――。
「――吹き飛び」
群律の言が再び放たれる。
見えない衝撃波が奔流のように走り、フードの男を直撃した。
ドン、と凄まじい音が響き、男の身体は宙を舞い、背後の石壁に叩きつけられる。
石片が飛び散り、粉塵が宙を舞った。
「……っ!」
さすがのフードの男も、思わず短い呻きを洩らす。
その瞳に一瞬だけ驚愕の色が浮かんだ。
だが、ツヅラは容赦しない。
すでに地を蹴り、獣人特有の跳躍力で一瞬にして間合いを詰めていた。
爪が伸びる。
鋭い刃のように輝く五指が、フードの男の首筋を裂きにかかる。
「――ッ!」
刹那、フードの男は紙一重で身を翻す。
衣の裾が裂け、頬に風が走った。
直後――。
ゴリッ、と石を削る音。
ツヅラの爪が振り下ろされた先の壁が、まるで布のように抉れ、五条の深い爪痕を刻んでいた。
粉塵の中で、フードの男は距離を取り、再びツヅラへと向き直る。
その唇からは低い笑いが洩れていた。
「……その美しい容姿とは裏腹に、驚異的な身体能力ですね」
フードの奥から覗く瞳が、愉悦に濡れて光る。
「さすがは――この国をまとめるだけのお人だ」
その声音は、どこまでも余裕に満ちていた。
睨み合う二人の間に、鋼が擦れるような悲鳴が割り込んだ。
ツヅラの金の瞳が、風に流れる煙の向こう――城心の籠城郭へすっと向く。
さきほどまで静かに灯が点々と揺れていたはずのその一画が、不意にざわめき、土塁の内側から狼狽と泣き声が立ちのぼっていた。
「……今のは」
門楼の板がきしむ。
ツヅラの耳がぴくりと震え、尾に相当する帯飾りが硬く揺れた。
次の瞬間、血と灰の匂いに混じって、嗄れた怒鳴り声が届く。
獣人の男の声。女の叫び。幼子の泣き声。
ツヅラの視線の先、籠城郭の柵門が跳ね上がり、毛並みの荒れた狼種の兵が数人、よろめきながら飛び込んでくる。
いや、違う。歩みが不自然だ。
肩の角度、指の開き方、瞳の焦点――生の意思が抜け、誰かに「歩かされている」。
その異様を言葉にするまでもなく、門楼の端に立つ灰毛の若武者が呻いた。
「操られてる……!」
黒壇の杖の白鈴を思わせる澄んだ音が、風に細く混ざった。
ラグナ――心葬の仙翁。その鈴の音色が、籠城郭の中へと忍び込む。
狼種の兵は、仲間の背に刃を振り下ろした。
止めようと飛びついた熊面の男が弾かれ、背中から倒れる。
木の匙を握ったまま固まっていた老女に、別の操り兵が無表情で迫る。
門楼に立つツヅラの頬に、風が冷たく触れる。
彼女の目は細く、しかし凍るほど静かだ。
だが、その眼差しの奥で、炎の芯が一段深く色を変えた。
「穏便に参りたかったのですがねぇ」
フードの男が、舞台の袖から本舞台へと滑り出る役者のようにわざとらしく肩を竦め、フードの奥で笑った。
声は甘く、舌の裏に棘を隠す。
「避難所……いえ、籠城郭は国の心臓。そこに“音”が届けば、群れは自ずと膝を折る。……なのに、あなたはまだここにいらっしゃる。だから少し合図を」
「アンタ……!」
ツヅラの声が鋭くしなる。初めて露わになった怒りの温度にぞくりと背を粟立たせた。
フードの男は楽しげに囁く。
「おや、ようやく“女狐”の尻尾が見えました。――もう一度申し上げます。あなたが我らの前にひざまずき、力を差し出すというのなら、あの無粋な“人形劇”はすぐに止めさせましょう。もちろん、丁重に。穏便に」
「ふざけるな!!」
ツヅラの足が一度、畳を叩くように床を鳴らす。
次の瞬間にはもう、彼女の姿は風の切れ目へ潜り、フードの男の仮面めがけて跳んでいた。
伸びた爪先が月光を掬い、金の瞳が獣の刃に変わる。
だが、その一撃は空を切る。フードの男は半身で滑るように退き、袖の裾すら乱さない。
「おっと」
軽い声。
ツヅラの二の太刀、三の太刀――怒りが拍を乱し、刃筋の勘が半寸ずつ流れる。
その僅差を、フードの男は見逃さない。踵の返し、肘の畳み、肩の抜き。
すべてが紙一重で、しかし確実に「外される」。
「怒りは美しい。だが、心を乱していては――」
避けざま、男の掌が扇のように開く。
黒の紋が空気に描かれた。
「――冥柩の檻単語」
闇が折り畳まれ、骨のように硬い格子が虚空に組み上がってツヅラを囲う。
黒曜石めいた六面の枠が、音もなく落ちる。
ツヅラは躊躇なく爪を振り下ろした。
金の閃きが檻の一角を叩き、火花が内側に散る。
だが、手応えは石より鈍く、鉄より深い。軋みすら返らない。
「……なんや、これは」
彼女は顎を引き、呼吸を整えると次の拍で掌を返した。
群律を走らせ、言の剣で檻の結び目を断ち切ろうとする。
「――解け」
命ずる声が低く落ちる。
だが檻は微動だにしない。
黒の光が粘り気を増し、逆に命令の波形を吸い取るかのように無化した。
フードの男が、結界の外でゆるく首を傾げた。
「“言”で統べる理。美しい式ですね。ですが、これは“言葉”が届かない場所をあらかじめ作る術。詠唱も命令も、ここには落ちてこない」
ツヅラの金の瞳が、怒りの炎から氷の刃へふたたび変わる。
檻の四隅、面と面の継ぎ、黒光りのわずかな濃淡――彼女は「壊れ目」を探す。
瞬時に十通りの打ち筋を作り、五通りを捨て、残りを重ねる。
爪が音もなく走った。斜め、縦、横、裏。
刃に似せた掌打が面の裏骨を狙い、連撃を叩き込む。
重心を低く、膝で押し、肩で裂く。
しかし檻は沈まない。
黒は黒のまま、欠けず、凹まず、ただそこに在る。
フードの男はため息を大げさに吐いてみせ、両手を広げた。
「できれば――より良い関係でお連れしたかったのですが。致し方ありませんね」
門楼の下では、なお悲鳴が続く。
籠城郭の土間で、治癒隊が倒れた者を引きずり、若い兵が武器を奪いに飛びかかり、操られた腕が人形の棒のように無造作に振り下ろされる。
ツヅラの喉が、かすかに鳴った。抑えた息が一拍だけ乱れる。
「やめさせぇ」
短い言葉が檻の中で震えた。
フードの男は首を振る。
「条件は先ほどと同じです。あなたが我らの“秩序”に入るのなら」
ツヅラは一歩、檻の内で踏み込む。
爪を握り込み、拳にして面へ叩きつけ――音の代わりに、檻の内壁に小さな波紋が走った。
まるで湖面のような揺れ。だが壊れはしない。
「せやけどな」
ツヅラは唇の端だけで笑う。瞳は笑っていない。
「うちの“秩序”は、そっちの言う秩序と違う」
彼女は檻の内側に掌を当て、そのまま指先をすべらせた。
黒の面が、触れられるたびに金の微光をひとつ、またひとつ飲み込む。
「群れは膝を折って揃うんやない。背を重ねて、前を見る。そやから――」
フードの男が、つまらなそうに片手を振る。
「信条の講義は結構。あなたほどの方を傷つけたくはないのです。さ、ともに参りましょう。長たる器は、いずれ黒の勇者の秩序のもとにこそ映える」
「長やと?」
ツヅラは肩を回し、息を深く落とした。檻の中で、彼女の輪郭が一瞬ぼやける。
金の瞳が、檻の面越しに真っ直ぐフードの奥を貫いた。
「長は前に立つだけやない。最後尾の泣き声、真っ先に拾う役や」
男の唇が、わずかに吊り上がる。
「では、その泣き声を止めますか? あなたが首を縦に振れば、たちどころに」
返答の代わりに、ツヅラは金の瞳を光らせる。
檻の内の空気が、刃になる。