縁か、鎖か
軍幕の中は、まだ昼だというのに蒸した汗と油の匂いで満ちていた。帆布に当たる風は鈍い。
卓上には毛筆で引かれた黒帯が獣王国ルガンディアを三方から締め上げ、墨の滲みが薄い雫となって紙を重くしている。
ミレイユは椅子の背に片肘を預け、脚を組み替えた。
髪が肩で跳ねる。
彼女の爪が机の縁を小気味よく弾き、そのたび幕の内の空気が一つずつ尖っていく。
「――で、結論は」
報告役の兵は喉を鳴らした。
鎖帷子の下の汗が冷えて、声が僅かに震える。
「東の丘陵、先鋒が炎撃により半壊。西は矢の雨が尋常でなく、号令が途切れがちに。南は仕掛けが多重で、押し切る前に足を削がれ……」
最後まで聞かず、ミレイユの舌打ちが幕の壁を叩いた。
「ちっ。何やってるのよ。たかが獣の国一つ落とすのに、どれだけ時間を使えば気が済むわけ?」
「し、しかし予想以上に手強く、情報にない戦力も確認されております。火の魔――」
「言い訳なんか聞きたくない!」
白磁の水差しがわずかに跳ね、杯の縁が震えた。
ミレイユは身を乗り出し、兵を見ているようで見ていない目で地図の黒帯を射抜く。
「数ではこっちが勝っている。包囲もできている。なのに押し潰せないの?」
兵は口を噤む。
幕の外では角笛が二度、間を置いて一度。遠い戦の拍が薄く膜を震わせる。
ミレイユは肩で息を整え、水差しを手に取りかけて――やめた。
指に入った力を自覚し、器を砕いてしまう前に置く。
そのとき、卓の隅に置かれた黒い水晶が内側から灯った。
薄い光が帆布の影を揺らし、老人めいた湿った笑いが滲む。
『ミレイユ、あまり荒れるでない。多少手こずっているようだが――』
ひょひょひょ、と笑いが転がる。だが、その芯は冷えて硬かった。
『我らも戦線に出る。それでこやつらも終いじゃ』
ミレイユは苛立ちと待ち構えていた安堵をないまぜにした笑みを口の端に浮かべた。
「ふん、ならさっさと終わらせてきなさいよ、ラグナ」
『承知、承知。獣というものはの、群れの理でつながっとる。理ごと捻れば形は崩れる。見物しておれ、ひょひょひょ』
光はぱちりと消える。ミレイユは水晶から指を離し、短く命じた。
「伝令。東へラグナ、西へバルグ。南は維持、踏み込みは浅く。楔は東西からよ」
「はっ!」
兵が駆け出す。揺れた幕の隙間から昼の白が差し、砂塵の筋が遠くに立っているのが一瞬だけ見えた。
東の前線に、灰の外套をまとった老人が現れた。
黒壇の杖をつき、砂を踏むたびに衣がさらりと鳴る。
名は心葬の仙翁ラグナ。
老人と侮る者はすぐに、背筋にひやりとしたものを覚えた。
空気が一段冷え、風の向きが変わる。遠くの太鼓が急に遠ざかったように思えるのだ。
陣頭の獣人兵が槍を構えた。
「来たぞ、押し潰せ!」
牙をむいた狼種と熊種が同時に駆ける。
斜面の草が裂け、鉄の鳴りが連なった。
ラグナは立ち止まらない。
杖の石突を軽く地へ――トン。
杖頭の小さな鈴が、朝の霧の中で澄んだ音を一つだけ落とした――チリン。
その瞬間、先頭の二人がふいに止まる。
踏み込んだ足が土に沈み、肩がわずかにこわばった。
次いで、二人はそろって振り返る。
槍も剣も、まるで糸で引かれたように後方へ返り、後続の胸元へ一直線に走った。
乾いた悲鳴。血飛沫。押し寄せる列が半歩ぶれ、尾の角度が乱れる。
「な、なにをしている!?」
後ろにいた若い犬種が目を剥く。
だが刃を向けた当人は、自分の口から漏れた声に怯えたように震えた。
「か、体が……勝手に……!」
止める間もない。二人は仲間の肩を跳ね飛ばし、さらに奥へ刃を伸ばす。
周囲の兵が慌てて取り押さえようと飛びついた瞬間、ラグナの杖がもう一度、静かに地を叩いた――チリン。
掴みかかった四、五人の腕が同時に力を失い、次いで逆の方向へ動き出す。
抑え込むはずの手が、別の仲間の喉を求める形へと変わっている。
叫びは命令にならず、命令は音にもならない。
耳の奥を撫でるような鈴の余韻だけが、彼らの本能の深い層に針を落としていた。
「やめろ、俺は味方だ!」
「正気に戻れ!」
そんな声ほど、身体は逆らった。
群れの中で従うときに生まれる反射――その節を、ラグナは音一つで裏返してしまう。
ラグナはゆるりと前に出る。
焦りも昂ぶりもない歩幅。
杖の先が土を撫で、鈴が短く鳴るたび、近くの獣人兵が二、三人ずつ逆さの命令に沈んでいく。
目は開いている。耳も聞こえている。
なのに腕は止まらず、牙は仲間へ向く。
止めようと力を込めれば込めるほど、筋は鈴の節へ従ってしまう。
列の間に黒の勇者の歩兵が滑り込む。
転げた楯を踏み越え、武器を弾き、倒した敵の体を壁にして進む。
「笛を吹け! 拍を戻せ!」
指揮の狼が腹から声を張った。
だが笛手が口元へ笛を上げるより早く、隣の槍が彼の手首を打った。
笛が落ちる。土に鈍い音を残し、白い紐が泥に沈む。
長年戦場を知る老戦士が、己の頬を爪で裂いて痛みに耐え、目を見開いた。
「耳を塞げ!鈴の音を聞くんじゃんない!」
命令は正しい。
だがその直後、ラグナの鈴がたった一度、長く鳴った。チリリ――。
「噛め」
それだけで、噛むべき敵の代わりに味方の肩へ牙が落ちた。
老戦士は歯を食いしばり、正面から来る黒衣の刃を受け止める。
彼だけは鈴の節を意志で踏み越えた。だが彼が守った隣の列が、別の命令で崩れていく。
ラグナは三度目の音を落とした――チリン。
「眠れ」
前のめりで吠えていた熊種が膝から崩れ、楯を抱えたまま倒れた。
後列がその背につまずき、列全体が一瞬だけ無防備になる。
その隙間に黒の兵が刺し込んだ。
悲鳴が重なり、怒号がそれを追いかける。
怒れば抗えるわけではない。昂ぶりはむしろ、群れの従順を強くする。
ラグナは砂の上に浅い足跡を残しながら、ただ静かに歩く。黒壇の杖は年輪のような艶を保ち、石突は一度も泥を跳ねない。
彼にとって戦は破壊ではない。
調律だ。鳴り狂う心を別の曲へ整える作業だ。
誰かが泣き、誰かが祈り、誰かが歯がみする。ラグナの足は止まらない。
獣人兵の列は混乱し、黒の勇者の兵はその勢いに乗って楯の隙へ入り込む。
東の地面は、気づけば黒い靴跡で埋まっていた。
弓兵が黒壇の杖の鈴を狙って矢が放つ。
矢は風を割り、一直線に飛ぶ。
だが矢が鈴へ届く寸前、ラグナの前へ影が滑り込んだ。
操られた獣人兵だ。
楯で矢を弾き、串のように次の矢を払う。
西の疎林に、巨躯が影を落とした。
戦禍の巨獣――バルグ。黒鋼の甲冑で頭からつま先まで覆い、胸の紋に刻まれた無数の刃傷が鈍く光る。
面頬の隙から漏れる呼気は低く、前列の獣人兵の尾が無意識に伏せられた。
「下がるな。列を崩すな」
影走りの隊は樹間を舐めるように散り、土の匂いに輪郭を溶かした。
削り、絡め、止める――それが彼らの役目だ。
だが、巨獣は一歩で空気を変える。
バルグが踏み出す。地面が低く唸り、肩から滑り落ちた巨斧の刃が土に火花を散らす。
槍の穂が伸びた瞬間、柄尻が横から叩き折った。
木が噛み砕かれる乾音。
続く薙ぎは風圧だけで二列目の膝を折らせる。
「右から絡め!」
影が四つ滑り込む。短刀は関節を狙う。
板金の重ね目、腋、膝裏――教本通りの刺点。
だが刃は入らない。
黒鋼の重ねは異様に硬く、継ぎ目には革と鎖と符が埋められていた。
切っ先が弾かれ、逆に衝撃が手首を痺れさせる。
バルグの斧が立木ごと弧を描いた。
幹が折れ、枝葉が雨のように降る。
影の一人が体勢を崩した刹那、巨腕が伸び、外套の背を掴む。
宙で円を描いた体が地に叩きつけられ、土が鈍く鳴った。
救いの糸が飛ぶ。鎖鎌が指に絡み、掴まれた仲間だけは引き戻した。
が、代償に柄がへし折れ、掌が裂けた。
槍隊は間合いを取り直す。
槍先は斜め下からの突き上げに変わり、板金の裾を跳ね上げる狙い。
だがバルグは足裏で地を掴み、斧の腹で槍をまとめて受けた。火花と共に穂が弾け飛ぶ。
東と西が押され始めたという報が、南の陣へ立て続けに届いた。
土塁の陰で伝令の耳が伏せられ、息は荒い。
矢文には余白もなく、短い文字が斜めに走っている――「東、炎尽くも押圧」「西、巨獣抑え切れず」。
グラドは舌打ちし、縄の結びを片手で解き捨てた。
仕掛けの箱は空だ。罠穴は埋まり、逆茂木はへし折られ、眩光粉の壺も底を見せている。
土と汗の匂いの中で、彼は目だけ笑わずに吼えた。
「くそったれが。――よし、南から兵を分ける。三隊、東へ走らせろ。二隊、西へ。残りはここで踏ん張る!」
返事は一拍で返る。獣人の兵が尾で合図をし、列は音もなく割れた。
槍の列が走り、弓の束が肩に移り、救護の担架までが風のようにすり替わる。
南の厚みは目に見えて薄くなるが、誰も弱音は吐かない。
グラドは巨槌の柄を握り直し、土塁越しに迫る黒盾の列へ肩を並べた。
「罠は尽きた。なら腕でやるだけだ。歯ぁ食いしばれ!」
掛け声に応じ、前列の獣人が膝を落として盾を組む。
斜めの重ねが作る歯は粗いが、噛む意志は鋭い。南はまだ折れない――その確信を、グラドは無理やりにでも兵に見せた。
巨槌がうなり、盾の角に打ちこまれた打撃が列の腹をずらす。
そこへ二列目が槍を差し込み、三列目が肩で押し、四列目が倒れた仲間を引き上げる。
仕掛けの代わりに、連携そのものを罠にする。
牙門の上、ツヅラ御前は扇を畳み、城下の三方を一度に見渡していた。
東の火線は細り、西の砂煙は濃い。
南の厚みを削って送った兵の影が、遠くの稜線で光る。
太鼓の拍、狼煙の色、旗の揺れ、傷兵の流れ――群れの呼吸がすべて瞳に入る。
扇の骨がひとつ、ぱちりと鳴るたび、角笛が応え、伝令が駆け、陣形が半歩ずつ動いた。
「東、火の背を下げんと焦げるで。……西は、影走りの目を切らすな。南は――グラドはん、ようやっとる」
指示は短く、通る。
金の瞳は揺れない。
だが次の瞬間、彼女の尾骨を冷たい針が撫でた。
背後から、おぞましいほど静かな気配がしたのだ。
血の匂いではない。
獣の威でもない。闇が作り物の人を纏った時の、乾いた匂い。
ツヅラは眉ひとつ動かさない。
視線は戦場に据えたまま、声だけが柔らかく回る。
「――どこのどなた?」
返答は風に溶けるように来た。
「用のある相手に名乗りは無粋でしょう。ですが、貴女の耳なら風の前口上もいりませんね」
そこに立つのはフードの男だった。
深い頭巾は光を拒み、足取りも呼吸も、奇妙に音を持たない。
尾を揺らす獣の番兵が二歩手前で止まり、喉を低く鳴らした。ツヅラは片手で制する。
「うちは目付け役であって、お上ではあらへんよ」
戦況を見たままの言葉に、フードの男は口元を歪めた。
笑い、と言い切るには冷たい。
「お飾りのお上などに、我らは用はありません。――この国を裏で動かしているのは、あなたなのでしょう」
「それは買いかぶりいうもんや」
ツヅラは細く笑い、扇の先で空を撫でた。
遠くで火の帯が短く途切れ、すぐに繋がる。
彼女の声は澄んでいる。だが尾の毛は、ひそやかに逆立っていた。
「うちがどうであれ、アンタがここへ上がって来た理由は訊かせてもらおか」
フードの奥で、小さな笑みが動く気配がした。
男は舞台役者のように、ゆっくりと両手を広げた。
手袋の背に刻まれた黒い紋が、月のない昼のように光を吸う。
「おそれながら――貴女のその力、ぜひとも我らのために使っていただきたいのです」
「力、ね。……どの口が言うんやろ」
ツヅラは金の瞳を細めた。
扇の骨が二度、乾いた調子で鳴る。
石垣の上を渡る風が一瞬だけ止まり、下の広場で太鼓が二拍遅れて返る。
彼女は戦の拍を崩さず、会話の拍だけを別に刻む。
「アンタらは人様の縄張りへ殴り込んできた。血まで持ち込んで。従え?笑かしよる」
男は首を傾げ、溜息をひとつ紛れさせた。
「話を荒立てる意図はありませんよ。誤解を解きたい。――我らは乱暴狼藉がしたいのではない。“秩序”を正したいのです。世界は今、群れごとに好き勝手に吠え、牙を立て、互いの喉を裂こうとしている。黒の勇者は、それを一つに束ねようとしている。貴女の“群律”は、そのためにこそ相応しい」
「黒の勇者、ねえ」
ツヅラは扇で口元を隠し、肩で笑った。
金の瞳が、遠くの狼煙に一度だけ流れる。
「“束ねる”んは、肩で押すことやない。背を並べることや。――うちはそう教わってきた。アンタらのは、ただの膝折らせ。違うか?」
「似て非なる、と申し上げましょう」
フードの男は一歩、石垣の陰を踏んだ。
番兵の喉が再び鳴る。
ツヅラの指が、やんわりとその音を押し沈めた。男は両掌を見せて続ける。
「貴女の眼は、相手の心の“形”を見抜く。強さと弱さ、怯えと驕り、裂け目と継ぎ目。貴女の声は、群れの背骨を一本にする。――我らは知っています。牙門の前で兵を伏せさせた“言”も、いま三方の陣を半歩で動かす“拍”も。あれは術ではない。理です。だからこそ、お飾りではない貴女に話を持ってきた」
「褒めても何も出えへんよ」
ツヅラは視線を戦場へ戻す。
東の斜面、援軍の旗が見えた。
西の砂煙は少し切れ、南の太鼓が折り返しの合図を刻む。
彼女の呼吸は浅く、しかし乱れない。
「アンタの狙いは、つまり“手”を貸せと。うちの声で群れを黙らせ、黒の旗の下に従わせろ、と」
「端的に言えば。――ええ、そうです」
男は舞台じみた大仰さで頷いた。
「正面から貴女を縛るつもりはない。わかりやすい玉座も、無意味な勲章もいらぬ。必要なのは、貴女の“声”。ここルガンディアを皮切りに、人の国、森の民、山の民へと“秩序”を流す。その導管になっていただきたい。報いは約束する。外敵は我らが払い、貴女は内なる反発だけを鎮めればいい」
番兵の尾がぴくりと動く。
甘い誘いだ。だが、その甘さは油の匂いがする。
火がつけば、一気に燃え広がる類いの。
「ほう。ええよう言うわ」
ツヅラは細く息を吐いた。
彼女の言葉は柔らかいが、石垣の目地より硬い意思が芯に通っている。
「けどな、アンタらの“秩序”は、誰の心から生まれたんや。誰に向けて立てたんや。――群れの外から“こうしろ”言うだけなら、それは理やなくて、ただの棒やで」
「鎖は必要だ」
男の声色が僅かに低くなる。
「混沌の中で、鎖は“絆”の証になる。鎖がなければ、群れは好きな方向へ倒れる。鎖があれば、倒れない。……貴女は棒を握れる手だ。握れぬ者に代わって」
「へえ。うちにも鎖を握れ、と」
「ええ。握って、束ねるのです。貴女の高さで。貴女の目の位置で。――だから繰り返します。貴女の力を我らに」
風が石垣を撫で、遠くの狼煙台で白が一度、赤が二度、間を置いて上がった。
ツヅラはその意味を読み取りながら、なおも沈黙を保つ。
沈黙は拒絶でも承諾でもない。
群れを動かす時、言葉を急げば群れは転ぶ。
彼女は“待つ”ことを知っている。
フードの男は、その沈黙を己の舞台の余白と見なしたらしい。
さらに言葉を重ねる。
声は低く柔らかいが、芯は鉄だ。
「具体を申し上げましょう。まず兵糧。黒の旗の補給網は、西の商圏と南海の船を束ねています。ルガンディアの冬越しに不安はなくなる。次に交易。獣毛、香角、心具の加工品を公定価で買い上げ、市場の足元を安定させる。関税は据え置き。――そして治安。各部族の小競り合いには“共通法”を敷く。復讐の連鎖は、鎖で断つ」
男は数を折る指先まで、芝居の道具のように滑らかだった。
「見返りは少ない。貴女の“言”を我らの拍に重ねること、それだけでいい。人は理を示されれば膝を折る。貴女が前に出れば、血は減る。これは貴女の国にとっても善だ」
金の瞳が、わずかに細まる。
ツヅラの視界の端、東の斜面でリュシアの火が膨らみ、すぐに締まった。
西では砂煙の縁が切れ、影走りの鈴が淡く鳴る。
南の土塁では、巨槌がまたひとつ、黒盾の角を削いだ。
――まだ、間に合う。彼女はそう測る。
彼女の胸裏には、昨夜の縁側で交わした杯の味が残っていた。
米の甘み、冷たい月、そして男の言葉。
「背を並べる」
火を嗅ぎ分ける獣の勘が、いま目の前の“申し出”に混じる匂いを告げている。
油と蜜。滑る甘さ。火がつけば、蜜は焦げて苦くなる。
「せやな……」
ツヅラは独り言のように呟き、扇の面で頬の熱を撫でた。
暑さは戦のせいだけではない。
背後の男が纏う“作り物の人”が、石垣に熱を溜める。
フードの男はさらに身を乗り出す。
頭巾の奥、目が細く笑ったように見えた。
「加えて申し添えます。黒の勇者は“敵”を作らぬよう気を配っている。彼は旗印であって、刃ではない。刃を振るうのは、我ら取り巻きの役目です。だからこそ、貴女のような“声”が要る。刃では届かぬところへ、声は届く」
「黒の勇者は刃を持たん、か」
「ええ。彼は理を掲げる。――その理に、貴女の“群れ”を連ねてほしい」
石壁に溜まった熱の上を、乾いた風が渡る。
遠くで子の泣く声が一瞬だけ上がり、すぐに消えた。
籠城郭で誰かが子守歌を口ずさんだのだろう。
ツヅラは一拍だけ目を閉じ、その声の高さと拍を胸に刻む。
群れの声は、こういう高さをしている。
鎖では触れられない高さだ。
彼女は扇を返し、骨の一本を親指で弾いた。
ぱち。小さな音が、牙門の上で不思議に遠くまで通る。
東の弓手が矢羽を整え、南の治癒隊が水瓶を替え、西の影が一歩だけ薄暗がりへ溶けた。
彼女の“言”は、いまも確かに届く。
鎖はいらない。
「アンタらは、うちの目の届かんところへまで“鎖”を伸ばすやろ」
「必要なら」
「その“必要”を、誰が決めるんや」
「理が」
「誰の理や」
短い問答が続き、フードの男は一瞬だけ言葉を選んだ。
だが、選ばれた言葉はやはり舞台の台詞めいていた。
「世界の理。強きが弱きを守り、弱きは強きに従う。互いに役割を果たす。単純だが、美しい」
「美しいもんは、だいたい触ると怪我するで」
ツヅラは鼻で笑い、もう一度、戦場を見渡した。
狼煙の白が再び上がり、太鼓が一定の速さで街の空気を叩く。
彼女の声が低く落ちるたび、その拍はわずかに滑らかになる。
「それとな」
彼女はわざと語尾を伸ばし、男の胸の前で言葉を一度止めた。
期待が喉に引っかかる音が、頭巾の奥で小さく鳴る。
「うちは、あんたらの“鎖”よりいいもんを知ってる」
「ほう」
「“縁”や。折れんし、燃えにくい。絡め取ったらほどけにくい。――鎖は振り回せるけど、縁は抱えへんと延びん」
男は、初めて言葉に詰まったように見えた。
だがそれも一瞬。
すぐにまた、舞台の音色が戻る。
「縁もまた、導かれねば絡まるだけです。――我らはその導き手になれる」
ツヅラは肯とも否とも取れない相槌を、喉の奥で一度だけ転がした。
男は言葉を重ねるごとに身振りを大きくし、まるでここが舞台であるかのように身を翻した。
袖口の影が石の上に揺れ、細い匂いだけが残って消える。
ツヅラはその芝居がかった手つきを一度も追わない。
ただ、遠い戦場の点と点を結ぶ線を見つめ続け、必要なところへだけ息を吹き込む。
男の言は、理路整然としていて耳ざわりもよい。
だが、甘すぎる蜜は腹を壊す。
ツヅラは胸中でそう言い聞かせると、戦場の一点一点に意識を置き直した。
旗の影、太鼓の速さ、負傷者の歩幅――嘘はそこに出る。
東の火筋は狭まり過ぎない。
西の砂は深くなり過ぎない。
南の列は恐れを噛み砕く。
彼女は確かめるごとに、小さく頷いた。
目は戦に、耳は敵に、心は群れに。
言葉はその次でいい。
だからこそ、結びは短く。重く。確かに。揺るがず。――さらに。
「……ようわかった。――せやけどな」
扇の骨が、こんどは一度だけ鳴った。
牙門の上にいた兵がひとり、ふたりと位置を替え、弓の角度がわずかに揃う。
ツヅラの声は、その拍の上に静かに落ちた。
「人様の縄張りに殴り込んできて、従うと思うてるんか」