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獣たちの進軍歌――②

 時を少しさかのぼる。各布陣が定まり、獣王国ルガンディアの外縁には、湿った朝霧と油の匂いが薄く漂っていた。

 東側の丘陵。

 柵列の内で腕を組むリュシアに、影を落とすほど大柄な獣人が近づく

 。肩は丸太、胸は岩盤、毛並みは焦げ茶。

 熊系の戦士だ。豪放に牙を見せ、土を踏みならして笑う。


「嬢ちゃんが、例の魔族の娘ってやつか」


 リュシアは腕を組んだまま、蒼紫の瞳をすっと細めた。


「……それが、なに?」


「俺ぁこの隊の隊長、砕牙のドルガだ。見ての通り“筋”の頭よ。こんな華奢な嬢ちゃんが戦力とはな。がははははは!」


「戦闘は筋肉だけじゃどうにもならないわよ。燃やされたいの?」


「おっかないねぇ。だが頼もしいじゃねーか」


 ドルガは首を鳴らし、部下たちに目で合図を飛ばす。

 戦士らは鎖帷子の結びを確かめ、重い槍の石突を土に押し込んだ。

 東の草原を渡る風は乾き、遠目に黒い線がのびている。敵軍の先頭が丘の肩に触れたのだ。

 同じ時、はるか西の疎林では、セレスティナが弓弦の張りを整えていた。

 古木の根に腰を下ろし、指先で一本一本、羽根の角度を揃える。

 風の行き先と、音の隙間の幅を読む目が冴えている。

 背へ影のごとく一人が寄った。足音は砂の落ちる音ほどもない。


「この隊の隊長、(おぼろ)と申す」


 猫科の耳がぴく、と揺れる。顔立ちは薄墨の面差し、声は低く短い。忍の戦士だ。


「エルフの弓術、頼らせてもらう」


「お任せください」


 セレスティナは短く微笑み、弦を引いては緩め、音のないところで弦音を確かめた。

 朧は頷き、掌で部下の配置を示す。

 木から木へ、影から影へ。踏むべき苔と避けるべき腐葉土が、手話だけで共有されていく。

 南ではグラドが、土と木と鉄を指揮していた。

 幅広の手で杭を押し、縄を締め、落とし格子の滑車に油を差す。

 兵士たちの動きはぎこちないが、汗の匂いは熱を帯び、視線は一箇所を向いている。


「即席だが、ないよりはずっとマシだ。おい、そこ、踏ませ板の角をもう少し立てろ。引っかからねぇと意味がねぇ」


「はっ!」


「ロープは手前の杭に二重回し。そこ、節を作るな、荷が抜ける」


 指示は矢継ぎ早だが、言葉の端々に現場の息がある。

 土に伏せた壕の上へ擬装の枝が敷かれ、逆茂木が一列、また一列と口を開く。

 治癒隊は二箇所の救護所に分かれ、湯を沸かし、清め塩と包帯を積み上げた。

 籠城郭へと向かう道には、老幼が列をなし、護衛の戦士が尾で歩調を合わせる合図を送る。

 やがて各所の準備が整い、空気は張り詰めた琥珀のように固く澄んだ。

 東の水平線、遠い地平に土煙が立つ。

 まず一本、次に二本、やがて帯となって連なる。

 鉄と革の鈍い光が噛み合い、軍旗の黒が野の色を裂いた。


「来たわね」


 リュシアが吐き出す息は熱い。彼女の周囲だけ、空気がじり、と乾いた。


「合図、上げ!」


 狼耳の兵が狼煙筒に火を入れ、白い煙がまっすぐ天に昇る。

 西と南へも一斉に伝令が駆け、角笛が短く二度、城内へ響いた。

 ドルガは拳を打ち合わせ、低く吠える。


「よっしゃあ! 腹を括れ、(けだもの)ども! 槍、前へ!」


 重い足音が一斉に前へ出る。

 槍の穂先が曇天を突き、楯の列が波のように重なった。

 敵前衛の影が、丘の肩を越える。

 鉄帽の群れ、短弓の一帯、槍の密集。太鼓の音は固く、足並みは揃っている。

 距離はまだある。だが、緊張の弦は張り切っていた。


「ドルガ、下がらないで」


 リュシアは一歩、前へ出る。

 爪先で地を軽く蹴ると、足元の土がほころび、赤い光が滲む。


「嬢ちゃん、ここは突撃の――」


「合図は私が出す」


 彼女は袖を払って両腕をあげ、手を前に置いた。

 息は浅く、しかし乱れない。


「――焔よ、罪なき背を焦がさず、ただ敵意のみを焼き断て。――煉獄爆炎衝れんごくばくえんしょう!」


 次の瞬間、空気が裏返った。

 丘を渡る風が一拍止まり、まるで世界が息を吸い込んだような沈黙。

 その静寂の中心から、紅蓮の奔流が弧を描いて迸る。

 地を滑る火の彗星。

 乾いた草が音もなく黒に変わり、鉄の列に炎の舌が噛み付いた。

 轟音。耳の奥が痺れ、胸骨が震える。

 衝撃波は前衛の鎧の継ぎ目に食い込み、楯の面を撫で斬って、陣形そのものの骨を折った。

 先頭列が、吹き飛ぶ。

 燃え上がる赤の壁に押し返され、後列の足は思わず止まる。

 熱が一瞬で彼らの判断を奪った。


「今だ、突っ込めええッ!」


 ドルガが吠えた。巨体が地を蹴る。

 それは坂を落ちる巨岩のようだった。

 筋の戦士たちが一斉に喉を鳴らし、槍を振るい、炎の縁をかすめて突撃する。

 石突が土を穿ち、獣の咆哮が鉄の列の間を駆け抜けた。リュシアの炎は彼らの背を焦がさない。

 紅は敵意だけを選び、味方の影をするりと避けて流れる。

 東の丘は、爆炎の明滅で昼のように明るくなった。

 熱の揺らぎが陽炎を生み、倒れた兵の影が揺れる。

 耳の奥でなおも轟きが続く中、ドルガの号令だけが刃のように鮮明に聞こえた。


「一気に割れ! 槍、左から回し込め! 遅れるな!」


 獣人の脚は速い。

 前衛を吹き飛ばされた敵は、立て直す前に楔を打ち込まれる。

 楯が軋み、槍が絡み、罵声が砂塵に混じる。

 リュシアは二撃目を溜めず、火の衣を薄くまとって前へ進んだ。

 彼女の足元だけ、灰が舞い上がる。

 詠唱はもう要らない。炎は彼女に従う。

 掌を横に払えば、火は鞭となり、槍の柄を焼き切っていく。

 背後で、合図の狼煙が二本、立った。西と南にも戦が広がった合図だ。

 だが東の彼女は振り返らない。

 ただ前を見る。炎の眼に映るのは、燃やすべきを燃やし、守るべきを守るという、一点の躊躇もない線だけ。

 ドルガはその背へ一瞬だけ視線を送り、獣の笑みを深めた。


「気に入ったぞ、嬢ちゃん!」


「前を見なさい!」


「がはは、そうだな!」


 豪快な笑いは、轟音の中で奇妙に清々しい。

 彼の肩がぶつかるたび、敵の列はばらけ、獲物のように散っていく。

 筋の戦士たちは互いに尾で合図を送り、軸足を合わせ、槍の穂先をひとつの牙のように揃えた。

 彼我の距離は、もはや“ぶつかる瞬間”を過ぎている。

 だが、戦の本当の衝突は今からだ。

 焼けた鉄の匂い、焦げた革の苦味、血の甘い鉄臭。

 全てが熱に混ざって渦を巻く。

 リュシアの髪が熱風にひらめき、その口から短い息が漏れた。


「――行くわよ」


 誰にともなく告げ、彼女はさらに一歩、火の中へと踏み込んだ。


 東の空で紅蓮が咲き、風が一息遅れて熱を運んだ。耳朶を震わせる爆ぜ音が尾を引いて西丘の陣にまで届く。だがセレスティナは顔を上げない。視線はただ前方、砂塵を巻き上げて押し寄せる黒の軍勢へ――幟の端が翻り、槍の穂先が曇天の色を呑み、足音が大地の鼓を叩くように迫ってくる。


「――私が先制します」


 隣で風の影のように立つ男が小さく頷いた。朧。声は薄く、刃物の鈍りのない涼しさがあった。


「承知。影走り、合図を待て。二息、三拍で踏み込む」


 音もなく、兵たちの気配が地面に溶ける。

 忍びの隊――影走りは、布の擦れる音さえ立てない。

 砂塵の向こう、黒甲冑の列の前衛が規律正しく歩調を揃えた瞬間、セレスティナは弓を半身に構えた。

 白木の弓肢がしなり、弦に触れた指先へ薄い光が宿る。

 古代語のささやきが、唇からこぼれた。


「――光よ、理を束ね、私の弦へ降りよ」


 風が止む。周囲の音が一枚の薄紙の裏側へ退いていき、空気が澄んだ刃になる。

 セレスティナの周りに淡金色の紋が幾重にも重なり、弦上に矢の形をした光粒が次々と生まれていった。

 一本でも十本でもない。百を越え、なお生まれ続ける。丘に列を組む兵の背に、無言の驚きが走る。

 射程に入った。彼女は、息を合わせて弦を引き切る。身体の芯が一瞬、静謐になった。


「――光矢雨ルミナリー・アローシャワー


 弦が返る音は、ただ一度。

 しかし次の瞬間、空は白雨になった。

 数百の光矢が弧を描いて降り注ぎ、前進する黒の列の膝を正確に射抜く。

 矢羽の擦れる音も、槍の絡む金属音もない。

 あるのは、規律の足並みが崩れる微かなずれと、倒れ込む鎧の鈍い摩擦音だけ。


「今」


 朧の指がひとひら舞い、影走りが土から生えた草のように立ち上がる。

 輪郭が滲み、裾が風と融ける。

 彼らは声を出さない。

 走る音もしない。

 だが確かにそこにいて、次の瞬間には相手の喉元にいた。

 最前列の槍兵が膝を折りかけたところへ、黒布の影が滑り込む。

 光を吸ったような短刀が、兜のひさしの下から差し上がり、言葉を生む間もなく命脈を断つ。

 倒れる音を別の影が抱きとめ、そのまま地面に寝かせる。

 列の崩れは波紋のように後方へ伝わり、鼓手の打つ拍子が一瞬、空白を孕んだ。


「右三、落とす」


 朧が散ったままの隊に短い合図を飛ばし、自らも前へにじり出る。

 袖口から放られた刃――クナイが、前衛指揮の笛を持つ男の手首を吸い取るように穿った。

 笛が砂に落ちる。号令は遅れ、混乱が三歩分、前に出る。

 セレスティナの弦は止まっていない。

 彼女は第二射を準備しながら、微細に変わる敵の密度を測る。

 砂塵の上に、矢筋の白い線が幾本も重なった。

 狙うのは胸ではない。

 肩、肘、膝――動きを止め、彼らの刃がこちらへ届く前に、届かなくする。

 左側の斜面、若い騎兵が旗を振った。

 隊列の穴を埋め、側面から押し返す意図だ。

 セレスティナの瞳が細められる。

 弦を引き絞り、一本だけ、質の異なる矢を生む。

 矢尻に星粒めいた光が凝り、風の層を切り裂くように放たれた。


「――星綴(スターバインド)


 矢は旗の布を縫い止めるように、旗竿の付け根を射抜いた。

 白布が砂に伏し、合図は失われる。

 騎兵の列が一瞬迷い、次の合図を探して首が泳ぐ。

 その刹那を、影走りが逃さない。

 側面へ回り込んでいた二人が地面を蹴り、騎馬の脇腹に印を刻むように走り抜けた。

 馬が嘶き、膝を折る。

 騎手は上体を投げ出され、地に背を打つ直前、黒い影に抱き込まれて気を失った。


「前列二、沈む。三、五、補え」


 朧の言葉は短く、必要分しかない。

 だがそれで十分だ。忍の兵は視線で意味を受け取り、薄い霧のように位置を繕う。

 砂塵が高くなり、敵の槍が突き出され始めた。

 白い矢雨はその間隙に滲み込み、槍の軌道を半寸ずつ崩していく。

 黒の軍は、ただ押すだけではない。

 第二陣の中央で、厚手の盾を構えた黒獅子の紋の部隊が前に出た。

 盾の縁が噛み合い、横列が一枚の壁になる。

 矢を受ける角度をとり、足の運びは重く、確かだ。矢の効きが薄くなる。

 セレスティナは弓を下ろさない。

 むしろ唇に淡い熱を宿し、第三の紋を開いた。

 今度は矢羽が風の色を帯び、光の尾が斜めに延びる。


「――風光連鎖(ガイル・リンク)


 放たれた数十の矢は盾の縁を滑り、互いの尾を噛むように連なって、弧を描く鎖になった。

 鎖は盾列の足元を撫で、砂を払う。

 砂礫がいっせいに巻き上がり、視界が奪われる。

 たった一拍。

 だが朧にとって、それは十分すぎる刹那だ。

 影走りのうち、黒布に白糸で印をつけた小隊が斜め前へ跳躍する。

 砂煙に紛れ、盾列の右端を「めくる」。

 指二本で盾の縁を掴み、半歩引き、半歩流す。

 列の重心が揺れ、楔の先がわずかに浮く。

 そこへ、別の影が滑り込み、盾と盾の隙間に短刀の背を押し当てる。

 刃は使わない。

 音を殺し、呼吸を奪う。

 列が沈むより早く、彼らはもう次の影へ移っていた。


「左、槍先上がる。落とせ」


 朧の声に、セレスティナの矢が三本、同時に鳴った。

 鋭い線が槍の金具を叩き、音を立てずに柄を折る。

 折れた槍が絡み合い、後列の足をもつれさせた。

 乱れは広がり、鼓手の太鼓が焦りを滲ませる。


 南側は、押し寄せる黒甲の列で黒ずんでいた。

 その先頭が境の杭をまたいだ瞬間、乾いた綱鳴りが走り――「今だ、踏ませろ!」とグラドが吼える。

 次の拍で、地面が抜けた。幅広の落とし穴に土被りの桟が砕け、槍の林ががらりと呑み込まれる。

 穴底には逆茂木と石杭、さらに滑り砂を仕込んだ斜面。足を取られた兵が、連鎖のように崩れ込んだ。

 頭上では、梢に隠した丸太が綱一筋で回転し、唸りを上げて側面隊を薙ぐ。

 鉄の鎖が張られた柵が立ち上がり、縦列の進路を斜めに切る。

 撒菱と鉄杭を忍ばせた帯が引き抜かれ、踝を獰猛に噛み止めた。

 眩光粉を詰めた土甕が「ぱん」と弾け、白光と土煙が視を奪う。


「目を瞑るな!右、落とせぇッ!」


 グラドは自身が仕掛けの要――起倒機の梃子を蹴り、人の背丈ほどの楯板を地面から吐き出させる。

 そこを足場に、巨槌を肩で回して前へ。

 振り下ろしは雷鳴のように重く、黒盾を一枚ごと胴ごと叩き潰した。

 獣人の戦士たちが「おおっ」と吠えて続く。太い腕が槍を弾き、爪先が絡まった敵を押し返す。

 黒の軍も鈍らない。後列が素早く穴を迂回し、盾を噛み合わせて前進を作り直す。

 矢の雨がこちらの楯板を叩き、土塁の縁に火矢が刺さった。

 グラドは鼻で笑い、手頃な礫を巨槌で弾いて落ちた火を潰す。


「欲張るなよ、一歩ずつだ!穴の縁に誘え、落ちねぇなら滑らせろ!」


 兵たちは綱を引き、針金の罠を低く走らせる。

 足を取られた黒甲が前のめりに転ぶ瞬間、グラドの槌が横薙ぎに唸り、二枚三枚と盾をまとめて吹き飛ばした。

 土煙の向こうで敵鼓手の拍が速まる。

 押し返す。だが押し切れない。

 新手が詰め、こちらの罠は一つ二つ、牙を使い切って沈黙した。


「いいぞ、効いてる……」


 額の汗を袖で拭う。

 巨槌の柄が手に馴染む。彼は一歩引き、残す仕掛けの位置と風向き、味方の息の上がり具合を一瞥で量る。

 前では獣人の若武者が吠え、黒盾の角を掴んでねじ伏せる。

 土塁の上から治癒の光が点々と降り、倒れた者が歯を食いしばって立ち上がる。

 斬り合いは粘土のように重く、前後に半歩ずつ揺れた。

 罠は敵の勢いを削り、槌は隙を砕く。

 それでも黒の波は厚みを失わず、こちらの矛も磨滅を始める。

 太鼓は応酬し、喚声は重なり、刃鳴りは途切れない。

 ――戦況は、拮抗。空の色だけが、じりじりと午後へ傾き始めていた。

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