獣たちの進軍歌――①
夜の色がほどけ、東雲が紙の裏から滲むように軍議室の障子を白く押し上げた。
低い卓を囲むのは六つの影――バニッシュ、グラド、リュシア、セレスティナ、そしてツヅラに灰毛。
壁には毛筆で描かれた地図が掛かり、東西南の外周に黒い豆粒が散らばっている。
豆粒は群れ、帯を成し、街を締め上げる縄のように取り巻いていた。
「……来よったな」
扇を畳んだツヅラが静かに口を開く。
金の瞳に夜明けの光が映り、あどけなさのない艶やかな横顔へ鋼の色を差した。
「始めよか。――まず、うちらは東・西・南に兵を分けて当たる」
バニッシュは卓上の木札をひとつ手に取り、東の端へ置いた。
黒の印に触れる指先に、乾いた墨の感触がつたう。
「質問していいか。こちらの兵力は、どれくらいだ」
短く問うと、灰毛が姿勢を正し、低く通る声で即答する。
「動かせる兵、計八千。内訳は歩兵六千、弓二千」
「一万五千に、八千か」
グラドが頬の古傷を指で掻き、渋面で唸った。
「正面三つに割ったら、倍差どころじゃねぇ。押し潰しに来られたら厳しいぜ」
バニッシュも唇を引き結ぶ。
「分散は避けられないとして……数で押されれば陣がもたない。士気の波次第だ」
灰毛は首肯し、毛並を逆立てるように耳を立てた。
「だが我らには、獣人固有の身体能力とスキルがある。地の利もある。そうそうに遅れは取らん」
「ふん、だったら一番早いのは――」
腕を組んだリュシアが、唇の片端を吊り上げた。
「全部、焼き払えばいいのよ。東も西も南も、まとめて焼き払ってあげるわ!」
「リュシア」
セレスティナが柔らかくも強い調子で名を呼ぶ。
「こちらは数が少ない。派手に過ぎれば、あなたの魔力が先に尽きるわ。疲弊した瞬間に押し込まれてしまうわ」
「う、うぅ……」
リュシアは頬を膨らませ、視線を逸らす。が、反駁しきれず肩を落とした。
そこでツヅラが、息を溶かすように言葉を置いた。
「囲まれとる以上、兵を割くのは避けられへん。せやから“牙”を三枚に見せて相手の踏み込みを鈍らせる。――その代わり、ただ守っててもじり貧や。小隊を組み、裏から将を断つ」
金の刃がバニッシュへ向く。扇の先、視線の芯は揺れない。
「任せてええか」
「ああ」
短い返事に、迷いはなかった。胸奥の拍が静かに早まる。
「布陣を詰める」
灰毛が木札を滑らせる。
東に赤の札、西に青、南に白。
ツヅラは扇の縁でそれぞれの線を引き、要となる丘と浅瀬、林の切れ目に印を置いた。
「東は、リュシア。獣王国の“筋”の戦士を付ける。脳まで筋肉の、正面突破が十八番の連中や」
「上等」リュシアが口角を上げる。
「うるさいくらい火を食らわせてやるわ」
「兵は二千。弓五百、歩兵千五百。盾は軽め。火線に合わせて押し引きし」
「わかったわ」
「西はセレスティナ。影走りの部隊――口数は少ないけど仕事は速い“忍”を付ける。エルフの弓術は一級品と聞く、うまく合わせておくれやす」
セレスティナは静かに頷いた。
「矢と術を通す道を作るわ。二千でいいのね」
「二千。山風を掴める位置に、抜け道は二筋。囮を一つ」
「承知したわ」
「南はうちが指揮に立つ。グラドはん、前衛を任す。四千で受け止めて、折り返しで噛みつく」
「任せな!俺の槌で薙ぎ払ってやるわ」
ツヅラは最後の木札を手に取り、静かに卓の中央に置いた。
「そして小隊は――バニッシュ、灰毛、それに灰毛の部下数人。狙いは相手の将や。頭を断てば兵は崩れる。ましてや相手は寄せ集めやさかい脆いはずや」
「ああ、大丈夫だ」
灰毛の耳が小さく動いた。
「合図は?」
「太鼓三つ、間を置いて二つ――“折り返し”。鐘一打、長く――“道が開いた”。狼煙は青が安全、赤が危険、白は撤退。……それと」
バニッシュは地図の空白に小さく印を二つ打った。
「各戦線の後方に“救護班”を設ける。とにかく、こちらは数が少ない。数が減るほど不利になる」
作戦図は、少しずつ、しかし確かな肉を得ていく。
矢倉の目、堀の深さ、杭の間隔、火の筋、風の道、退き口の幅。
各所の“間”が、呼吸のように伸び縮みする絵になった。
「正午前に最初の波が来る」灰毛が目を細める。
「東が厚い。南は牽制、西は回り込み」
「この戦は籠城戦となる。深い追いは厳禁や」ツヅラが扇で拍を取る。
「小隊は、迅速に潜る。――バニッシュはん」
名を呼ばれ、彼は地図から顔を上げる。
「将を断っても払えん憎しみが残ることがある。うちは国やから、それを受ける覚悟がいる。あんたは“戻す”言うた。なら、戻らんかった時の剣、もう一度確かめとき」
「……わかってる」
胸の奥で、冷たく、しかし澄んだ刃が鳴る。
救えないものがある。
だから、救えるものに迷わない。
「他に」
ツヅラの問いに、リュシアが手を上げた。
「閃光の合図、もう一つ欲しい。空に目印立てる。あたしの火でやる」
「なら白霞を混ぜる。弓目が焼けんように」
灰毛が頷く。
やがて、各人の役割と時刻、合図、退き際の基準が細やかに決まっていった。
沈黙が一度、軍議室を満たす。外では太鼓が一打、遠い空気を震わせた。
「――決まりや」
ツヅラが扇を閉じ、立ち上がる。
裾がすべり、足音は砂の上に落ちる雪のように軽い。
「東の“筋”の者ら、ここでリュシアに付け。西の“忍”、セレスティナに従え。南の前衛はグラドはんの指示に従う。小隊は……うちの手印を受けとき」
彼女は指先を軽く組み、掌に金の細紋を走らせた。
触れられた者の胸の奥で、拍が一瞬、静かに揃う。
バニッシュは自身の呼吸が、見えない指で撫でられたように滑らかになるのを感じた。
東門の上で翻る幟は、夜明けの風を孕みながらも一線の緊張を解かない。
配置命令は既に下りた。
東にはリュシアと“筋”の戦士たち。
西にはセレスティナと“忍”の影走り。
南ではグラドが四千を抱え、前衛として海のような軍勢を受け止める。
城心の籠城郭には老幼が集められ、二つの救護拠点に治癒隊が配されていた。
紙札の道標は風に揺れ、その先で静かな灯がいくつも呼吸をしている。
バニッシュの小隊は、城壁の裏腹――苔むした石段のさらに下、かつて薬草師が使ったという隠し通路の闇に潜んでいた。
灰毛が先頭、背に六の影。
鼻の利く若者二、足の速い斥候二、結び縄の巧者一、鈴を胸に下げた心具使いが一。
最後尾にバニッシュ。
通路の空気は土の匂いが濃く、湿り気が舌にまとわりつく。
遠い地面の鼓動が壁越しに伝わり、心臓の内側を指先でなぞられるような奇妙なざわめきを残した。
歩を止めるたびに、外界の音が薄く重なってくる。
革の擦れる気配。太鼓の皮を指で叩いて確かめるような乾いた練習の音。誰かが祈る低い声。
「……深く吸って、三つ数えて吐け。息をそろえる」
囁きは火を使わずとも広がる。
灰毛の耳がわずかに動き、部下たちの肩の上下が少しずつ揃っていく。
緊張は消えない。だが、緊張は凍えではない。絞れば刃になる。
地上からの光は、通路の裂け目を通って細く降りてきた。
そこには外へ抜ける木戸があり、錆びた閂は灰毛の手で油を含ませた布で丁寧に押さえられている。
いつでも静かに開くために。
東の空がわずかに白み、土の匂いに火の素が混じりはじめた頃だ。
丘の上で狼煙が上がった。
赤でも青でもない、合図の前触れ――「見た」。
灰毛の若い部下が、抑えきれない脚力で一歩前へ出る。
「行きましょう、今なら背に――」
「待て」
短い制止。バニッシュの掌が空気を押し、拍が一度だけ引き絞られる。
彼は木戸の隙間に片眼を寄せ、外の呼吸を聴く。
まだ始まりではない。風の流れに、遠く連ねられた甲冑の擦れが乗ってくる。
砂を噛む靴の列。太鼓は鳴らない。まだ、息を合わせている最中だ。
隠し通路は、城の腹から森の根へと抜ける一本の毛細血管だ。
焦りの熱は、そこを破る。だからこそ、待つ。
拍を逸らさないために。
数呼吸置いて、地が震えた。
東から、空を裂く轟き。
リュシアの爆炎だ。
熱の筋は遠いはずなのに、隙間から流れ込む空気が一瞬だけ乾く。
続いて、鋼のぶつかり合う連打。
喉を割る咆哮。狼煙は白霞を帯び、風に引き延ばされて消えた。
「始まった」
ほぼ同時に、西の方角から風鳴りの音が押し寄せ、南では低い角笛が三度、腹の底をとんとんと叩いた。
セレスティナが矢を放ち、グラドが槌を奮わせている。
バニッシュは顎を引き、灰毛へ短く合図した。
「行こう」
閂が音もなく外れ、木戸が呼吸の幅だけ開く。
冷たい朝の風が通路をひと撫でしていった。
小隊は一人ずつ、影の糸を辿るように外へと抜ける。
陽はまだ低く、森の縁には長い影が寝ている。
足裏は土の沈みを計り、草の露を踏む角度までも揃えた。
最初の一歩は地の“間”を見るための一歩。
次の二歩目は気配を消すための一歩。
三歩目からは走る。
灰毛の尾が一度だけ揺れ、鼻先がわずかに左をさす。
風下に油と鉄、紙と墨の匂い。そこが“頭”のいる方角だ。
森は若い楢と古い樅が混じり合って、その根が地表を這っている。
苔は濃く、踏むと水気を含んだ音が微かに鳴る。
鳥は恐れを知って沈黙し、代わりに遠い戦の響きが木々を伝って流れてきた。
折り重なる声のうねり。規則正しく刻まれた脚の地鳴り。叫びが弾け、すぐに飲み込まれる。
灰毛が掌を下ろす。
その合図に、小隊は身を低くし、地のくぼみに身を滑らせる。
前方の視界が開け、低い稜線の向こうに布の影がいくつか揺れているのが見えた。
赤黒い印の入った天幕。
「――行くぞ」
囁きが、土の中へ吸い込まれた。
小隊は影のまま、敵将の布陣へと向けて、無駄の一つもなく、走り出した。
背後の城内では、別の拍が刻まれている。
籠城郭へと続く板道を、年老いた鹿角の翁が荷車を押し、母は背に幼子を負い、年少の者は互いの尾を握って列を崩さぬように歩く。
救護拠点のひとつでは、治癒隊が水を温め、清めの塩と薬草を並べ、血の匂いを吸う灰を袋から少しずつ撒いていた。
鈴を短く振って祈りを閉じる若い女の手は震えていたが、震えを止めようとはせず、震えのまま丁寧に結び目を作っていく。
東の丘の向こう、リュシアは火の衣をまとい、筋の戦士の隊長と肩を並べているはずだ。
彼女の炎は無軌道ではない。
怒りに燃える熱であっても、彼女はいつも誰かの背を焦がさないように風を読む。
西では、セレスティナが古い言葉で風に梳りをかけ、忍の戦士が枝と影の間を一枚の紙のように滑っているだろう。
南の塁では、グラドが前衛として兵の恐怖を刻み替えているに違いない。
バニッシュは右の掌で鳴心環を一度だけ撫で、左の鞘口に軽く触れた。
破邪の剣は薄く光を返し、刃の内側で目に見えない祈りが鳴る。
リュシアとセレスティナの声、グラドの笑い、ザイロ、メイラ、ライラ、フォルの温かな空気が、遠いのに近い。
失えば二度と戻らないものの重さは知っている。
だからこそ、今は刃を抜かない。
抜くのは、刻が熟した瞬間だけでいい。