覚悟の杯
ツヅラの屋敷は、日が落ちてなお威厳を保っていた。
高い塀に囲まれ、瓦屋根は月の光を受けて静かに輝き、庭園を吹き抜ける夜風が竹林を揺らす。
虫の声は絶え間なく、池の水面には夜空の星がきらきらと揺れ映っている。
バニッシュたちは、ツヅラの厚意によって屋敷の一室に泊めてもらえることになった。
和やかな雰囲気に包まれ、少しだけ心を落ち着かせることができる。
「セレスティナ、お風呂に入りましょう!」
リュシアが嬉しそうに声を上げる。
普段は大人のように振る舞う彼女だが、このときばかりは年頃の少女らしい無邪気な笑みを浮かべていた。
セレスティナは少し戸惑いながらも、その手を取られて頷いた。
二人が向かった浴場は、さすが大きな屋敷に備えられたものだけあって、拠点で作った温泉とは趣をまるで異にしていた。
磨き上げられた檜の板が壁を覆い、湯気に混じる木の香りは優しくも凛としている。
床は石造りで湯を溢れさせる工夫が施され、竹筒からは絶え間なく清らかな湯が流れ込んでいた。
「……すごい……」
セレスティナが小さく息を漏らす。
湯に浸かれば、体の芯まで温まり、長い戦いと旅の疲労がじわじわと解きほぐされていく。
リュシアは髪を結い上げ、思わず伸びをしながら「ふわぁ……生き返るわね」と笑った。
その笑顔につられて、セレスティナの唇にも安堵の微笑が浮かぶ。
二人はそこで、拠点での思い出や戦場での出来事を語り合い、夜のひとときを浴場で過ごした。
やがて四人が揃っての夕食となる。
用意された料理は、どれも見慣れぬ品ばかりだった。
焼き魚や炊き込みご飯、香草をあしらった汁物。そして、何より目を見張ったのは、薄く切られた生の魚――刺身だった。
「な、なぁ……これ、本当に食べて大丈夫なのか?」
グラドが箸を前にして眉をひそめる。
「失礼ね、グラド。見てよ、この綺麗な切り身。きっと新鮮だからこそ、こうやって食べるのよ!」
リュシアが興奮気味に答える。
セレスティナも慎重に箸で一切れを口に含み、目を丸くした。
「……とても、柔らかい……そして、甘い」
それを見たバニッシュも覚悟を決め、同じように口にする。
冷たい舌触り、口の中で広がる海の旨味と淡い甘み。
思わず「ほう……」と声が漏れた。
ツヅラの侍女が微笑む。
「魚を生で食べるなんて……想像もしなかったな」
バニッシュが呟けば、グラドも頷きながら「だが、悪くねぇ」と豪快に食べ始めた。
宴のような夕食を終えると、それぞれの部屋に案内され、夜は更けていった。
バニッシュとグラドは同じ部屋を与えられた。
畳の匂いが心を落ち着け、紙障子から漏れる月明かりが淡く室内を照らす。
しかし、バニッシュは眠れなかった。
枕に顔を埋めても、心がざわついて落ち着かない。
隣ではグラドが豪快ないびきをかき、天井が震えるほどの音を響かせている。
「……やれやれ」
小さくため息をつき、バニッシュはそっと立ち上がった。
障子を開け、縁側に出る。
夜風が頬を撫で、庭園の静けさが心を包む。
月光は白砂を銀に染め、池の水面を照らし、柳の枝を細く揺らしていた。
ふと視線を向けると、庭園の端にある松の下で、一人の女が空を見上げていた。
月光に照らされたその姿は、神秘と妖艶を同時に孕んでいる。
「……ツヅラ」
思わず名を呼ぶ。
振り向いたツヅラは、妖艶な笑みを浮かべた。
「寝れへんのかえ?」
「ああ……ちょっとな」
バニッシュは正直に答える。
ツヅラは袖の中から、一本の酒瓶を取り出して見せた。
透き通るような白磁の徳利。
「ほな、ちょっと付き合うてくれへん? ええもんがあるんや」
縁側に腰を下ろし、月光を浴びながら二人は向かい合う。
ツヅラが器用に徳利を傾け、白い陶器の杯へ透明な液体を注ぐ。
ふわりと立ちのぼる香りは、米の甘みと清冽さを湛えていた。
「……これは?」
バニッシュが問いかける。
「うちの国で作られる酒や。米と水だけで、こんな味を生むんやで」
杯を手に取ったバニッシュは、ゆっくりと口へ運んだ。
舌に触れた瞬間、ほのかな甘みと切れのある辛味が広がり、喉を通るときにはじんわりとした熱が胸の奥に満ちる。
「……っ、これは……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
ツヅラは目を細め、楽しげに微笑む。
「うまいやろ?」
「……ああ。こんな酒は、飲んだことがない」
バニッシュの声は、心からの驚きと感動を含んでいた。
ツヅラは己の杯を傾け、月を見上げながら一口含む。
その横顔は、戦場で見せた花魁としての妖艶さとは違い、どこか穏やかで清楚な気配を纏っていた。
「酒ちゅうんはな、不思議なもんや。強い者の心をやわらかくし、弱い者に勇気を与える。……せやけど、呑みすぎたら碌なことにならん。人も国も同じや」
「国も?」
バニッシュが眉を寄せる。
ツヅラは金の瞳を細め、じっと彼を見つめる。
「そうや。国ちゅうもんは、力があるほどに暴れたがる。けど、それを抑えて、ちょうどええところで止められるんは……“人の心”だけや」
その言葉は、静かに夜の空気へ溶けていくようだった。
バニッシュは杯を見つめながら、深く頷いた。
「……確かに、そうかもしれないな」
ふと、ツヅラが身体を寄せ、バニッシュの顔を覗き込むようにして笑った。
「なんや、真面目な顔して。もしかして、うちに見惚れてたんやない?」
「なっ……ち、違う!」
慌てて否定するバニッシュ。
しかしその頬は赤く、否応なく図星を突かれたかのように火照っている。
その様子を見たツヅラは、ころころと鈴のような笑い声をあげた。
「ふふっ……ええ顔するやん」
縁側に腰を並べ、月の滴を溶かしたような酒をとろりと杯へ落としながら、バニッシュは長く息を吐いた。
湯気にも似た白い吐息が夜気にほどけ、庭の砂紋をかすかに震わせる。
竹が鳴り、池の面で鯉が小さく波紋をつくる。
「……ツヅラ」
杯の縁に視線を落としたまま、彼は静かに言った。
「俺は――共に戦ってほしいという申し出を、受けることにする」
月光が銀の刃のように瞳に差し込み、その一言に宿った覚悟を照らし出す。
ツヅラは金の瞳を細め、笑むでもなく澄んだ顔でうなずいた。
「思うてた通りや。あんたやったら、そう言うやろって」
軽く杯を合わせる。磁の澄んだ音が、夜の庭に輪を描いて広がった。
「……せやけど」ツヅラは扇をひと振りし、わざと調子を外すように視線をすべらせる。
「あんた自身の理由があるんやろ。うちの国のため、いうだけやない」
金色の双眸が、芯を見抜く刃のようにこちらを射抜く。
バニッシュは握る杯に力を込めた。米の香がわずかに揺れて鼻先をくすぐる。
「ある。……俺だけの、答えが」
言葉を継ごうとした唇が、かすかに震えた。過去の景色が胸裏へせり上がる。
炎の夜、凍てつく峠、笑い合った焚き火。
剣を掲げ、世界の未来を語った青年――勇者カイル。
光と希望の旗印であり、誰より真っ直ぐで、誰よりも遠くを見ていたはずの背。
だが今、彼は“黒”を名乗る。秩序を乱し、弱きを踏み砕き、理をねじ伏せるための力を求める者として。
「……俺は、あのパーティーから追放された」
吐き出すように告げると、杯の酒が波立ち、月が砕けた。
「理由は簡単だ。『役に立たない』。それが烙印の言葉だった。あいつらにとっての“勇者の道”に、俺は足手まといだったんだ」
ツヅラは相槌を打たず、ただ聞いた。言葉を急がせず、余白に息を置かせる聞き方だ。
「追放されてからのことは……知らないことだらけだ。何が彼らを黒へ染めたのか。誰が囁き、何を奪い、どんな絶望があったのか。けれど、変わってしまったのは確かだ。噂で聞く“黒の勇者”は、俺の知るカイルじゃない」
杯を置く。縁側の板の上で、陶器が小さく鳴った。
「止められるのは俺しかいない――そう感じている。俺が彼の隣に立っていたから。背中を見て、声を聞いて、剣を交わして、共に笑って、時に喧嘩もした。栄光の瞬間も、敗北の痛みも知っている。あいつの弱さも、強さも、どっちも」
自嘲の笑みが口角に滲む。
「それが、『役に立たない』と言われた男の役目なら、滑稽だろう?」
ツヅラは首を横に振った。
「滑稽やない。ええ面や」
彼女はそっと徳利を傾け、空の杯へと注いだ。
「人はな、負けた時にこそ顔が出る。勝ってる時の顔は化粧でも作れるけど、敗けた時の顔は誤魔化されへん。……あんたの顔、うちは嫌いやないで」
金の瞳がやわらぐ。
「それに、“知っとる者”にしか止められんことがある。血や因縁や仇討ちやない、もっと厄介な――名のつかへん縁や。あんたは、たぶんそれを握っとる」
言葉が、夜露みたいに胸に沁みた。
バニッシュは頷き、改めて杯を口に運ぶ。
酒の熱は穏やかだが、腹の底へ落ちると、不思議と胆が据わる。
「ツヅラ。俺はルガンディアを守る。黒の勇者が何であれ、ここを踏み砕かせない。……だが、その先に必ずカイルがいる。たとえ剣を交えることになっても、最後に彼を、彼自身へ連れ戻す」
「連れ戻す、か」
ツヅラは面白がるでもなく、その言葉の重みを測るように繰り返した。
「殺すやないんやな」
「殺すのは簡単だ。世界は少し静かになる。けど、それじゃ未来が消えてしまう。カイルは“旗”だ。折ることもできるが、掲げ直すこともできる。俺は後者を選ぶ」
「……好きにしい」
ふっと唇の端で笑み、ツヅラは月へ扇を向ける。
「ただし、うちの国を守ると決めた以上は、殿も先鋒もやってもらう。危うい橋はうちも渡る。せやけど、命の綱は互いに取っとこ。あんたが死んだら、この話は全部、夢物語や」
「わかってる」
短い返事の奥で、火が灯る。
「……怖くないのか」
自分でも意外な言葉が唇をついた。
「何がや?」
「国を背負うことだ。人の生死が肩にかかる。判断ひとつで街が燃え、子どもが泣く。俺はまだ、背中に熱の残る火に慣れていない」
ツヅラは少しだけ黙し、杯を置いた。
「怖いで。毎晩、胃に氷の石ころ呑み込んでるみたいや。せやけど――怖がるんをやめたら、人はよう判断せん。怖い、だから下がる。怖い、だから準備する。怖い、だから他人に頭下げられる。怖がることを、うちは捨てへん」
その答えに、胸の硬さがほんの少しほどけた。
「……ありがとう」
「礼は勝ってから聞いたる。うち、勝ち酒が好きやねん」
冗談めかして笑い、また注ぐ。杯と杯が触れ合う音が、小さな誓いの鐘のように響いた。