背を並べる者たち
牙門での騒動がひとまず収まり、捕縛された黒の勇者の兵が連行されていくのを見届けたあと、ツヅラは軽やかに裾を翻した。
「こっちや。……話の続きは、うちの屋敷でしよか」
その一言に、バニッシュたちは顔を見合わせた。
灰毛の門番も深く頭を下げて退き、彼女が進む道を開いた。
城門から北へ少し歩くと、街の喧騒が徐々に遠のき、代わりに静かな空気が流れ込んでくる。
両脇には苔むした石灯籠、木々の間を渡る竹垣が続き、やがて視界の先に一際大きな屋敷が姿を現した。
屋根は黒く燻された瓦葺き、軒先には木彫りの獣の飾り。
広い土塀の門を抜けると、目の前に広がるのは一面の和風庭園だった。
水面に浮かぶ睡蓮の池、石橋を渡ると、刈り込まれた松と丸く整えられた低木。
飛び石の先には小さな滝があり、その水音が静かに空気を和らげる。
「……こりゃ、すげぇな」
グラドが思わず感嘆の声を漏らした。
豪放な彼ですら足を止めるほどの光景だ。
庭の奥には、檜をふんだんに使った平屋建ての大きな和風家屋。
白壁に黒塗りの梁が映え、障子越しに柔らかな光が漏れている。
その気配は心具屋の奥にあった艶やかな花街の一室とはまるで違う。
こちらは浮ついた華美さではなく、どこか懐かしさと気品を併せ持つ“落ち着き”そのものだった。
「こっちやで」
振り返ったツヅラが、金の瞳で彼らを促した。
玄関で草履を脱ぎ、案内されたのは畳敷きの広間だった。
十畳は下らぬ広さの座敷、床の間には季節の花が活けられ、掛け軸には流麗な筆致で「心静」と書かれている。
障子を開け放てば庭園の池が目の前に広がり、淡い光と涼やかな風が座敷を吹き抜けていった。
リュシアとセレスティナは思わず顔を見合わせ、ぽかんと口を開ける。
「……さっきまでの、あの花街みたいな部屋と同じ人の屋敷とは思えないわね」
「本当に……まるで別世界」
確かに、あの時に見たツヅラは豪奢で艶やか、群衆を圧する花魁のようだった。
だが、今ここにある空気は静謐で、凛とした威厳を纏っている。
二面性というより、まるで役割に応じて姿を変える女狐のように――彼女は己を自在に演じ分けているのだろう。
バニッシュもまた、静かに畳に膝を下ろしながら感心を覚えていた。
「……やっぱり底が知れないな、あの人は」
その時、ツヅラはふと振り返り、扇を軽く掲げて笑った。
「ちょっと待っとき。すぐ戻るさかい」
そう言って襖の向こうに消えていく。
その背に揺れる狐の尻尾がふわりと漂い、扉が閉まると同時に座敷に静寂が落ちた。
残された四人は、しばし庭を眺めていた。
滝の音、鳥の囀り、池に跳ねる鯉の波紋。喧騒とは無縁の世界に、ただ身を浸す。
「……なんか、落ち着かないわね」
リュシアがぽつりと呟いた。炎を操る彼女にとって、この静謐は妙に馴染まないのだろう。
セレスティナは逆に口元に笑みを浮かべて頷いた。
「私は……好きかもしれません。どこか故郷の森の静けさに似ています」
そんなやり取りに、グラドが大きなあくびを噛み殺す。
「ふぅ……騒ぎの後にゃ、こういうのが一番沁みるってもんだ」
やがて、襖が静かに開いた。
入ってきたのはツヅラではなく、年若い獣人の娘だった。
狐の耳をぴんと立て、清楚な白衣に身を包んでいる。両手には漆塗りの盆。
「御前より、お茶とお菓子をお持ちいたしました」
澄んだ声で告げ、彼女は卓へと湯気の立つ急須と茶碗、そして小さな皿を並べていく。
茶は深い緑を帯び、ほのかに香ばしい匂いが立ちのぼる。
皿に並べられたのは、艶やかな黒糖を纏った団子と、桜色の小さな羊羹。
人の街では見たことのない、明らかに和の趣を持つ菓子だった。
「まぁ……かわいらしい」
セレスティナが思わず顔を綻ばせる。
リュシアも同じく瞳を輝かせ、団子を手に取った。
「なにこれ、甘い……! でもくどくなくて、すごく美味しい!」
セレスティナも小さな羊羹を口に含み、目を細める。
「……優しい味。森の果実に似ているけれど、もっと深い……」
無邪気に喜ぶ二人の姿に、グラドが苦笑して肩を竦めた。
「まったく、女子は元気だな」
そう言いながらも、彼も茶をすすり、渋みと香りに思わず「ほぉ」と息を漏らす。
バニッシュも一口飲み、心の奥まで温かさが広がっていくのを感じた。
「……これは、いいな」
静かな座敷に、茶の香りと少女たちの笑い声が溶けていく。戦の喧騒、血の匂い、心を揺らす拍動――すべてが遠く感じられる一時だった。
襖がさらりと鳴り、ツヅラが戻ってきた。
先ほどの花魁姿ではない。艶めく紅と墨を差した重ねの小袖に、帯はやや低めに結び、金糸の意匠が雨粒のようにきらめく。
装いは抑えめ――だが、立ちのぼる気配はむしろ冴え、清冽な香の気が座敷の温度を一段下げる。
思わず、バニッシュの口から小さな息が洩れた。
「……ほぉ」
金の瞳がこちらを射抜き、狐は扇の縁で唇を隠して笑う。
「うちに見惚れてもうたん? えらい正直やねぇ」
「い、いや――そんなつもりは……」
頬が熱くなる。
反射的に視線を逸らした先で、リュシアとセレスティナの冷ややかな二連の光条が突き刺さった。
リュシアはこめかみをぴくりと跳ねさせ、セレスティナはにっこりと微笑みながら(目は笑っていない)湯呑を差し出す。
グラドは「若けぇなあ」と肩で笑ってごまかした。
ツヅラはそんな空気ごと涼やかに受け流し、座布団に音も立てず腰をおろす。
背筋は一本の柳。扇をたたみ、卓の上に横向きに置いた。
「さて――」
それだけで、座敷の重心が彼女へ寄る。
庭のせせらぎが遠のき、茶の香りが薄まる。
ツヅラの声は低く、よく通った。
「さっき牙門で捕らえた黒の勇者の先遣隊。口は堅いつもりやったんやろけど、尻尾は意外と軽かったわ。ぺらぺらっと喋ってくれはった」
扇の骨がひとつ、ぱちりと鳴る。
「“黒”は各地で掟も秩序もなくした暴徒、飢えた兵、仕事を失うた傭兵を寄せ集めて、勢いを見せ札に増殖しとる。言い換えれば、“狂った心”を拾い集めて軍にしとる、っちゅうことやね」
セレスティナが静かに瞳を細める。バニッシュの胸で、微かな苛立ちが泡立った。
狂者の心を踏み台にするやり口――思い当たる面影が、遠い記憶の縁にちらつく。
「最初の見せしめはここ、獣王国ルガンディア。『牙ある国を折った』いう噂は、群れを焦がす火になる。獣人が膝をつけば、人も、山も、川も、勝手に靡く。黒はそう踏んどる」
ツヅラの扇が裏返り、金の糸が光をはじいた。
「うちは斥候を三手に出した。東、西、南――もう軍が敷かれとる。北は山脈の稜線と物見が押えたさかい、まだ白。けど、袋の口は閉じられつつある」
座敷の空気がわずかに沈むのを、誰もが肌で感じた。庭の松が風に鳴り、その音がやけに遠い。
「兵の目算は……一万五千」
リュシアが“ふざけてる”と呟き、グラドは舌打ちを飲み込んだ。
バニッシュは静かに息を整える。
一万五千。寄せ集めの軍勢だとしても、量は質に化ける。
防壁と地の利があるとはいえ、正面から叩き返すのは骨では済まない。
ツヅラは続ける。
「ここは牙を見せる国や。うちらだけでも、やれるとこまではやる。けど、さすがにこの数は“牙”だけでは足らん。うちらの“心”と“理”がもう一つ要る」
金の瞳が、まっすぐバニッシュを捉えた。
「――バニッシュはん、グラドはん。リュシアはんにセレスティナはん。あんたら、うちらと一緒に戦ってくれへん?」
座敷の畳が、わずかに軋んだ気がした。
誰の重みが移ったのかは、言葉にせずとも分かる。
ツヅラは視線をひとりひとりに配る。
応えは急かさない。けれど、時間は確実に焼けていく。
バニッシュは湯呑を置き、膝に両手を置いた。
胸の奥で、“鳴心環”が微かな温を返す。
巨匠の日誌の文言――「共に生きよ」が、脳裏で灯を掲げた。
破邪の剣の鞘は静かだが、握る掌には確かな脈がある。
彼の視線が、仲間へ流れる。
リュシアの紫の瞳は燃えており、セレスティナの碧は凪いだ湖のように深い。
グラドは無言で頷き、腰の槌を軽く叩いた。
ツヅラはそんな四人の呼吸を読み取り、扇を閉じきって卓の上に置いた。
声は先ほどよりも柔らかいが、芯はさらに強い。
「うちは、この街を、国を、守りたい。牙門の灰毛にも兵にも、子どもにも、笑いにも、誇りにも、明日を渡したい。けど、そのためには――外から来た“あんたらの目”と“あんたらの手”が欲しい。うちら獣は、群れる時いちばん強うなる。せやろ?」
庭の風がすっと座敷を駆け抜け、障子を揺らした。
香の匂いが一瞬、青くなる。
「頼むわ。うちと並んでくれ」
金の瞳が、真っ直ぐに降りてくる。
拒絶も媚びもなく、ただ“頼みごと”として。
小袖の袖口からのぞく白い指が、膝の上で静かに揃う。
バニッシュの喉が、ひとつ鳴った。
膝に置いていた両手の指が、きつく結ばれていく――。
バニッシュは湯呑をそっと卓に戻し、真正面からツヅラを見据えた。
金の瞳に自分の姿が小さく映る。
胸の奥に“鳴心環”の淡い鼓動があり、同時に言葉の棘もあった。
「……だが、俺たちはここに来て日が浅い。地の理も、掟も、風の巡りも、ほとんど知らない。そんな俺たちに――本当に“背中”を預けられるのか?」
問いは柔らかい声で出たが、畳の目に落ちた影は硬い。
座敷を渡る風が一度だけ障子紙をふくらませ、庭の水面に輪を作る。
沈黙が、一拍。
ツヅラは金の瞳を細くして、肩の力をすっと抜いた。
彼女の口元が、からかいでも媚びでもない薄笑みにほどける。
扇の骨がぱちりと鳴った。
「心配は、してへんよ」
さらりと言って、扇の先で庭をひと撫でした。
「鳴土路で、あんたらは夜の“拍”に呑まれんかった。呑まれへんように、互いに腕掴んで、息を分け合うみたいに進みはった。廃拍人に追い立てられながらも足を止めんかった。あの石鼓の底で、巨匠の怨を斬り払うた。……それだけで、うちは充分や」
扇が、こんどは卓上を指す。湿った香の匂いがすこし濃くなる。
「それにな、うちは“匂い”で人を見る。あんたらの纏う空気――遠巻きにしてるだけでも、わかるねん。返らぬものを嘆くくせに、いま目の前のものは絶対に落とさへんという、めんどくさい真面目さ。火のそばで眠る獣みたいな、ようできた絆。……そして何より」
扇の先が、リュシア、セレスティナ、グラドへと順に滑っていった。
「粒が揃ろてる」
リュシアが不敵に眉を上げ、セレスティナは微笑で受け止め、グラドは鼻を鳴らして槌の柄を軽く撫でた。
ツヅラは扇を返し、肘をきゅっと絞ってから、最後にその先端をバニッシュへ向ける。
「魔族の娘。エルフ。ドワーフ。――そして、あんた」
言葉に余計な飾りはない。
だが扇の陰で、金の瞳がわずかに潤んだ光を宿す。
重うて、あたたかい信頼の色だ。
「戦は数も理も要る。けどな、最後に陣を動かすのは“心”や。あんたらの心は、折れへん」
座敷の空気がわずかに和らぐ。
バニッシュは短く息を吐き、喉に掛かっていた棘が形を変えるのを自覚した。
代わりに生まれたのは、責の痛み――預けられたものへ返す覚悟の形だ。
「……とは言え、相手もすぐに攻め込んで来るわけやあらへん」
ツヅラは扇をすっと畳み、卓に横向きに置いた。
香の煙が細く伸び、金糸の雨滴のような帯の意匠に絡む。
「今宵は、ゆっくり考えとくれやす。腹も据えんと、ええ牙は見せられへん」
そう言って、膝をわずかにずらしながら立ち上がった。
裾が畳を払う音が、水面の皺みたいに広がる。
狐の尾――ではなく、帯から垂れた房飾りが小さく揺れて、鈴のない鈴の音がした気がした。
「人数も増えはった。さすがにあの長屋やと手狭やろ。今晩はうちの屋敷に泊まったらええ。風呂も布団も“牙門仕立て”や。よぅ眠れる」
リュシアが露骨に目を輝かせ、セレスティナは小首を傾げて礼を述べ、グラドは「助かる」と短く言った。
バニッシュは一拍置いてから、深く頭を垂れる。
「恩に着る」
「ええよ。どうせ――一緒に戦場歩く仲や。客に風邪ひかれてもアカンからな」
ツヅラはくすりと笑い、扇で口元を隠すでもなく、その笑いを座敷に放った。
軽い。けれど、芯は鳴る。
立ち姿のまま、ちらと庭へ視線を遣ると、金の瞳に緑が差した。
「それとな、さっきの“背中”の話――」
扇の骨が二度、指先で弾かれる。ぱち、ぱち。
「背中は、預けるもんちゃう。重ねるもんや。うちは、あんたらの背と自分の背、並べるつもりでおる。……その方が、あったかいやろ?」
言い終えるや、彼女は踵を返した。
襖へ向かう足取りは“花魁”のそれではなく、屋敷の主のそれ。
袂が音もなく流れ、障子の影が金の縁を引く。
敷居の手前で一度だけ振り返り、唇だけで「ゆっくり、おあがり」と告げる。
襖がさらりと閉じた。
香の筋が残り、庭の風と入れ替わる。座敷には、湯の白い息と、茶の温かみと、静かな重みだけが残った。
バニッシュは知らず、掌をみつめていた。
破邪の剣の鞘の革が、そこにはないのに指の腹に触れた気がした。
グラドが「渋い女将や」と肩を揺らし、リュシアは「お、お風呂……牙門仕立てって何かしら!」と小声で騒ぎ、セレスティナは微笑を深めて湯呑を差し出す。
だが、誰も声を荒げない。
夜の前口上は済んだ。
あとは、それぞれの胸で、牙の角度を決めるだけだ。
庭を渡る風が、二度、三度。
灯心の炎が低く揺れ、畳の匂いが濃くなる。
座敷の中央には、彼らの影が四つ、きれいに並んで落ちていた。
ツヅラの足音は、もうどこにもない。
ただ、言い置かれた言葉だけが、背中の広さを測る定規みたいに残っていた。