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心具 ――鳴心環――

 昼から夕刻へ――街の拍は半歩ずつ落ちて、陽の角度といっしょに伸びた影が路地の節をやわらかく縫っていく。

 二人はその拍に足を合わせて、ひたすら歩いた。

 見て、嗅いで、触れて、聞いて。人の街ではまず出会わない作法や道具に、いちいち足が止まる。

 洗い場の角では、猫科の婆さまが「耳洗い」を商っていた。

 浅い桶に温めた香草水、細い木綿、やわらかな筆。獣人は耳が命、外へ出した聴器を整えるのは挨拶と同じだという。

 隣では子どもが尾の手入れを受けている。

 猪の鬃で編んだブラシに獣脂と蜜ろうを薄く塗り、櫛目でぴしりと筋を入れる。

 仕上がると尾がふんわり丸く、歩くたび拍に合わせて揺れた。

 角をまたぐと、今度は「爪直し」。

 鉤爪に合うと、肉球に塗る油、そこに乾かした薬草粉。

 職人は爪先を見ただけで歩法を言い当て、足裏に合う縄巻きの調整をしてくれる。

 グラドは興味津々で縄巻きの締め具合を確かめ、「こう締めると“抜けの拍”が速くなるのか」と感心していた。

 香具屋の軒には匂い札がずらりとぶら下がる。

 帰宅前に「今日は祝いの匂い」「今日は汗と土」「今日は静けさ」を帯にひと房結び、玄関の擦り木に移すのだという。

 人の街の表札が名前を示すなら、ここでは「今日の心持ち」が表札になる。

 ――なるほど、だから喧嘩が少ないのだと、バニッシュは思った。

 初めから拍と匂いで調子を合わせるから、ぶつかっても“ぶつかりすぎない”。

 高台の端まで上がれば、台地の向こうに夕雲が褪せはじめ、遠くの角笛が一つ、二つ。市場の太鼓は休みの拍を織り込み、職人通りの打ち音も丸くなってゆく。

 二人は灰牙の長屋で荷を軽く整え、服の埃と獣脂の膜を払い落としてから、指定された「心具屋」へ向かった。

 心具屋は南市のはずれ、骨湯通りを抜けた先にあった。

 表の看板に文字はない。

 代わりに、白木の板に彫られた「耳」「尾」「心」の三つの絵――耳は渦を描き、尾は輪をつくり、心は二つの皿を渡した秤になっていた。

 戸口の擦り木は細く、香の層が薄い。客を選ぶ店だ。

 格子戸を引くと、涼しい。

 内は外の喧騒と匂いから守られ、乾いた木の香と弱い薬草の匂いしかない。

 棚には木と骨と革で仕立てた器具が並び、どれも形は簡素なのに、目を凝らすと細工が深い。

 小鈴のようでいて内部は薄い膜で二重に張られたもの、手首に巻いて脈を拾う革輪、短い葦管の束に細い銀線を渡したもの。

 どれも「心に触れるための道具」に見えた。


「……いらっしゃい」


 奥から現れた店主は梟系だった。

 丸い顔、琥珀の大きな虹彩がこちらをまっすぐに迎える。

 羽根は短く刈り込まれ、首は静かに回って棚の品を一度確かめてから戻ってくる。

 声は低く、乾いた紙の音が混じった。


「ご用件を」


 バニッシュは一歩進み、軽く会釈した。


「ツヅラ御前に、ここを訪ねるよう言われました。夕刻に――と」


 梟の虹彩がわずかに絞られ、すぐに戻る。

 首がほんの少しだけ傾く。見定めの角度だ。


「……ああ、あの方の“追い香”か。なら奥へ。――槌の方もご一緒に」


 グラドが顎を引くと、店主は無言のまま格子の内側へ案内した。

 通路は狭いのに、歩く拍に合わせて灯が一つずつ柔らかく灯る。

 音を吸う布が壁に掛けられ、足裏の感触は土ではなく、よく磨かれた板だ。

 外界の匂いが薄まるほど、心の拍だけがよく響く。

 奥の襖が静かに開く。バニッシュは息を軽くととのえ、足を一歩差し入れ――目を瞬いた。

 そこだけ、別の街だった。

 薄紅の揺れる行燈、金糸で蜷局を描いた座布団、床の間の花は白と紅の椿、壁は深い墨色にうっすらと雲母粉が散っている。

 香は甘くも辛くもない、芯のある沈香。畳ではない。

 編んだ草の上に、薄皮のような柔らかな敷物が重ねられている。

 花街の一室――それがここにそのまま移され、余計なものが一切ない。

 そこに、彼女はいた。

 ツヅラ御前。金の瞳は沈香の煙越しでも冴え、狐の耳と尾は、夜の庭の棕櫚の影みたいにやわらかく立っている。

 花魁の衣は深紅に黒、金糸で唐花。

 襟は大きく抜かれ、帯は前に結ばれている。

 肩の線、手首の角度、座りの姿がまず美しい。

 座敷の空気が彼女の形に沿うように整えられていて、どこにも角がない。


「――よう来はりましたなぁ」


 やわらかな京都言葉が、湯に落とした欠片のように広がる。

 耳にふれても刺さらず、でも芯ははっきりしている。

 バニッシュは膝に手を添え、礼を取った。深くも浅くもない、相手の姿勢を崩さぬ角度で。


「ご指定どおりに参りました。門前では……助けていただき、ありがとうございます」


「ええのええの。うちの街の拍、まだよう分からはらん客人に、門で尾ぉ巻かせるわけにもいきまへんさかい」


 彼女は扇を膝に置き、目で座を示す。

 梟の店主は音もたてずに下がり、襖が閉まると、外の拍は完全に隔てられた。

 此処は“心具屋の奥”であり、同時に“秤の間”なのだろう。

 秤にかけるために余計な重さをすべて置いてきた、そんな空気だ。


「そない堅苦しゅうせんといて。ここでは名前でええよって」


 金の瞳が微かに笑い、扇の先で自分を指す。


「ツヅラでええ。御前も目付も、この座敷ぃ出たらまた付いて来よるけど、今は置いてきた。……あんたは?」


「バニッシュで結構です。こちらはグラド」


「よろし」


 扇がひと撫で、二人の前に置かれた膝机の上に、小さな杯が二つ滑ってくる。

 中身は酒ではない。淡い色の骨湯に柑の皮をひとかけ落としたものだ。鼻にやわらかい。


「まずは喉ぉ潤し。うちの街は匂いで喋るさかい、客人もそこそこ“香”を入れとき」


 促されるままに杯を口に運ぶと、体の芯が静かに整う。

 外の太鼓の拍を離れ、ここに新しい拍が置かれたのが分かる。


「門で止めたんは、うちが悪かったわけやない。灰毛が鼻を利かせてくれはった。あんたの“混じり”、気ぃつけんと暴れる時がある」


 ツヅラは言いながら、わずかに尾を打つ。事実を告げる拍だ。詰問でも非難でもない。


「……ええ。認めます。こちらの理は、時々風で鳴りやすい」


「せやろ。せやけど、うちはそれが“あかん”とは言わん。“混じり”があると秤は狂いやすいけど、よう調えたら、両の皿がよう揺れて、かえって正しくなる」


 扇が秤の形を空に描く。

 金の瞳は笑っているのに、底は静かだ。

 美貌の奥に「秤」の冷ややかさが座っている。


「それで、や。――心具屋に来い、言うたのは、あんたらが探してはる“心の代わり”に、うちらが貸せるもんがあるかもしれんさかい」


 机の上に、いつの間にか梟が置いた小さな箱がある。

 白木、継ぎは見えず、蓋に絹の紐が一つ。ツヅラは紐に扇の先をかけ、するりと解いた。

 だが、箱の中身を見る前に、彼女は扇を閉じ、こちらに少し身を寄せた。

 艶やかな衣の香りが、骨湯の上を渡って来る。


「そやけど、その前に――お尋ねしときたいことがあるんどす」


 瞳がふっと細くなる。美しいが、怖い。


「あんたは何のために器を欲しがる。誰のために、その器を鳴らす」


 問いは短い。けれど問われている面は広い。

 バニッシュは杯を置き、軽く息を吐き、背を正した。

 ここで虚飾を出せば、扇の先で容易く払われる。

 心で持ってきた言葉だけを、秤の皿に置くべきだ。

 だが――その答えを言うのは、もう少し先がよい。ツヅラは続けて、扇で笑った。


「言葉は後でもええ。堅うならんでええゆうたやろ。……まずは座を馴染ませる。あんたらにうちの“拍”を、ちぃと聞かせたい」


 彼女が指を鳴らすと、襖が片側だけほんの指一本分ほど開いた。

 そこから入ってくるのは、表の心具屋の拍ではない。

 花街の拍――糸の張り、三味の鳴り、足の運び、客の息。

 それをただ再現したのではない。ここはルガンディアで、花街は彼女の内にある。

 二つの拍が一段に束ねられ、座敷の空気にちょうど良い張りを与える。


「ここでは、うちが“秤”。客人は“皿”。それでええやろ」


「……はい」


「グラドは?」


「構わねぇよ。秤にかけられるのは嫌いじゃねぇ」


「ええ返事や」


 ツヅラは頷き、箱の蓋にそっと指をかけた。

 その仕草もまた、拍に合っている。

 蓋が上がり、内側の布に沈香の粉が薄く敷いてあるのが見える。


「――そしたら、見せよか。匂いで鳴る心の道具。人にも獣にも、等しく“混じり”を鳴らすもんを」


 そのまなざしは、迎える者のものだった。

 権威で押す目ではない。けれど、逃がさない。

 こちらの混じりを恐れず、混ぜて、秤に置いて、ちゃんと見ようとする金の眼。

 ルガンディアの目付――ツヅラ御前が、ようやく真正面から「仕事」を始めようとしている。

 バニッシュは、ツヅラ御前の言葉を胸の奥に収め、杯を再び手に取った。

 骨湯のぬるやかな温もりが喉を通り抜けるたび、外から持ち込んだ張り詰めた空気が、ゆっくりと剥がれ落ちていくのが分かる。

 グラドはといえば、すでに肘を片方の膝にのせ、反対の手で杯を軽く回していた。


「……で、その“心具”ってのは、どういう理屈で動くんだ?」


 問う声は低いが、好奇心が隠しきれていない。

 ツヅラ御前はゆるく微笑み、箱の中身を二人の前へと押し出した。

 中には、掌ほどの小さな輪があった。

 輪の素材は銀でも銅でもなく、白く曇った獣骨を削り出したもの。

 外縁には細い溝がぐるりと刻まれ、その溝に黒い糸のようなものが編み込まれている。

 糸は光を受けると虹色にきらめき、揺れるたびにかすかな匂いを放った。


「これが“鳴心環めいしんかん”。匂いと鼓動を“心”として受け取り、相手に返す道具や」


 彼女は輪を指先で転がし、軽く鼻先に近づける。

 すると、ほんの一瞬、室内の香が変わった。先ほどまでの沈香の奥に、甘く澄んだ白梅の香がふっと混ざる。

 グラドが鼻をひくつかせる。


「……ほう、今の匂いはお前の“気配”か」


「そうどす。これは、付けた者の胸の奥にある“拍”を拾い、香りにして吐き出す。……喜んどる時は軽く、悲しんどる時は湿って、怒っとる時は辛うなる」


 ツヅラ御前の声は変わらず柔らかいが、その瞳は相手の心の奥を射抜くように光っていた。


「ほんまの“心”は、口で言わんでも匂いでわかる。……せやから、この環は交渉や詮議、あるいは儀礼の場でよう使われるんどす」


 バニッシュは指先で輪の縁をそっと撫でた。

 骨の質感は滑らかで、温もりすらある。

 だが、その奥に微かに震える魔力の糸が走っているのを感じた。


「……古代魔法の理にも似てるな。媒介に感情を通す仕組みか」


「せやけど、これはもっと獣人寄りや。うちらは耳と鼻で相手を見る。心具は、その感覚を形にしてくれるもんやね」


 ツヅラ御前は、輪を一度バニッシュに渡した。


「触ってみぃ。あんたの“混じり”がどんな香りになるか、うちも興味あるさかい」


 バニッシュは一瞬ためらったが、やがて輪を右手に持ち、ゆっくりと深呼吸をした。

 次の瞬間――沈香の香に混じって、冷ややかな夜風の匂いと、焚き火にくべた薬草のほろ苦い香りが座敷に広がった。

 グラドが眉を上げる。


「……悪かねぇな。お前の魔族の“混じり”ってのは、こういう匂いか」


 ツヅラ御前は目を細め、にっこりと笑った。


「なるほど……冷と温の間やな。面白い拍や」


「――これ、あんたらに渡してもええ」


 その言葉に、バニッシュもグラドも同時に身を乗り出した。


「本当か?」


「ほぉ……話が早ぇじゃねえか」


 だが、ツヅラ御前は口元をゆるく歪め、扇を頬のあたりで軽く揺らした。


「ただし、条件付きや」


 座敷の空気が、途端に重みを帯びる。

 ツヅラの金の瞳が、二人の胸の奥を探るように細められた。


「南街の外れ、“鳴土路(めいどろ)”っちゅう寂れた通りがある。あそこは昔、心具職人が多く住んどった場所やけど、今は廃屋と化して獣らが寄りつかん。理由は簡単、妙な“拍”が夜な夜な漂うんや」


 グラドが顎をかく。


「妙な拍?」


「そうどす。鼓動がずっと耳元で鳴るような、不気味で重い響きや。……噂じゃ、昔その通りで心具に“人の魂”を封じた職人がおったらしい」


 バニッシュは眉をひそめた。


「それを調べろ、ってことか」


「せや。あんたらの足と目で、何が鳴土路に巣食ってるんか突き止めてほしい。ついでに、その“拍”の正体を消してくれたら上出来や」


 彼女はさらりと言ったが、その響きにはこの依頼が生半可ではないことがにじむ。

 グラドが低く笑った。


「……なるほど、骨のある仕事だな」


 バニッシュは短く考えた末に頷いた。


「わかった。引き受けよう」


 ツヅラ御前は満足げに微笑み、鳴心環の上に手をかぶせた。


「ほな、あんたらが無事に帰ってきたら――この環はそのままあんたらのもんや」


 そう言って、彼女はゆっくりと立ち上がり、座敷の畳を静かに渡ってくる。

 そして、真正面に立ったバニッシュの顔へ、白くしなやかな指をそっと添えた。

 金の瞳が間近に迫り、吐息が頬をかすめる距離まで顔を近づける。


「……前にも言うたけどな、うちはあんたに興味があるんよ」


 囁くような声が耳の奥に響く。

 その瞳は、底の見えない湖のようでありながら、どこか懐かしさすら感じさせる温もりを帯びていた。


「あんたの目は――昔語りに出てくる英雄の目ぇや。強うて、優しゅうて……けど、どこか遠くを見てる」


 バニッシュの心臓が跳ねる。

 視線を外せないまま、耳の奥まで熱くなっていくのを自覚した。

 ――だが、そのとき。


(バニッシュ、アンタ……まさか鼻の下伸ばしてないでしょうね?)


(……全く、油断も隙もないですね)


 脳裏に、リュシアとセレスティナの咎めるような声が鮮やかに響く。

 ハッとしてバニッシュは、ツヅラ御前の手から顔をそっと離した。

 その反応を見たツヅラ御前は、ふいに扇で口元を隠し――


「ふふ……あははは!」


 ころころと、鈴を転がすような笑い声を立てた。


「……ええわええわ、その顔。やっぱりおもろいお人や」


 その笑みは、挑発でも嘲笑でもなく、純粋な興味と愉快さが混ざったものだった。

 座敷の灯りが、その金の瞳に揺らめきながら映り込んでいた。

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