ツヅラ御前
槍先がわずかにこちらを指すと、灰毛の門番は短く顎をしゃくった。
「――詰め所で詳しく聞かせてもらう。抵抗するなよ」
脅し口調ではない。職務としての冷たさだけがこもる声音だった。
バニッシュは両手を見える高さに上げ、素直に頷く。
「わかった。案内してくれ」
横でグラドも、無用な誤解を避けるように腰の槌から手を離した。
二人は左右から付き添う狼面の兵とともに、門楼脇の土間へ通される。
厚い丸太と土壁で囲まれた小部屋――詰め所は、獣脂の煙と乾いた草の匂いが混じる、鼻に残る空気だった。壁には縄目の太い網、手入れの行き届いた槍、嗅ぎ分け用の香草籠。
低い卓の上には、刻み目だらけの木簡と黒く磨かれた刻刀が置かれている。
「座れ」
促され、二人は丸太を割った腰掛けに腰を下ろした。
灰毛の門番が向かいに立ち、もう一人の若い門番が入口に立って目を光らせる。
犬種の兵は香草籠を手に、こちらに近づいたり離れたり、風向きと呼吸を測るように鼻を使っていた。
「さっきの“匂い”だが――どこで付けた」
問われ、バニッシュは一拍置いてから口を開く。
「道中、魔物とやり合った。火と風で焼き払ったが、……魔族寄りの術の流儀を、少しばかり使った。残り香があるのはそのせいだ」
それが嘘でないことは、言葉に力を込めるよりも、視線を逸らさぬことに宿る。
灰毛の男は目を細め、犬種の兵と視線を交わした。
犬面の兵は小さく首をひねる。
「火炙りの煤と……古い血の匂い。だが、もうひと筋、別の筋がある。……唸りが混じる匂いだ」
グラドが口髭を撫で、肩をすくめた。
「魔素の糸を締め上げる時の鼻にくるアレさ。鍛冶屋の鼻でも分かるくらいだ。嘘は言ってねぇ」
「口裏合わせに見えんでもない」
若い門番が鼻で笑い、槍の石突で床を小さく突く。
詰め所に張り詰めた緊張が、木目を通じて伝わってくるようだった。
灰毛の男は、低く、喉の奥で唸る。彼らにとって“魔族”は、匂いと同義の脅威だ。
目に見えぬものを嗅ぎ分ける感覚こそ、獣人の秩序を守る根っこにある。
「もう一度聞く。お前たちの目的は」
「鍛造技の見聞と材の調達。……それと、探し物だ」
「探し物?」
「心に反応する共振体――“心の代わり”になる器だ。魔素に感応し、感情の波形を拾う……学者風に言うとややこしいが、実際、触ってみりゃ分かる類のものだ。噂じゃ、この国の連中は“心の匂い”まで嗅ぎ分けると聞いた。なら、こういう物も扱っているだろうと踏んだ」
詰め所の空気が、ほんのわずかに揺れた。
若い門番が「何を」と口の端を吊り上げる。
しかし灰毛の男はすぐにそれを手で制した。
獣人の国――ルガンディアでは、匂いは言葉であり、手触りは証だ。
曖昧な理屈より、手に取れる物と、鼻が語る真偽の方が早い。
「……で、その“心の器”を手に入れて、何をする」
「人を守る装置を完成させる。魔法の異なる理を、衝突させずに束ねるための核がいる。俺たちはそのために旅をしてる」
灰毛の男は腕を組み、長い呼気を吐いた。
彼の目は、理屈を測っているのではない。
今この瞬間、バニッシュらの体温、呼吸、汗の匂い、瞳の揺れ――獣が獲物を見定めるように、総体としての“嘘”の匂いを嗅いでいた。
「……なるほどな」
短い言葉の後、沈黙が落ちる。外では太鼓が二度鳴り、木戸車輪の軋む音と、香草を炙る甘い匂いが流れてきた。
「だが、こちらにも掟がある。“魔族の匂い”を放つ者を、素性も確かめず集落に入れるわけには――」
灰毛の言葉は、檜扇で扉を軽く叩くような乾いた音に遮られた。
詰め所の入口に影が差し、ふわりと別種の香が満ちる。
白檀にも似た、しかし甘やかで艶のある香。
「――おやおや、詰め所でなにやらきな臭い話やなぁ。ちぃとばかし、あたいも耳を貸してもろてええ?」
艶のある京都弁。
振り向けば、そこに立っていたのは、あの女だった。
金の瞳がゆるやかに笑みを帯び、花魁風の重ねをしゃなりと揺らす。
人の肢体に、狐の耳と尾――“付けた”ではなく、そこに“在る”としか言いようのない自然さ。
エルフの里の廊下で、バニッシュの眼前に顔を寄せてきた、あの狐女が、獣王国の詰め所に、当たり前のように立っていた。
「……あなたは」
思わず漏れたバニッシュの声に、女は金の環を微かに鳴らして笑う。
「覚えといてくれはったんどすな。嬉しおす。――さて、そっちの御門の衆。お客はん、何したはったん?」
軽い調子。
だが、その場の空気は一気に変わった。
入口を塞いでいた若い門番がはっと背筋を伸ばし、灰毛の男は一歩進み出て、深く頭を垂れる。
「――御前」
短い呼称に、バニッシュは眉を動かした。御前。
平民が気安く口にするには重すぎる言葉だ。
女は扇で唇を隠し、「あらあら」と小さく笑う。
「ここは詰め所やし、そんなに肩肘張らんといて。で、状況を」
灰毛の門番は簡潔に告げた。
入境検めの途中、来客の一人から“魔族の匂い”を拾ったこと。
荷は清潔、持ち物に不審なし。
本人の申告では道中の戦闘の残り香。
滞在の目的と探し物の話――。
女は一つ一つにうなずき、金の瞳を細めた。
その目は、柔らかいのに容赦がない。
人の体温を確かめる手つきで、心の奥の温度を撫でるような視線だった。
彼女が一歩踏み込むたび、衣の裾から、揮発する香と獣脂が絡み合う甘い匂いが少しずつ広がる。
「ふむふむ。お客はん、道中で影モンとやり合うた言うてはったな。……その“糸”の手つき、誰に習いはった?」
いきなり芯を突く問いだった。
バニッシュは嘘が利かないことを悟り、素直に答える。
「書で学んだ理を基に、俺なりに手を合わせた。人の理と魔の理の縫い合わせ方は、……現場で身につけた」
女は「よう言いはる」と扇の端で口元を叩き、ゆるく笑う。
その笑みは好奇の色を帯びるが、油断の匂いはない。
彼女の両脇で控える二人の狐族――こちらは耳も尾も露わな若い従者――が、扉脇に立ち、詰め所の出入りをさりげなく塞いだ。
彼女が“誰”なのか、ここにいる獣人たちがよく知っている証だ。
獣人にも、人に限りなく近しい者と、獣へ傾く者がいる。
鼻と耳だけが鋭い者もいれば、全身に毛が走り、四足に近い走りで森を駆ける者もいる。
目の前の女は、そのどちらでもない。
“人”として歩き、ため息の吐き方ひとつで場の温度を変えながら、――それでも獣の匂いを纏う。生まれながらに二つの境界をまたぐ者。
だからこそ、ここで“御前”と呼ばれるのだろう。
「御前。こやつら、悪意は薄い。だが掟が……」
灰毛の男が言いかけると、女は扇を伏せ、軽く首を振った。
「悪意は“薄い”やのうて、“ない”や。そこ、嗅ぎ間違いはあかん。鼻はええ匂いを拾うためにあるんえ。恐れと焦りは、悪意とは違う匂いやろ」
言われ、灰毛の門番は一瞬だけ目を伏せた。
羞恥ではない。
自分の鼻が拾った“混じり”の内訳を、言葉にされたことへの納得だ。
犬種の兵が「確かに」と鼻を鳴らす。
「それとな。あんたら、さっきから“魔族の匂い”言い過ぎや。匂いは匂い、名は名。混ぜて言うたら、鼻も心も鈍くなる。――お客はん」
女はバニッシュに向き直り、扇を閉じて袖にしまった。金の瞳がまっすぐこちらを射る。
「うちの国では、匂いは“手形”や。あんたの匂いは、火と風と、ほんのちぃと“別の理”が混じっとる。でも、それがすぐ悪行に繋がるわけやあらへん。掟は守らなあかんけど、そのために“目”をつぶるのは、うちの趣味やない」
若い門番が、ちらりと彼女を見る。御前は軽く頷いた。
「御前。――身分を明らかに」
灰毛の男が言うと、女は「しゃあないなぁ」と笑って、腰帯の内側から緋の組紐に結ばれた小さな木札を取り出した。
狐面と月輪の刻印。
門番たちが一斉に膝を折り、低く頭を垂れる。
「ルガンディア・南市“牙門”目付――黄泉狐のツヅラどす。普段は市の目付やけど、今日は上のお使いで回っとりますのえ」
目付。市を預かる“目”であり“鼻”。
権限を示す木札が、燻した木の匂いとともに確かな重みを放つ。
これで、この場の力学は決まった。
「で――お客はん。うちはあんたに興味がある。質問はあと。今は“次”に進めたいんえ。掟に従う形にしたる。記録を刻んで、仮の路印を切っとき。滞在は七日、延伸は目付場にて申請。宿は“灰牙”の長屋を使い。……御門の衆、ええな?」
灰毛の男は深く頷き、刻刀を取った。
狸面の書記役が慌ただしく木簡を繰り、犬種の兵が香草籠に手を入れて、路印に使う乾草を選る。
若い門番は入口から身を引き、外へ指示を飛ばす。
「ちょっと待ちなさいや」
女はそこでぴたりと扇を広げ、バニッシュをもう一度だけ覗き込む。
花魁風の衣の重ねから覗く喉元が、思わせぶりに白い。だが、その声音は錆びを落とすように真っ直ぐだった。
「あんた、エルフェインで会うたやろ。廊下で。……うち、あん時から気になっとってん」
「あの時は失礼した。――あなたは、何者なんだ?」
「んふ。さっき言うた通り、目付や。目と鼻は、境で働く。あんたみたいなんが好きやねん。境を渡ってしまう手と足と鼻を持っとる者。――うちらの国は、そういう者を嫌わん。たとえ、“匂い”がちぃとばかし混じっててもな」
ふわりと尾が揺れ、金環がかすかに鳴った。
その音に合わせて、詰め所の張り詰めた空気がほどけてゆく。
灰毛の門番が木簡に最後の刻みを入れ、路印の乾草に香草の粉を揉み込んだ。
香は道しるべの印――この国における“仮の身分証”。それをバニッシュの腕に軽く巻き付け、グラドにも同じ処置を施す。
「これで、門を通れる。だが掟を破ったら、鼻は真っ先にお前らの匂いを捉える。覚えとけ」
灰毛の声は厳しいが、さっきまでの刺はない。
女――ツヅラが「よろしゅ」と笑い、軽やかに踵を返す。
扉のところで一度だけ肩越しにこちらを見た。
「夕刻、市の“心具屋”に顔出し。うちも行くさかい。探し物の話、続きを聞かせてもらお」
尾がひらりと弧を描き、花がすれるような香が残る。
詰め所に残ったのは、獣脂と香草と、焼けた木の匂い。
グラドが肩を回し、ぼそりと言った。
「……高ぇ身分、てのは本当だったらしいな」
若い門番が苦笑し、灰毛の男が短く補う。
「目付は市と掟の“目”だ。鼻の利きも、目の利きも、俺たちより上。……“御前”と呼ぶのは、敬称だ」
「なるほど」
バニッシュは巻かれた路印を見下ろし、息を整えた。緊張の糸がほどけると同時に、胸の奥で別の糸――目的の糸が、静かに引かれる感覚がある。
獣人の国は、匂いと掟と誇りでできている。
――ならば、ここで求める“心の代わり”も、匂いと手触りの言葉で語られるに違いない。
「行こう、グラド」
「おうよ。匂いの濃い街は、嫌いじゃねぇ」
二人は詰め所を後にした。
外はもう昼の匂いに満ちている。焼いた肉、炙った穀、香辛料、皮の油、鉄を打つ火花――様々な匂いが層になって、鼻から胸へ、胸から足へと麻縄みたいに絡みついてくる。
丸太と石の防壁の影を抜け、牙門の内へ。
――獣人の国、ルガンディアの「生活」の真ん中へ。
そこで待つであろう“心具”と“匂いの会話”を思い描きながら、バニッシュは金環の残響を、胸の奥で反芻した。
牙門をくぐった瞬間、鼻腔の奥がびり、と痺れた。
匂いが層になっている。焼いた穀の甘み、獣脂のこってりした膜、晒した皮に染み込む植物油、鉄滓の粉っぽさ、そして香草を潰した青い匂い――それらが縦横に交わって、街全体の“体温”を作っていた。
石と丸太で組まれた街路は、まっすぐに伸びず、獣の通り道のように緩く曲がり、身を擦りつけるための角や柱が必ず見える位置に据えられている。
家々の戸口には背丈ほどの「擦り木」が立ち、住人は出入りのたびに肩や頬をそこへ擦り付けて、己の匂いを刻む。
塀には掌大の木片――匂い札――が何枚もぶら下がり、来客が札に頬を寄せて挨拶をする。耳がよく、鼻が利く者の社会は、目印より前に「匂印」で回っていた。
市場は喧騒ではなく律動で満ちていた。
太鼓が一定の間で打ち鳴らされ、職人通り、肉屋通り、皮屋通りへ“拍”を渡す。
獣人の足はその拍に合わせ、荷車の車輪も同じ拍に乗る。
行き交う者の尾が拍ごとにふっと揺れ、耳が小さく跳ねる。人が文字で段取りを組むなら、彼らは匂いと拍で段取りを組むのだろう。
灰色の毛並みの職人が、通りの真ん中に低い炉を据え、鉄の棒を炙っては、槌ではなく“歯”で刻み目を入れている。
噛むための補助具が巧みに作られ、金床の代わりに角の太い枠が据えられている。
道具の握りは太く、爪と肉球に合わせて縄が巻き直してある。
店の脇に吊るされた木札には絵が刻まれ、読み書きに馴れぬ種族でも用向きが伝わる。
絵札の下には乾いた草束が結ばれていて、その草の種類で「修理可」「新調のみ」「急ぎ不可」といった合図になるのだと、通りすがりの子どもが胸を張って教えてくれた。
「ほぉ……人の街より、道具が“身体”に寄ってるな」
グラドが目を細め、各店の手元を舐めるように見て歩く。
鍛冶屋の目が光るたび、縄の巻き方や留め具の噛ませ方が頭の中で転がっていくのが、横にいるバニッシュにも分かった。
「宿は……“灰牙の長屋”だったな」
路印に結わえられた香草の匂いを辿るように、二人は市の南へ折れた。
緩やかな坂の下に、狼の牙を象った破風が見える。
長屋は丸太の骨組みに石壁、土間がひと続きで、仕切りは布と縄の結い。
出入り口に据えた擦り木の周りには、宿泊客の匂いが幾重にも絡み、獣脂の膜が薄く光っている。
「路印、よろし」
舌に小さな傷を持つ羊系の女将が匂い札を鼻先で確かめると、布をめくって奥へ案内した。
寝所は二段の寝台に藁と獣皮、壁には尾を掛ける輪と、耳を休ませる遮音布が用意されている。
人間用に低めの台もあり、女将は「尾、無いならこの輪は衣掛けに」と肩をすくめた。
荷を下ろすと、胃袋がぐうと正直に鳴いた。グラドが頭巾を脱ぎ、汗を拭いながら笑う。
「腹が鳴るのは万国共通だな。昼飯、行くぞ」
「ああ。市の拍が変わる前に」
ふたたび外へ。
昼の拍は、朝より少し早い。
屋台の煙が増え、肉の焼ける匂いが通りを覆う。高原の獣肉に強い香草を揉み込んだ串焼き、挽いた穀と肉を皮に包んで蒸した「蒸皮餅」、腸詰めを炙って蜂蜜と酢を塗る「甘酢焼き」。
桶に張った骨湯に香草を放り込み、木勺で注ぐ湯飲み。
鼻も舌も一度に掴まれて、どれからいくか迷う。
「まずはこれだ」
グラドが選んだのは、鉄板に押し付けるたびにじゅっと音を立てる腸詰め。
脂の力強い匂いに、蜂蜜酢の尖りが絡んで、胃が勝手に前のめりになる。
バニッシュは蒸皮餅を二つと骨湯、串焼きを一本。店主の大柄な熊系の男は、客が人間でも気負わず、標準より短い串を選んでくれた。
歯の強さに差が出ぬよう、肉の部位も少し柔らかい腹側だ。
屋台の脇に据えられた共同の腰掛けに並んで座る。
座面は低く、尾のある者は尾を前に回して座る作りだ。
尾の無いバニッシュたちは膝を軽く開いて腰を落ち着ける。
骨湯を啜ると、体の芯がすぐに熱を帯びた。
「……いい出汁だ。骨を砕く刻みも、香草の刻みも細かい」
「牙で割るとこういう割れ方になんだ。人の店の出汁とは“割り具合”が違うな」
熱と脂で人心地がついた頃、隣の腰掛けに狐と豹の若い男たちが腰を落ち着けた。
耳がぴんと立ち、好奇心の匂いを隠さない。会話の拍が合うと、自然と耳がそのリズムを拾い始める。
「――聞いたか。ツヅラ御前が牙門まで降りたって」
「聞いた聞いた。南市の目付が、門の匂いまで嗅ぎに来るなんて、年に何度もないぞ」
「お偉い鼻様のお通りかよ。何の“追い香”だ?」
狐の男が尾を二度ほど打つ。
追い香――問題の匂いを追うという言い回しだろう。
豹の男は肉を噛みちぎり、汁を指で拭って舌でさらい、にやりと笑った。
「外の客、だとよ。匂いが混じってたらしい。門の灰毛が騒いで、御前が静めたって話だ」
「灰毛が騒ぐって相当だな。あの鼻、三つ先の火種も嗅ぎ当てるって評判だろ」
「だからこそ、御前が出たんだ。あの御方は、鼻が立つだけじゃない。“秤”を持ってる」
秤――その単語に、バニッシュは骨湯の湯飲みを少しだけ傾けた。隣席の狐が小声で続ける。
「南市を捌く目付は三人いるけど、ツヅラ御前は別格だ。匂いで嘘を嗅ぎ分けるだけやない。“群れ”の拍を崩さんよう、厳しいところで止める。あの金の目で見られたら、尾の動きでさえ言い訳にならん」
「さっき、市場道の拍を二つ落としたのも御前だってよ。戦士らの足が荒くなってたろ。拍を落としたら、みんな意識が落ち着く。指一本で街の息の数を変えるんだ」
「おっかねぇ話し方すんなよ」
「お前、御前に尻尾掴まれたことでもあんのか?」
「あるかよ。……でもな、あの御方は“二つの匂い”を持ってるって言うだろ。人の匂いと獣の匂い。だから秤が狂わねぇんだと。人には甘く、獣には甘く。どっちにも厳しく」
狐が尾をゆっくり左右に振る。
豹は頷き、串の先で空を突いた。
「御前が鼻を使って通した客は、たいがい正しく“匂いを返す”。うちの掟を踏む。踏まねぇやつは、二度と入れねぇ。それも御前の“嗅ぎ仕事”だ」
「それでいて、祭りでは一番よく笑うんだよな。俺の女房、憧れてるぜ」
「お前の尻尾の毛、祭りで燃やされたやつだろ。御前に見られてたぞ」
「黙れ」
二人の笑いに、周囲の尾も軽く揺れた。
笑いの匂いは脂の膜の上で滑り、骨湯の湯気に混じって飛ぶ。
バニッシュは蒸皮餅を割り、中から立ちのぼる蒸気を鼻に入れてから口へ運んだ。
感覚が澄む。耳の後ろで、ツヅラの金環のかすかな鳴りがよみがえる。
「……やはり、只者ではないな」
ぽつりと漏らすと、グラドが腸詰めの端を指で摘みながら肩を竦めた。
「目付なんて役は、どこの国でも化け物の席だ。鼻が利き、目が利き、舌も回る。実と理の両方で殴れるやつじゃなきゃ務まらん」
「彼女は“境の者”だ。匂いの秤を持っている」
「お前さんの“心の器”探しには、あの鼻がいるかもな」
骨湯を飲み干すと、遠くで拍が一つ上がった。
昼から午後へ、街の息が半拍軽くなる。
皮屋の軒先で、若い山羊系の娘が、乾かした皮をひっくり返し、日向と日陰を入れ替える。
太陽の角度と風の向き、匂いの抜け具合で仕事の順番を変える手際の良さに、ルガンディアという街の“身体”が見えた。
屋台の親父が、骨を砕いた粉を指で摘み、火の端にぱらりと撒いた。
香がふっと立つ。
狐と豹の会話はいつの間にか、今夜の狩りと賭けの話に移っていた。
ツヅラ御前の名が出ると、尾の動きが一瞬だけ揃う――敬意と警戒の混ぜ香。
街の拍を握る者への、群れの自然な反応だ。
「さて」
グラドが腰を押し上げる。
串の木端を小袋にしまうと、店主が「骨は返すか?」と顎で問う。
煮出しに再利用するのだろう。バニッシュは素直に頷き、串と骨を渡した。
資源の回し方が匂いの回り方と同じだけ滑らかだ。
「夕刻、心具屋だな」
「ツヅラも来ると言っていた」
「鼻に嗅がれに行くのか、俺たちは」
「嗅がれに行こう」
笑って、二人は腰掛けから立ち上がった。
通りの拍がひとつ、ふたつ――街の大きな胸が呼吸するみたいに動く。
匂い札が風に揺れ、擦り木に擦られる肩と頬の音が、ぱさぱさと近くで鳴る。
獣人の国の生活は、目で見るより先に、鼻と皮膚で「分かる」。その感覚が、旅の疲れに新しい血を通す。
ツヅラ御前。匂いの秤を持つ女。
あの金の瞳の下で、こちらの“混じり”は、どの皿にどれほど乗るのか。
――それを思うと、不思議と胸が軽くなった。怖れはある。
だが、嗅ぎ分けを正面から受け、こちらの鼻と目で返すのは、嫌いではない。
「グラド」
「なんだ」
「匂いに律される街で、心の器を探す。今日の拍は、良い日を引いてる気がする」
「旅に“拍”を持ち出すとはな。……悪くねぇ」
二人は路印の香を確かめるように腕をきゅっと締め直し、午後の拍へ足を合わせて歩き出した。
灰牙の長屋へ戻って荷を整えたら、心具屋へ。
鼻が効く街は、こちらにも“嗅ぐ覚悟”を求めてくる。
鼻と秤――その真ん中で、求める器の輪郭が、少しずつ、匂いになって近づいてくる気がした。




