獣王国ルガンディア
翌朝、バニッシュたちは荷をまとめ、村を後にした。
朝靄の残る街道を歩く中、グラドがふと口を開く。
「……お前の魔法戦闘、昨日じっくり見させてもらったが……あれは、まるで魔族の戦い方だな」
バニッシュはちらりと横目でグラドを見る。
軽く笑みを浮かべ、肩をすくめながら答えた。
「まあ、実際に魔族の魔法理論を教わったからな。――リュシアから」
その言葉を口にした瞬間、バニッシュの脳裏に、胸を張り、どこか得意げなリュシアの姿が浮かぶ。
――『ふふん、感謝しなさい! あなたじゃ到底思いつかない発想なんだから!』
腕を組み、わざとらしく顎を上げるその表情まで、鮮明に想像できる。
思わず小さく息を漏らすと、グラドが怪訝そうに眉をひそめた。
「……何を思い出してニヤけてやがる」
「いや、なんでもない」
バニッシュは首を振り、足を進める。
だが胸の奥では、あの少女の声がまだ響いていた。
拠点を出て二日目。
日が傾き始め、赤く染まった地平線が森の影を長く伸ばしていく。
昼間はそれなりに距離を稼いだものの、周囲に町や宿の気配はなく、バニッシュは足を止めて振り返った。
「今日はさすがにここで野宿だな」
そう言って荷を降ろし、簡易テントを取り出す。
グラドが周囲の安全確認に回り、火を起こし始める。
薪に火花が散り、ぱちぱちと乾いた音が夜の静寂を破る。
やがて、簡素ながら温かい夕餉の支度が整う頃。
グラドが荷袋の奥から、ごそごそと何かを取り出した。
丸みを帯びた頑丈な瓶——ドワーフ特有の厚底の酒瓶だ。
「初日はさすがに遠慮しといたが……今日はこいつをやろうじゃねぇか」
そう言ってニヤリと笑い、瓶を掲げる。
中には琥珀色の液体が波打ち、蓋を開けた瞬間、焦げた木樽と甘い香りが混じった濃厚な香りが辺りに広がった。
火酒特有の、鼻腔を刺す強いアルコールの匂いだ。
「おいおい……夜の見張りもあるんだぞ」
バニッシュが渋い顔で釘を刺すも、グラドは気にも留めず、豪快に笑って金属製のカップを二つ用意する。
「硬ぇこと言うな。たまには温まって寝るのも悪くねぇ。ほら、こっち来い」
差し出されたカップには、焚き火の明かりを反射して黄金色に輝く液体。
バニッシュはしばし逡巡するが、結局はため息をつき、腰を下ろしてカップを受け取った。
「……仕方ないな」
カップが軽くぶつかり、澄んだ音が夜空に響く。
口に含んだ瞬間、舌の上を熱が走り、喉を通った途端に体の芯まで温かさが広がっていく。
焚き火の揺らめく光の中、二人は戦いの話や昔の失敗談を交わしながら、静かに夜が更けていった。
遠くで虫の声が響き、森の奥からフクロウの鳴き声が一度だけ聞こえる。
翌朝。
東の空が薄桃にほどけはじめると同時に、二人は露に濡れた草原を踏みしめて歩み出した。
夜の冷たさはまだ残っていたが、地平から差し込む光が背を押すように温い。
前方には、幾重にも連なる丸太と石を組み合わせた防壁、その上に尖槍と幟が林立している。
丸太は一本一本が節くれだち、表面に刻まれた紋様は獣の牙と爪を象っていた。
「……あれが“獣人の国”の境か」
グラドが陽光に目を細める。
バニッシュは頷き、胸の内にわずかな緊張と期待を抱えながら視線を巡らせた。
防壁の向こうの大気は、どこか土の匂いが濃い。
炎と獣脂、香草と乾いた皮の匂いが混ざり合って、ひとつの「生活」の香りを形づくっている。
彼らの目的地――獣王国ルガンディア。
四方の山脈に抱かれた高原地帯を基盤とし、狼、狐、熊、豹、羊、角鹿、果ては鱗を持つ者まで、多様な種の獣人が寄り集まって築いた「群の国」。
人間の築く城壁より低いが厚く、しなりと重みを活かした実用の塁は、侵入者の足を絡め取るような設計で知られている。
国境の街門――「牙門」の前には、既に長蛇の列ができていた。
荷車の車輪が土を刻み、角牛の鼻輪が鳴る。
背に籠を負った猿顔の男が器用に列を行き来し、羊耳の商人と値切りの押し問答をする。
人間の旅人も少なくない。腰に工具を下げた職人、地図を丸めて懐に挿した学者風、巡礼の旅装に身を包んだ者。
耳と尾が忙しく動く光景に混ざり、彼らはどこか遠慮がちに順番を待っていた。
門楼の下では、入国の検めが行われている。
大きな卓が据えられ、書記役の狸面の男が木簡へ素早く刻みを入れては、客人の名や目的、持ち物を記録してゆく。
脇には鼻の利く犬種の兵が香草の籠を持ち、荷に異臭がないか嗅いで回る。
さらに列の先頭、門の影には狐の尾をひと振りしただけで場の温度が変わるほどの存在感を持つ女が立っていた。
揺れる金環の髪飾り、瞳は溶けた金に似た色。
衣は華やかではないが、布の重ねと腰の帯の結いで体の線を美しく強調している。
こちらに直接視線を向けてはいないのに、通る者の鼓動と息遣いの乱れを拾い、嘘と恐怖の輪郭を見抜いてしまうような静かな圧がある。
(……心を読む者、か)
昨日グラドから聞いた話が、自然と脳裏に重なる。
バニッシュは肩の荷紐を握り直した。
装置を完成させるために必要な「心の代わり」を見つけられるかどうか――その入り口に、もう立っている。
「列は長ぇが、回りは早い。段取りがいい国だな」
グラドは感心したように言い、腰の槌を指で軽く叩いた。
二人は列の最後尾に加わり、少しずつ前へ進むたびに、門前の風景を観察した。
防壁の外側には、木柱に吊るされた木彫りのトーテムがいくつもあり、狼、熊、鷲の顔が来訪者を睨む。
その足元には子どもたちが座り込み、小さな骨笛を売っていた。
骨笛からは、獣の遠吠えに似た通る音が出る。
買っていくのは、むしろ働き盛りの戦士たちだ。
列はやがて、門楼の影にかかる。
陽が高くなるにつれ、土の匂いが甘く温かいものへ変わっていく。
門の内側からは鉄を打つ音、太鼓の連打、掛け声、鼻に抜ける香辛料の香り。
城門の内に広がる市場の熱が、薄い布越しに伝わってくるようだった。
「次――」
書記役の狸面の男が手を上げると、前の商隊が一斉に荷車を押して進み、脇へ退いていく。
狼面の門番二人が、荷車の底、布の裏、樽の栓の匂いまで丹念に嗅ぐ。
狐女は進み出た商主の目をまっすぐ見つめ、短く問いを投げた。
「目的」
「ナツメの卸と、塩の仕入れ。滞在は三日」
「路銀の証、印、旅程」
淡々と、だが容赦なく。
商主は汗ばむ手で巻物と木札を差し出し、狐女はそれを指先で撫でるように確かめてから頷いた。
木簡に刻みが増え、門番が槍の石突で地面を二度叩く。
商隊は流れるように通され、列がさらに前へ進む。
やがて、バニッシュとグラドの番が来た。
書記役が顔を上げる。丸い目が二人を順に映し、手元の刻刀が小さく止まる。
「名は」
「バニッシュ=クラウゼン。こちらはグラド=ハンマル。目的は……鍛造技の見聞と材の調達だ」
正直に、しかし余計なことは言わない。
グラドも頷き、腰の槌と工具の束を示した。
門番の一人が近寄ってくる。
狼の耳がピクリと動き、鼻面がわずかに震えた。
「持ち物を広げろ」
命じられ、二人は背嚢を地面に下ろした。
折り畳みのテント、保存食、火打石、干し革の紐、簡易の鍛造用小型炉の部材、工具一式。
門番は手際よく確かめ、犬種の兵が香草籠を差し出して匂いを嗅ぎ分ける。
問題はないらしい。
だが――もう一人、年嵩の門番が近づいた。
灰色の毛並み、片耳の端が古傷で欠けている。
彼は言葉を使わず、輪郭を撫でる風のように、バニッシュの周囲を一歩、二歩と回り込んだ。
鼻先がかすかに動き、喉の奥で短い唸りが鳴る。
その動きに合わせるように、門の陰から先ほどの狐女が一歩、滑るように出た。
金の瞳が、バニッシュの眼を正面から射抜く。
表情は変わらないのに、胸が一瞬、締め付けられるような圧が走る。
グラドが無意識に槌の柄へ手をやり、バニッシュはその手首を軽く押さえて制した。
「――目的は見聞と材の調達。滞在予定は」
狐女の声は低く、よく通る。
バニッシュは呼吸を整え、視線を逸らさずに答えた。
「一週間を見ている。延びる可能性はある」
書記役が木簡に刻みを入れる。狸面の男が刻刀を止めずに尋ねる。
「紹介状、あるか」
「ない。道中の村に身元を証す者はいる。……必要なら同行の者を呼ぼう」
虚勢は張らない。
用意のない虚飾は、ここでは逆効果だと肌で感じる。
門番が頷き、再び荷の匂いを嗅ぐ。
熊面の兵が背嚢の底に手を入れ、握り飯用の塩袋をつまみ出して返した。
淡々とした動きの連続――そのはずだった。
風が、わずかに向きを変えた。
東から西へ。夜明け前に降りた露を乾かす、乾いた風。
その瞬間、灰毛の門番がピタリと動きを止めた。
鼻先が微かに震え、耳が立つ。狐女の睫毛が、ほんの一拍だけ揺れた。
バニッシュは自分の胸の奥で、わずかに魔力が波打つのを自覚した。
昨夜、焚き火のそばで指先だけに練って崩した術式の癖――魔族の理で整えた糸の手触り。
その細い名残が、ふと風に撫でられて漏れたのだ。
「……止まれ」
灰毛の門番の声が低く落ちた。
すぐそばで槍の石突が地面を叩かれ、規律としての音が空気を締める。
他の門番たちの視線も、音もなく二人へ集まった。
列の後方でざわめきが起こり、角牛が鼻息を荒げる。
狐女の金の瞳が細められ、彼女は一歩、距離を詰めた。
肌の上を軽く撫でるような、だが芯まで届く問いの気配。
言葉はまだ出ていない。それでも、問われる内容はわかる気がした。
灰毛の門番はバニッシュの正面に立ち、鼻先をわずかに上げて、短く吐息を漏らした。
その眼はまっすぐで、曇りがない。
「……おい。お前から――魔族の匂いがする」
その一言に、門前の空気が、きしむように固まった。
槍の穂先がわずかに持ち上がり、犬種の兵が香草籠を握り直す。
列の人間たちが息を呑み、獣人の子どもが骨笛を胸に抱え込んだ。
狐女は目を逸らさないまま、袖の下で細い指が帯の端をつまむ。
グラドが、唇の端に乗りかけた言葉を飲み込んだ。
バニッシュは、静かに息を吸った。
胸の奥で、魔力の糸がたしかに微かに震えている。
それは恐れではなく、これから問われるものに対する、答えの重さの予感だった。
門楼の上で、監視役の太鼓が一度、短く鳴った。
門の影は濃く、陽は高く――列は、凍りついたまま、動かない。




