修羅の英雄譚、開幕
かつて交易で賑わった都市の中心部。
そこには、数週間前まで商館と広場があった場所に――漆黒の城壁が天を突くように聳えていた。
その姿は、まるで地獄から生えた牙。
石材の間には魔力を帯びた黒鋼が組み込まれ、壁面には禍々しい紋様が脈動している。
城門の前には旗が掲げられ、そこに刻まれた紋章は――かつて王都で讃えられた“勇者の紋章”を、黒く塗り潰したものだった。
噂を聞きつけた暴徒、盗賊、ならず者、そして行き場を失った者たちが次々と集まってくる。
「ここに行けば“黒き勇者”様に会えるらしいぜ……」
「王国の連中じゃなく、あの人が俺たちを導いてくれるんだとよ……!」
彼らは希望と狂気を入り混ぜた目で城門を見上げる。
重厚な扉が軋みを上げて開き、
長い赤黒い絨毯が玉座までまっすぐ伸びていた。
その先――高く構えられた玉座に、漆黒の鎧を纏ったカイルが腰掛けていた。
鋭く光る眼差しは、集まった群衆を獲物のように舐め回す。
玉座の右側には、艶やかな黒衣に身を包んだ魔導士ミレイユ。
唇の端に妖艶な笑みを浮かべ、まるで獲物を値踏みするように群衆を見下ろしている。
その指先からは、淡く紫の魔力が蠢き、場にいる全員の心拍を無意識に早めさせていた。
左側には、白いローブの聖女セリナ。
顔を深く伏せ、視線を合わせようとしない。
その両手は膝の上で固く握られ、肩は小さく震えている。
「――よく来たな」
カイルの低く響く声が、広間全体に反響する。
「お前たちの望むものは何だ? 食か、金か、力か……それとも復讐か?」
群衆の中から「力を!」「復讐を!」と怒号が飛ぶ。
カイルは満足げに笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「ならば……俺の下に集え。俺がお前たちに与えてやる。この腐り切った王国も、魔王も――すべて俺が叩き潰す。」
その瞬間、群衆の熱が爆発する。
「黒き勇者に栄光あれ!」
「カイル様万歳!!」
歓声と足踏みが城内を揺らし、外の城壁までも振動させた。
ミレイユは妖しく笑い、セリナはさらに深く顔を伏せる。
こうして――黒き勇者の城は、新たな秩序の象徴として都市に根を下ろした。
群衆の歓声と足踏みがまだ鳴り響く玉座の間。
その熱気の中――パチ……パチ……
乾いた音が静かに響いた。
玉座の背後、影が濃く沈む一角から、一人の男が歩み出る。
頭から深く被ったフードが顔の半分以上を覆い、その奥からは感情の読めぬ笑みが漂っていた。
「……素晴らしい。まことに、素晴らしい光景です」
カイルはゆっくりと振り向き、片眉を吊り上げる。
「――お前か」
その目には、敵か味方かを見極める鋭さが宿る。
しかし、フードの男は怯むことなく、むしろ楽しげに口角を上げた。
「やはり……やはり貴方こそが、真の“勇者”に相応しい」
低く艶やかな声。
その奥底には、言葉では表せぬ毒のような熱が混じっている。
カイルは鼻で笑い、玉座に深く腰を掛け直した。
「で……今度は何の用だ?」
フードの男は静かに一歩、また一歩と進み出る。
そして群衆の熱気に包まれるこの場で、周囲には聞こえぬほどの低さで告げた。
「これから……貴方の名を、この世界の隅々にまで轟かせましょう」
黒い影がその口元で歪む。
「――その第一歩として。まずは……獣人の国を、手に入れていただきます」
禍々しい響きと共に、フードの男の笑みがさらに深くなる。
その笑顔は、不気味なほどに“結果”を知っている者のものだった。
玉座の上で頬杖をついたカイルの目が、鋭く細められた。
「……獣人の国だと?」
フードの男は一礼しつつ、声を低く滑らせる。
「ええ――。あの国の者は、生まれながらにして強靭な力と肉体を持ちます。さらに……一部の者は、心を読み解く異能を備えているとか」
玉座の間の空気が、ぴり、と張り詰める。
セリナがわずかに息を呑み、視線を逸らす。
「……心を読む、ね」
カイルは低く笑い、その笑みは狂気と好奇心が混じったものだった。
「つまり――敵になれば厄介だが、配下にすればこれほど頼もしいものはない」
「その通りです、勇者カイル様」
フードの男は一歩進み出て、わずかに顔を上げた。フードの奥で笑みが滲む。
「ならば――勇者である貴方が、その力を手中に収めるべきでしょう」
ミレイユの唇が艶やかに吊り上がる。
「ふふ……戦力になるなら、悪くない話ね」
しかし、セリナの指は震えていた。
(……獣人の国まで……? もう、後戻りできない……)
フードの男の声が、玉座の間にじわりと染み込むように広がる。
「――全ては、貴方の名を世界に響かせるために」
その言葉と同時に、玉座の上のカイルはゆっくりと立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべた。
「……いいだろう。獣人の国――俺の旗で染め上げてやる」
黒き城の中枢――軍議の間に、各地から集められた暴徒上がりの兵士や傭兵、ならず者たちがひしめき合っていた。
カイルは玉座の前に立ち、獰猛な笑みを浮かべる。
「……獣人の国を攻める。目標は単純だ――その力を奪い、国ごと屈服させる」
ざわめく兵たちの中で、ミレイユが艶やかに前に出た。
「ふふ……その指揮、わたしが預かるわ。あの国の牙も爪も、全部抜いてあげる」
その瞬間、フードの男が一歩前に出て、深く頭を下げる。
「お待ちください、カイル様。私からも――今回のための特別な戦力をご紹介させていただきます」
低く響く足音が、軍議の間の空気を一変させた。
暗がりから現れたのは、全身を漆黒の鎧で覆った巨躯の男。鎧の継ぎ目からはかすかに紫の魔力が漏れ、まるで生き物のようにうねっている。
その後ろから、ゆっくりと杖を突きながら歩み出たのは――長い白い眉毛で目を覆い、腰まで届く白髭をたくわえた老人だった。
巨躯の男は一言も発せず、ただその場に立つだけで周囲の兵を圧迫し、呼吸を奪う。
老人はふっと口角を上げ、掠れた声を漏らす。
「……獣の心を読む者とて、我が術には抗えまい」
カイルはその二人を見定めるようにしてから、ニヤリと笑った。
「面白い……フードの男、お前もなかなか良い駒を持っているじゃないか」
ミレイユが唇を舐め、興味深そうに二人を見やる。
セリナだけが、胸の奥に渦巻く不安を必死に押し殺していた。
城門前、土煙と共に怒号が響き渡る。
「王都討伐隊だ! 奴らが来たぞ!」
暴徒たちの顔に緊張が走るが、玉座の上のカイルは薄く笑った。
「丁度いい…新戦力の力試しにはもってこいだな」
その言葉に、影の中で控えていたフードの男が一歩前へ。
「では――その力、とくとご覧ください」
口元がフードの奥で不気味に歪む。
重い足音が地を揺らす。
全身を黒鉄の鎧に包んだ巨漢、戦禍の巨獣バルグが現れる。
その手には人間が両腕で抱えても余るほどの戦斧。
一歩、また一歩と進むたび、鎧の継ぎ目から低い唸り声が漏れる。
その隣に静かに現れたのは、白眉と長い髭を揺らす老魔導師、心葬の仙翁ラグナ。
目元は長い眉に覆われ、瞼すら見えない。
その手には鈴の付いた黒檀の杖。
「撃てぇぇ!」
討伐隊の前衛が一斉に矢を放つ。
だが次の瞬間、バルグの戦斧が横薙ぎに振るわれ、矢も兵もまとめて吹き飛ばされた。
鎧の金属音と骨の砕ける音が混ざり合い、血飛沫が土に描く。
後衛の魔導士たちが慌てて詠唱を開始するが――チリン…と、ラグナの鈴が鳴った。
その音は風に溶け、兵たちの耳に忍び込む。
次の瞬間、魔導士たちの目が虚ろになり、仲間に向かって魔法を放つ。
「ぐああああ! 何をしている!」
「俺じゃ…ない…!」
混乱の中、ラグナは無表情のまま杖を一振り。
精神を操られた兵たちは、仲間同士で斬り合い始めた。
城門前は、もはや戦場ではなく屠殺場だった。
最後の一人が地に伏すまで、バルグは一言も発せず、ラグナは一歩も動かずに戦況を支配していた。
フードの男は満足げに振り返り、カイルへ深く一礼する。
「――これが、貴方の新たな力です」
カイルは立ち上がり、玉座の上から討伐隊の屍を見下ろし、不敵に笑った。
「悪くない。これなら…獣人国もすぐだ」
黒き勇者の玉座の間。
玉座に腰掛けたカイルは、静かに足を組み、眼下に並ぶミレイユ、バルグ、ラグナを見下ろした。
外では新たに集まった兵たちの鬨の声が響き渡り、侵攻の気配が大地を震わせている。
「――ミレイユ。」
カイルの呼びかけに、紅い唇を弧に歪めながら彼女が一歩前に出る。
「お前にバルグ、ラグナ、それぞれに部隊を預ける。そしてその全軍の総指揮――お前が握れ」
その言葉に、玉座の間に緊張と期待の空気が満ちる。
ミレイユはしなやかに腰をくねらせ、妖艶な笑みを浮かべた。
「ふふ……まかせて。――獣人の国も、すぐにあなたの足元にひれ伏させてあげるわ。」
その背後では、戦禍の巨獣バルグが重い息を吐き、戦斧の刃を城の床に突き立てて低く唸る。
心葬の仙翁ラグナは長い白眉を揺らしながら、杖の鈴をひとつ鳴らした。
それはまるで、これから訪れる血と恐怖の行軍を告げる合図のようだった。
カイルは玉座に深く背を預け、フードの男へと視線を向ける。
「始めろ――俺の名を、世界に刻むための侵攻を。」
城外では、黒旗が一斉に掲げられ、
獣人国へ向けた軍勢の進軍が轟音とともに始まった。