黒い勇者の影
昼頃に差し掛かり、近くの小川のほとりで足を止めた二人は、木陰に腰を下ろして休憩を兼ねた昼食にすることにした。
川面を渡る風は涼しく、せせらぎの音が旅の疲れを少しだけ和らげてくれる。
「こうやって男二人で旅ってのも、悪くないもんだな」
腰を伸ばしながら、グラドがふっと笑う。
「ああ、気楽でいい」
バニッシュは荷から包みを取り出し、布をほどく。
メイラが用意してくれた保存食もあったが、昼だけは「しっかり食べな」と手作りのサンドウィッチを渡してくれていた。
包みを開けると、ふわりとパンの香りと具材の匂いが広がる。肉厚なハムとチーズ、たっぷりの野菜が挟まれたサンドウィッチは彩りも鮮やかで、見ているだけで腹が鳴る。
「おお、こりゃうまそうだ!」
グラドは嬉しそうに一つ手に取り、大きくかぶりつく。
「……うん、メイラには感謝しかないな」
バニッシュも頷きながら、自分の分を口に運ぶ。
「ザイロはいい嫁さんをもらったもんだ。幸せだろうな」
しみじみと言うグラドに、バニッシュは「ホント、羨ましいよ」と返す。
だが、次の瞬間、グラドはニヤリと口角を上げ、
「そういやお前は……リュシアとセレスティナ、どっちと付き合うつもりなんだ?」
と唐突に爆弾を投げ込んだ。
「ぶっ……! な、なに言ってんだ急に!」
口にしていたサンドウィッチの一部を危うく吹き出しそうになり、慌てて咳き込むバニッシュ。
グラドはサンドウィッチにかぶりつきながら、にやりと口の端を上げた。
「なんやかんや言ってもよ、お前ら一つ屋根の下で暮らしてんだし……しかもあんな美人二人だぞ? なあ?」
「……っ!」
バニッシュは手を止め、耳まで真っ赤に染める。
「あ、あいつらは仲間だ。それに……俺はおっさんだぞ? 相手にされるわけがない」
「はっ、なに言ってんだ」
グラドは豪快に笑い、膝を叩きながら続けた。
「お前、俺より若いだろ。それにな……あっちはそう思ってないかもしれんぞ?」
わざと意味深に目を細め、視線をちらつかせる。
「……っ……」
バニッシュは言葉を失い、握っていた箸をぎゅっと握り込む。
「そ、そんなわけあるか」
強引に否定しようとするが、頬の赤みは隠しきれない。
グラドはニヤニヤと笑いながら、おにぎりをひょいと口に放り込む。
「ま、男ってのは、そういうとこ素直になれねぇもんだ」
「……と、とにかくだ!」
バニッシュは急に声を張り上げ、話題を切り替えようとする。
「今は拠点の結界の強化が最優先だ。それが終わらなきゃ、獣人の国に行く意味も半減する」
「あーはいはい。そういうことにしといてやるよ」
グラドは肩をすくめ、悪戯が成功した子どものような顔をして弁当を頬張った。
小川の水音と、木々のざわめきが二人の間を流れる。
バニッシュはそっぽを向いたまま、サンドウィッチを無言で口に運んだが、内心ではグラドの言葉が妙に頭から離れなかった。
昼食を終え、弁当箱を片付けた二人は再び歩みを進めた。
日差しは少し傾きはじめ、影が道を覆い始める。木々の間から小川のせせらぎが遠ざかっていき、代わりに風に乗ってかすかなざわめきが耳に届く。
「……あそこだな」
グラドが前方を指さす。
視線の先、街道の先に小さな村が姿を現した。だが、ただの平穏な村ではない。
「……煙?」
バニッシュは眉をひそめた。
村のあちこちから黒い煙が立ち上り、風に流されてゆく。
耳を澄ませば、叫び声や金属のぶつかる音、獣のうなりにも似た怒号が入り混じっている。
二人は自然と足を速めかけたが、バニッシュがすぐにグラドの肩を軽く押さえた。
「待て、様子を見てからだ」
村の外れにある大きな岩場を見つけ、その陰へと身を潜める。岩肌はひんやりと冷たく、胸の鼓動がやけに大きく響く。
岩の隙間から村をのぞくと、家屋の前で人々が逃げ惑い、数人の武装した者たちが追い立てていた。
しかし、彼らの装いは明らかに野盗のそれとは違う。
粗末な布服や革鎧ではなく、揃いの色合いと紋章を施した鎖帷子や肩当て、そして規律を感じさせる動き――まるで正規の兵か、組織だった傭兵のようだった。
「……野盗じゃないな。あれは……」
バニッシュは目を細める。
「ここは王都の自治領域のはずだ。巡回兵も配置されてるはずなのに……なんでこんな場所が襲われてる?」
グラドは唇を引き結び、低く唸った。
「……しかも動きが手慣れてやがる。村を包囲してから押し込む、完全に訓練された連中のやり口だ」
二人は互いに視線を交わす。
荷車の周りで怒鳴り散らす連中の数、八。
腕章の紋は見覚えのない傭兵団の印――バニッシュは岩陰から風向きと人の配置を頭の中で素早く組み直した。
村の通りは南北に抜け、いま北から南へと微風が流れている。
香を拡散させるには好都合。
彼は短く息を整え、指先に淡金の光を灯した。
「まず、餌だ」
街道沿い、荷車から二十歩ほど手前の土に光点を三つ打つ。
ぱん、と無音の閃きが咲き、ふわりと浮かぶ燐光が蛍の群れのように上下する。
見張りの一人が眉をひそめ、二人、三人と近寄る。
「なんだ、光……?」
「魔法か? 警戒しろ!」
目線が集まった刹那、バニッシュは囁くように魔法を継いだ。
「眠りの縁へ――微睡え」
燐光は薄靄にほどけ、兵らの顔面へと吸い込まれる。
幻惑の膜が視界をゆがめ、思考を鈍らせる。
すぐさま重ねるように催眠の符を切ると、膝から崩れ、土へ倒れた。
砂利を踏む音も、息が落ちる音も、騒ぎの喧噪に紛れる。
「任せろ、反対側で構える」
グラドは低く囁き、村の逆側の石塀へ回り込む。
腰の革袋から工具と金属筒、木箱を手際よく取り出し、影の中で装置の準備に入った。
バニッシュは次段へ移る。自身の輪郭へ薄雲のような幻をまとわせ、影に溶ける。
足音を消し、荷車の背へ回り込むと、馬の耳が緊張に撥ねた。
怯えで硬直している――良い。鞍下の綱に小さく刃を差し込み、繊維を断つ。
ぱつん、と綱が解けた瞬間、彼は掌を馬の目の前でひらりと翻し、視界に幻を挿し込む。
「――走れ。ここは火の海だ」
馬の瞳に、ありもしない炎の壁が揺らめく。
鼻息が荒くなり、後蹄で地面を叩く。もう一頭にも同じ幻を注ぎ込むと、二頭は同時に狂奔した。
荷車の轅が引きずられ、荷が大きく横転。縄で縛られていた荷蓋が外れ、積み荷が通りへ散乱する。
「くそっ、馬が暴れたぞ!」
「押さえろ! 荷が――!」
怒号が一気に荷車へ集中した。
女と子どもを押さえていた見張りも、反射的に手を離す。
バニッシュはその背後で素早く縄を解き、口布を外していく。
「静かに。いま、終わらせる」
囁くと、幼い瞳がかすかにうなずいた。
通りの向こう、グラドが石塀の陰から身を滑らせる。
手には小さな香炉と、金属筒――簡易魔素循環装置。香炉には細かく砕いた「幻惑草」と樹脂、油を混ぜた練香が置かれ、火口からほの青い火が灯る。
グラドは装置の弁を回し、香炉の背に繋いだ環状管へ魔素を流した。
低くうなる音と共に、淡い霧のような煙が輪を描いて広がり、通りの空気をゆっくり撹拌する。
「風は南からだ。通りの真ん中に流せば、家々の影まで回り込む」
金槌の代わりに触媒棒で弁を叩き、流量を微調整。
香の甘い匂いがじわりと満ち、草むらの虫すら静まる。
合図は不要だった。空気の粘りと気配の重みで、バニッシュは充満を悟る。
荷車の残骸の背後で両掌をかざし、息を一つ長く吐いた。
「――眠りの帳」
声は風よりも静かだが、術式は広場一帯へと広がった。
香と循環装置で薄く魔素酔いした相手の抵抗は落ち、術がするりと心の隙へ染み込む。
細い光の粉が舞い、怒鳴っていた男の眼がふっと緩む。
片手で馬を押さえていた腕がだらりと落ち、荷車を揺すっていた肩がその場に崩れた。
ひとり、ふたり、三人……次々と倒れ、武器が石畳に乾いた音を残す。
「なんだ、急に……眠く……」
辛うじて踏みとどまった大男が一人、歯を食いしばってふらつく足を踏み直した。
腕章の色が他と違う――小隊の頭か。バニッシュは指を弾き、個別に幻惑の楔を瞳へ打ち込む。
「目を閉じろ。――朝は、まだ来ない」
言葉が落ちるより早く、巨体が膝から崩れ、土埃が上がった。
通りは静けさを取り戻し、風に香の名残だけが揺れた。
バニッシュは幻を解き、グラドは装置の弁を締めて香炉の火を蓋で落とす。
「上出来だ」
「お前の循環の細工、効きが良すぎるくらいだ」
短く言葉を交わしながら、二人は手早く後始末に移る。
眠らせた兵から武器と腕章を回収し、麻縄で背中合わせに縛る。
抵抗値の高そうな者には眠気を補強する簡易符を額へ貼る。
荷車の傍らでは、解放された村人たちが互いを抱き合って泣いた。
バニッシュはしゃがみ込み、年長の男へ声を落とす。
「まだ油断はできない。ほかに仲間は?」
「北の林に見張りが二人……それと、村長の家に四人が……!」
グラドが顎をしゃくる。
「続けるぞ」
香炉に残った練香をもう一つ炊き、装置は低出力で回したまま、二人は通りの影を渡る。
村長宅の前で扉を睨む二人の男に、バニッシュは奥から漏れる香に合わせて囁きの術を重ねた。
「安心しろ。交代の鐘は、もう鳴った」
虚ろな目が瞬き、肩の力が抜ける。
扉が半分開いたところへ、グラドが素早く回り込み、トンっと首筋へ一撃。
残りの者も同様に制し、中から怯えた家族を引き出す。
北の林へ回る頃には、香は村全体に薄く行き渡っていた。
木陰の見張り二人は、枝に凭れかかるように座り、そのまま眠りへ落ちる。
縄で縛り、口を塞ぐ。すべてが終わった頃には、陽がひとつ傾いていた。
広場に戻ると、村人たちの視線が二人に集まった。バニッシュは手短に指示を飛ばす。
「眠っている間に、武器を遠ざけてください。火の始末と怪我人の手当ても。目を覚まして暴れる者がいれば、これを鼻先で振って」
小瓶を渡す。中身は薄めた幻惑草の冷香液だ。村の女が深く頭を下げた。
「助けていただいて……!」
グラドは肩を回しながら、眠らせた連中の腕章を一つひっくり返した。
紋章に見覚えはないが、刺繍の糸の質と縫いパターンは街工房の量産品ではない。
「組織立ってるな。後ろにでかいのがいるな」
「ああ。――誰の兵か、吐かせる」
バニッシュは縛った頭目の額の符を軽く撫で、催眠を浅く戻す。
片膝をつき、静かな声で問うた。
「誰の命令だ。どこへ運ぶつもりだった?」
男の唇が、夢の淵で形をつくる。
「……“黒い勇者”の……旗を、見た……街で、名を……集めろと……」
「黒い勇者? なんだそれは……」
思わず口に出すバニッシュ。
その声に、男が夢うつつのような調子で答える。
「……新たな秩序の……希望の光……」
そこまで言うと、男はゆっくりと瞼を閉じ、力尽きたように意識を失った。
“勇者”という単語に、バニッシュの脳裏に浮かぶのはカイルたちの姿だった。
いつも先頭に立ち、人々の希望の光としていたカイル。
あいつが、人を傷つけ、秩序を乱す姿など——想像できるはずもない。
(……カイルたちが、そんなことをするわけがない)
胸の奥で強く否定する。
だが、「黒い勇者」という不穏な響きが、頭から離れない。
彼を知る自分だからこそ、その言葉の意味を確かめなければならないという焦りが、じわじわと心を締め付けてくる。
その時、杖をつきながら村長が近づいてきた。
深い皺を刻んだ顔に憂いを浮かべ、低い声で語り始める。
「……数ヶ月前まで、勇者は人々の誇りであり、希望だった。しかし、王都でのある事件を皮切りに、その姿は一変した。今では“黒い勇者”と呼ばれ、各地で略奪と破壊を繰り返しておる。噂では仲間だった者まで手にかけ、武力で秩序をねじ曲げているらしい……」
村長の言葉は重く、そして現実的だった。
「今や彼は王国全土で指名手配されておる。しかし皮肉なことに、彼を恐れつつも、その力を利用しようと目論む者も少なくない……。世界の秩序は乱れ、各国は疑心暗鬼になり、獣人の国ですら武装を強化し始めておる」
グラドが低く唸る。
「黒い勇者……どうやら、俺たちが獣人の国に向かう道中で出くわす厄介ごとが、また一つ増えたようだな」
バニッシュは静かに頷きつつ、胸の奥で決意を固めた。
(結界の強化、そして“心”を求める旅……その途中で、黒い勇者の動向も探る必要がありそうだ)
やがて村長は、村を守ってくれた礼として簡単な食事と休息の場を提供することを申し出た。
しかし、バニッシュの脳裏には“黒い勇者”という言葉が焼き付いたまま、消えることはなかった。