変われぬ者、変れた者
ファルンの想いを胸に刻み、バニッシュたちは再び戦場へと足を踏み入れた。
エルフの里の広場――そこはすでに第2防衛ラインが崩れ、防壁の一部が瓦礫と化している。
押し寄せる魔物の群れと、必死に応戦するエルフの戦士たちの姿が入り乱れ、地面は血と炎で赤黒く染まっていた。
フィリアの鋭い声が戦場を貫き、弓兵や魔術士が陣形を保とうと奮闘している。
しかし、戦士たちの息は荒く、その顔には疲労と焦燥が滲んでいた。矢は尽きかけ、魔力は底をつき、剣を握る手すら震えている者もいる。
そのとき――淡い金色の光が戦場全体を包み込んだ。
バニッシュが両手を広げ、詠唱と共に広域回復と補助魔法を展開したのだ。
光は優しくも力強く、戦士たちの傷を瞬く間に癒し、失われかけていた力を呼び覚ます。
弓兵が再び弦を引き、剣士たちが力強く足を踏み出す。
同時に、敵陣の両翼では轟音が轟く。
右側をリュシアの爆炎魔法が薙ぎ払い、炎の壁が魔物を飲み込む。
左側ではセレスティナの古代魔法――暴風の刃が渦を巻き、敵兵を根こそぎ吹き飛ばしていく。
炎と風が交差し、戦場の空気が一変した。
前線を指揮していたフィリアが、振り返りざまに目を見開く。
「……なぜ戻ってきた!? 去れと言ったはずだ!」
その声に、バニッシュは真っ直ぐな眼差しで答える。
「託されたんだよ――ファルンにな」
隣でリュシアも炎を纏いながら前を見据える。
「そうよ。だから今度は……絶対に引き下がらない!」
さらに、風を操る魔力を纏ったセレスティナが一歩前へ出る。
「――共に戦いましょう」
バニッシュたちの真っすぐな眼差しが、戦場の喧騒の中でもはっきりとフィリアの胸に突き刺さった。
その視線の奥に宿る決意と、迷いなき覚悟――そして、自分の側近であり、長年ともに戦ってきたファルンが命を賭してまで託した想いが、脳裏に鮮烈によみがえる。
なぜ……お前があの掟を破ってまで……
フィリアは目を閉じ、かつてのファルンを思い出す。
掟に縛られ、心を閉ざし、ただ任務だけをこなしていた男。その彼が、あの短い時間で変わった。バニッシュたちと出会い、笑顔を見せ、仲間のために剣を振るい、最後には自分の命をも投げ出した。
――それほどまでに、彼らはファルンの心を動かしたのか。
静かに息を吸い込み、フィリアは目を開けた。その瞳には迷いはない。
「……わかった。すべてを受け入れよう。バニッシュ、リュシア、セレスティナ……私たちと共に戦ってほしい」
その言葉に、バニッシュは即座に頷く。
「まかせろ」
短くも力強い返事が響き、リュシアとセレスティナも前を見据えた。
直後、リュシアの爆炎魔法が右翼の魔物をまとめて飲み込み、轟音と共に炎の柱が立ち昇る。
左翼ではセレスティナの古代魔法――鋭く渦を巻く風の刃が敵陣を切り裂き、陣形を完全に崩壊させた。
崩れた隊列に、バニッシュの補助魔法が戦士たちへと広域に行き渡る。
淡い光が戦士たちの体を包み、傷は癒え、握る武器に再び力が宿る。
疲弊していた足取りは力強くなり、掛け声と共に前線が押し返されていく。
戦場の空気は一変し、エルフの戦士たちは勢いを取り戻した。
ファルンが命を懸けて託した想いは、今や戦場全体に広がり、確かな反撃の狼煙となっていた。
戦況はついに逆転し、エルフたちとバニッシュたちの連携によって侵攻軍は壊滅的な打撃を受けた。
押し返された敵は森の奥へと撤退し、戦場にようやく静寂が訪れる。
しかし、その勝利はあまりにも大きな代償と引き換えだった。
エルフェインの街並みは無残な姿をさらしていた。
防壁の一部は崩れ落ち、家屋は焼け焦げ、黒い煙がまだ空に立ち上っている。広場には瓦礫と血の匂いが混ざり合い、耳には遠くで泣き崩れる声がかすかに届いた。
戦場で命を落とした戦士たち、戦禍に巻き込まれ逃げ遅れた民、守り切れなかった子供や老人――数え切れないほどの命が、この一夜で奪われた。
その弔いのため、広場には亡骸が一人ひとり丁寧に並べられ、白布が静かにその顔を覆っている。
重く沈む空気の中、誰もが言葉を失い、ただ祈るように手を合わせていた。
その中で、フィリアはひときわ大きな体を持つ男の亡骸の前に立っていた。
ファルン。彼女の側近であり、そして――幼馴染。
背後には、バニッシュ、リュシア、セレスティナが静かに並び立つ。
フィリアは視線を落とし、かすかに唇を動かす。
「……ファルンとは、幼い頃からずっと一緒だった」
それは誰に向けるでもない、独り言のような声だった。
共に森を駆け回り、共に学び、共に剣を振るい――笑い合い、時には喧嘩もした。
それでも、どんなときも隣にいた。家族のように、いや、それ以上に大切な存在だった。
やがて、自分は里の長となり、彼はその側近となった。
その立場は二人の関係に見えない壁を作り、互いに越えることのできない距離が生まれた。
「……エルフにとって、掟は絶対だ。長となった私が、それを破ることは許されない」
その声には悔恨と自嘲が滲む。
たとえ望まぬ結末が待っていたとしても、掟を破ることはできない――それが長としての責務であり、呪いのような宿命だった。
フィリアは白布越しに、ファルンの顔をそっと撫でる。
「……あいつは、最後に……変われたのだな」
その横顔は静かに、しかし深く哀しみに沈んでいた。
バニッシュからははっきりとは見えなかったが――その頬を、一筋の涙が静かに伝っていったように見えた。
フィリアはしばしファルンの亡骸を見つめていたが、やがて静かに振り返り、バニッシュの前へと歩み出た。
そして懐から、掌ほどの大きさの透き通った石を取り出す。淡い光がその内部で脈動し、周囲の空気すら澄み切らせるような神秘的な輝きを放っていた。
「――これを」
差し出されたそれは、バニッシュたちが探し求めていた精霊石だった。
希少どころか、エルフの里でも代々受け継がれてきた宝であり、滅多に外に出ることのない聖なる石だ。
バニッシュは思わず目を見開く。
「……いいのか、こんなものを」
フィリアはゆっくりと首を縦に振る。
「ああ。お前たちは示してくれた……信頼を」
それは、ただの感謝ではなかった。
自らの最も信頼していた側近――ファルンを変え、その生き様に最後の誇りを与えた者たちへの、深い敬意と感謝の証だった。
精霊石はただの資源ではなく、彼らの誇りと信念の象徴。
それを手渡すということは、フィリアにとって最大級の譲歩だった。
バニッシュは受け取った精霊石をじっと見つめ、しばし考え込む。
そして顔を上げ、ためらいなく口を開いた。
「……もし良かったらだが――残った者たちも、俺たちの拠点に来ないか?」
その言葉に、隣で聞いていたリュシアとセレスティナも力強く頷く。
「そうよ。あなたたちならきっと、もっと自由に……」
「安全な場所を、一緒に作れるはずです」
不意の誘いに、フィリアはわずかに目を見開いた。
だがすぐに、ほんの一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべる。
そして、穏やかだがはっきりとした口調で答えた。
「悪いが――それはできない」
リュシアが何か言いかけて、唇を閉じる。
彼女にはわかったのだ。フィリアがそれを断る理由が。
この里に来て、戦い、失い、それでも立ち上がろうとする彼らを見て――その痛いほどの覚悟と、誇りの重さを知ってしまったから。
フィリアはそんなリュシアの視線に気づいたのか、ふと遠い目をして夜空を仰ぐ。
空には戦火の煙を抜けた星々が、静かに瞬いていた。
「……これが、我らの誇りなのだよ」
その声音は、天に昇った“変わった”ファルンに向けて語りかけるようであり――同時に、変わらなかった自分自身をも戒めるような響きを帯びていた。