新たな訪問者、獣人家族
朝、バニッシュは洗濯物を干しながら、ふと家の中に視線を向けた。
家の中では、リュシアが慣れない手つきで煮込みスープの火加減を見ていた。少し前までなら「そんなのやるわけない」と言い切っていた彼女が――今ではすすんで手を出している。
(ずいぶん変わったな……)
まだ素直に感謝や好意を口に出せるような子じゃない。それでも、確かにこの村の一員になろうとしている。それがなんとも言えず、嬉しかった。
「……立派になったな」
思わずこぼれた言葉に、リュシアが眉をひそめた。
「は? なにジジくさいこと言ってんの?」
「いやいや、ただの感想だ」
「意味わかんないし……。そ、それより、今日の朝のスープ、ちょっと塩足りてないから!」
「あいあい、ご指摘どうも」
そう言って笑うバニッシュの顔は、まるで娘の成長をかみしめる父親のようだった。
その日の午後――。
村の境界に設けた結界が微かに揺れた。
バニッシュはすぐに気付いた。
これは“誰かが”迷い込んできた兆候。
しかも、ただの迷いではない。
「誰か来た?」
「分からん……けど、急ぐぞ」
結界の境界へと向かう途中、風に乗って微かな血の匂いが漂ってきた。
そして、木々の陰から姿を現したのは、
――ボロボロの服に身を包んだ、小さな獣人の少年だった。
その顔は泥と血に汚れ、身体のあちこちに擦り傷と切り傷。
それでも少年は、必死に声をあげた。
「たすけて……父さんと母さんが……!」
バニッシュとリュシアが後を追うと、そこには倒れ伏す獣人の夫婦と、二人を覆い隠すように寄り添う娘の姿があった。
彼女は腕の中の母の顔を拭いながら、バニッシュたちをじっと睨んでいた。
「近寄らないで。これ以上、家族を傷つけさせない……!」
リュシアが一歩踏み出しかけると、バニッシュがそっと手を伸ばして制した。
「……君たちは、ここへ迷い込んできた。それは、俺が張った結界を抜けてな」
「……結界?」
バニッシュは無言で倒れた両親に近づいて手をかざす。
「《癒光結界陣〈セラフェイン・フィールド〉》」
淡い金色の光が地面に広がり、静かに重症の父と母を包み込んでいく。
その光の中、二人の顔から苦悶が少しずつ消えていくのが分かった。
彼女は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「な、なんで……」
「ただのお節介さ。俺もこいつも誰かを見捨てるなんてできないだけさ―――」
リュシアはそっぽを向きながら、ぼそりと呟く。
「……あんたの勝手な言い方しないでよね。あたしは別に、誰かを助けたくてここにいるわけじゃないし」
でもその横顔は、はっきりと赤くなっていた。
翌朝。バニッシュが煎じた薬草と回復結界の効力、そして獣人という種族特有の再生力もあってか、父ザイロと母メイラはすっかり元気を取り戻していた。
木造の不格好な拠点――だが、陽の光が差し込むこの家の中には、確かな温もりがあった。
「……助けてくれて、感謝する」
低く落ち着いた声。言葉は少ないが、真っ直ぐな眼差しが誠意を物語っていた。
「あなたがいなければ、あの子たちまで……本当に、ありがとうございます」
メイラは手を取り、涙を浮かべながら深く頭を下げた。
「気にするな。困ってる者を助けただけだ」
そのやりとりの傍ら、娘――ライラは、壁際に寄りかかり、ずっとこちらを睨むように見ていた。
「あの娘……まだ警戒してるね」
リュシアはライラを見ながら言った。
「ま、無理もないさ。こっちはおっさんで、しかも人間だ」
そう言って肩をすくめたバニッシュは、焚火の火をくべながら静かに問いかける。
「……何があった? こんな森の奥まで逃げてくるなんて、普通じゃない」
ザイロはしばらく黙っていたが、ゆっくり口を開いた。
「我らが住んでいた村は……人間の襲撃を受けた。正確には、領主の命で“獣人排斥”を掲げた軍勢だった」
「火を放たれ、逃げ場もないまま……。でも、子どもたちだけは……と、あの子たちを森へ逃がしたんです」
「気が付けば、この場所に迷い込んでいた……」
バニッシュは静かに頷いた。
そして、メイラが口を開いた。
「お願いです……少しの間だけでいい、ここに隠れさせてください。追手が来たら、すぐ出て行きますから……」
その声は、強く張っていたが、震えていた。
バニッシュはしばし考え、やがて火の番をしながら答えた。
「ここは俺の領地じゃない。誰の許可もいらない、ただの森の中だ」
「……バカ正直に言うね」
「好きにするといい。ただ、ここは“誰でも”入れる場所じゃない。迷い込んだってことは……たぶん、ここが必要だったってことだ」
ザイロとメイラの目が見開かれる。
その言葉が、胸の奥まで響いたようだった。
リュシアは少し顔を背けながら、スープの鍋を混ぜていた。
「……あたしの作った朝食、冷めるよ」
昼下がりの森の風が、木漏れ日と共に吹き抜ける。
拠点の前で、ザイロが静かに言った。
「お前たちには助けられた……礼がしたい。俺に、家を建て直させてくれ」
その大きな手は、すでに斧の感触を思い出しているように拳を握っていた。
「いや、そこまでしてもらう義理は……」
そう言って断ろうとしたが、横からすかさず声が飛ぶ。
「は? せっかく申し出てくれてるのに、何カッコつけてんのよ。あの家、屋根から雨が漏れてたわよ?」
「いや、それは……通気性が……な……?」
「だーめ! ありがたく建て直してもらいなさい!」
有無を言わせぬ口調に押されて、バニッシュは苦笑した。
「……じゃあ、遠慮なく頼む。俺も手伝うよ」
「任せろ。こう見えて、建築は得意だ」
力強く頷くザイロ。その背中を見た息子フォルが「お父さん、かっこいい……!」と目を輝かせていた。
こうして、バニッシュ・ザイロ・リュシアの三人での家造りが始まった。
ザイロの力仕事で大木はあっという間に運ばれ、骨組みが組み上がっていく。
バニッシュは魔法で木材を切断・接合し、結界で作業場を安定させ、リュシアは不器用ながらも板を運び、釘を打ち、文句を言いながらも最後には「楽しいかも」と笑っていた。
数日後、完成した家は――
バニッシュの最初の“質実剛健な掘っ建て小屋”とは比べものにならないほど立派な造りだった。
木目も美しく、屋根も完璧、暖炉まで備えた快適な空間。
「……すご……。まるで、街の職人の家じゃない」
「……ああ。まさか、ここまでになるとはな」
「お前が最初に作った基礎が良かった。それを活かしただけだ」
バニッシュは微笑みながら、ふと視線を向ける。
あの、不格好で、雨漏りもしたが――
それでも自分の手で一から建てた“最初の家”。
(……ま、あれはあれで愛着あったけどな)
だが今は、誰かと一緒に過ごすための「家」だ。
リュシアが「玄関の扉が立派で良い」とはしゃぎ、息子――フォルが「ここ、ひろーい!?」と走り回る。
そんな姿を見て、バニッシュは自然と笑っていた。
「さて……次は、畑の拡張か。人も増えたしな」
「ふふん、ならアタシが野菜選びしてあげる!」
「俺は倉庫を作るぞ。備蓄が要る」
拠点の中心では、新たな日常が静かに始まっていた。
ザイロとバニッシュは、獣人家族が暮らすための家と、物資を蓄えるための倉庫の建築に取り掛かっていた。
「ここをもう少し広げて、風通しを良くしよう」
「ああ、土台は俺が結界魔法で固定する。崩れにくくなるはずだ」
木材を担ぐザイロの背中に、魔法の光を宿すバニッシュの手。
二人は言葉少なに、だが確かな信頼を持って作業を進めていく。
その一方で――焚き火を囲む簡易の調理場では、メイラが大きな鍋をくるくると回していた。
「お昼は、お野菜たっぷりのスープにしましょうねぇ。ちょっと多めに作っておいた方がいいわぁ」
彼女の作る料理には、どこか懐かしくなるような香りと温もりがあった。
そして、畑では――リュシアがスコップを握り、フォルとライラと共に、土を掘り返していた。
「……はあ、もう。なんで私が土まみれ……」
口では文句を言いながらも、どこか楽しげに苗を植えるリュシアの隣で、ライラは黙々と作業を続けていた。
リュシアはふと、そんなライラを見やる。
「ねえ、そんなに睨まなくても……あいつなら、信用しても平気よ?」
「……人間なんて、誰も信用できない。みんな、裏切る」
土を握りしめながら、ライラはそう呟く。その瞳には、まだ癒えぬ傷が宿っていた。
リュシアは少しだけ言葉を詰まらせたが、すぐに小さく笑って、肩をすくめた。
「でもさ。あんたの弟は、もう信じてるみたいだけど?」
そう言って、森の方へ指をさす。
――そこには、フォルの姿があった。
畑仕事を抜け出し、笑顔で駆け寄ったその先にいたのは――バニッシュ。
「バニッシュおじちゃん、斧の持ち方もう一回教えて!」
「よし、じゃあ今日は“安全な持ち方”の復習だ。まずは姿勢からな」
笑い合いながら斧を構える二人。その光景はまるで、本当の親子のようだった。
ライラはその様子を見つめ、そっと手にしていたスコップの動きを止めた。
「……あいつ、変な奴よ。お人好しで、鈍感で。だけど誰よりも、まっすぐよ」
ライラは何も返さず、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、今まで感じたことのない温かさと、戸惑いと――
少しだけ、羨望のような感情が、そっと芽生えていた。
夜の帳が静かに降り、森の虫の音がささやき始めたころ。
開けた広場の中央で、大きな焚火が揺らめいていた。
火の温もりに照らされながら、みんなで囲む夕食の時間。
メイラ特製の野菜スープの香りが、風に乗って漂う。
「おかわりー!」
「よく食べるな、フォル。その調子で大きくなれよ」
フォルがスプーンを手に嬉々として駆け寄れば、メイラが微笑みながらよそってやる。
ザイロも、薪をくべながら静かに火を見つめていた。
和やかな笑い声。優しく流れる時間。
……その輪の端で、ライラはひとり、スプーンの手を止めたまま俯いていた。
食べ物には手をつけている。けれど、その表情はどこか遠くを見ているようだった。
そこへ、ひょいと誰かが隣に腰を下ろす。
「……スープ、冷めるわよ」
「……ええ」
短い返事。けれど拒絶ではない。
リュシアは焚火の火を見つめながら、ぽつりと続ける。
「あんたの気持ち、少しだけわかるのよ」
「……何がですか」
「私も、魔族なの。人間と敵対する側の存在。……ほんとは、ここにいるべきじゃないのかもって、何度も思った」
一瞬、ライラの視線が揺れた。
リュシアは続ける。
「でも、あいつはそんなこと、どうでもいいって顔して……“今ここにいる”私たちを、まるごと受け入れようとするのよ。迷惑なぐらいにね」
リュシアは、焚火の向こう――フォルにじゃれつかれながらも笑っているバニッシュを見つめた。
「だから……あんたが、ここにいることに迷いがあるなら。まだ一緒にいることが怖いなら……一度、あいつとちゃんと話してみなさいよ」
「……」
その言葉は、リュシアだからこそ言えるものだった。
同じ“異物”としての痛みを抱え、なおここに在る選択をした少女の、真っ直ぐな言葉。
ライラは、そっとスプーンを口に運ぶ。
スープは、少し冷めてしまっていたけれど――ほんの少し、心に染み入る味がした。
満天の星が静かに輝く夜。
焚火の跡からは、まだ微かに炭の匂いが残っていた。
バニッシュは用を済ませ、拠点へと戻る道を歩いていた。
夜風が頬を撫で、草葉がさわりと揺れる。
その時――
「……バニッシュさん」
振り返ると、そこにいたのはライラだった。
焚火の残り火が映す彼女の瞳は、どこか決意を秘めて揺れていた。
「こんな時間にどうしたんだ、眠れなかったのか?」
ライラは一瞬、口を閉ざす。
だが、やがて息を吸い込んで、小さく頷いた。
「……少し、話したくて。リュシアさんに……言われたんです」
「リュシアが?」
「はい……“一度、あなたと話してみろ”って」
バニッシュは少し戸惑いながらも、焚火を囲んだ石の席に腰を下ろす。
ライラも向かいに座る。
静寂の中、草木が夜の囁きを奏でている。
月が、ふたりを優しく照らしていた。
(……こういう時、何を言えばいいんだ。年頃の娘となんて、まともに話したことないってのに)
頭をかくバニッシュの前で、ライラはぽつりと口を開いた。
「……私、人間が怖いんです」
「……」
「母は優しいけど、村では“お人好し”って蔑まれてました。父は黙って耐えてたけど……心はきっと、傷ついてたと思います」
「それでも私たちは、村で生きるために人間と関わらなきゃいけなかった。笑って、頭を下げて、媚びて、媚びて……それでも、最後は――追われた」
彼女の指が膝の上で強く握られる。
「ここが……優しい場所だってことは、分かってます。あなたが悪い人じゃないのも。弟が、すっかり懐いてるのを見れば……わかるんです。でも……」
バニッシュは静かに聞いていた。
言葉を挟まず、ただ彼女の声を受け止めるように。
「怖いんです。気づいたら、また全部、嘘だったんじゃないかって……信じて、裏切られて、また傷つくのが怖い」
風がそよぎ、彼女の髪が月明かりに揺れる。
バニッシュはしばらく黙っていた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「……俺も、似たようなもんだよ」
「……え?」
「俺は、昔、勇者パーティーにいた。……けど、最後には“おっさんはお荷物”って言われて捨てられた」
「若い連中には合わなくてな。仲間だと思ってた奴らに見下されて、笑われて……情けない話だ」
「……」
「でもな、こうしてまたリュシアと――誰かと関わってる。怖いし、時々また裏切られるかもって思うけど……」
「それでも俺は、自分の手で場所を作りたいと思った。誰かに居場所を与えてやれるような場所を」
そう言ってバニッシュは、焚火の跡に目を向けた。
「だから、ライラ。怖いままでいい。無理に信じる必要もない。でも……」
「“信じたい”って思った時は、俺はここにいるからな」
ライラは俯き、唇を震わせた。
「……そんな言い方ずるいです。……優しすぎて、困ります」
バニッシュはただ、照れたように頭をかいた。
「……ありがとう、ございます」
その言葉が、月夜に溶けていった。
この夜、ライラの心の扉が、ほんの少しだけ――
開かれたのだった。
朝靄がゆるやかに森を包み、結界内に光が差し込んでいた。
拠点の家々からは朝の湯気と、メイラの作るスープの匂いが漂っている。
バニッシュが畑に出ると、見慣れぬ光景が目に入った。
「……あれ」
リュシアが指差した先には、しゃがみ込んで若芽にそっと手を添えるライラの姿があった。
いつもどこか張り詰めた表情をしていた彼女が、今日は穏やかに微笑んでいた。
「ふぅん……やるじゃない」
「……何がだ?」
「とぼけないの。あの娘、変わったじゃない。あんたと話したからよ」
「……そうかねぇ」
照れたように首をかくバニッシュ。
だがその視線は、どこか誇らしげだった。
その時、ザイロとメイラが食材を運んできた。
「……ライラの顔、変わったな」
「ええ……ほんとに、良かった」
ふたりの瞳には、安堵と感謝の色が浮かんでいた。
長い苦しみの中で失われかけていた「日常」が、ここでほんの少し戻ったのだ。
バニッシュは小さく息を吐いて呟いた。
「……こんな朝も、悪くないな」
「ふふ、ちょっと青春してんじゃないの」
「言い方がややこしい」
リュシアは笑いながら、まだ眠そうなフォルの頭をくしゃっと撫でた。
フォルは「ふにゃ~」と寝ぼけた声を上げながらも、幸せそうに笑っていた。
森の奥深く、誰も知らない場所で。
少しずつ、確かな絆が――芽吹いていこうとしていた。