掟を越えて、最後の願い
ファルンは振り返り、門番のエルフたちへ鋭く声を飛ばした。
「お前たちは防壁濠の内側で守りを固めろ! 絶対に侵入は許すな!」
門番たちが緊迫した面持ちで頷き、内側へ下がるのを確認すると、今度はバニッシュたちへ怒鳴る。
「お前たちも、さっさとここから逃げろ!」
バニッシュは一歩も退かず、ファルンを見据えた。
「……君はどうするんだ?」
「俺はこの里の戦士だ。この里を守るのが俺の使命だ。……早く行け!」
しかし、バニッシュも、リュシアも、セレスティナも、その場から動く気配を見せない。
互いに短く視線を交わし――三人同時に頷くと、迷いなくファルンの隣に並び、構えを取った。
「……お前ら、何をしている」
驚きと困惑の入り混じった声を上げるファルンに、バニッシュは肩をすくめて笑う。
「なーに、君には昼飯をご馳走になった借りがある」
「その借りを返すだけです」
セレスティナは柔らかく、しかし凛とした声で言う。
「そんなことで……」とファルンが言いかけた時
「ごちゃごちゃうるさいわね! これは私たち流の“掟”よ!」
リュシアが腰に手を当て、強気な笑みを見せた。
そのやり取りを受け、ファルンの胸の奥に、これまで感じたことのない温かな感覚が広がる。
――他種族との信頼。
その言葉を意識した瞬間、口元が自然と緩み、わずかに口角が上がった。
その様子を見ていたオークが、不快そうに鼻を鳴らし、耳障りなほど高い笑い声をあげる。
「ケッ……虫けら共が群れたところで、俺に勝てるわけねぇだろォ!」
黒鉄の斧を肩から下ろし、地面に叩きつけるように構えると、足元の土が震えた。
セレスティナとファルンが、互いに短く合図を交わすや否や、左右に広がり同時に弓を引き絞った。
空気がピンと張り詰め、二本の矢が同時に放たれる。
矢は鋭い唸りをあげながら一直線にオークへと迫るが、奴は怯むどころか口元を吊り上げ、黒鉄の斧を振り上げると同時に分厚い鎧で正面から受け止めた。
ガァンッ、と金属と金属がぶつかる甲高い音が響き、火花が散る。
「効かねぇなァ!」と不快な笑みを浮かべるオーク。
その瞬間、背後で低く呟く詠唱が聞こえた。
詠唱を終えたリュシアが、掌に赤熱の魔力を凝縮させていた。
「――燃え尽きなさい!」
轟音と共に、直径3メートルほどの大きさの火炎球が放たれる。
真紅の火球が一直線にオークへ迫り、奴は咄嗟に斧を縦に構え――一閃。
火球は真っ二つに斬り裂かれ、爆ぜる火の粉が四方に散った。
しかしその一瞬、オークの視界は爆炎と煙に覆われる。
その煙を裂くように――上空から鋭い影が迫った。
バニッシュだ。
高く跳躍し、全身の勢いを刃に乗せて、オークの頭目掛けて刀を振り下ろす。
振り下ろされる刃の気配に、オークは反射的に斧を持ち上げてガード。
金属同士がぶつかり、重い衝撃音が響く。
「ぐぅっ……!」とバニッシュが歯を食いしばった瞬間、オークは斧を横に薙ぎ払う。
バニッシュは後方へ跳び退き、間合いを取った。
その一連の連携攻撃を受け、オークは一拍置いてから、口元を不気味に歪め、喉の奥から嗤い声を漏らす。
「ククク……なかなかやるじゃねぇか……虫けらの分際でよォ!」
その双眸が、今度は獲物を愉しむ肉食獣のようにぎらついていた。
「魔族の女――俺の矢に魔法を乗せろ!」
短く鋭い声と共に、ファルンが地面を蹴り、瓦礫を踏み台にして一気に高所へ駆け上がった。
「命令しないでよね!」
そう吐き捨てながらも、リュシアは素早く両手を構え、掌の間に雷の魔力を集束させていく。紫電がバチバチと迸り、周囲の空気が焦げるような匂いを放つ。
その動きに気付いたオークが、ギロリと赤い瞳を向けた。
「させるかよォ!」
咆哮と共に斧を振り上げ、一直線にリュシアへ突進する。
だが、その進路を塞ぐように――
「させない!」
セレスティナが弦を引き絞り、矢を番えたかと思えば、信じられない速さで連射を開始した。
十本、二十本……矢の雨がオークを包み込み、鎧や斧に当たっては火花を散らし、足元や腕を牽制して動きを封じる。
「チッ、この野郎!」
苛立ったオークが斧を振り上げ、矢を弾きながら反撃に移ろうとした瞬間――
「こっちは通さない!」
バニッシュが踏み込み、斜めから刀を叩きつけるように振り下ろす。
鋼と鋼がぶつかる衝撃音と共に、オークの斧の軌道が抑え込まれた。
その間に、ファルンは戦場を見下ろせる位置へと到達していた。
「――行くぞ!」
弓を大きく引き絞り、一気に複数の矢を番える。そして、その全てを一斉に放った。
「食らいなさい!」
リュシアが叫び、集めた雷の魔力を放出する。紫電は瞬時にファルンの放った矢に乗り移り、全ての矢が雷光を纏って凶悪な輝きを放った。
稲妻を帯びた無数の矢が、唸りを上げてオークへ殺到する。
バニッシュはその殺到の直前に体を引き、間合いを外す。
次の瞬間――閃光と爆音が重なり、雷撃の矢がオークの全身を貫いた。
紫電が鎧の隙間を走り抜け、肉を焼く焦げた匂いと共に、オークの体が大きく痙攣する。
土煙がもうもうと立ちこめる。
視界は茶色くかすみ、焦げた匂いが鼻を刺した。
だが――その土煙を切り裂くように、重い足音が響く。
現れたのは、傷だらけになりながらもなお屈強な体を誇るオークだった。
鎧は部分的に焼け焦げ、肌は雷に焼かれて黒ずんでいる。
だがその眼光は、怒りと憎悪で赤黒く染まり、今にも爆発しそうな殺気を放っていた。
「このクソどもがァァァ!」
怒号と同時に、オークの全身から禍々しい黒いオーラが吹き出す。
空気が重く淀み、背筋を凍らせるような圧が戦場を覆った。
その瞳は赤と黒が入り混じった不気味な光を宿し、獣ではなく悪夢そのもののように見えた。
次の瞬間、その巨体からは到底考えられない速度でオークが消える。
視認できた時には、もうバニッシュの眼前にいた。
「ッ――!」
バニッシュは反射的に刀を横薙ぎに構え、防御の体勢を取る。
刹那、斧と刀がぶつかり、耳をつんざく金属音と火花が散る。
しかし、その一撃の質量と速度は常軌を逸しており、バニッシュの足が地面を滑る。
踏ん張る間もなく、背中から壁に叩きつけられるように押し込まれ、衝撃で壁石がひび割れた。
「バニッシュ!」
「バニッシュさん!」
リュシアとセレスティナが同時に叫ぶ。
オークは押し込みをやめ、ねっとりとした笑みを浮かべながら舌なめずりをした。
「へっ……まだ壊れねぇか……」
「離れなさいッ!」
リュシアが雷の魔力を瞬時に槍状へと変え、雷槍を一直線に放つ。
しかしオークは軽く身をひねって回避し、その雷槍は背後の地面を抉り、石片と土を爆ぜさせた。
その一瞬の間に距離が空き、オークの圧力から解放されたバニッシュは、片膝を地面につく。
「……っは……」
セレスティナとファルンは間髪入れず矢を放つが、オークは残像を残すほどの速さで動き回り、一本たりとも命中しない。
「バニッシュ、大丈夫!?」
駆け寄るリュシアの声が近づく。
「ああ……大丈――」
立ち上がろうとした瞬間、胸に鈍い衝撃がずぐんと走る。
枷の呪縛によるものか、激しい痛みに息が詰まり、思わず胸を押さえた。
「……っ、こんな時に……!」
その様子に気を取られたリュシアの表情が曇る。
――その隙を、オークは見逃さなかった。
「もらったぁ!」
低く笑い、地面を爆ぜさせるほどの踏み込みで一気に距離を詰める。
赤黒い残光が一直線にリュシアへ向かう。
「リュシア――ッ!」
バニッシュが叫ぶも、間に合わない。
次の瞬間――ザンッ、と鋭い切り裂き音が響き、鮮血が宙に散った。
リュシアのすぐ目の前で、その身を盾にしたのはファルンだった。
肩から脇腹にかけて深々と斬られ、鮮やかな赤が服を染めていく。
歯を食いしばりながらも、ファルンはリュシアを庇い続け、オークを睨み返していた。
鮮血を撒き散らしながら、ファルンの体が力なく地面へと崩れ落ちた。
その瞬間、リュシアの瞳が大きく見開かれる。
耳鳴りが鼓膜を打ち、呼吸の仕方さえ忘れるほどの衝撃が胸を貫いた。
だが、立ちすくむ暇など与えられない。
「終わりだァ!」
オークが、獰猛な笑みを浮かべて斧を構え、容赦ない追撃を繰り出す。
「――ッ!」
バニッシュが枷の呪縛による激痛に顔を歪めながらも、歯を食いしばってその軌道に割って入った。
斧と刀が激突し、鈍い衝撃音と共に腕が痺れる。
しかし、今の彼の体には力が入りきらない。
膝が沈み、刀身が押し下げられる――。
「ぐッ……!」
次の瞬間、オークの渾身の薙ぎ払いがバニッシュの体を横殴りに弾き飛ばした。
「バニッシュ!」
セレスティナの叫びと共に、彼の体が土煙を上げて地面を転がる。
その衝撃で石片が弾け、リュシアの頬にも土が跳ねた。
オークは勝利を確信したかのように、ゆっくりと首を巡らせ、獲物を見据えるような眼差しでリュシアを見下ろす。
口元は獰猛な笑みを浮かべ、巨大な斧を高く掲げた。
その時、リュシアの世界は色を失い、すべてがスローモーションのように見えた。
視界に映るのは――傷つき倒れる仲間、自分を庇い立ったまま崩れ落ちたファルン。
胸を締めつける感情は、怒り、悲しみ、そして深い後悔。
その全てが、心の奥底にまで染み渡っていく。
そして――眠っていた“災厄の継承者”としての力が、限界を破って溢れ出した。
「……ッ!」
オークが斧を振り下ろそうとした、その瞬間。
空気を爆ぜさせるような轟音と共に、リュシアの体から莫大な魔力が解き放たれた。
赤く燃え立つ炎のようなオーラが彼女の全身を包み込み、その瞳には紫色の炎がゆらめきながら宿る。
髪が熱にあおられるように舞い上がり、その圧倒的な威圧感にオークの足が一歩、無意識に後ずさった。
「……なんだ……こいつ……」
先ほどまで猛り狂っていたオークの表情に、初めて怯えの色が浮かんだ。
赤い炎と紫の魔力が渦を巻き、圧倒的な力と威圧感を全身から放ちながら、リュシアはゆっくりと立ち上がった。
その足取りは重くも確実で、一歩踏み出すたびに地面がひび割れ、焦げた空気が漂う。
射抜くような眼光がオークを捉えた瞬間、その巨体が僅かに震える。
本能が告げていた――この少女は、もはや先ほどまでの獲物ではない。
「ひっ……!」
獣の直感で危険を察したオークは、斧を捨て、背を向けて全力で駆け出した。
だが――逃がさない。
リュシアはすっと片手をかざし、口元から低く呟きが漏れる。
「――燃え尽きろ、そして崩れ落ちろ」
炎の奔流と、空間を震わせるほどの破壊の衝撃が同時に生まれ、渦のように絡み合って前方へと放たれた。
それはまるで燃え盛る彗星が地上を滑るかのように走り、逃げるオークを一瞬で飲み込む。
轟音と爆炎が視界を白く染め、周囲の樹木ごと地形を抉り飛ばす。
衝撃波が過ぎ去った後、そこにオークの姿はなく、残ったのは黒焦げの大地と漂う灰だけだった。
だが、勝利の安堵は訪れなかった。
「……っ、がはっ!」
背後から聞こえた、血を吐く音。
振り返れば、ファルンが地面に倒れた、胸元を鮮血で染めていた。
「ファルン!」
リュシアは駆け寄り、その肩を抱き起こす。
「なんで……なんで庇ったのよ!」
震える声で問い詰めるリュシアに、彼は薄く笑みを浮かべる。
そこへ、荒い息をつきながらバニッシュとセレスティナも駆けつけた。
「おい、しっかりしろ!」
バニッシュの声にも、ファルンはわずかに首を振る。
「……わからない……」
今にも途切れそうな声で、ファルンはゆっくりと答えた。
「ただ……体が勝手に動いたんだ。あの時……」
その言葉の奥には、彼の変化があった。
彼の言葉には、これまで頑なに掟を守り続けてきたエルフが、ほんの僅かな時間でも仲間として分かり合えた証が滲んでいた。
それが、迷いを越えて命を懸けさせた。
視線をバニッシュに移し、かすれた声で続ける。
「……俺が死ねば……お前の枷は外れる……頼む……里を……皆を……救ってくれ……」
その最後の願いと共に、ファルンの瞳から光が消え、静かにまぶたが閉じられた。
風が吹き、灰を舞い上げる。
掟しか信じなかったエルフが、仲間として、ひとりの戦士として変わった瞬間だった。