固いエルフの掟
長の屋敷を出た途端、リュシアは頬をぷくりと膨らませて早足になった。
「――なにあれ。“今のままでは”って、じゃあどうすればいいのよ!」
苛立ちを押し殺せない声に、バニッシュは肩を竦める。
「結局は“行いで示せ”ってことだ。……とにかく、信用してもらうしかない」
「だから、それを“どうやって”って聞いてるの!」
言葉が空中でぶつかって、三人の歩幅が乱れる。
セレスティナは二人の間に視線を往復させ、静かに息をついた。
「まずは里の規律に従うこと。許可なく動かないこと。それから……」
――ぐぅ。
妙に間の抜けた音が響いた。犯人はバニッシュの腹だ。
本人は平然を装い、わざとらしく空を見上げる。
「……とりあえず、昼めしにしようか。空腹で喧嘩しても仕方ない」
「今のタイミングで言う?」
リュシアのツッコミを背に、三人は並ぶ屋台や小さな食堂を覗いて回る。
だが、どこも戸板が下ろされ、暖簾は外されている。
中からかすかに人の気配はするのに、鍵が音を立てて閉まるだけ。
「……徹底してるわね」
リュシアが肩をすくめる。
「外来者には店を開かない。昔からの掟です」
セレスティナの声は、どこか寂しげだった。
「さて、どうしたものか……」
バニッシュが顎に手を当てた時、背後から低い声が飛ぶ。
「――お前たち。こっちに来い」
振り返ると、あの弓を引いたエルフの男が立っていた。
表情は相変わらず硬い。彼は踵を返し、振り向きもせず歩き出す。
三人は顔を見合わせ、後を追った。高架の木橋を渡り、樹幹をくり抜いた小径を抜け、苔むした梯子を上る。辿り着いたのは、巨木の中腹に穿たれた小さな住居だった。
「入れ」
短い言葉とともに扉が押し開かれる。
中は質素で清潔だ。磨かれた木床、壁に掛けられた狩弓と矢筒。
窓際には小さな鉢植えが並び、かすかな土の匂いがする。
「座れ」
丸太を割ったベンチに腰を下ろすと、男は手際よく棚から陶椀を取り出し、鍋を火にかけた。
ほどなく、香草の匂いと一緒に湯気が立ち上る。
卓上に置かれたのは、薄緑の葉と根菜が浮かぶスープ、粗挽きの穀パン、森の木の実を練り合わせたペースト、薄塩の干し魚。
「……なんだ、案外優しいじゃない」リュシアが口元を緩める。
「勘違いするな」
男はすぐさま切り返した。
「俺は長に“お前たちの監視”を命じられた。外で目立たれるより、ここに置いた方が都合がいいだけだ」
「そうか」バニッシュは素直に頷き、スープを両手で包む。「それでも、ありがたい。……いただきます」
口に含むと、胃が驚くほど素直に受け入れた。
素朴だが滋味がある。胸の奥で《枷》がずくりと疼くたびに、温かさが波のように痛みをなだめていく。
「うまっ」
リュシアはペーストをたっぷりパンに塗って齧る。
「この木の実、香りがいい」
「森胡桃と霧苺の種だ」
男は鍋の火を落としながら淡々と答える。
「砕いて蜂蜜で練る」
セレスティナは静かに礼を述べ、スープに口を付けた。
少しして、バニッシュが椀を置き、柔らかい声を出す。
「良かったら、名前を教えてくれないか。俺はバニッシュ。こっちはリュシアで、こっちはセレスティナ」
男はわずかに目線を逸らし、窓の外の枝を見た。
短い沈黙。やがて、観念したように息を吐く。
「……ファルン。ファルン=ロウリエン。外から来た者に名を明かすのは、本来好まれないが――監視するなら名乗らねば筋が通らん」
「ファルン、か。覚えやすくて助かる」
バニッシュが微笑む。
「覚えやすいとか、そういう問題?」
リュシアが苦笑しつつも、どこか嬉しそうだ。
ファルンは三人の器が空になっているのを確認し、棚から小瓶を取り出した。琥珀色の液体が揺れる。
「痛み止めの抽出液だ。闇雲に飲むな。三滴、スープの残りに落として飲め。……《枷》の締め付けが少しは和らぐ」
セレスティナが目を瞬く。
「――助かります」
バニッシュは礼を言い、指示どおりに滴らせる。
舌にほのかな苦味。
喉を過ぎると、胸の奥の鈍痛がほんのわずか遠のいた。
「恩に着る、ファルン」
「礼は要らん。監視が仕事だ」
言い方はぶっきらぼうだが、鍋の蓋をずらしておく手つきは丁寧だった。
たぶん、もう一杯分は想定している。
ふと、リュシアが窓の外を覗きこむ。
外の通路では、遠巻きにこちらを窺う影が二つ三つ、すぐに木陰に隠れた。
「……やっぱり、相当警戒されてるわね」
「当然だ」
ファルンは短く返す。
「だが、掟は絶対でも石ではない。示す者がいれば、形は変わる」
“示す”――フィリアの言葉が重なる。
バニッシュは頷いた。
食後、器を片付け終えた三人は、卓を囲んだまま次の行動について話し合いを始めた。
「まずは里の手伝いをしてみるとか?」
リュシアが顎に手を当てる。
「そうだな。力仕事でも雑務でも――」
バニッシュが頷くが、すぐに眉をひそめた。
「……ただ、肝心の里の人間と交流できなきゃ、どうにもならんか」
「規律で外来者と直接関わらないよう決まっている以上、できることは限られます」セレスティナの言葉に、場が静まり返る。
結局、どうにも動きようがない――そんな結論が見えかけたときだった。
「……なぜだ」
ずっと黙って話を聞いていたファルンが、不意に口を開いた。
「なぜ、おまえたちは種族が違うのに、そうして当然のように一緒にいられる?」
それは、警戒や疑念よりも、里の掟に縛られてきた者が抱く純粋な興味と、心の底からの疑問に近かった。
三人は揃ってきょとんとした顔をする。次の瞬間、なぜか揃って笑い出した。
「……なにがおかしい?」
ファルンが訝しげに眉を寄せる。
「いや、確かに不思議よね」
リュシアが笑いを含んだ声で答える。
「普通は巡り合わないからな」
バニッシュが肩をすくめる。
「でも――理由は違えど、出会って、話して、一緒に過ごすうちに……私たちは仲間になったんです」
セレスティナの瞳はまっすぐで、その声は揺らぎがなかった。
その言葉に、ファルンの瞳がかすかに揺れた。長年、掟という壁の向こうでしか見られなかった光景が、目の前に広がっているような――そんな表情だった。
バニッシュはそんな彼を見て、柔らかく目を細める。
「君も、きっと同じように分かり合えるはずだ」
その声には、押し付けでも説得でもない、静かな確信だけがあった。
ファルンはバニッシュの言葉を聞いた瞬間、まるでその温もりを振り払うかのように顔をそむけた。
「……そんなことは――」
否定の言葉を紡ごうとしたはずなのに、声はそこで途切れた。喉の奥が詰まり、続きが出てこない。
そのとき――
ピィ――――……
澄んだ笛の音が、外から鋭く響き渡った。だがその旋律には緊迫した色があり、聞く者の胸を一瞬で強張らせる。
ファルンの表情が一変する。弓をつかみ、迷いなく玄関へ駆け出した。その背中に反射的に引きずられるように、バニッシュたちも立ち上がる。
外へ出ると、里の広場にはすでに多くのエルフが集まり、ざわめきの中で全員が同じ方向を見つめていた。
その中心に立つフィリアの姿があった。眼鏡の奥の瞳が細く鋭く光っている。
視線の先を追ったバニッシュたちは、次の瞬間、息を呑む。
――空の彼方。
白く霞む空の地平線のあたりに、無数の黒い影がうごめいている。それは群れとなってゆっくりとこちらへと迫ってくる。
輪郭が風に揺れる旗のように揺らぎ、時折きらりと光る武具の反射が見える。
遠すぎて表情までは分からない。だがその威圧感と異様な気配は、距離を隔てていても確かに肌を刺す。
「……あれは……」
リュシアが眉をひそめた。
フィリアが静かに告げる。
「――魔王の侵攻軍だ」
その言葉は、里の空気を一層重く冷たく変えていった。
ざわめきと動揺に揺れる広場の中で、フィリアは一歩前へ出た。眼鏡の奥の瞳が冷たく鋭く光り、その声音は澄んだ刃のように里全体へ響き渡る。
「――戦士たちは第1防衛ラインに陣を敷け!今すぐだ」
短く、しかし有無を言わせぬ調子。
「戦えぬ者、女子供、老人は最優先で里奥の防壁濠へ避難させよ。護衛をつけろ」
さらに視線を術師隊へと向ける。
「術師隊、全員配置につけ! 防壁結界を展開、維持に必要な魔力循環を確保せよ。急げ」
次々と的確に飛ぶ指示に、混乱していた空気が次第に整っていく。
エルフたちは即座に動き出した。戦士たちは弓と槍を手に素早く防衛ラインへ駆け、術師たちは互いの位置を確認しながら詠唱のために散開する。避難を指示された者たちは護衛に導かれ、規律正しく列を組んで奥へと移動していった。
その動きは、単に「統率のとれたエルフ」だからというだけではない。
――この里の長、フィリアの存在がもたらす絶対的な信頼と威光が、そこにあった。
彼女が口を開けば、誰もが迷わず従い、恐怖よりも行動が先に立つ。
その姿は、幼い外見に似つかわしくない、真の指導者の顔だった。
防衛準備で慌ただしく動くエルフたちの間を、フィリアの視線が鋭く走る。
そして、群衆の中に立つバニッシュたちを見つけると、短く、冷ややかな声が飛んだ。
「――お前たちも、すぐにここを去れ」
その言葉に、リュシアは目を見開き、苛立ちを隠さず声を張る。
「何言ってんのよ! 私たちも戦うわ!」
しかし、フィリアは一切の感情を挟まぬ口調で返す。
「これは我らエルフの問題だ。外の者が口を出すことではない」
「あれだけの軍勢に、あんたたちだけで太刀打ちできるわけないじゃない!」
リュシアの声は怒りと焦りに震えていた。
フィリアは一歩も引かない。
「――たとえ滅びることになろうとも、我らは他の助力など求めぬ」
「何よそれ! ただの意地じゃない!」
リュシアが詰め寄るも、フィリアは視線一つ揺らさない。
「意地ではない。誇りだ」
その声音は静かでありながら、重く、鋼のように固い。
一切の妥協も許さぬその信念に、リュシアの言葉が詰まる。
「……話はここまでだ」
フィリアはそれだけを言い残し、背を向けて指揮を執る場へと戻っていった。
その背中には、誰の声も届かない壁のような威厳があった。
リュシアの肩に、バニッシュはそっと手を置いた。
「……とにかく、今はできることをしよう」
その穏やかな声音に、リュシアは唇を尖らせながらも、彼の胸を指で突く。
「あんた、枷で魔力が封印されてるでしょ」
バニッシュは苦笑を浮かべ、腰に下げた刀の柄を軽く叩いた。
「確かに魔力は封じられてる。でも、俺も元は勇者パーティーの一員だった冒険者だ」
その刀は、里へ来る前にグラドが「もしもの時用に」と手渡してくれたものだった。
長年、槌を振るうことのなかったグラドが、久々の腕慣らしに打ち上げた一振り。
本来は魔剣として鍛えられたらしいが、今のバニッシュにはその魔力を引き出すことはできない。
それでも、刃そのものの質は確かで、剣術にも自信がある彼は迷わず腰に帯びていた。
「……なら」
セレスティナが周囲の慌ただしさに目を走らせながら言った。
「里で逃げ遅れた者がいないか、見て回りましょう」
その提案に、バニッシュは頷き、リュシアも渋々ながら賛同する。
バニッシュたちは三方向に散り、家々の裏手や狭い路地をくまなく見回っていった。
耳に届くのは、遠くから響く金属のぶつかり合う甲高い音と、魔法が炸裂する轟音。
第1防衛ラインが、すでに戦闘に入ったのだ。
バニッシュは緊張を胸に、足を速める。
「……急がなきゃ」
戦況が崩れれば、里の中にも戦火が及ぶ。
細い路地を曲がったその時、かすかな泣き声が耳に届いた。
視線を向ければ、木箱の影に小さな影――まだ幼いエルフの子供が、膝を抱えて震えていた。
おそらく親とはぐれたのだろう。
「おい、大丈夫か?」
バニッシュが膝をつき、できるだけ柔らかな声で呼びかける。
子供はびくりと肩を揺らし、涙に濡れた瞳でこちらを見上げた。
その瞳には恐怖と不安が色濃く宿っている。
「安心しろ。もう大丈夫だ」
そう言ってそっと手を差し伸べると、子供はためらいながらもその手を握った。
小さな手は冷たく、力がない。
バニッシュはその子を抱き上げ、背中を軽く叩く。
「親御さんのところまで、必ず連れて行く」
遠くで、再び激しい爆音が鳴り響く。
時間はない。
バニッシュは子供を抱えたまま、再び駆け出した。
子供を抱えて防壁濠へと急ぐ途中、バニッシュの足元をかすめるように、地面を這う黒い影が走った。
それはまるで意思を持った生き物のように、くねりながら距離を詰めてくる。
「……っ!」
バニッシュは即座に立ち止まり、子供をそっと地面に降ろす。
「そこから動くな」
腰の刀の柄へと手をかけ、視線を影から逸らさない。
次の瞬間、影は地面からふわりと浮かび上がり、液体のように形を変え始めた。
蠢く黒が絡まり合い、やがて異形の獣の姿を形作る。
骨も肉も持たぬ影の肉体に、赤い光の瞳がふたつ、ぎらりと灯った。
「……影で移動する魔物、か」
その異様な存在に、バニッシュの眉がわずかに寄る。
魔物は舌なめずりするように口を開き、真っ直ぐにバニッシュと子供を狙った。
疾風のような速さで飛びかかってくる。
バニッシュは一歩踏み込み、その爪を刀でいなす。金属音はせず、刀は影の体を通り抜けたかのように空を切った。
返す刀で横薙ぎに斬りつけるも、手応えはない。影の肉体は斬撃を受け流すように揺らめき、形を保ったままだ。
「……くそっ!」
舌打ちし、バニッシュは子供を再び抱え上げる。
しかし――ドクン、と胸元の枷が脈打つように熱を帯び、激しい痛みが全身を走った。
「ぐっ……!」
膝が勝手に地面へと沈み込み、片足が立たない。
「……早く、逃げろ……!」
子供を押しやり、背を向けて走らせる。
魔物は獲物が弱る様を楽しむかのように、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
その赤い瞳が、にじり寄る死を告げる。
――だが。
「煉獄爆炎衝ッ!」
轟、と空気が爆ぜた瞬間、灼熱の炎が魔物を直撃し、影の肉体を跡形もなく焼き払った。
消えゆく黒い残滓の向こうに、手を構えたリュシアが立っていた。
「まったく……目を離したらこれだもの」
呆れたように言いながらも、その瞳には明らかな安堵が宿っていた。
「助かった……」
息をつきながらバニッシュが礼を言うと、リュシアは小さく鼻を鳴らした。
「感謝はあとでいいわ。とにかくこの子を連れて行くわよ」
そう言ってバニッシュの腕から子供を受け取り、足早に防壁濠の方へと向かう。
広場にたどり着いた瞬間、彼らの視界に広がったのは、混乱と惨状だった。
想定外の事態――影の魔物が複数、地面や建物の影から滲み出るように姿を現し、避難途中の者たちに襲いかかっている。
すでに何人かが影の爪に倒れ、その場に伏していた。
だがその中でも、フィリアは冷静さを失わなかった。
「戦士隊! 前衛を広げて侵入を防げ! 術師は負傷者の防御を優先、すぐに治療班を!」
響く声に従い、エルフたちは迅速に隊列を組み直す。
その場に、セレスティナが駆け寄ってきた。
「これは……一体?」
「わからない。俺も初めて見る魔物だ」
バニッシュは短く答え、刀を構え直す。
「実体がない。物理攻撃は効かない……魔法で消すしかない」
「……なるほど、了解しました」
セレスティナは軽く頷くと、迷いなく広場中央の一番高い足場へと駆け上がった。
次の瞬間――彼女の周囲に淡い光の陣が幾重にも展開し、古代語の詠唱が流れる。
光の粒子が矢の形を成し、彼女の背後に幾十、幾百と並んだ。
「――光矢雨」
放たれた矢は一斉に舞い降り、広場全域を覆い尽くす。
不思議なことに、それらは避難民や味方をかすめることなく、正確に影の魔物だけを穿ち、瞬時に消し去っていった。
光に貫かれた影は煙のように揺らめき、やがて何も残さず消滅していく。
広場には再び避難を促す声と、魔法の残光だけが残った。
高所から身軽に飛び降り、セレスティナが小走りに戻ってきた。肩で息をしながらも、詠唱の余韻を残した指先をそっと握りこむ。
「……やったな、見事だ」
バニッシュが素直に感嘆を漏らす。
「ふふ……ありがとうございます」
セレスティナは耳まで赤くし、嬉しさを隠しきれず目元を和らげた。
「私だってそのくらい……」
隣でリュシアが頬をぷくっと膨らませる。
そこへ、周囲の指揮を終えたフィリアが歩み寄ってくる。
眼鏡の奥の瞳は依然として冷静だが、その声音には先ほどにはなかった温度があった。
「助太刀、感謝する。おかげで被害を抑えられた」
「なら、このまま押し返しに――!」
リュシアが一歩前へ出る。
だが、フィリアは掌を軽く上げて制した。
「――待て。お前たちは、ここを去れ」
「はぁ? なんでよ! さっきの見てたでしょ!」
リュシアの声がひときわ鋭くなる。
「見ていた。感謝もしている。だが――それとこれとは別だ」
フィリアはわずかに視線を巡らせ、避難誘導の列、治療班、結界維持の術師たちのリズムを確認するように一瞬で全体を測る。
「先にも言ったはずだ。これは我らエルフの――」
「長!」
鋭い声が会話を断ち切った。駆け込んできたのはファルンと数名の戦士だ。
息は上がっているが、報告は簡潔で速い。
「――第一防衛ライン、突破されました!影の群れに加え、空から《黒翼兵》が回り込んでいます!第二ラインへ後退中、負傷者多数!」
広場の空気が一段階、重たく沈む。
遠くで連携の角笛が短く三度、警戒の合図を重ねた。
フィリアは即座に命を返す。
「戦士隊、第二ラインへ合流し横陣に展開! 術師は対影術式を前線に再配置、治療班は負傷者収容を優先! 避難列は走らせるな、崩すな、歩調を合わせて進め!」
「はっ!」
返答は揃い、エルフたちは一斉に動き出す。
リュシアがたまらずフィリアの腕に食い下がる。
「見ての通りでしょ! 人手が足りない! 私たちを使いなさいよ!」
フィリアは一瞬だけリュシアを見た。その目は相変わらず厳しい。だが、次に向けられた視線はバニッシュの胸元――《枷》へ落ちる。苦痛を押し殺す彼の呼吸を確かめるように、ほんの刹那、沈黙が走った。
フィリアは戦場の方角を一瞥すると、すぐにファルンへ視線を戻した。
「……ここも、じきに戦場となる。ファルン、彼らと子供を防壁濠まで連れて行け」
その声音は冷徹に研ぎ澄まされ、命令以外の何ものでもなかった。
「どうしてそこまで、協力を断るのよ!」
リュシアが一歩踏み出し、強い眼差しでフィリアを睨みつける。
だがフィリアは答えない。わずかに眉を寄せただけで、もうリュシアを見ることはせず、顔を戦場の方へと向け、動く矢や光の残像を凝視していた。戦いの只中にいる者の表情で、外の声を閉ざす。
「行くぞ」
ファルンが短く言い、背を向ける。
バニッシュは、まだ食い下がろうとするリュシアの肩に手を置き、静かに促した。
「……今は従おう」
渋々ながらも、リュシアは視線を外し、ファルンの背を追う。
避難路を進む間も、外では断続的に戦闘音が響く。矢の放たれる風切り音、魔法の爆ぜる轟音、そして影が地面を這う不快なざわめきが耳に残った。
石畳の路地を抜け、曲がり角を二度過ぎたところで、リュシアが口を開く。
「ねえ、どうしてあんたたちは、そこまで頑なに他の種族を拒むの?」
問いは鋭く、少し吐き捨てるようだった。
「それが――掟だからだ」
ファルンの声は硬い。歩調を崩さず、ただ前を見たまま。
「掟だから? そのためなら、滅んでもいいっていうの?」
リュシアの言葉には嘲りではなく、純粋な疑問と苛立ちが入り混じっていた。
「……それも、仕方ないことだ」
ファルンの返答は短く、まるで自身に言い聞かせるように低く響いた。
リュシアは顔をしかめ、さらに詰め寄る。
「じゃあ、あんたは――掟のためなら、大切な人も、大事な場所も、全部失ってもいいっていうのね?」
次の瞬間、ファルンが立ち止まり、振り返った。
「違う!」
その声は鋭く響き、石壁に反響した。
怒りか、苦悩か、それとも迷いか――判別のつかない感情が、ファルンの声と瞳に宿っている。琥珀色の瞳は揺れ、まるで長年押し込めてきた何かが今にも溢れ出しそうだった。
「……俺たちは、これしか知らないんだ」
低く、しかしはっきりと絞り出される言葉。
それは諦めとも、懇願ともつかない響きで、リュシアの胸を一瞬で締めつけた。
言葉を失ったリュシアは、その瞳から目を逸らせず、ただ無言で立ち尽くすしかなかった。
戦場の音が、再び三人の間を満たしていった。
重苦しい沈黙を引きずったまま、一行は防壁濠の門前へとたどり着いた。
門番のエルフが事情を察し、真っ先に保護していた子供を中へと通す。
安堵の息がわずかに漏れるが、その空気を切り裂くように、ファルンが振り返った。
「ここなら安全だ。……頃合いを見て、ここを去れ」
その声は淡々としているが、瞳の奥に何かを背負った色があった。
バニッシュが一歩踏み出す。
「君はどうするんだ?」
ファルンは一瞬だけ迷いのない眼差しを向ける。
「――俺は戦場に戻らねばならん」
その瞳は、死地へと向かう覚悟を固めた戦士のものだった。
次の瞬間。
――ゴウッ、と空気が押し潰されるような音とともに、上空から影が落ちてくる。
地面が砕け、土煙が舞い上がる中、そこに立っていたのは漆黒の鎧をまとい、刃渡りの長い黒鉄の斧を肩に担いだ巨躯のオークだった。
顔面を歪ませ、牙を剥き出しにして笑う。
「……こぉんな所にも、隠れていやがったとはなァ」
舌なめずりしながら、獲物を値踏みするような濁った目をバニッシュたちに向ける。
「貴様……なぜここに」
ファルンは瞬時に弓を構え、矢尻を黒い巨体に向ける。
オークはその姿を見て、さらに下卑た笑いを漏らした。
「そんなもん……お前らの防壁を突破したからに決まってんだろォ」
喉の奥で転がすような笑い声が、狭い空間に不快なほど響いた。