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長の眼差し、揺るがぬ掟

 精霊郷エルフェインの入口に到着すると、先導してきたエルフの男はバニッシュたちを振り返り、短く告げた。


「長に報告をしてくる。それまで――そこを動くな」


 低い声で釘を刺すように言い残すと、足早に奥へと姿を消す。

 その背が完全に見えなくなった瞬間、バニッシュはふぅ、と息を吐き――そのまま顔をしかめた。

 胸の奥から、鈍い痛みが波のように押し寄せる。

 魂に絡みついた《枷》が、脈動と共に締めつけるように痛んでいた。


「ちょっと……本当に大丈夫なの?」


 隣でリュシアが身を寄せ、眉をひそめる。

 バニッシュは彼女に向けて、わざとらしく口角を上げた。


「大丈夫だ。問題ない」


 強がるその声は少し掠れていて、説得力には欠けていたが、それでも彼は笑ってみせる。

 すると、セレスティナが静かに言った。


「――少し、休みましょう」


 彼女は近くの木製ベンチを指差し、バニッシュの腕を取り、ゆっくりと腰を下ろさせる。

 ベンチに座ったバニッシュが深く息をつく間に、リュシアは周囲を見回した。

 昼間だというのに、広場には人影がひとつもない。

 整然と並ぶ樹上の家々、吊り下げられた光の結晶が揺れる音だけが、しんと響く。


「……なんだか、寂しいところね」


 ぽつりとリュシアが呟く。

 セレスティナは少し目を伏せて、静かに答えた。


「外の者が来たため、皆……警戒しているのです。私たちの種族は、幼い頃から“自分たちは至高の種族”だと教えられてきました。だから――外との接触は極力避けてきたのです」


 淡々とした声。けれど、その瞳の奥には、淡い影が差している。


「外から来た者には、決して近づかない。それが規律であり……掟です」


 言葉の最後に、セレスティナはほんのわずか、寂しそうに微笑んだ。

 それは、自らもその掟のもとに生き、そして一度は掟を破った者だけが持つ、複雑な感情を映していた。

 セレスティナの言葉を最後まで聞いたリュシアは、眉間に皺を寄せ、きっぱりと言い放った。


「――何よそれ。そんなのおかしいじゃない」


 声には怒りよりも、呆れと苛立ちが混ざっていた。

 しかしセレスティナは、揺らぐことなく淡く首を振る。


「……仕方のないことです。長い間、この里はそうやって成り立ってきましたから」


 諦めを帯びた声音。

 それは彼女自身が幾度も胸に言い聞かせてきた言葉なのだろう。

 そのやり取りに、バニッシュが口を挟んだ。


「種族が違えば、考え方も違う。……これに関しては、俺たちが口を出すことじゃない」


 静かで落ち着いた声。しかし、その奥底には、どこか無力感のような響きもあった。

 リュシアはなおも納得のいかない表情で口をつぐむ。

 その視線が、ふと足元へ落ちた。

 ベンチの影、石畳の隙間に、小さな革張りのボールが転がっている。

 手に取ってみると、掌にすっぽり収まるほどの大きさで、ところどころ擦り切れ、日々の遊びの跡が刻まれていた。


 ――ああ、これ……。


 脳裏に、フォルのはしゃいだ笑顔がよみがえる。

 泥だらけの手でボールを抱え、屈託のない笑みを浮かべていたあの姿。

 年齢も、種族も関係なく、ただ「遊びたい」だけの無垢な笑顔。

 リュシアはボールを見つめたまま、小さく呟いた。


「……たとえ種族が違っても……一緒に暮らせるのに、ね」


 その声は、怒りでも反発でもなく、ほんの少し寂しさを含んだ響きだった。

 ボールを握る指先に、彼女の温もりと、小さな願いが宿っていた。


 エルフの男が足早に戻ってきた。


「長との謁見の許可が下りた。……来い」


 短くそう告げ、踵を返す。

 バニッシュ、リュシア、セレスティナの三人はその背を追った。

 里の奥へ進むにつれ、霧は薄れ、代わりに緑の香りが濃くなる。やがて、視界に巨大な大樹が現れた。

 天を突く幹、その根元に寄り添うように、立派な屋敷が構えている。

 古き木の香と清廉な空気に包まれたその姿は、まるでこの里の威厳そのものだった。


 屋敷の中へ足を踏み入れた途端、奥から声が響く。


「そしたらこれ、お願いしますわ」


 艶やかで、どこか流れるような京都弁。


「ああ、わかった」


 それに応じるのは、幼さを残しながらも芯の通った声だった。


「早く来い」


 エルフの男が促す。

 廊下を進み、奥の大扉の前まで辿り着いたその瞬間――扉がすうっと開く。


「あら、お客さんかえ」


 先ほどの艶やかな声が、間近で響く。

 現れたのは、金色の狐耳とふさふさの尾を持つ獣人の女だった。

 深紅と金糸で華やかに彩られた花魁風の着物をまとい、裾を引くたびにしゃなり、しゃなりと艶めいた音を立てる。

 切れ長の瞳には妖しい光が宿り、微笑は甘くも底知れぬものを感じさせた。


「ずいぶん……珍しい組み合わせやねぇ」


 狐女は興味深そうに三人を順に見やると、最後にバニッシュの前へ歩み寄る。

 そして、不意に顔を寄せ、吐息がかかるほどの距離で覗き込んだ。


「あんた……とても面白い目をしとるわ」


 その囁きは、耳朶をかすめるような甘さを帯びていた。

 バニッシュの心臓が、不覚にも一拍早く跳ねる。

 ――その瞬間。

 左右から影が割り込んだ。


「何なの、貴女」


「距離が近すぎます」


 リュシアとセレスティナが同時に前へ出て、二人して狐女を睨みつける。

 狐女は口元に指を添え、くすりと笑った。


「ふふ……なんも、アンタさんらの男を取ったりはしいひんよ」


 涼やかな足取りで、しゃなり、しゃなりと廊下の奥へ去っていく。

 残されたのは、微かに残る香の匂いと、バニッシュの微妙に居心地の悪そうな表情だけだった。

 エルフの男は立ち止まり、短く言った。


「長が待っている。……入れ」


 促され、バニッシュたちは重厚な扉をくぐる。

 中は、外の木造りの雰囲気からは想像もつかないほどの豪奢な応接室だった。深緋色の絨毯が床一面を覆い、壁には精緻な彫刻が施された木製の棚が並ぶ。棚には古びた巻物や宝飾の施された箱が整然と並び、ほのかに香木の香りが漂っていた。

 その中央、深い色合いのソファに――小さな少女が、足をそろえてちょこんと座っていた。

 手には数枚の資料を持ち、眼鏡越しにそれを読み込んでいる。

 ぱたりと資料を閉じ、彼女は顔を上げた。

 眼鏡の奥の瞳が、来訪者を鋭く射抜く。

 見た目は十にも満たぬような幼い少女。だが、その目には年輪を重ねた者だけが持つ冷静さと威厳が宿っていた。


 リュシアは思わず眉をひそめ、腕を組む。


「なによ……子供じゃない」


 その瞬間、背後のエルフの男が一歩踏み出し、低く鋭い声を上げる。


「貴様――!」


 空気が張りつめる。だが、小さな長は片手を軽く上げて制した。


「……よい」


 静かでありながら、反論を許さぬ響きだった。

 その声ひとつで、エルフの男は口を閉ざし、一歩下がる。

 長はゆっくりと立ち上がり、裾の長い淡緑の衣を揺らしながら、バニッシュたちに歩み寄る。


「私はエルフェインの長――フィリア=エルディシア。この里を治める者だ」


 その小さな手が胸に添えられ、礼を示す仕草は気品に満ちていた。

 幼い外見とは裏腹に、彼女から放たれる威厳は、誰も軽んじることを許さない。

 フィリアの視線が、静かにセレスティナへと移った。

 眼鏡の奥の瞳が、相手の魂の奥底まで見透かすように細められる。


「――あなたは、エリダス=エルグレアの娘ね」


 その名を聞いた瞬間、セレスティナの背筋がわずかに震える。

 脳裏に、冷たい視線と断罪の言葉が響いたあの日の記憶がよみがえった。

 かつて、この里で“異端者”として追放された父――。

 その名を正面から呼ばれることが、どれほど重い意味を持つか、彼女は痛いほど理解していた。

 それでも、セレスティナは強い眼差しを崩さず、小さく息を整えて答える。


「……はい」


 フィリアはしばし無言のまま彼女を見つめ、やがてふっと短く息をついた。

 それは、感情を読み取らせないための、極めて小さな間合いだった。


「……まあ、座りなさい」


 促され、バニッシュたちは応接用の深い緑のソファに腰を下ろす。

 座面は驚くほど柔らかく、沈み込む感覚にわずかに体が安らぐ――が、その空気は依然として重かった。

 フィリアは横に控えていたエルフの男へと視線を向ける。


「お茶を」


「はっ」


 ほどなくして、銀の盆に載せられた白磁の茶器が運ばれてくる。

 淡い翡翠色の液面から、森を思わせる清涼な香りが立ちのぼった。

 湯気がゆらめく中、フィリアは小ぶりなカップを手に取り、唇を湿らせる程度にひと口含む。

 その所作は無駄がなく、静謐な威厳に包まれていた。

 そして、ゆっくりとカップをソーサーに戻すと、視線をバニッシュたち三人へと移す。


「――それで。外から来たあなたたちが、わざわざこのエルフェインに足を運んだ理由を、聞かせてもらおうか」


 その声音は柔らかくも、ひとつでも虚偽を混ぜれば即座に見抜くという自信に満ちていた。

 室内の空気が、さらに一段引き締まる。

 バニッシュは背筋を伸ばし、言葉を選びながら要件を語った。


「――俺たちは《精霊石》を求めてここへ来た。いま拠点では、古代魔法・魔族理論・補助術式を“衝突させずに束ねる装置”を作ろうとしている。その核に、理と誓約を保持できる媒体……精霊石が要る。これが無ければ、結界は“次の段階”に到達できない。外からの脅威を避け、人も子どもも、誰もが眠れる夜を守るためだ」


 言い終えると、室内に短い沈黙が落ちた。フィリアは湯気の消えかけた茶を一口ふくみ、静かにカップを置く。小さな指がソーサーの縁を軽くなぞり――やがて、はっきりと言った。


「――悪いが、あなたたちに協力することはできない」


 空気が硬直する。


「なっ……どうしてよ!」


 リュシアが身を乗り出した。


「こっちは何かを奪いに来たんじゃない。対価だって――」


「リュシア」


 バニッシュが制した。だが彼女の瞳の怒りは消えない。

 フィリアは動じない。眼鏡の奥の瞳が、三人を順にすべる。声は静かだが、揺るぎがない。


「まず、《精霊石》は貴重だ。私たちの里を支える“生活資源”であり、“存立基盤”でもある。灯り、治療、出産の護り、作物の発芽促し、そして結界――どれも精霊石の微かな恩寵を分けてもらって成り立っている。採掘も精霊の機嫌を損ねぬよう年に限られ、無闇な持ち出しは禁じられている」


 彼女は指を立て、二つ目を告げる。


「次に、これは一番の理由だ――私は、あなたたちを信用できない」


 リュシアの眉がぴくりと跳ねた。フィリアは淡々と続ける。


「一人は《魔族》。もう一人は、里を抜けた《エルフ》。そして、そんな二人を従えた人間。――“信用しろ”と言うほうが無理な話だ。私たちは規律で生きている。嘘と裏切りは最も忌む。未知は、それだけで危険だ」


 バニッシュの胸がずきりと疼く。《枷》が魂の奥で軋んだ。彼は表情を整えるが、呼吸は浅い。セレスティナが横目で案じる。

 フィリアは視線をバニッシュへ。


「あなたが《枷》を自ら受けた判断――仲間を想う意志と、こちらの規律を尊重する態度は評価する。だが、それだけでは“信用”には足りない」


 言葉は刃ではなく秤だった。冷たくはないが、甘さは一滴もない。


「精霊石は“使い方”ひとつで、強大な力を発する。結界を強めもすれば、脅威ともなる――私たちにとっても、あなたたちにとっても。だから、易々と渡すことはできない」


「待ってよ!」


 リュシアが立ち上がる。


「私たちは――」


「私は事実を述べているだけだ、魔族の娘」


 フィリアの視線が一閃する。


「あなたがここでどれほど怒ろうと、里の掟は動かない。私が長である限り、軽率な持ち出しは許さない」


 リュシアは唇を噛む。反論は喉まで出かかったが、バニッシュの横顔を見て飲み込んだ。彼の額に滲む汗。震える呼気。――さっきの儀式の痛みがまだ抜けていない。

 代わってセレスティナが口を開く。膝の上で組んだ指を固く握りしめ、まっすぐにフィリアを見る。


「……長。私は、異端と呼ばれ里を去った者です。それでも、こうして正面から門を叩きました。お願いです、せめて“話し合いの机”に――」


「それなら、なおのことだ」


 フィリアは静かに遮った。


「あなたがかつて禁に触れ、理を踏み越えたのは事実。里の者たちは忘れていない。……私は長として、“全体”を守らねばならない」


 ソファの背にもたれず、フィリアは両手を膝に重ね、結ぶように言葉を置いた。


「結論は同じだ。今のままでは協力はできない」


 重い沈黙。時計の針もないのに、時間だけが進む気配がした。

 バニッシュは痛む胸を押さえ、ゆっくり息を吐く。それから、正面を見据え、低く、はっきりと問う。


「……“今のままでは”、ってことは――“今でない何か”なら、道があるのか?」


 フィリアの睫毛が一度だけ瞬いた。冷たい湖面に小石が落ちたような、微かなゆらぎ。

 やがて彼女は、茶をもう一口ふくみ、言葉を選ぶようにソーサーへ戻す。


「信用は示すものだ。口ではなく、行いで。……ここまでだ」


 そこで口を閉じる。条件は言わない。甘えも譲歩も渡さない。長としての線引き。

 リュシアが小さく舌打ちしかけ――拳を握る。その手に、セレスティナがそっと触れた。彼女もまた、悔しさを飲み込んでいる。

 バニッシュは立ち上がりかけて、痛みに顔を歪めた。だが、姿勢を整え、深く一礼する。


「分かった。……じゃあ、示すさ。俺たちが“ここを傷つけない理由”と、“共に在る意味”を」


 フィリアは答えない。ただ、眼鏡の奥の視線で“見る”。その目は、嘘と虚勢を見逃さない長の目だった。

 部屋の隅で控えるエルフの男が、一歩前に出る。


「長。……警備の巡回が――」


「分かっている。今日はここまでだ」


 フィリアは小さく頷き、三人へ視線を戻す。


「客人としての滞在は許す。だが、里の掟は守れ。許可なき区域への立ち入りはしないこと。……それが破られたとき、《枷》は容赦なく反応するだろう」


 バニッシュは短く「了解した」と答えた。

 リュシアはまだ不満げだが、視線を落とす。

 セレスティナは、静かに目を閉じてから頭を垂れた。

 扉が開く。冷たい森の気配が細く流れ込む。

 退室の一歩目を踏む瞬間、フィリアの声が背に落ちた。


「――エリダスの娘」


 セレスティナの肩がわずかに跳ねる。

 振り返ると、長はただ一言だけ告げた。


「“示せるなら”、私は見る」


 それは宣告でも恫喝でもない。わずかな余白。――長としての、最後の慈悲。

 三人は無言で頭を下げ、扉を後にした。外の空気はひんやりしているのに、胸の奥は熱く、苦かった。


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