表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/73

精霊郷――エルフェイン

 視界がゆらりと揺れ、風もないのに木々がざわめいた。

 次の瞬間、バニッシュたちの姿は工房から消え、別の森の中へと移っていた。

 ――そこは、空気そのものが違っていた。

 陽の光が木漏れ日となって地面を照らし、あちこちに光の粒が舞っている。

 風はやわらかく、微かな音色を含んで耳に届く。

 樹々の肌は淡く輝き、苔の絨毯からはほのかな魔力の香りが漂っていた。

 森全体が“生きている”――そんな印象さえ与える、神秘的な場所だった。


「……ここ、すごい」


 リュシアが目を見開き、周囲を見渡す。

 魔族である彼女の肌も、森の魔力に反応しているのか、うっすらと鳥肌が立っていた。


「ここが……エルフェインなの?」


 木立の間から差し込む光に目を細めながら、そう尋ねると――隣に立つセレスティナが、そっと首を横に振った。


「いえ……精霊郷エルフェインは、この森を抜けた先です。……昔の記憶を頼りに、ぎりぎりまで近づきましたが、これ以上中には……転移できませんでした」


 その声は、少し申し訳なさそうに揺れていた。


「……一度、里を出た身、だから……ごめんなさい、近くまでしか連れてこれなくて」


 伏せられた視線には、自分の過去に対する後ろめたさが滲んでいた。

 しかし、そんな彼女にバニッシュはすぐに応える。


「気にするな。ここまで来れただけで、十分すぎるくらい助かってる」


 柔らかな声だった。責めるでも、探るでもなく、ただ真っすぐに信頼を示す声。

 セレスティナはその言葉に、ほんのわずか肩を震わせ、そして小さく頷いた。


「……ありがとう」


 バニッシュはもう一度、森の奥を見つめると、気を取り直すように肩を回し――


「さて、じゃあ……行こうか」


 そう言って、歩き出した。

 その背中に、リュシアとセレスティナも続く。

 足元を踏みしめるたび、苔の上から柔らかな魔力がふわりと立ち上り、三人の足跡を祝福するように光を揺らめかせた。

 風に乗って木々がざわめいた、次の瞬間だった。


 ――ヒュッ!


 鋭い風切り音とともに、バニッシュたちの足元に矢が突き刺さる。

 一本、二本、三本……すべて寸分違わぬ精度で、足のすぐ傍を正確に狙っていた。


「っ……!」


 リュシアが身を引き、セレスティナはすでに弓の軌道を見て顔を上げていた。

 矢の来た方向。

 枝の間から現れたのは、若いエルフの男。

 長身で引き締まった体躯に、森と同化するような深緑の戦装束。

 その手には既に次の矢が番えられ、彼の蒼緑の瞳が鋭くこちらを射抜いていた。


「――止まれ! これ以上一歩でも進めば、次は心臓だ!」


 冷たい声だった。だが、その声には怯えや迷いではなく、“義務”と“警戒”が張り詰めていた。


「お前たちは何者だ! 何をしに、どうやってここに来た!」


 矢の狙いはバニッシュの眉間に向けられていた。

 バニッシュは両手をゆっくり上げ、刺激しないようにと落ち着いた口調で言う。


「待ってくれ、俺たちは怪しい者じゃない。争うつもりもない」


「ふざけるな! この地に足を踏み入るだけで十分怪しい!」


 怒鳴るエルフ。その目が、リュシアに向くと――明確な敵意が走った。


「……その禍々しい魔力……お前、魔族だな」


 番えた矢が、リュシアにわずかに傾いた。


「なんですって……?」


 リュシアの目が細まり、口を開きかける。

 だがその言葉を、バニッシュが素早く手で制した。


「リュシア、やめろ」


 静かだが、鋭く通る声だった。

 そして、バニッシュは矢を向けるエルフに向き直り、真正面から言い放つ。


「彼女は確かに魔族だ。だが――敵ではない。俺の仲間だ」


 言葉には、一切の迷いがなかった。

 リュシアが小さく目を見開き、セレスティナは静かに視線を落とす。

 エルフの男は眉をひそめ、弓を引いたまま間を詰める。


「“仲間”だと? 魔族を連れて、しかもこんな場所に現れた連中が、“敵ではない”だと……?」


 声が低くなり、疑念が明確な敵意へと近づいていく。

 そのときだった。


「……お待ちください」


 静かに、だが凛とした声が響いた。

 セレスティナが一歩前へと進み出た。

 風が一瞬止まり、周囲の空気が張り詰める。

 その場にいるすべての者が、彼女の一言に注目した。


「私の名はセレスティナ=エルグレア。精霊郷エルフェインの出身にして、古代魔法を継ぐ者」


 その名を聞いた瞬間、エルフの男の目に、驚愕の色が閃いた。


「……セレスティナ……だと?」


 弓が、わずかに揺れた。


「お前……まさか――あの《《異端者》》かッ!?」


 エルフの男が叫ぶ。

 その言葉が、森に冷たく響き渡った。

 矢の狙いが揺れることなく、セレスティナの胸元に突きつけられる。

 その一言――“異端者”という烙印の響きは、セレスティナの心に深く突き刺さった。

 だが、彼女は目をそらさなかった。

 過去を、逃げずに見据えるように。

 そして、今の自分を肯定するように。

 まっすぐに相手の目を見返し、凛とした声で答えた。


「……はい。私は――精霊郷エルフェインを離れ、禁じられた古代魔法受け継いだ者。あなたたちの言葉を借りるなら……異端者です」


 その場の空気が凍りついた。

 バニッシュがセレスティナを見やると、彼女の瞳には迷いも、逃げもなかった。

 それは、自らが選んだ道を背負う者の目だった。


「……ならば何故、戻ってきた!」


 エルフの男の怒声が飛ぶ。


「里を捨て、掟を破り、姿を消したお前が、今さら何の用だ!?」


 その問いに、セレスティナはそっと目を伏せ――そして、また顔を上げる。

 表情は、ただ静かだった。

 だがその静けさの中に、確かな熱が宿っていた。


「私は、精霊石を求めてきました」


 その言葉に、男の眉がひそまる。


「……精霊石だと?」


 セレスティナは静かに一歩、前へ進んだ。

 背後では、リュシアがわずかに警戒の気配を見せ、バニッシュが黙ってそれを制している。

 セレスティナは、胸に手を当てて続けた。


「私は今、大切な仲間と共に“世界を変えうる魔術装置”を創ろうとしています。その核となる術式に、精霊石が必要なのです」


 風が、森の中を渡っていく。


「私が再びこの地に足を踏み入れたのは……過去を悔いたからではありません。逃げるためでもありません。――仲間を、守るために。だから、どうか……」


 頭を下げる。


「……精霊石を、恵んでいただけませんか」


 その姿はかつて“異端”と断じられた少女ではなかった。

 しばらくの沈黙のあと、エルフの男は矢を下ろし、じっとセレスティナを見据えたまま、低く口を開いた。


「……なるほど。お前が本気でその意思を持って来たのは、よく分かった。ならば――里の長に会い、直接交渉することだな」


 その言葉に、緊張していた空気がわずかに緩んだ。

 バニッシュは安堵の吐息を漏らし、リュシアもふぅと小さく息を吐く。

 セレスティナの表情も、ほんの少し柔らかくなった。

 ――だが。

 エルフの男の視線が、ゆっくりとリュシアへと移動する。

 その目は、明確な敵意を帯びていた。


「……だが――魔族であるお前だけは、通すわけにはいかん」


 その声は低く、冷え切っていた。

 まるで感情を押し殺した氷の刃のように。

 リュシアの表情が凍る。だがすぐに、感情が沸き上がった。


「……なんでよ!? あたしは別に、何も――!」


 その抗議の声を、バニッシュが手を伸ばして静かに遮った。


「リュシア、いいから」


 いつになく真剣な口調だった。

 バニッシュは一歩、エルフの男に近づき、静かに、だが強い声で言った。


「この子も、俺の仲間だ。どうか、彼女も一緒に――里の中に入れてほしい」


 その言葉に、エルフの男は眉をひそめ、再び弓を構えようとするほどに反発を示した。

 だが、バニッシュはその反応すらも予期していたかのように、言葉を続ける。


「……お前たちが警戒するのも分かる。魔族に対する歴史と痛みがあることも……」


 目を伏せるリュシア、押し黙るセレスティナ。

 そのなかで、バニッシュははっきりと告げた。


「だから――代わりに、“俺に《枷》をはめてほしい”」


 その言葉が放たれた瞬間。

 エルフの男の瞳が鋭く光を宿す。

 背後の木々すら震えるような、異様な緊張が走る。


「……“枷”だと……?」


 セレスティナが息を呑み、すぐに反応する。


「バニッシュ、それは――!」


 だが、彼女の言葉をバニッシュは無言で手をかざし、制した。


「分かってる。だけど……俺は、本気で精霊石が必要なんだ。拠点の仲間を、これから先も守るために」


 その目に、怯えも、躊躇もなかった。


 “枷”――それは、エルフたちが古より用いてきた、魂に刻む呪い。

 強制的な制約を与え、術者の魔力を封じ、違反すれば命を奪う《絶対の契約式》。

 もとは囚人や裏切り者、外敵に対する最終手段。

 バニッシュは、その重さを知っていた。

 それでも――彼は、事前に準備してきたのだ。

 自分に何かあっても、結界が崩れぬよう、装置には補助術式の保険を施してある。

 リュシアの力が、これから必要になることも、十分に理解していた。

 だから。


「彼女を一人にさせたくない。それだけのことだ」


 その静かな声に、エルフの男は唇を噛み、目を伏せる。

 やがて――


「……貴様が“枷”を受け入れるというならば……一時の入里を許可する」


 宣告のような言葉だった。


 「……なんで、あんたがそこまで……」


 呟くように言ったリュシアの声は、小さく、どこか戸惑いが混じっていた。

 バニッシュは、静かに振り返る。

 そして、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。


「決まってるだろ。――大切な仲間のためだ」


 リュシアの目が揺れる。

 その言葉が、まっすぐに胸へと突き刺さった。


 「それに……」


 バニッシュは少しだけ視線を逸らし、冗談めかして笑った。


「おっさんの俺に、少しくらいカッコつけさせてくれよ」


 そのひと言に、リュシアは目を見開き――そして、不意に顔を赤らめた。


「……べ、別に……そんなこと……しなくても……」


 俯きながら小声でぼそぼそと呟く彼女に、バニッシュが少し笑いながら聞き返す。


「ん? 何か言ったか?」


「な、なんでもないわよ!」


 リュシアは慌てて顔を背けた。

 だが――そのさなかにも、厳格な空気は途切れない。

 エルフの男が、静かに歩み寄ってくる。


「――覚悟は、いいな?」


 その目には、感情の揺れも、容赦もない。ただ義務としての厳粛さだけが宿っていた。

 バニッシュは、静かに頷いた。


「ああ。やってくれ」


 男は短く頷くと、バニッシュの胸に手をかざす。

 次の瞬間、空気がぐらりと揺れた。

 呪いの文字が浮かび上がり、足元に淡い紫の魔方陣が広がる。

 風が逆巻き、まるで魂そのものを吸い上げるような圧力が場を満たしていく。

 男の口から低く、呪詛の詠唱が響く。


「――我が名において誓約を刻む。戒めの鎖は魂に絡み、言を破れば命は灰と成る」


 その言葉と同時に、魔方陣から黒い鎖が現れ、バニッシュの身体へと突き刺さった。


「――ぐっ……!」


 胸に焼けつくような激痛。

 魂が締めつけられ、呼吸すら許されぬような重圧。

 黒い鎖は胸から背中、両肩、そして腹部へと絡みつき、最後には心臓の位置で重く締まる。


 「う、あああああッ……!」


 バニッシュは堪えきれず、叫び声を上げた。

 膝が砕けるように崩れ、地面に手をつく。

 魔方陣が収束し、淡い光を残して消えていく。


「……これで、“枷”は刻まれた。解除されぬ限り、貴様の魔力は封じられ、誓約を破ればその命は――終わる」


 冷然と告げるエルフの男の声を聞きながらも、バニッシュは肩で激しく息をしていた。

 全身が痺れるような感覚に包まれ、指先さえ力が入らない。


「バニッシュ!」


「大丈夫ですか!?」


 リュシアとセレスティナが慌てて駆け寄る。

 リュシアは瞳を潤ませながら、バニッシュの背中に手を添える。


「なんで……そこまで、あたしのために……!」


 セレスティナも、彼の肩に手を当てて、その顔を覗き込む。


「……っ、無茶を……!」


 だが、バニッシュはわずかに顔を上げ、苦しげに笑った。


「……ああ……大丈夫さ。ちょっと……魂が、ひっぱられただけだ……」


 それは冗談とも本気ともつかない、だが確かに――“おっさんのカッコつけ”だった。

 傷ついた身体を支えながら、仲間たちに囲まれるバニッシュ。

 その姿は――彼らがただの“旅の仲間”ではなく、魂を分かち合う“家族”であることを示していた。

「――行くぞ」


 エルフの男はそれだけを告げると、くるりと背を向け、容赦なく歩き出した。

 バニッシュは、一度ゆっくりと深呼吸をし、足を踏み出そうとする。

 だが――身体は重い。

 魂に直接絡みついた《枷》の呪いが、全身の魔力循環を封じている。

 手足は鈍く、心臓の鼓動は強く重たく響く。


「っ……」


 一歩、また一歩。

 息を吐くたび、胸に焼け残る痛みがじんじんと広がった。


「……無理しないで」


 そっと、右肩に手が添えられる。リュシアだった。


「大丈夫ですか……」


 反対側から、セレスティナが静かに支える。

 二人に挟まれるようにして、バニッシュは歩き出す。


「……悪いな」


「文句はあとでまとめて言うから、ちゃんと歩いてよね」


 そう言いながらも、リュシアの手は少し震えていた。


「私たちが支えますから」


 セレスティナの声は柔らかく、けれど力強かった。

 三人の歩みは遅い。

 だが、前を行くエルフの男は一切振り返らず、涼しい顔で先を進んでいた。

 ――そして。

 森の奥へと進むにつれ、空気は徐々に変化し始める。

 淡く光る霧が地面を這い、木々の枝からは雫のように魔力が滴り落ちる。

 まるで、霧そのものが意志を持っているかのように、視界が歪み始めた。


「……なに、この霧……」


 リュシアが息を呑む。


「……エルフェインを外敵から隠す、認識遮断の霧です。精霊の加護によって、心が定まらない者は進めません」


 セレスティナが説明する声は、少し懐かしさを含んでいた。

 まるで幻のように、木々の隙間が揺れ、時折、風に乗って声とも音ともつかぬ囁きが聞こえる。

 まっすぐに歩いているはずなのに、地面が曲がり、視界がねじれるような感覚。

 しかし――その先に。

 霧がふっと開けた。

 柔らかな光が差し込み、淡い緑と蒼の幻想的な風景が姿を現す。

 空中に浮かぶような緑の階層、木々の上に築かれた多層の住居。

 高く伸びる樹冠から吊られた光の結晶が、まるで星のように輝いていた。


「……これが……」


 リュシアが呟く。

 セレスティナも、静かにその光景を見つめる。

 ――精霊郷 エルフェイン。

 魔力と自然、精霊と知恵が共存する、エルフたちの聖域。

 バニッシュは息を整えながら、その景色を見上げた。

 胸の奥に今なお残る“枷”の痛みと重みを抱えたまま、それでも彼は、仲間たちと共に――この場所に辿り着いたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ