精霊郷――エルフェイン
視界がゆらりと揺れ、風もないのに木々がざわめいた。
次の瞬間、バニッシュたちの姿は工房から消え、別の森の中へと移っていた。
――そこは、空気そのものが違っていた。
陽の光が木漏れ日となって地面を照らし、あちこちに光の粒が舞っている。
風はやわらかく、微かな音色を含んで耳に届く。
樹々の肌は淡く輝き、苔の絨毯からはほのかな魔力の香りが漂っていた。
森全体が“生きている”――そんな印象さえ与える、神秘的な場所だった。
「……ここ、すごい」
リュシアが目を見開き、周囲を見渡す。
魔族である彼女の肌も、森の魔力に反応しているのか、うっすらと鳥肌が立っていた。
「ここが……エルフェインなの?」
木立の間から差し込む光に目を細めながら、そう尋ねると――隣に立つセレスティナが、そっと首を横に振った。
「いえ……精霊郷エルフェインは、この森を抜けた先です。……昔の記憶を頼りに、ぎりぎりまで近づきましたが、これ以上中には……転移できませんでした」
その声は、少し申し訳なさそうに揺れていた。
「……一度、里を出た身、だから……ごめんなさい、近くまでしか連れてこれなくて」
伏せられた視線には、自分の過去に対する後ろめたさが滲んでいた。
しかし、そんな彼女にバニッシュはすぐに応える。
「気にするな。ここまで来れただけで、十分すぎるくらい助かってる」
柔らかな声だった。責めるでも、探るでもなく、ただ真っすぐに信頼を示す声。
セレスティナはその言葉に、ほんのわずか肩を震わせ、そして小さく頷いた。
「……ありがとう」
バニッシュはもう一度、森の奥を見つめると、気を取り直すように肩を回し――
「さて、じゃあ……行こうか」
そう言って、歩き出した。
その背中に、リュシアとセレスティナも続く。
足元を踏みしめるたび、苔の上から柔らかな魔力がふわりと立ち上り、三人の足跡を祝福するように光を揺らめかせた。
風に乗って木々がざわめいた、次の瞬間だった。
――ヒュッ!
鋭い風切り音とともに、バニッシュたちの足元に矢が突き刺さる。
一本、二本、三本……すべて寸分違わぬ精度で、足のすぐ傍を正確に狙っていた。
「っ……!」
リュシアが身を引き、セレスティナはすでに弓の軌道を見て顔を上げていた。
矢の来た方向。
枝の間から現れたのは、若いエルフの男。
長身で引き締まった体躯に、森と同化するような深緑の戦装束。
その手には既に次の矢が番えられ、彼の蒼緑の瞳が鋭くこちらを射抜いていた。
「――止まれ! これ以上一歩でも進めば、次は心臓だ!」
冷たい声だった。だが、その声には怯えや迷いではなく、“義務”と“警戒”が張り詰めていた。
「お前たちは何者だ! 何をしに、どうやってここに来た!」
矢の狙いはバニッシュの眉間に向けられていた。
バニッシュは両手をゆっくり上げ、刺激しないようにと落ち着いた口調で言う。
「待ってくれ、俺たちは怪しい者じゃない。争うつもりもない」
「ふざけるな! この地に足を踏み入るだけで十分怪しい!」
怒鳴るエルフ。その目が、リュシアに向くと――明確な敵意が走った。
「……その禍々しい魔力……お前、魔族だな」
番えた矢が、リュシアにわずかに傾いた。
「なんですって……?」
リュシアの目が細まり、口を開きかける。
だがその言葉を、バニッシュが素早く手で制した。
「リュシア、やめろ」
静かだが、鋭く通る声だった。
そして、バニッシュは矢を向けるエルフに向き直り、真正面から言い放つ。
「彼女は確かに魔族だ。だが――敵ではない。俺の仲間だ」
言葉には、一切の迷いがなかった。
リュシアが小さく目を見開き、セレスティナは静かに視線を落とす。
エルフの男は眉をひそめ、弓を引いたまま間を詰める。
「“仲間”だと? 魔族を連れて、しかもこんな場所に現れた連中が、“敵ではない”だと……?」
声が低くなり、疑念が明確な敵意へと近づいていく。
そのときだった。
「……お待ちください」
静かに、だが凛とした声が響いた。
セレスティナが一歩前へと進み出た。
風が一瞬止まり、周囲の空気が張り詰める。
その場にいるすべての者が、彼女の一言に注目した。
「私の名はセレスティナ=エルグレア。精霊郷エルフェインの出身にして、古代魔法を継ぐ者」
その名を聞いた瞬間、エルフの男の目に、驚愕の色が閃いた。
「……セレスティナ……だと?」
弓が、わずかに揺れた。
「お前……まさか――あの《《異端者》》かッ!?」
エルフの男が叫ぶ。
その言葉が、森に冷たく響き渡った。
矢の狙いが揺れることなく、セレスティナの胸元に突きつけられる。
その一言――“異端者”という烙印の響きは、セレスティナの心に深く突き刺さった。
だが、彼女は目をそらさなかった。
過去を、逃げずに見据えるように。
そして、今の自分を肯定するように。
まっすぐに相手の目を見返し、凛とした声で答えた。
「……はい。私は――精霊郷エルフェインを離れ、禁じられた古代魔法受け継いだ者。あなたたちの言葉を借りるなら……異端者です」
その場の空気が凍りついた。
バニッシュがセレスティナを見やると、彼女の瞳には迷いも、逃げもなかった。
それは、自らが選んだ道を背負う者の目だった。
「……ならば何故、戻ってきた!」
エルフの男の怒声が飛ぶ。
「里を捨て、掟を破り、姿を消したお前が、今さら何の用だ!?」
その問いに、セレスティナはそっと目を伏せ――そして、また顔を上げる。
表情は、ただ静かだった。
だがその静けさの中に、確かな熱が宿っていた。
「私は、精霊石を求めてきました」
その言葉に、男の眉がひそまる。
「……精霊石だと?」
セレスティナは静かに一歩、前へ進んだ。
背後では、リュシアがわずかに警戒の気配を見せ、バニッシュが黙ってそれを制している。
セレスティナは、胸に手を当てて続けた。
「私は今、大切な仲間と共に“世界を変えうる魔術装置”を創ろうとしています。その核となる術式に、精霊石が必要なのです」
風が、森の中を渡っていく。
「私が再びこの地に足を踏み入れたのは……過去を悔いたからではありません。逃げるためでもありません。――仲間を、守るために。だから、どうか……」
頭を下げる。
「……精霊石を、恵んでいただけませんか」
その姿はかつて“異端”と断じられた少女ではなかった。
しばらくの沈黙のあと、エルフの男は矢を下ろし、じっとセレスティナを見据えたまま、低く口を開いた。
「……なるほど。お前が本気でその意思を持って来たのは、よく分かった。ならば――里の長に会い、直接交渉することだな」
その言葉に、緊張していた空気がわずかに緩んだ。
バニッシュは安堵の吐息を漏らし、リュシアもふぅと小さく息を吐く。
セレスティナの表情も、ほんの少し柔らかくなった。
――だが。
エルフの男の視線が、ゆっくりとリュシアへと移動する。
その目は、明確な敵意を帯びていた。
「……だが――魔族であるお前だけは、通すわけにはいかん」
その声は低く、冷え切っていた。
まるで感情を押し殺した氷の刃のように。
リュシアの表情が凍る。だがすぐに、感情が沸き上がった。
「……なんでよ!? あたしは別に、何も――!」
その抗議の声を、バニッシュが手を伸ばして静かに遮った。
「リュシア、いいから」
いつになく真剣な口調だった。
バニッシュは一歩、エルフの男に近づき、静かに、だが強い声で言った。
「この子も、俺の仲間だ。どうか、彼女も一緒に――里の中に入れてほしい」
その言葉に、エルフの男は眉をひそめ、再び弓を構えようとするほどに反発を示した。
だが、バニッシュはその反応すらも予期していたかのように、言葉を続ける。
「……お前たちが警戒するのも分かる。魔族に対する歴史と痛みがあることも……」
目を伏せるリュシア、押し黙るセレスティナ。
そのなかで、バニッシュははっきりと告げた。
「だから――代わりに、“俺に《枷》をはめてほしい”」
その言葉が放たれた瞬間。
エルフの男の瞳が鋭く光を宿す。
背後の木々すら震えるような、異様な緊張が走る。
「……“枷”だと……?」
セレスティナが息を呑み、すぐに反応する。
「バニッシュ、それは――!」
だが、彼女の言葉をバニッシュは無言で手をかざし、制した。
「分かってる。だけど……俺は、本気で精霊石が必要なんだ。拠点の仲間を、これから先も守るために」
その目に、怯えも、躊躇もなかった。
“枷”――それは、エルフたちが古より用いてきた、魂に刻む呪い。
強制的な制約を与え、術者の魔力を封じ、違反すれば命を奪う《絶対の契約式》。
もとは囚人や裏切り者、外敵に対する最終手段。
バニッシュは、その重さを知っていた。
それでも――彼は、事前に準備してきたのだ。
自分に何かあっても、結界が崩れぬよう、装置には補助術式の保険を施してある。
リュシアの力が、これから必要になることも、十分に理解していた。
だから。
「彼女を一人にさせたくない。それだけのことだ」
その静かな声に、エルフの男は唇を噛み、目を伏せる。
やがて――
「……貴様が“枷”を受け入れるというならば……一時の入里を許可する」
宣告のような言葉だった。
「……なんで、あんたがそこまで……」
呟くように言ったリュシアの声は、小さく、どこか戸惑いが混じっていた。
バニッシュは、静かに振り返る。
そして、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「決まってるだろ。――大切な仲間のためだ」
リュシアの目が揺れる。
その言葉が、まっすぐに胸へと突き刺さった。
「それに……」
バニッシュは少しだけ視線を逸らし、冗談めかして笑った。
「おっさんの俺に、少しくらいカッコつけさせてくれよ」
そのひと言に、リュシアは目を見開き――そして、不意に顔を赤らめた。
「……べ、別に……そんなこと……しなくても……」
俯きながら小声でぼそぼそと呟く彼女に、バニッシュが少し笑いながら聞き返す。
「ん? 何か言ったか?」
「な、なんでもないわよ!」
リュシアは慌てて顔を背けた。
だが――そのさなかにも、厳格な空気は途切れない。
エルフの男が、静かに歩み寄ってくる。
「――覚悟は、いいな?」
その目には、感情の揺れも、容赦もない。ただ義務としての厳粛さだけが宿っていた。
バニッシュは、静かに頷いた。
「ああ。やってくれ」
男は短く頷くと、バニッシュの胸に手をかざす。
次の瞬間、空気がぐらりと揺れた。
呪いの文字が浮かび上がり、足元に淡い紫の魔方陣が広がる。
風が逆巻き、まるで魂そのものを吸い上げるような圧力が場を満たしていく。
男の口から低く、呪詛の詠唱が響く。
「――我が名において誓約を刻む。戒めの鎖は魂に絡み、言を破れば命は灰と成る」
その言葉と同時に、魔方陣から黒い鎖が現れ、バニッシュの身体へと突き刺さった。
「――ぐっ……!」
胸に焼けつくような激痛。
魂が締めつけられ、呼吸すら許されぬような重圧。
黒い鎖は胸から背中、両肩、そして腹部へと絡みつき、最後には心臓の位置で重く締まる。
「う、あああああッ……!」
バニッシュは堪えきれず、叫び声を上げた。
膝が砕けるように崩れ、地面に手をつく。
魔方陣が収束し、淡い光を残して消えていく。
「……これで、“枷”は刻まれた。解除されぬ限り、貴様の魔力は封じられ、誓約を破ればその命は――終わる」
冷然と告げるエルフの男の声を聞きながらも、バニッシュは肩で激しく息をしていた。
全身が痺れるような感覚に包まれ、指先さえ力が入らない。
「バニッシュ!」
「大丈夫ですか!?」
リュシアとセレスティナが慌てて駆け寄る。
リュシアは瞳を潤ませながら、バニッシュの背中に手を添える。
「なんで……そこまで、あたしのために……!」
セレスティナも、彼の肩に手を当てて、その顔を覗き込む。
「……っ、無茶を……!」
だが、バニッシュはわずかに顔を上げ、苦しげに笑った。
「……ああ……大丈夫さ。ちょっと……魂が、ひっぱられただけだ……」
それは冗談とも本気ともつかない、だが確かに――“おっさんのカッコつけ”だった。
傷ついた身体を支えながら、仲間たちに囲まれるバニッシュ。
その姿は――彼らがただの“旅の仲間”ではなく、魂を分かち合う“家族”であることを示していた。
「――行くぞ」
エルフの男はそれだけを告げると、くるりと背を向け、容赦なく歩き出した。
バニッシュは、一度ゆっくりと深呼吸をし、足を踏み出そうとする。
だが――身体は重い。
魂に直接絡みついた《枷》の呪いが、全身の魔力循環を封じている。
手足は鈍く、心臓の鼓動は強く重たく響く。
「っ……」
一歩、また一歩。
息を吐くたび、胸に焼け残る痛みがじんじんと広がった。
「……無理しないで」
そっと、右肩に手が添えられる。リュシアだった。
「大丈夫ですか……」
反対側から、セレスティナが静かに支える。
二人に挟まれるようにして、バニッシュは歩き出す。
「……悪いな」
「文句はあとでまとめて言うから、ちゃんと歩いてよね」
そう言いながらも、リュシアの手は少し震えていた。
「私たちが支えますから」
セレスティナの声は柔らかく、けれど力強かった。
三人の歩みは遅い。
だが、前を行くエルフの男は一切振り返らず、涼しい顔で先を進んでいた。
――そして。
森の奥へと進むにつれ、空気は徐々に変化し始める。
淡く光る霧が地面を這い、木々の枝からは雫のように魔力が滴り落ちる。
まるで、霧そのものが意志を持っているかのように、視界が歪み始めた。
「……なに、この霧……」
リュシアが息を呑む。
「……エルフェインを外敵から隠す、認識遮断の霧です。精霊の加護によって、心が定まらない者は進めません」
セレスティナが説明する声は、少し懐かしさを含んでいた。
まるで幻のように、木々の隙間が揺れ、時折、風に乗って声とも音ともつかぬ囁きが聞こえる。
まっすぐに歩いているはずなのに、地面が曲がり、視界がねじれるような感覚。
しかし――その先に。
霧がふっと開けた。
柔らかな光が差し込み、淡い緑と蒼の幻想的な風景が姿を現す。
空中に浮かぶような緑の階層、木々の上に築かれた多層の住居。
高く伸びる樹冠から吊られた光の結晶が、まるで星のように輝いていた。
「……これが……」
リュシアが呟く。
セレスティナも、静かにその光景を見つめる。
――精霊郷 エルフェイン。
魔力と自然、精霊と知恵が共存する、エルフたちの聖域。
バニッシュは息を整えながら、その景色を見上げた。
胸の奥に今なお残る“枷”の痛みと重みを抱えたまま、それでも彼は、仲間たちと共に――この場所に辿り着いたのだった。




