小さな亀裂
バニッシュは夜風に当たりながら、懐から例の巻物を取り出していた。
「……やっぱり、さっぱりわかないな」
ぼそりと漏らしつつ巻物を広げ、見慣れない文字列と複雑な図形を前に首を傾げる。
その時――カツ、カツ、と軽い足音。
バルコニーの入り口から誰かが静かに駆け込んできた。
振り向いたバニッシュが声をかける。
「どうしたんだ?」
セリナだった。
「ひゃっ……!」
突然声をかけられたセリナは、と小さく肩を跳ねさせたが、すぐにバニッシュだと気づき、胸に手を当てる。
「び、びっくりしました……。あぁ……よかった。バニッシュだったんだ……」
ほうっと長い息を吐くと、彼女はバルコニーへと歩み寄り――まるで悪戯っ子のようにペロッと舌を出し、いたずらっぽく笑った。
「ちょっと……みんなの圧が凄くて。逃げてきちゃった」
ドレスの裾をそっと握り、困ったように笑うその姿は、普段の清楚さに少し子どもっぽさが加わり、どこか親しみやすい。
バニッシュは肩を揺らして笑う。
「ははっ。貴族ってのは、街の人とは違う意味で圧があるからな」
「うん……。わたし、ずっと笑って対応してたけど、正直ドキドキしっぱなしだったよ」
セリナはバニッシュの横に立ち、手すり手をかけ、夜空を見上げる。
その横顔は、祭壇の前で祈りを捧げていたときのように静かで、それでいて、どこか安堵を含んで柔らかかった。
夜風が、二人の正装の裾をそっと揺らした。
セリナは手すりに手をかけたまま、ふぅ……と深い溜息を吐く。
「本当に大変だったよ……。政治とか、お金の話ばっかりで……。それに――」
少しだけ言い淀んで、視線をバニッシュへちらりと向ける。
「……結婚の申し出とかも、あったし……」
その言葉にバニッシュは目を丸くする。
「ほう……そいつは大変だな」
驚き半分、呆れ半分の声だった。
セリナは苦笑しながら肩をすくめる。
そして、少しだけバニッシュの顔を覗き込み――その瞳に、試すような揺らぎを宿す。
「ねぇ、バニッシュ。もし……わたしが結婚することになったら、どうする?」
まるで小さないたずらを仕掛ける子どものような声。
だが、その奥にある感情は、もう少し複雑だ。
バニッシュは顎に手をあて、視線を宙に向けながら、真面目に考える。
「う~ん……それは本人次第だから、俺からは何とも言えないが……」
そしてゆっくりとセリナを見て、ふっと笑った。
「――教会の子どもたちに、お前を守るって約束しちまったからな。できれば……しないでくれると助かる。守りやすいからな」
どこか自然体で言うその言葉は、からかいではなく、真心からのものだった。
セリナはその瞬間、ぽ、と頬に小さな赤みを灯す。
「そっか……」
ほんのり嬉しそうに微笑み、胸に手を当てて静かに頷く。
夜空の星の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
星空の下、バルコニーでひっそりと広げられた巻物。
セリナは好奇心に小首を傾げながら、そっと覗き込むように身を寄せた。
「それで、何読んでたの?」
「ああ、これは――」
バニッシュは巻物に視線を落とし、言葉を続けようとして――ギョッ、と固まった。
すぐ横に寄ってきたセリナ。
小柄な体とは裏腹に豊かな胸元がドレスによって強調され、普段なら決して見えないラインが、月明かりの下で浮かび上がっていた。
(おわッ……!?)
視線が自然と吸い寄せられる。
咄嗟に頭をよぎる罪悪感、そして焦り。
「どうしたの?」
覗き込むように顔を向けられ、バニッシュはビクッと肩を跳ねさせる。
「あ、いや!こ、これは……! エルフからもらったやつでな!」
慌てて視線を逸らしながら言うバニッシュに、セリナはくすり、と微笑んで巻物へ視線を戻した。
「見たことない文字だなって思ってたんだが、どうにも内容がわからなくてな」
「ふむふむ……」
セリナは巻物をそっと指先でなぞり、真剣な眼差しで文字を追う。
「これ、たぶん古代文字だと思う」
「古代文字?」
バニッシュは思わず眉をひそめる。
セリナは巻物をそっと指先でなぞりながら、どこか懐かしそうに目を細めた。
「昔、教会の書棚でこれと同じ文字を見たことがあるの。その時、タリズさんに古代文字を記した本だって教えてもらったの」
「じゃあ、タリズさんは古代文字が読めるのか?」
バニッシュが身を乗り出す。
しかしセリナは少し首を振り、寂しげに目を伏せた。
「う~ん、その本は教会に代々受け継がれてきた物で……タリズさんも内容まではわからないと思う」
「そっか……まあ、そうだよな」
肩を落としてため息をつくバニッシュ。
セリナはそんなバニッシュの横顔を見つめ、小さく首を傾げて問いかけた。
「バニッシュは、その古代文字を解読したいの?」
上目遣いのその瞳に、思わずドキッとしながら、バニッシュは巻物を見つめ直す。
「そうだな。せっかく貰ったし、内容は気になるよ」
「そっか……」
セリナは一瞬だけ考えるように黙り――そして、こくりと頷いた。
「じゃあ、明日、私が貰う褒賞は古代文字に関する書物にする」
「え!?いや、せっかくの褒賞だぞ!?もっと他に良いもの――」
「いいの」
セリナはバニッシュの言葉を柔らかく遮る。
「それが仲間のためになるなら、私はそれがいい。それに――」
そっと胸に手を当て、バニッシュをまっすぐ見つめる。
「バニッシュは、私のことを守ってくれるんだよね? だから――そのお礼に受け取って」
その笑顔は、夜風に揺らぐランタンよりも優しく暖かかった。
バニッシュは一瞬息を呑み、そして小さく笑うしかなかった。
「……なら、ありがたくいただくよ」
照れ隠しのように鼻を鳴らしながらも、その声はどこか誇らしげだった。
バルコニーへとつながる大きな窓。その壁際に、気配を殺すように身を寄せている男がいた。
――カイルだ。
貴族たちの歓談から抜け出し、ふとセリナの姿が見えなくなったことに気づいた。
心配して、すぐに探しに向かったのだ。
ちょうど、バルコニーへ向かうセリナの後ろ姿を見つけた時。
声をかけようと伸ばした手は、そこで止まる。
聞こえてしまったのだ。
バニッシュとセリナのやり取りの全てを。
――古代文字の書物を褒賞として選ぶつもりだというセリナ。
――「セリナを守る」と約束を交わすバニッシュ。
カイルは拳に力を込めた。
今回の事件で補助役として結界を書き換え、街全体を救う手助けをしたのは確かにバニッシュだ。
しかし、グレオを討ち、呪鍾を破壊したのは紛れもなく自分自身だった。
王族も、貴族も、街の人々も言った。
――英雄はカイルだと。
称賛も栄誉も、すべて自分へと集まってきた。
それなのに……小さなバルコニーで交わされるたった数言の約束が――バニッシュの存在を、世界の中心に引きずり出しているように見えた。
(……なんだ、これは)
胸の奥にわずかな黒い影が落ちる。
羨望とも、嫉妬とも、焦燥ともつかない、濁った感情。
その正体を、本人すらまだ理解できていない。
カイルは静かに唇を噛みしめ――足音ひとつ立てず、ホールの人波へと戻っていく。
その背中を、遠くからじっと見つめる視線があった。
ミレイユだ。
その瞳は揺れていた。
カイルを追うでもなく、声をかけるでもなく。
ただ、ゆっくりとバルコニーへ視線を移す。
――セリナと楽しげに話すバニッシュへ。
ミレイユの胸の内に芽生える、言葉にならない感情。
静かな夜風が、その決意と迷いをさらっていった。




