誰もいない静かな場所で
灰と血の匂いが、風に溶けていた。
廃墟となった古代の砦、その中心で咆哮を上げる魔獣――《鉄鎧鬼グラドノール》。
「突撃するぞォォォ!!」
勇者カイルが大剣を振りかざし、真正面から突進する。
足元には俺が張った“加速の陣”。反応速度が0.5秒上昇、瞬発力120%強化済み。
「このっ、デカブツがぁ!!」
ガルドが雄叫びとともに斜めから切り込む。
着地のタイミングに合わせ、俺は“着地衝撃吸収結界”を展開。膝への負担をゼロにし、踏み込みを次の一撃に転化させる。
上空ではミレイユが詠唱を始めている。火と雷の複合術式。
だがあれは、詠唱が長い。
……3、2、1。
俺は彼女の詠唱終了1秒前に、“魔力供給転送陣”を展開。
彼女の魔力枯渇を防ぎ、暴発を回避する。
敵の咆哮。大地が割れ、鋭い骨槍が地面から飛び出した――
「セリナ、今ッ!」
俺は魔力伝話で聖女セリナに指示を飛ばす。
「癒しの光、照らしなさい……!」
セリナの回復魔法が即時発動。
……だが、ただの回復では足りない。
俺は彼女の術式にこっそり“再生促進結界”を重ねていた。
回復速度が倍加し、出血が即座に止まる。セリナは自分の力が増したと錯覚しているだろう。
「喰らえええええええ!!」
最後にカイルが放った光刃が、魔獣の喉を貫いた。
グラドノールは絶叫を残し、その場に崩れ落ちる。
「ハッ……楽勝だな!」
カイルが大剣を肩に担ぎ、ドヤ顔で笑った。
「へへっ、どう?俺たち、やっぱ最強じゃね?」
ミレイユが火花を纏った指先で自信満々に笑う。
「うーっし、宴しよーぜ宴!」
ガルドは腕をぶんぶん振り回しながら、戦利品を漁り始める。
「……ふん、当然の勝利よ」
……その間、俺は静かに結界の後始末をしていた。
展開したバフの魔術式、浮遊していた補助用の術式制御板、余剰魔力の残響――
一つ一つを解除して、誰にも気づかれぬよう回収していく。
足音を立てずに、影のように。
それが、俺の“戦い方”だった。
俺は彼らを支えていた。
どこまでも、徹底的に、誰よりも、確実に。
だが、彼らは一度もこちらを振り返らなかった。
「……ま、そんなもんか」
魔獣の死骸から風が吹く。
俺はフードを深くかぶり、また一歩、影へと下がった。
ギルド本部の大広間は、酒と笑いと喧騒に満ちていた。
魔獣グラドノールの討伐は、大陸西方で猛威を振るっていた災厄の象徴を退けた快挙だった。
ギルドの受付嬢たちが花束を手渡し、冒険者たちは盃を掲げて叫ぶ。
「勇者カイルに乾杯!」「カイルさまーっ!」「マジで最強!」
ミレイユは中心で華やかなドレスを翻しながら笑い、
セリナは花飾りを手に、静かに微笑みを作っている。
ガルドは酔っ払い相手に腕相撲で勝ち続け、テーブルを揺らしていた。
その中で、俺――バニッシュ=クラウゼンは、一人隅の椅子に腰かけていた。
空になった盃。ぬるくなったスープ。
誰も、こちらに声をかけない。いや、最初からいないものとして扱っている。
……まぁ、いつも通りだ。
少しして、カイルたちが輪の中から抜けてくる。
どうやら、俺に“話がある”らしい。
「よー、おっさん」
カイルが気軽に言う。頬は赤く、酔っているのか、それともただ気分がいいのか。
「今回の戦い、マジでうまくいったよなぁ。俺たち、完璧だった!」
隣でミレイユがくすりと笑う。
「ねー。もうさ、バフとか補助とか、いらないんじゃない?」
俺は黙って彼らを見ていた。何も言わない。言えない。
ガルドが口を挟む。
「ぶっちゃけさぁ、おっさんって地味じゃん? 戦い中も何してんのか分かんねーし」
「年も年だしさー」
ミレイユが首をかしげる。
「この先、もっと若くて反応いい子とか、派手な補助使える奴、いっぱいいると思うのよ」
「だから――」
カイルが、少し申し訳なさそうな顔を作る。だが目は笑っていた。
「ここらでさ、“世代交代”ってやつにしようぜ」
その言葉に、空気が凍った……ように感じたのは、たぶん俺だけだった。
他の連中は、何も疑問に思っていなかった。
「……もう、俺は必要ないと?」
「いやいや!感謝してんだって!」
カイルは軽く手を振った。
「おっさん、マジで陰で支えてくれたしさ? けど、これからは前に出るメンバーをもっと強化したくてよ」
「補助なんてさ、代わりはいくらでもいるし」
ミレイユのその言葉が、やけに深く刺さった。
俺は黙って立ち上がる。
椅子の脚が静かに音を立て、木床を擦った。
「そうか」
腰の装備を外す。魔導刻印の入った補助用ベルト、仕込み杖、巻物――
全部、机に静かに置いた。
「後は任せる。……勝手にしろ」
誰も、止めなかった。
誰一人、声をかけなかった。
宴の喧騒だけが、耳の奥で響いていた。
『……もう誰とも関わらない。誰のためにも、動かない』
俺は静かに、扉を閉めた。
喧騒の宴を抜けて、ギルドの受付カウンターに向かう。
遅い時間だというのに、カウンターの奥ではひとりの女性が書類を片付けていた。
――ルイナ。
常に落ち着いた声で応対するギルド職員。年は20代半ばだろうか。
勇者パーティーの担当として、何度も俺たちの出発や帰還を見送ってきた。
彼女が顔を上げる。バニッシュを見て、目を丸くした。
「……あっ、クラウゼンさん!? どうされたんですか、こんな時間に」
「……パーティーを脱退する。正式に届けを出したい」
ルイナの手が止まった。
「……はい?」
ペンがコトリと書類に落ちる。
「そ、それは……その、本当ですか……?」
何かを飲み込むように、彼女がゆっくりと立ち上がる。
その瞳は、ほんの少しだけ揺れていた。
「その、突然で……寂しいです。クラウゼンさん、いつも皆さんの陰で頑張ってらして……」
「……そんなふうに見えるのか?」
「えっ?」
「“陰で”な」
少し皮肉が混じった自分の声に、俺自身が驚いた。
けれど、ルイナはそれを咎めることもなく、困ったように微笑んだ。
「……あの、でしたら……せめて、ささやかですが、慰労会でもどうですか?」
彼女が少しだけ顔を赤らめる。
その声はほんのわずかに震えていた。
「ずっと、お礼を言いたかったんです。あのパーティーが無事に帰ってこれたのは、あなたのおかげだって、私は知ってますから」
……その言葉は、確かに、嬉しかった。
でも、それでも、今の俺には――重すぎた。
「……すまない。気持ちはありがたい。けど、今は……」
言葉が途中で途切れた。
俺は、返す言葉を探す前に、受付から一歩、後ろに下がっていた。
「これから、どうするんですか……?」
彼女の声が、ほんのかすかに聞こえた。
だが、俺は振り返らなかった。
「……少し、静かなところで暮らすさ」
歩き出す。ギルドの扉を開ける。
外は夜の風。少し冷たい、けど心地よかった。
背後の灯りが、扉の向こうで小さく揺れていた。
あの灯に戻ることは、もうない。
――何もかも手放した俺に、あの優しさは、眩しすぎた。
バニッシュ=クラウゼン、38歳。
勇者パーティー元補助係。ここにて、完全にひとりとなる。
翌朝。
人の声が絶えた路地を歩く。
宴の余韻が残るギルドの外壁には、まだ紙吹雪の残骸が貼りついていた。
誰も、俺の姿には気づかない。
それが、少しだけ気楽だった。
行き先は、決まっていた。
昨日、酒場で誰かが噂していた。
「北西の《魔の森》? あそこはもうダメだよ。地図にも載ってないし、何がいるか分からない。入ったら二度と戻れないって……」
そう言って震えていた冒険者たちの顔が、なぜか妙に印象に残っていた。
そして今、俺はその“魔の森”の入り口に立っている。
森は想像よりも静かだった。
虫も鳥もいない。風も音も――すべてが、沈んでいる。
一歩、足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が重くなる。
木々は黒くねじれ、空を覆う枝葉が光を遮り、昼間だというのに深い陰を落としていた。
なるほど、“魔の森”と呼ばれるだけのことはある。
方向感覚が曖昧になり、後ろを振り返っても来た道がすでに消えていた。
……ここは、人を拒む森だ。
でも――
不思議と、嫌じゃなかった。
誰もいない。誰も入ってこない。誰にも干渉されない。
どこまでも、静かで、沈黙に包まれた場所。
俺は、荷を下ろす。
背中のテントと工具、干し肉と簡易鍋、種子と食料袋。
それらを一つひとつ、手で並べていく。
足元に、簡易的な魔術陣を刻む。
「魔導式・四方隔絶結界――展開」
ゆっくりと展開される結界が、空気を震わせる。
結界の性質は単純だ。
「他者、侵入不可。感知遮断。外界干渉排除……」
誰も、ここには入ってこれない。
これでいい。
これで、ようやく――
「……静かに、生きていける」
俺は地面に座り、深く息を吐いた。
森の静寂が、まるで長年求めていた“答え”のように、胸に染み込んでくる。
目の前には荒れた地、倒木、毒草、湿った岩肌――
けれど、ここからなら作れる。俺の手で、一から。
「ここで暮らそう。ここで、誰にも邪魔されず、スローライフを楽しもう」
翌朝、森の中は昨日と変わらず、ひどく静かだった。
だが、空気の重みにはもう慣れてきた。むしろ、この圧が心地いい。
今日からは本格的に、ここを拠点にする。
まずは、住処を作らなければならない。
「……材料は、そこら中に転がってる」
目の前の木々。太く、うねり、長く伸びた根。
どれも人の手を拒むように生い茂っているが――
俺は手を前に出し、静かに魔力を込める。
「基礎魔法・斬撃展開――《刃風》」
空間がうねり、風の刃が唸りを上げて木をなぎ払う。
ただの初級風魔法――だが、補助と制御を極限まで高めた応用展開。
数本の太い木が、音もなく根元からすぱりと切断された。
余計な枝葉を落とし、幹だけを残して魔力で運ぶ。
「……これで、土台に使えるな」
次に地面の整地。
小石と根を除きながら、地形の高低差を削る。
「補助魔法・地盤安定」
地面がわずかに揺れ、崩れやすかった斜面が平坦になる。
午前いっぱいを使って、拠点予定地を平らにした。
その上に、木を積み、壁を組み、屋根……というより“天井”らしきものを乗せていく。
柱は少し斜めになった。
屋根は雨が入らないだけマシな程度。
隙間風は――まぁ、ある。
それでも、形になった。
森のど真ん中。誰もいない場所に、俺の“家”が建った。
……不格好だった。
不器用な俺らしい仕上がりだった。
けれど――
「……まあ、自分で作ったもんだ。そう思えば、案外、悪くないな」
そう言いながら、壁に手を置いた。
手触りは粗い。角も丸くない。
だが、それは俺の手が作った、初めての“自分だけの居場所”だった。
森の木々が途切れたせいで、空が見えた。
光が差し込む。そのまま、土に当たる。
「せっかくだ。……畑を作るか」
斧で根を掘り起こし、鍬の代わりに補助魔法で土を砕く。
「水は……よし」
地面に簡易の魔法陣を刻み、魔力で地下水を引き上げる。
「水脈誘導」
淡い光が走り、小さな水流が畑の脇にできた溝へと注ぎ始めた。
あとは、種を蒔いて、待つだけ。
光と水、そして静かな時間が、すべてを育ててくれるだろう。
木の切り株に腰を下ろす。
ふう、とひとつ、深く息を吐いた。
「……こういうのも、悪くない」
剣を振るうわけでも、誰かを守るわけでもない。
ただ、土を耕し、木を削り、水を引く――それだけの、日常。
そう思ったときだった。
森の向こう――風に乗って、微かに、魔力の“乱れ”を感じた。
強い。けれど、不安定で、傷ついたような――
「……誰か、いる?」
ここは“誰も入れない”はずの結界の中。
だが、もしかして……迷い込んだ者が?
陽が傾きかけた頃、俺はふと森の端で違和感を覚えた。
魔力の乱れ――いや、“波打つような気配”。
何かが、結界の内側に入ってきている。
だが、結界は確かに機能している。
理論上、侵入はありえない。
「……例外か」
誰にも入れない結界――
だが、設計時に唯一“条件未設定”だった要素がある。
“迷い”
結界は、心に強く迷いを抱えた者を、拒まないのかもしれない。
自分でそうした記憶はないが、今となっては……妙に納得できてしまう。
気配のする方へ向かう。
倒木と茂みをかき分け、藪を越えると――
そこに、ひとりの少女が倒れていた。
長い髪は濡れた夜のような深紫。
華奢な体に、豪奢な魔族装束。
だがそれはすでにボロボロで、袖も裾も裂け、泥と血にまみれていた。
彼女の周囲には、薄く紫の魔力の霧が漂っている。
高位魔族の気配。
その質と濃度からして、正体はほぼ明白だった。
「……魔族の血族」
だが、そんな大層な肩書きとは裏腹に、少女は今にも壊れそうなほど弱っていた。
額にはうっすらと汗、唇は乾いている。
呼吸は浅く、魔力は暴走寸前で揺らめいている。
「……くそっ」
反射的に駆け寄り、両手で魔力を抑えるように触れる。
「結界転写・安定式――展開。対象:外部魔力体」
術式を唱えながら、彼女の魔力を一時的に結界と同調させる。
不安定だった波が少しずつ落ち着いていく。
少女は微かに目を開けた。
その瞳は――片方が赤、もう片方が琥珀。
色彩に宿る魔の煌きと、どこか子供のような怯え。
「……な、んで……」
声は掠れていた。
けれど、その言葉には、確かに戸惑いがあった。
「……なんで、助けるのよ、こんな私を……」
俺は、その問いに答えなかった。
答えられなかった。
ただ――放っておけなかっただけだ。
深い森の中、倒れていた少女――魔族の娘とおぼしきその存在を、俺は黙って抱き上げた。
細い身体は軽かった。けれど、漂う魔力は重く、荒れていた。
このままでは暴走する。最悪、命を落とす。
俺はそのまま、自分の拠点へと戻った。
森の奥の、不格好な自作の家。けれど、俺にとっては唯一の安らぎの場所だ。
彼女を毛布にくるませ、丸太に乗せた即席の“簡易ベッド”に寝かせる。
寝心地がいいとは言えないが、床よりはマシだ。
薬草を刻み、煎じて湯に溶かし、口元へ運ぶ。
ぐったりとした彼女の唇に、少しずつ薬を含ませると、ほんのわずかに喉が動いた。
「……よし」
その上から、俺は小さく術式を刻んだ。
「治癒式・静穏転写陣……展開。結界、安定」
体力と魔力の回復を促す、簡易式の回復結界。
淡い光が彼女の身体を包み、呼吸がゆっくりと安定していく。
あとは、眠らせておくしかない。
俺は炉の火を弱め、部屋の灯りを落とし、静かに隅の丸太椅子に座った。
そのまま、夜を明かした。
誰もいない静かな家に、かすかな寝息だけが響いていた。
朝。
森の中には朝霧が立ち込め、木々の隙間から光が差し込んでいた。
鍋には、森の野菜と保存していた干し肉を入れ、火にかけていた。
香草を少し混ぜるだけで、香りが立つ。
「……さて、どうするかね」
そんな独り言を呟いた頃だった。
毛布の中で、ごそりと音がした。
振り返ると、彼女――リュシアが、うっすらと目を開けていた。
「……どこ、ここ……」
「俺の拠点。昨日、森で倒れてたお前を連れて帰った」
「……アンタ、誰よ」
「バニッシュ=クラウゼン。元冒険者だ」
リュシアはしばらく黙っていたが、やがてぼそりと呟いた。
「……なんで、助けたのよ」
その問いは鋭かった。
だけど、俺は肩をすくめるだけだった。
「なんとなく、だな」
「は?」
リュシアの声が一段高くなる。
「“なんとなく”って何よ……普通、助けないでしょ。魔族の、それも倒れてたんだし……」
「そうかもな。でも、あのまま放っておくのも、気分が悪かった」
「意味分かんない……バカ……」
そう呟いたリュシアは、また少し視線を逸らす。
彼女は目を伏せ、小さな声で、なにかを呟いた。
「……ありがと……」
声は小さすぎて、聞き取れなかった。
「ん? 何か言ったか?」
「な、なんでもないっ!」
顔をそむけたリュシアは、ぎこちなくベッドから身を起こす。
まだ少しふらついていたが、自分の足で立とうとするその姿は、意地っ張りな子供のようでもあった。
「……で、なに作ってるのよ」
「朝飯だ。干し肉と森の野菜を使ったスープ。保存がきいて、栄養もある。俺の自慢だ」
「……ふーん。まぁ、食べてあげないこともないわ」
リュシアは鍋の前に腰を下ろすと、警戒しながらスプーンを口に運ぶ。
そして――目を見開いた。
「……なにこれ、おいしい……」
小さく、確かに感嘆の声が漏れた。
「気に入ったか」
「き、気に入ってなんかないし!? た、ただちょっと、お腹空いてただけで……」
ツンツンとしながらも、彼女は黙々とスープを口に運んでいた。
スプーンを置く手が、少しずつ安らいでいくのが分かった。
こうして、俺とリュシアとの“共同生活”が、静かに始まった。