8dB ◆ 君に音が、届く日まで
凪の記者会見から、数日が経った。
SNSでは賛否が飛び交っていたが──
それでも、目に見えて多かったのは、凪を称賛する声だった。
《彼の音楽が好きなだけじゃなく、彼自身を好きでよかった》
《言葉じゃなく、想いで動く人なんだな》
《これが〝本物の表現者〟ってやつか……惚れ直した》
一部の保守的なスポンサーからは反応があったものの、大手広告主はむしろこの誠実な姿勢を好意的に受け止め、契約は継続された。
中には「新しい価値観を提示した、時代の先駆者」として、キャンペーン企画を提案してきた企業さえあった。
けれど──
当の本人は、そうした騒ぎに、ほとんど無関心だった。
***
都内某所、朝のスタジオ。
まだ日も完全には昇りきらない時間帯。
照明の落とされたブースの隅で、ただ一箇所だけ、PCモニターの光が凪の横顔を青白く照らしていた。
画面に表示されているのは、英語と医療用語が並ぶ海外の専門的な文献ページ。
いくつものウィンドウが立ち上がり、そこには〝Auditory Brainstem Implant(ABI)〟や〝Cochlear Nerve Aplasia〟の文字が光っている。
「……またやってるな、あの顔」
ひとりのスタッフが、囁くように言った。
「今度は……海外の医療サイトか?一体何を調べてるんだ?」
「詩音ちゃんのことだろ。会見後から、ずっとあの調子だよ」
スタッフたちの視線が、画面の光に照らされた凪の横顔に向かう。
その表情は、何かを背負ったような、静かな決意に満ちていた。
「凪」
重たい空気を割るように、マネージャー・久我の低い声が響いた。
「お前な、そろそろ次のアルバムの打ち合わせにも顔出せ。
全部止まってるぞ。何やってんだ」
凪は画面から目を離さず、短く言った。
「……詩音のこと、調べてる」
「……は?」
久我が眉をひそめる。
「前に、人工内耳の話をしたら、反応がよくなかったんだ──
調べたら、理由がわかった。
詩音の耳は〝聴神経そのものがない〟
音を〝感じる〟ことすらできない構造だった」
スタッフたちが、一瞬言葉を失う。
「通常の補聴器も、人工内耳も意味がない。
聴神経が無形成の場合、音を脳に届ける〝経路〟そのものが存在しないからだ」
「……じゃあ、もう、どうしようもないってことか?」
久我が低く呟いたとき、凪は、静かに首を振った。
「──いや。
〝もうひとつ〟だけ、ある」
クリック音とともに、新しいウィンドウが立ち上がる。
そこには〝Auditory Brainstem Implant(ABI)〟
──脳幹インプラントという見出しがあった。
「耳でも神経でもなく〝脳〟に直接音を届ける手術がある。
適応は限られてるけど、詩音はその〝数少ない可能性〟に当てはまるかもしれない」
凪の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「……日本では、この手術をやってる施設はほんの数ヶ所。
年間でも数件しか行われてない。
実施不可の場合も多いし、手術やリハビリの前例が少なくて、医師側の経験値にバラつきもあるらしい。
輸入機器の規制もあるから、デバイスの種類や最新技術も日本だと限られる。
だけど、アメリカなら──可能性がある」
凪は画面をスクロールしながら、淡々と説明を続ける。
「日本では断られる小児難聴例や、聴神経無形成の患者にも対応しているセンターがある。
実績も豊富だし、トップクラスの医師が対応できる。
臨床試験も進んでる。
リハビリの環境も整ってるし、多職種チームでのサポートも受けられる。
ただ、手術やリハビリにかかる費用、現地滞在費、医療コーディネーターや通訳の手配まで入れると、数千万円~1億円近くになる」
久我は絶句した。
「……そんなこと調べて、お前……どうする気だ」
凪は、ふっと顔を上げた。
その目はまっすぐで、迷いなど一切ない。
「詩音に手術を受けてもらう。
費用も、全部俺が出す。俺の資産から、全部。
金でも時間でも──詩音の〝世界〟に音を灯せるなら、俺は惜しくない。
アメリカにも一緒に行く。
手術の間も、リハビリの期間も、ずっと詩音のそばにいる。
向こうで1年、いや、1年半くらいかかるかもしれない。
でも、それでもいい。
音楽で世界を変えるより──詩音の世界を変えたい。
それが、俺の今の〝夢〟なんだ」
室内の空気が、静かに震える。
「今なら、まだ間に合うかもしれない。
脳の可塑性──音を音として捉え、意味を結びつける力は、20歳前後までなら一定の効果が期待できるって文献にもあった。
詩音は今、18歳。このタイミングを逃したら、本当に〝届かない世界〟になってしまうかもしれない。
──だから、俺は急いでる」
一瞬の静寂。
「……お前、そんな顔すんのな」
久我は、かすかに目を細めて呟いた。
「他人のことで、そんなに必死になったの、初めて見たわ」
凪は答えず、少しだけ視線を伏せる。
そして、小さく息を吐いた。
「……自分でも、そう思うよ。知り合ってから、たった数ヶ月。
普通なら、ここまでやらない。わかってる。
でも、詩音が〝音〟のない世界で、懸命に生きてるのを見てきた。
だからこそ──
俺に届けられるものがあるなら、この手で、今すぐに届けたいって思ったんだ」
久我も、スタッフたちも、言葉を失ったまま凪を見つめていた。
その視線の先で、凪は再び画面に目を戻す。
誰のためでもない、たったひとりの〝詩音〟のために。
世界を変える準備を、今、始めていた。
***
その日、詩音は大学の講義を終え、キャンパスの門を出た。
夕暮れ前の、少しだけ気怠い空気。
ふと、校門のそばに停まった黒い車が目に入る。
その車の陰──
死角に近い位置に、彼が立っていた。
黒のパーカーに、黒のマスク、夕暮れの光にふわりと透ける髪。
まるで通りすがりの誰かのように、静かにたたずんでいる。
けれど、その視線だけは確かに、詩音の方を捉えていた。
(凪、さん……?)
詩音の足が、その場で縫い付けられたように止まった。
鼓動が、一瞬だけ強くなる。
……もう、わかってる。
これは──恋なんだ。
(なんで……?どうしていきなり……?)
なぜここにいるのか、そんな驚きもあるのに、全身がふわりと熱くなる。
嫌じゃない。むしろ、会えてうれしい……
でも、うれしいだけじゃなくて──
緊張して、なんだか息の仕方も忘れそう。
この感情をどう抱えていけばいいのか、まだわからない。
それに、彼の目を見ていたら、どうしても──動けなかった。
彼の視線は、変わらず、ただまっすぐ。
まるで、自分たち以外は存在していないかのように、詩音だけを見つめていた。
その眼差しに吸い込まれるように、詩音は少しずつ一歩、そしてまた一歩と歩み寄る。
凪は、何も言わずに詩音の手を取ると、その手を柔らかく包み込んだ。
彼の指先が、ほんのわずかに震えた気がして──
詩音は、小さく息をのむ。
戸惑いながらも拒めずに、導かれるように車に乗せられた詩音は、何もわからないまま助手席に座り、黙ってシートベルトを締める。
凪も何も言わなかった。
ただ、ハンドルを握り、真っ直ぐ前を見据えてアクセルを踏み込む。
車内には、気まずいような、でもどこか安心するような、不思議な沈黙が流れていた。
***
着いた先は、国立病院機構東京医療センター。
《ここって……?》
詩音がスマホに文字を打ち込んで見せる。
凪は一瞬ためらうように唇を噛んでから、静かにうなずいた。
「一緒に、説明を聞いてほしい」
病院の会議室には、簡素な資料と、冷たい照明の下で真剣な表情の医師がいた。
凪と詩音は並んで椅子に座り、脳幹インプラントについての説明を受ける。
「そもそも人工内耳とは──耳の奥に電極を埋め込んで、聴神経に音を届ける技術です。
けれど佐々木さんには、その〝神経〟そのものが、もともと存在していませんでしたよね?」
詩音は、静かにうなずく。
「ですから、内耳レベルでは音を受け取れても、脳に届かない。
……つまり、届く〝道〟がないということです。
聴神経が形成されていない場合、人工内耳は効果がありません。
脳幹インプラントは、脳幹に直接電極を挿入して音を伝える仕組みです」
医師の声は淡々としていたが、その内容はあまりに現実離れしていた。
「ただ──この手術を行える施設は、日本国内でもほんの数ヶ所しかありません。
実施例も非常に少なく、年間で数件あるかどうかというレベルです。
患者の状態によっては適応外と判断されることもあり、実際には手術に至らないケースも多くあります」
言葉が、頭に入ってこない。
心臓が、ぎゅっと縮こまるような感覚。
脳に直接電極を入れる手術──
そんなことが、自分の人生に現実として降ってくるなんて、思ってもいなかった。
(そう……わたしの耳は、壊れてるんじゃない。最初から、ない──
でも、それを、今さら……?こわい……)
心の奥に、黒くて大きなものが、ゆっくりと広がっていく。
医師は、詩音の表情を一瞬だけ見つめたあと、少しだけ声のトーンを和らげた。
「……もちろん、最終的に決めるのはご本人です。
無理に勧めるものではありません。
ですが──あなたのような若い方にとって〝今〟という時間は、非常に大きな意味を持ちます。
脳の可塑性……つまり、音を音として捉え、意味と結びつけていく脳の力は、年齢とともに徐々に下がっていくことがわかっています。
だからこそ、もし一歩踏み出すお気持ちがあるのなら……
ほんの少しだけ、早く決断できるに越したことはありません」
その言葉には、押しつけがましさはなかった。
ただ静かに、けれど確かに、詩音の背中を押すような温度があった。
病院を出たあと、ふらりと足元が揺れる。
呼吸が浅くなるのを自分でも感じる。
凪はすぐに隣に寄り、ぐっとその肩を抱き寄せた。
それだけで、詩音は少しだけ息がしやすくなったような気がした。
そのまま連れてこられたのは、都内の高層マンション。
「……ここ、俺の家」
詩音がゆっくりと玄関に足を踏み入れると、意外にもその室内はシンプルで、生活感のある空間だった。
玄関で靴を脱ぐ手が震える。
言葉にできない緊張が、全身から溢れていた。
リビングに通された詩音は、無意識にソファの端に座る。
緊張した視線が、部屋のあちこちを彷徨っていた。
凪はゆっくりとその正面に膝をつく。
ポケットからスマホを取り出すと、メモアプリを立ち上げ、音声入力のアイコンに指を触れた。
スマホを詩音の膝の上に置き、マイクのアイコンが点滅していることを確認する。
少しだけ息を整えたあと、彼は詩音の顔を見つめた。
そして、そっと両手で詩音の頬を包んだ。
その手は、あたたかく、ほんの少し震えていて──
そのすべてが、優しさだった。
「……俺の気持ちを、伝えたい」
まっすぐに視線を合わせてくる。
言葉はゆっくりと、慎重に、詩音に届くように話された。
詩音はこくりと小さく頷く。
「本当は、病院で医者の説明を聞いたあとに……
全部、俺の気持ちも話すつもりだった。
でも、あの場所じゃ……お前とちゃんと向き合えなかったから」
スマホの画面に、凪の言葉がひと文字ずつ浮かび上がっていく。
詩音の視線が、それを追いかけるように落ちる。
言葉のひとつひとつに、凪の想いが滲んでいた。
視線を上げ、詩音はもう一度、凪の顔を見る。
まっすぐなその瞳に、戸惑いと誠実さが入り混じっている。
そしてまた、スマホの画面に視線を戻す。
じんわりと胸が熱くなっていくのを、詩音は感じていた。
「俺は、アメリカで手術を受けてほしいと思ってる。
リスクはあるけど、向こうには実績があって、受け入れてくれる可能性も高い。
渡航費も手術費も、現地での滞在費も、通訳も──
費用は全部、俺が出す。だから……迷わなくていい」
詩音の唇が震えた。
「大学は……できれば、休学してほしい。
リハビリも含めて、たぶん……1年半くらいになる。
俺も、その間は音楽活動を休んで、一緒にアメリカに行こうと思ってる。
……リハビリとか、つらいときに、詩音を一人にさせたくない。
お前が頼れる相手でいたいし、そばにいたい。
だから……その時間を一緒に過ごせたらって、思ってる……」
そこまで言ってから、凪は視線を逸らした。
「……正直、一方的すぎるのは分かってる。
でも、これは俺にとって、ひとつの〝夢〟なんだ。
音楽で世界を変えるんじゃなくて──詩音の世界を、変えたい。
……俺が、お前を、好きだから」
言い切ったその声は、少し震えていた。
「勘違いじゃなければ、詩音も、俺と同じ気持ち……だよな?」
その言葉に、詩音の瞳が大きく揺れる。
震える指でスマホに打ち込んだ文字は、彼女の心の壁そのものだった。
《どうして、わたしなんですか?》
《わたしは、耳が聴こえません。凪さんの音楽を、本当の意味で聴いてあげることは、一生できません》
《凪さんの隣にいる資格なんて、わたしには……》
そこまで打って、詩音は顔を伏せた。
(耳の聞こえないわたしなんて、だめだ……
この人の隣にいたら、迷惑をかけるだけだ……)
そんな想いが、彼女の手を止めさせる。
凪は、その画面をじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと首を振る。
彼は詩音の手からスマホを抜き取ると、詩音の打った文字をすべて消し、新しい言葉を打ち込んだ。
《そんなこと、どうでもいい》
《俺が好きなのは、耳が聴こえる詩音じゃない。今の、そのままの詩音だ》
《お願いだから、言って。詩音がどう思ってるか、ちゃんと聞かせて》
詩音は、涙で滲む目で画面を見つめる。
それでも、首を横に振った。指が、動かない。
(本当は……言いたい。
でも、言ったら、きっと──戻れなくなる)
詩音の中で、恐れと希望がせめぎ合っていた。
凪は、もう一度彼女のスマホを手に取ると、祈るように、懇願するように、文字を打ち込む。
《詩音。お願いだ》
《もう、詩音がいない世界に、戻りたくないんだ》
そのまっすぐすぎる言葉に、詩音の中で、ずっと張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
彼女の頭の中で、幼い頃からずっと積み上げてきた「耳が聴こえない自分は、誰かに迷惑をかける存在だ」という心の壁が、ガラガラと崩れ落ちていく音を聞いた気がした。
違う。彼は、それを「欠点」だと思っていない。
聴こえない自分を否定する気持ち。
彼の音楽を聴いてあげられないという罪悪感。
そのすべてを、凪は「それでもいい」と、全身で肯定してくれている。
目から溢れた涙が、スマホの画面を濡らしていく。
涙が、あとからあとから溢れてくる。
そして、震える指で、ようやく本当の気持ちを打ち込んだ。
《好きです。わたしも、凪さんのことが好き……大好き》
その文字を、凪がそっと指でなぞる。
「……俺も、好きだよ。愛してる」
噛みしめるように絞り出された言葉に、詩音の顔が、くしゃりと歪んだ。
込み上げる衝動のままに両手を伸ばし、まるで……ようやく許されたかのように──
安心するように、そのまま凪に抱きつく。
凪は驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐにその小さな体を優しく抱きしめ、詩音の背に手を回した。
そのまま顔を上げると、詩音の頬に手を添える。
次の瞬間、ふたりの距離が、音もなく縮まった。
柔らかく触れた唇は、すぐに深く絡み合い、呼吸すら忘れさせるほど熱を帯びていく。
唇を離しても、名残惜しそうに頬に触れ、額を寄せ合いながら、何度も何度も口づけを交わした。
この瞬間が、永遠に続けばいいと思うほどに。
キスの余韻が残るまま、ふたりはゆっくりと呼吸を整える。
息を呑む音も、まばたきも、どこか穏やかだった。
凪はそっと手を伸ばし、詩音の髪を優しく撫でる。
「……もう、一人で頑張らなくて大丈夫だよ」
聴こえなくても、その表情と口の動きだけで伝わってくる。
その声は、きっと静かで、限りなくやさしい。
詩音は、もう一度ぎゅっと凪に抱きついた。
首もとにすり寄るようにして、ほんの少しだけ、体を震わせる。
けれど次の瞬間、すっと身体を離すと、意を決したようにスマホを手に取った。
《……お母さんには、わたしから事前に伝えます》
《ちゃんと、自分の言葉で》
《手術のことも、アメリカでのことも……ちゃんと話して、許してもらいたい》
《だから、凪さん。うちに来てください》
詩音の言葉に、凪は一瞬だけ目を細めた。
まるで「ようやく言ってくれたな」とでも言いたげに、穏やかに微笑む。
「……それ、最初から行く気だったんだけどな」
含んだ笑みと一緒に放たれたその一言に、詩音は声もなく吹き出した。
ふたりの間の空気がふっと緩んでいく。
緊張も、涙も、全部──
この笑顔に包まれていくようだった。