7dB ◆ その音は、沈黙を越えて
その投稿が最初に見つかったのは──深夜のことだった。
あるスタジオ関係者の個人SNSアカウントに、1枚の写真が軽いキャプションとともにアップされる。
《スタジオでのスナップ写真。
透明感やばすぎる子で思わず撮っちゃった……》
そこに写っていたのは、照明を落としたレコーディングルームで、静かに目を閉じ、音に身をゆだねる少女と──
その姿を、まっすぐに見つめる男の姿。
わずかに角度のついたその構図は、偶然を装いながらも、どこか意味ありげに見えた。
うつむく少女の横顔と首筋、すっと伸びた背筋、そして彼女の耳元へと伸びる凪の手──
何より、凪の表情に宿る、焦がれるような熱と静けさ。
その一瞬の〝距離〟が、言葉よりも雄弁に何かを物語っていた。
最初は、ただの話題だった。
けれど、誰かがその写真に〝XENO〟の姿を見出した瞬間──
それは、静かな熱を帯びて〝憶測〟へと変わっていく。
***
《@xxluna:まってこれXENOくんじゃない!?》
《@_mkrn:この女の子だれ???横顔だけなのに可愛すぎでは???》
《@pnd_milk:え、女優さん??一般人だったら逆にヤバくない?透明感の次元が違う》
《@rxo_official:#XENO とのスタジオ2ショット……リアルに恋の予感する(震)》
《@vv_baby:は?誰これ。無理なんだけど。ガチでショック》
《@xeno_oto_suki:待って、顔ちゃんと写ってないのに美人オーラ出てるの草》
《@sound_seeker_01:XENOくん、女をスタジオに連れ込んでんの……?》
《@xeno_is_god:こんな子と二人きりとかありえないんだけど》
《@anonymous_lily:ブスなら安心してたのに……透明感あってしんどい》
タグには、
《#XENO》《#スタジオスナップ》《#謎の美少女》などが次々と並び始めた。
そのほかにも、驚き・嫉妬・憧れ・揶揄、様々な反応が一気に広がっていった。
ほんの数時間で、その写真は静かに、けれど確実に〝波紋〟となって拡がっていく。
***
夜が明け、静かなスタジオに、一人のスタッフが出勤してきた。
何気なく開いたスマホの画面に、思わず足が止まる。
そこには、あの〝写真〟があった。
「……おい、これ見たか?」
スマホを覗き込んだ別のメンバーの顔色が変わる。
「うわ……やっば……詩音ちゃんじゃん……!」
「タグも回ってる。
〝XENOの彼女説〟とか〝恋人感すごい〟とか。
……まずいだろこれ、顔出しNGだったよな?」
「誰が上げたんだ、これ……
って、このID……まさか、新人の……?」
本来、このスタジオには限られた人間しか入れない。
ただ、その日〝たまたま〟──
入り口までの出入りを許されていた新人が、ルールも空気も読まず、詩音に見惚れてスマホを構え──
シャッター音ひとつで、世界は簡単に乱れた。
「……てか、あの新人、あの日だけの臨時だったよな」
「そう。あんな新人、本来ならこのスタジオに入れるはずなかったんだけど──
あの日だけは、人手がどうしても足りなくて……
機材の搬入だけって話だった」
「じゃあ、もう来ない……ってことか」
ざわつく現場に、渦中の凪が現れる。
扉が開いた瞬間、複数のスタッフの視線が一斉に集まった。
「凪、お前……これ、知ってるか?」
「SNS、ちょっと荒れ始めてるぞ。
ファンもざわついてる。どうすんだ、これ」
凪はスマホを渡され、しばらく無言で画面を見つめていた。
タグ、写真、憶測。
それらをひとつずつ、冷静にスクロールしていく。
「誰が投稿したかの見当はついてるから、すぐに事実確認はする。でもその前にさ……」
スタッフの一人が、遠慮がちに言葉を添える。
「……ほんとにただの〝友達〟なら、事務所コメントで否定した方がいい。マネージャーにすぐに連絡を」
その言葉に、凪の手がぴたりと止まる。
ゆっくりと顔を上げた彼は、短く告げた。
「コメントは、出さない」
低く、芯の通った声だった。
「……は?でも、このまま放っておいたら、マスコミが動くぞ?」
数秒の沈黙。
「騒がれてもいい。
……俺にとっては、隠す理由がない関係だから」
静かな声に、場の空気が、張りつめていく。
「だから、コメントはしない。
でも……他に、考えてることがある」
その言葉に、スタッフの目がわずかに見開かれた。
明言はされていない。
けれど、彼の目には、確かな〝覚悟〟があった。
凪は、スマホをスタッフに返し、静かに背を向ける。
「この投稿は消させる。
……あと、彼女には俺から話すから」
そう言って凪は扉の方へ数歩だけ歩き──
ふと、歩みを止めると、振り返らずに一言だけこぼした。
「……投稿者、今どこにいる?」
周囲が一瞬で緊張に包まれる。
誰かが口を開きかけたが、声にならなかった。
普段の凪からは決して放たれない、低く、冷たい、濁った声。
「……呼べ。今すぐ」
怒鳴らず、威圧もせず。
それでも、その場にいた誰もが息を呑み、動けなくなるほどの──
静かな圧が、彼のまわりの空気ごと張り詰めさせていた。
彼の中で、何かが変わり始めていく。
〝守る〟という感情が、ただの衝動ではなく〝選択〟になろうとしていた。
***
投稿から1週間近くが経っても、SNSの熱は冷めることなく、燻り続けていた。
《XENOと謎の美少女》という言葉が、憶測に憶測を重ね、タグと共に世界中を駆け巡る。
《XENOの新曲〝感じる音〟が、彼女への想いを綴ったものだとしたら……?》
《写真に映るふたりの距離感は、ただの友人とは思えない》
《彼女との関係が公表される日はくるのか?》
正体も、関係性も、何ひとつ公になっていないのに、すでに〝物語〟だけが独り歩きしていた。
そんな光景を、詩音は画面越しに、ただ静かに眺めていた。
(……わたしの、せいだ)
誰もそうは言っていない。
けれど、そう思わずにはいられなかった。
自分があの日、スタジオに行ったから。
何も知らずに、凪の音を〝感じて〟しまったから。
もしこのまま、凪の名前に泥を塗るようなことになったら──
スマホを伏せようとした、そのときだった。
LINEの通知がひとつ。送信者は、凪だった。
(……どうして、こんなときに……)
怖さと、嬉しさと、申し訳なさが同時に押し寄せてくる。
でも、彼の名前を見るだけで、心の中の波が少しだけ静かになるのを感じた。
トーク画面を開くと、そこに綴られていたのは、彼の地元の話。
〝あの騒動〟のことは一言もふれられていない。
《実は昨日、久しぶりに実家に帰った。
海、見てきた。風が強くて、波の音が体に響いて気持ちよかったよ。
詩音にも見せてあげたい。
音はなくても、波のリズムや潮の匂い。
きっと、感じられると思うから》
詩音の胸が、じんと熱くなる。
(……凪さん、なんで……)
何も言っていないのに、まるで全部わかってるみたいに。
優しさが、画面越しに伝わってくる。
《うちの親父はカツオ漁師で〝海の男〟って感じでさ、俺が高校辞めて音楽やるって言ったら「船には乗らんでも波には乗るんか」って言われた》
思わず、ふふっと笑ってしまう。
《母親は地元の市場で働いてて、いわゆる肝っ玉母ちゃん。
俺が上京して歌手としてデビューしたときに、近所に全力でCD配ってた。
双子の妹は高3なんだけど、最近ちょっと生意気になってきた。
でも本当は優しくて、一人暮らしの俺を心配して頻繁に連絡もくれる》
ひとつずつ読みながら、気づけば顔がゆるんでいた。
気持ちが、少しずつ軽くなっていく。
そして、凪がぽつりと綴った。
《今回、家族に大事な報告があって帰ってたんだ。
ちゃんと伝えられたから──今の俺に後悔はない。
……それと、今回のこと。詩音が気に病むことじゃない》
凪の言葉が、静かに沁み込んでくる。
その一文が、どれほど救いだったか……
でも、それと同時に〝聴こえない自分〟が彼の人生に影を落としている気がした。
──大事な報告。
それが何なのかも、詩音にはわからない。
けれど、そこにある真剣な気持ちだけは、まっすぐ届いてきた。
《よかったら、詩音の家族の話も、聞かせてほしい》
詩音はスマホを両手で持ったまま、ふと指を止める。
打ちたいことはあった。
けれど、それを言葉にしていいのか、わからなかった。
少しのあいだ、画面を見つめる。
そして──思い切るように、ゆっくりと文字を打ち始めた。
《うちはシングルマザーです。
母は看護師で、夜勤も多くて大変だけど、ずっとわたしを支えてくれました。
弟は凪さんの妹さんと同じ高校3年生で、ちょっと過保護です。
ふたりとも、わたしが〝健常者の世界〟で頑張ってること、応援してくれてます。
でも……》
打ち込んだ言葉を、詩音はしばらく見つめた。
この先のことを、本当に伝えていいのか──静かに迷いが生まれる。
あのとき家族の浮かべた曇った表情が、小さな棘となって、胸の奥に残っていた。
それでも、凪になら。
そう思えたから、詩音は静かに続きを打ち込んだ。
《実は……母と弟がSNSを見て、凪さんと一緒に写ってたのが、わたしだって気付きました。
それで、凪さんと前に知り合ったことを今日ちゃんと話したんですが……
ふたりの反応が少しこわかったというか……
ちょっと気まずい空気になってしまいました》
送信ボタンに触れたあと、詩音の指が止まる。
指先が、じんわりと痛んだ。
曇った理由は聞かなかった──いや、聞けなかった。
きっと二人とも、わかっている。
〝聴こえない〟自分が、彼のそばにいることの、重さを。
有名人と関わることのリスクも、世間の目も、彼が背負うものの大きさも──
だからこそ、何も言わずに曇ったのだ。
《……そっか。心当たりはあるかもしれない。
でも、それも含めて──明日、記者会見でちゃんと話す。
詩音にも、見てほしい。
……大丈夫。俺の言葉で、伝えるから。安心して》
画面の文字を見た瞬間、詩音の胸が──熱く、震えた。
あの日、スタジオで凪の音を〝感じた〟瞬間のように、また、世界が変わる予感がする。
(凪さん……)
まるで〝音〟のようだった。
届いていないはずのその言葉たちが、確かに心を震わせていた。
詩音は、画面を見つめたまま、小さく笑った。
涙がこぼれそうになる。
(ありがとう)
その言葉を打つ前に、詩音はスマホを胸に抱きしめた。
その夜、音のない部屋の中で、詩音の世界は、少しだけ明るかった。
***
XENOの緊急会見の開催は、突如として発表された。
公式SNSアカウントが告知を投稿してから、およそ30分後には、その情報がトップニュースとして駆け巡る。
タイトルはこうだった。
【 XENO緊急会見〝音楽と生き方について〟】
詳細は非公開。事務所からの正式なリリースもない。
──しかし、メディアやファンの間では、すでに様々な憶測が飛び交っていた。
先日の女性とのツーショット、感じる音という新曲タイトル、スタジオでの距離感──
そうした断片的な情報が「恋人発表か?」「新曲のミューズか?」という声を生んでいた。
ただし、彼女の素性や事情については何も明かされておらず、障害に関する噂なども一切出ていない。
当然、事務所内では会見を止める動きが起きた。
マネージャーも、広報チームも、頭を抱える。
「凪、やめろ。本当に会見なんか開く気か?」
「交際を認めるようなものだぞ。
スポンサーが離れるかもしれん」
「何も言わないのが最善だ。音楽だけに集中してくれ」
けれど、凪の言葉は静かで、一切の揺らぎもない。
「……何も言わないってことは、その人の存在をなかったことにしてるのと同じだ。
俺が、詩音のことを守るべき弱い存在としてしか見てないって、そう思われるのは……違う。
俺にとって、詩音は──
隠すような存在じゃないんだ」
その一言が、場の空気を静かに、確実に変えていった。
***
そして、会見当日。
場所は都内の某ホール。
急遽発表されたにもかかわらず、会場には予想をはるかに超える数の報道陣が詰めかけていた。
最前列には海外メディアの姿もある。
テレビカメラの赤いランプがいくつも光り、無数のフラッシュが焚かれる中──
静かに壇上へと現れたのは、ひとりの男。
ゆるやかに流されたくすんだ銀髪。
黒のシャツに、グレーのジャケットという飾り気のない服装。
だが、その佇まいには視線を惹きつける存在感があった。
凛とした背筋のまま、ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに前を見据える。
ほんのわずかに笑みを浮かべ、深く一礼した男のその美しさに、会場が静まり返った。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。XENOです。
今日は、俺の個人的な話をします」
一拍、間が空く。
「今、俺の周囲にある報道や憶測の中に、ひとりの〝大切な人〟が巻き込まれています。
彼女は……耳が聴こえません」
ざわり、と空気が大きく揺れた。
記者の誰かが持っていたペンが、手から滑り落ちる。
紙をめくる音ひとつすら響かない、異様な静寂。
「だけど、俺にとっては、そんなことは本質じゃない。彼女は、俺に〝聴こえなかった音〟を感じさせてくれた人です。
俺が、音楽を〝もう一度原点から作り直そう〟と思えたのは、彼女と出会ったからです。
……俺たちは〝恋人〟という言葉に収まる関係じゃないかもしれません」
(ただ好きという感情だけじゃ、足りなかった。彼女と過ごす時間のすべてが、音楽になっていたから……)
「でも、俺は彼女を──
世界で一番特別な存在だと思っています」
会場の空気が、張り詰めていた。
息を飲む音、シャッター音すら消えるほどの静けさ。
凪は、それでも語り続けた。
「誰かを大切に思うことを、恥ずかしいことだとは思いません。
彼女と出会って、俺の音楽も、人生も変わりました。
それを隠す必要なんて、どこにもないと思ってます。
……これ以上の発言は、彼女のプライバシーを守るために控えます。
ですが、ただひとつ──
〝彼女を誇りに思ってる〟ということだけは、ここで伝えさせてください」
その言葉のあと、凪はもう一度、深く頭を下げた。
やがて、記者のひとりが口を開く。
「……この会見は、あなたの意思で?」
凪は一瞬まぶたを伏せ、そしてまっすぐに顔を上げる。
まるで、たった一人に語りかけるように──
「はい。俺の意志で。
そして〝彼女を守る〟というより〝彼女と共にいる〟という選択です」
***
会見後、世間の反応は真っ二つに割れた。
《……もう無理、こんなの見せられたら好きになるしかない》
《あの微笑みで一生推すって決めた。内容まだ何も聞いてなかったのに》
《言葉のひとつひとつがまっすぐすぎて……もう泣くしかなかった》
《かっこいいとかじゃない。尊い。昇天した》
《言葉を失った。XENO、マジで異次元》
という声と同時に、
《イメージダウン》《売名行為》《障害者を利用してる》
という、心ない声も飛び交った。
けれど、凪はもう揺れなかった。
守りたいのは、世間の評価じゃない。
伝えたいのは、音じゃなくて、想いだったから。
***
その日の午後。
静かな部屋で、ひとりの少女がスマホを握りしめていた。
(ばかだなぁ……)
詩音は、呆れたように笑った。
けれど、その目元はどこか滲んでいた。
視界がぼやけて、画面の向こうの凪が、少し歪んで見える。
彼の声は、世界に届いた。
そしてその声は、静けさのなかで、彼女の心にもひとつの光をともした。