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6dB ◆ その響きに、触れたくて

都内某所──凪だけのために設けられた、完全非公開のプライベートスタジオ。


専属のエンジニアとスタッフ、一部の関係者しかその場所を知らない。

事務所の人間ですら、許可なく扉を開けることはできない。


凪は、制作の合間でも、予定のない日でも、ほとんどの時間をこの場所で過ごしている。


撮影も作業もない、珍しく空いた一日──

にもかかわらず、凪は朝からずっとモニターの前に張り付いていた。


「……またやってる」


スタッフのひとりが、ガラス越しのブースに目を向けながら、ぼそりと漏らす。


凪の前には、複数のウィンドウが開かれたPCモニター。

聴覚障害に関する文献、インタビュー記事、補聴器メーカーの構造図──

さらには「音のない音楽表現」や触覚デバイスに関する海外の論文まで。


〝詩音の世界〟を知るために、ひたすら情報を貪っていた。

その目は真剣で、瞬きも忘れるほどだった。


「マジで、今までで一番だな。あいつ、誰の目も気にしてない」


「うん。ていうか、もう完全に〝あの子〟のことしか見えてない」


と、そのタイミングで、マネージャーの久我がスタジオに入ってきた。


「お疲れ。……うわ、まだやってんのかよ、凪」


「朝からずっとです。たぶん寝てないですよ」


久我はポケットに手を突っ込んだまま、モニターに目をやる。


「……これ、さすがにマズいかもな」


声を少し落として、スタッフの一人に目配せをした。


「俺としては〝初スキャンダル〟だけは避けたいんだけど」


「何か、動きが?」


「今んとこSNSは静か。ただ──」


久我はスマホを取り出し、何件かの通知をスワイプで流しながら続けた。


「例のレコーディングのメイキング、見たファンの中に勘のいいやつがいてさ。

《XENOの表情がやたら柔らかい》とか《誰かが見てる前で歌ってる雰囲気》とか言い出してる」


「詩音さんは映ってないですよね?」


「当然。映像的には何の問題もない……けど」


そこで言葉を切り、久我は画面から顔を上げる。


「……ああいう直感だけで暴走するファンが、いちばん怖いんだよ。

何の証拠もないまま、妄想だけでトレンド入りする時代だからな」


短い沈黙が落ちる。

スタッフの誰かが、無意識にペンをカチカチと鳴らした。

誰も笑わない。


「……とはいえさ」


久我がスマホをしまい、スタジオの隅に目をやる。

言葉を選ぶように、一拍置いてから呟いた。


「芸能界でも、なかなか見ないよ。あの透明感は──」


スタッフのひとりが、息を吐くように笑った。


「どこの事務所の子?って、本気で思いましたよ。

てか、マジで一般人なんですか、あの子」


「SNSにもいないし、検索にも一切引っかからない。

あんなに存在感あるのに、ガチで〝どこにもいない〟って逆に怖いっす」


久我が首をひとつ鳴らし、眉間を押さえる。


「……だからこそ、なんだよな。

あれで顔バレしてたら、ファンに見つかるのは時間の問題だった。

今はまだ〝誰も知らない〟からいいけど──」


再び、空気がわずかに張り詰める。

誰も何も言わないまま、数秒の静寂が流れる。


久我は、そのままブースの中の凪へと視線を向けた。


「なあ、凪──お前ほんとに……

〝あの子〟のためだけに作ってんのか?」


「うん」


「本気で?」


「……うん」


凪はしばらくモニターを見つめたあと、小さく口を開いた。


「〝音楽が聴こえない人〟に〝音楽を届ける〟って、どういうことなのか。

……それが、今の俺の、全部なんだと思う」


「……初めてだな。お前がそんなこと言うの」


「……だって、初めて……ぃ……し……から」


「……は?」


「……初めて、恋をした。から……」


その言葉に、スタジオの温度が変わった。


「ちょ、待て待て待て!!それ今、サラッと言ったけど──えっ?人生初!?初恋!?マジで!?」


「お前23だぞ!?今まで何して生きてたんだよ……」


「おい、誰か録音してないか!?やばい発言きたぞ!!」


その場にいたスタッフ全員が、一瞬でざわついた。

笑い声、どよめき、そして──


「……うっかり誰かに聞かれたら、マジで洒落にならんぞ」


「スクープだけはマジでやめてくださいよ?

ほんと頼みますからね、久我さん」


久我は無言で額を押さえ、深いため息をつく。


「……恋なんてのは、浮かれてるときが一番危ない。

あいつに自覚があるなら、なおさら慎重にさせないと」


からかいの空気が、ふっと静まる。


「ま、でも──」


誰かがぽつりと漏らす。


「凪がこんなふうになるの、初めて見たけどな」


スタッフたちが大騒ぎするなか、凪は何も言わずにPCの画面を閉じた。

そして、ポケットからスマホを取り出し、ボイスメモを起動する。


「……決めた」


「え、なにを?」


誰かが訊ねるより先に、凪は静かに言葉を録音し始めた。


「〝音じゃなくて、感覚で伝える〟

それが、次の俺のテーマになる」


言葉は返ってこなかった。

けれどその沈黙は、否定でも冷笑でもなく──

ただ、彼の覚悟を見守るようなものだった。


彼の音楽は、変わり始めていた。彼の心と一緒に。

そしてそれは〝彼女〟に向けた、ただひとつの音になっていく。


***


レコーディング撮影の見学から、数週間が経った。


ある日の午後、スタジオの隅に、小さな光がともる。

照明は落とされ、床に沿って配置された間接照明だけが、柔らかく空間を縁取っていた。

スタッフの姿はない。

今日のこの時間、スタジオは凪が〝貸し切り〟にしていた。

照明や機材も、昨夜のうちにすべて自分の手でセッティングし直してある。


凪が用意した椅子の上には、骨伝導ヘッドホンと、もうひとつ──触覚スピーカーがすえられていた。

椅子の前に立ったままの詩音は、視線をゆっくりと凪に向ける。

何が始まるのか──まだわからないまま、でもその時間をじっと味わうように。


凪はその真正面に立つと、彼女と視線を合わせる。

そして、そっとスマホを取り出し、彼女の視界に静かに差し出した。


《今日は、君のためだけに音を用意した。

感じてもらえたら、うれしい》


詩音は少しだけ微笑んで頷くと、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。


凪は彼女の目を見ながら、続けてスマホに文字を打ち込んだ。


《骨伝導ヘッドホンと、触覚スピーカー。

両方使うのには理由があって──調べたんだ、君のこと。たくさん》


詩音の表情が少し揺れる。


凪はまた、ゆっくりと入力した。


《君は〝聴神経無形成〟っていうタイプの難聴だよね?

実は、補聴器をつけてないのが、ずっと気になってて……

調べるうちに、骨を通す音も脳に届かない人がいる、って知った。

たぶん、君もそうなんじゃないかって思ったんだ》


詩音が、静かに頷く。


《でも、骨伝導ヘッドホンって、耳をふさがない。

だから、触覚や空間の〝振動〟を遮らずにいられる。

これは〝視界を作るため〟に使うんだ。

耳の位置に何かがあるってだけで〝音がある〟って錯覚に近い感覚が作れるから》


詩音は、まるで答えるように、手元のスマホに打ち込んだ。


《……そんなに、調べてくれたんですね》


凪は、小さく笑って頷く。

そして、次のメッセージを打った。


《もうひとつ、これ》


凪が指差すのは、椅子の下に配置された触覚スピーカー。

直接椅子と床に接しており、音の振動を物理的に〝触れさせる〟設計だ。


《音は聴こえなくても、身体では感じられる。低音は特に、胸や背中を震わせる。

君が、音楽を〝振動で感じる〟って言ってたから──俺なりに、それを目に見える形にしたかった》


詩音は、椅子の背に背中を預ける。

凪が、骨伝導ヘッドホンをそっと手渡した。

彼女が装着したのを確認してから、凪はPCの前に戻り、再生ボタンを押す。


──静かな〝震え〟が始まった。


低音が、椅子の背と床から微かに伝わってくる。

鼓動のようなビート。呼吸のリズム。静かな環境音。紙をめくる音。雨。

そして、微かに重なるピアノの和音。

聴こえないはずの音が、身体を伝って〝侵入〟してくる。

そのひとつひとつが、凪という人間の中にある日常であり、詩音が気づいた〝小さな音〟たちだった。


そこに、凪の声が重なる。いや、実際の声ではない。

詩音のスマホ画面に同期された、メッセージの振動だった。


《この音、君に届いてる?

君の世界を、俺なりに覗いてみたくて。

少しだけど、俺、君の〝無音〟を感じたよ。

君の世界に、少しでも寄り添えられたら──それが、俺にとっての〝音楽〟だと思う》


詩音の頬に、ひとすじの涙がつたった。


聴こえなかった。

でも、確かに〝触れていた〟

誰かが、自分の世界を知ろうとしてくれた。

それだけで、心がどうしようもなく揺さぶられた。


(こんなふうに、誰かと「通じ合えた」と思えたのは、初めてかもしれない──)


曲が終わり、照明が少しずつ戻る。

詩音は、そっとヘッドホンを外した。

そして、手元のスマホに一言だけ打ち込む。


《ありがとうございます。こんなに、感じたのは初めてです》


画面を見た凪の瞳に、ほんの一瞬だけ、熱い光が揺れた。

彼は静かに目を伏せて、微かに頷いた。


***


スタジオの空気には、まだ二人の余韻が残っていた。


彼女の涙。

無音のなかで、確かに伝わった《ありがとう》の文字。


それを見たとき、胸の奥が──

ごうっと、音を立てて燃え上がるように熱くなった。


(……もう、無理だ)


凪は、二人きりのスタジオで、こぶしを強く握る。


ここまでずっと《君》と呼び続けてきた。

名前も知っているのに、どうしても呼べなかった。

どこか、それが許されないような気がしていたから。


でも、あの涙を見たとき。

抱きしめたいほどの感情に、胸の奥がどうしようもなく震えたとき──

気づいてしまった。


(俺、こんなにも……)


気持ちに、言葉が追いつかない。

でも、もう止められなかった。


ポケットからスマホを取り出し、詩音にメッセージを見せる。


《……もう少しだけ、いてほしい。話したいことがある》


凪は立ち上がり、どこかそわそわと落ち着かない様子で彼女を見た。


言葉を探して、喉の奥で何度も飲み込む。

スマホを打つ手すら、もどかしい。


けれど、意を決したように、彼はスマホを彼女に手渡した。


《ずっと、名前で呼びたかった。

でも、勝手に呼ぶのが怖くて。

だから……〝詩音〟って、呼んでもいい?》


画面を見た詩音は、一瞬、目を丸くした。

そして──ふっと、笑みをこぼす。


ほんのり赤くなった頬のまま、こくん、と頷く詩音。


それだけで、凪の顔もみるみる赤く染まっていく。


「しおん……」


喉の奥から、震えるようにこぼれたその名前は、大事な宝物みたいに優しく響いた。


もう一度、確かめるように。


「詩音……」


その響きに宿るものは《呼び名》ではなく《想い》だった。


凪の手が、詩音の頬に触れる。

やわらかな指先が、髪をすくうように耳元へ。


「……しおん」


今度は、もっと優しく──

もっと近くで。


詩音の胸が、きゅうっと鳴る。


(こえ、ちかい……)


頬が熱い。耳が、くすぐったい。

でも、不思議と嫌じゃなかった。


《君》じゃなくて《詩音》を見てくれてる──

そんな気がして。


そして、やっと、ほんの少しだけ。


(……わたし、この人のこと、好きなのかな……)


小さく、心が動いた。


名前を呼ばれるたびに、ふるえるほど嬉しくて。

それが恋なのかどうかは、まだ、うまく言えない

──まだ、ほんのすこしだけ……時間が足りなかった。


でも。


この日、この瞬間から──


《君》の中に《詩音》が宿った。


彼の音の中に、自分の名前が溶けていくのを、詩音はずっと忘れなかった。



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