5dB ◆ 君に届ける、最初の一音
こぢんまりとしたカフェに、木の香りとエスプレッソの蒸気がじんわりと広がっていた。
その日の詩音は、いつもと同じ席に着き、文庫本を開いていた。
──カラン。
乾いたドアベルの音に、反射的に顔を上げる。
見慣れたシルエット。そこに立っていたのは──彼だった。
息を切らせ、明らかに急いできた気配をまとっている。
肩のあたりが、夏の夕立にでも遭ったかのようにしっとりと濡れていた。
こんなに必死な顔の彼を見るのは、初めてだった。
(何か……あったのかな)
店内を見回した彼と、視線がかち合う。
その瞳に射抜かれたように、詩音の心臓が──とくん、と跳ねた。
まっすぐ、迷いなく──でも、どこか切実に。
彼がこちらへ歩いてくる。
詩音のテーブルの前に立った彼は、言葉もなく、表情も変えずに──
そしてふいに、ためらうように、そっと手を伸ばしてきた。
詩音の小さな手が、彼の大きな手に包まれる。
その温度が、熱いほどに伝わってきた。
一瞬で、顔が燃えるように熱くなる。
(……な、なに……!?)
驚きで声にならない声が漏れそうになる。
身体が動かない。彼の目が、まっすぐ自分を見つめている。
そのまま、彼はもう片方の手でスマホを取り出す。
あらかじめ打ち込まれていた文字が、画面に光っていた。
《お願い。今度、時間ちょうだい》
まるで心の奥に、触れられたようだった。
胸の奥が熱くなって、何かがほどけそうになる。
──お願い、なんて。
彼の手はあたたかくて、でもどこか緊張に震えていた。
詩音はぽかんとしたまま瞬きをし、けれど次の瞬間、急に顔を赤らめて目をそらす。
(な、なにこの状況……!)
頬に熱がのぼり、胸がどうしようもなく高鳴る。
ゆっくりと彼の顔を見ると──
その目が、何かを必死に訴えているのを感じて、詩音はこくんと頷いた。
テーブルの上の自分のスマホを手に取り、彼に見せる。
連絡先交換の画面だ。
その意味を、彼はすぐに察した。
ほんの一瞬、戸惑ったように目を伏せて──
でもすぐに、同じようにスマホを取り出す。
お互いの端末に、連絡先が送られた。
〝登録しました〟
その通知が、まるで何かが始まる合図のように見えた。
彼の手が、そっと動いた。
けれど、すぐには離れない。
指先で詩音の手をきゅっと、確かめるように一度だけ握ってから──
名残惜しそうに、ゆっくりと離した。
(……優しいのに、ずるい)
そんな言葉が、詩音の心のどこかに静かに滲む。
恥ずかしさを隠すように小さく笑うと、彼もまた、少し照れたように、でも安心したように笑っていた。
***
スタジオの扉が開いたとき、空気がふっと揺れた。
中にいたスタッフたちの動きが止まり、誰からともなく視線が集まる。
その中心に、凪にエスコートされた詩音が立っていた。
ふわりと揺れる黒髪に、静かな瞳。白く整った輪郭。
彼女が一歩足を踏み入れるだけで、雑然としたスタジオの風景が、少しだけ変わった気がした。
「……誰?」
「見学って聞いてたけど、あの子か…?」
ひそひそと囁き合う声が飛び交う。
その会話が、詩音の耳に届くことはない。
けれど──
周囲の視線と口の動きから、自分が値踏みされていることは察していた。
空気がざわついている。
それだけは、しっかりと感じ取ることができた。
凪は、そのざわめきを意にも介さず、詩音のすぐ傍に立ち、静かに手を差し伸べた。
「こっち。大丈夫?」
詩音はその口の動きに、ほんの一瞬だけ目を見開く。
けれどすぐに頷き、おそるおそる凪の手を取った。
そしてスマホを取り出し、文字を打ち込む。
《ありがとうございます。見学、よろしくお願いします》
画面を見た凪が、わずかに笑う。
《ああ、無理しなくていい。スタッフには、俺から言ってあるから》
そのまま、グランドピアノの置かれたスタジオの一角へと、詩音を案内する。
ふと、誰かがつぶやいた。
「……あの子が、そうなんだ」
ざわついた空気の中に、わずかに興味と敬意が混ざる。
凪が前に言っていた「聴こえない友人に、音を届けたい」という話。
その〝友人〟が、まさかこの少女だとは──誰も想像していなかった。
詩音は椅子に座り、渡されたタブレットを受け取る。
スタジオ側が用意したタブレットには、打ち合わせ内容や進行が字幕として表示されていた。
ふと、凪が彼女のそばにしゃがみ込む。
「……今日は、俺の曲を君に〝感じて〟もらいたい」
その口元の動きを読み取り、詩音はしっかりと頷いた。
スマホを開き、丁寧に打ち込む。
《凪さんの〝音〟楽しみにしてます》
凪は立ち上がり、マイクの前に立つ。
イヤモニを装着し、一度だけ詩音のほうを振り返った。
彼女が、ただ静かに、でも真っ直ぐにこちらを見ている。
その目が「聴こえなくても、ちゃんと感じてる」と語っているようだった。
凪は、軽く息を吸い──
「始めます」
スタッフが合図を出し、空気が切り替わった。
***
撮影が終わり、機材の撤収が始まる中、凪は詩音をスタジオの出口まで送った。
並んで歩く間、二人の間に言葉はない。
それでも、この静けさを心地いいと感じていることは、もうお互いに分かっていた。
ドアの前で、詩音は立ち止まる。
そして、ゆっくりと振り返り、深々と頭を下げた。
スマホに文字を打ち、凪に見せる。
《今日は、ありがとうございました。凪さんの〝音〟とても素敵でした》
その言葉に、凪は息を呑んだ。
詩音は、今までで一番優しい顔で微笑むと、もう一度小さく会釈をして、扉の向こうへ消えていった。
……その背中を見送ったあとも、凪はしばらく、その場から動けなかった。
(……何なんだろうな、この気持ち)
気づけば、自分の鼓動がうるさいほどに高鳴っている。
彼女がいないスタジオは、妙にがらんとして、音が遠かった。
凪は、スタジオの片隅に座り込む。
ふと、ポケットの中のスマホを取り出し、画面に浮かぶ〝詩音〟の文字を見つめた。
まだ、数えるほどしか会っていない。
交わした言葉も、ほんのわずか。
名前だって、やっと知れたばかり……なのに。
なのに、彼女の姿が──その静かな瞳が、ずっと頭から離れない。
(……俺、あの子のことが、好き……なのか)
ようやく自分の気持ちに言葉が追いついたとき、凪は、自嘲するように少しだけ笑った。
ほんとうに、自分らしくない。
でも、これが今の自分なのだと思った。
誰かのために、こんなにも音を届けたいと思ったのは──初めてだった。
だったら、やることは一つだけだ。
彼はゆっくりと立ち上がる。
作業ブースに向かい、椅子に腰を下ろした。
スピーカーの電源を落とす。
目の前にあるのは、サンプラーとキーボード。
そして、骨伝導ヘッドホンと触覚スピーカー。
〝聴こえる音楽〟じゃない。
〝感じる音楽〟を作るために。
彼女の世界に、ほんの少しでも近づける音を──
凪は、深く息を吸って、キーボードに手を置いた。
***
スタジオを出て、夕暮れの道を一人歩く。
まだ、身体の芯が、彼の音楽の振動で震えているようだった。
音は聴こえなかった。
けれど、確かに〝届いた〟
見えない波が、振動として胸へ何度も押し寄せ、全身をじわじわと包み込んでいく。
粗く途切れながらも、ただ真っ直ぐに迫ってくる──そんな音だった。
心が、これ以上ないほど揺さぶられた。
カフェで会う、穏やかで少し気の抜けた彼とは違う。
スタジオにいた彼は、音を全身にまとい、その世界の王様のように見えた。
今日見たもの、感じたもの、すべてが自分にとっての──
初めての本当の〝音楽〟だったのだと、詩音は確信していた。
音は聴こえない。
けれど、凪さんの〝音楽〟は、誰よりも、わたしに届いている。
そう、はっきりと──全身で、感じていた。