4dB ◆ 君の名前が、音になった
カラン、と小さく鳴った音と同時に、ほのかに漂う木の香りとエスプレッソの蒸気が詩音を包んだ。
扉をくぐると、店の奥のテーブルに、彼が座っているのが見える。
黒のパーカーに、さらりと乾いた髪。
シャワーを浴びたあと、ラフに整えただけといった風情で、以前より少しだけ無防備に見える。
どこか気の抜けたような姿なのに、まるで、そこにいることが当然かのような空気があった。
──目が、合う。
ほんの少し目を見開いたように見えたあと、凪は、ためらうようにそっと詩音に手招きをした。
詩音は驚きに足を止め、数秒間、彼を見つめる。
そして、花が咲くようにふわりと微笑むと、彼のテーブルへと歩み寄った。
凪の向かいの席に、静かに腰を下ろす。
詩音はすぐにスマホを取り出し、画面に文字を打った。
《こんにちは。お元気でしたか?》
凪は画面を覗き込み、少し口元を緩めて、声には出さずに「うん」と頷く。
彼のその表情と、場の空気の揺らぎで、彼女には不思議と〝伝わった〟
詩音はもう一行、画面に追記する。
《MV、見ました》
凪は驚いたように目を丸くし、それから少し視線を泳がせた。
「バレた」というよりも、隠していたものが自然とほどけた、そんな顔だった。
そして、自分のスマホを取り出し、文字を打ち込んでいく。
《……そっか。……驚いた?》
《はい、ちょっとだけ。でも、とても素敵でした》
詩音は、少しおどけた表情で文字を続ける。
《今日ここに来る前、マスコミとかいないか確認しちゃいました》
その言葉に、凪は思わず肩を揺らして笑った。
《そっか……もしバレたら〝XENOといる女〟って書かれるもんな》
と笑いながらも、少し肩をすくめて続けた。
《でも俺、撮影とかで顔出してるときと、プライベートでは全然雰囲気違うから。
たいてい気づかれないし、一瞬〝XENO!?〟って顔されても──
『なんだよ、似てるだけのニートかよ』って言われたこと、けっこうある》
詩音もつられて、くすくすと音もなく笑う。
あの日の雨の静けさとはまた違う、軽やかで心地いい空気が、ふたりの間を流れていく。
少しの沈黙のあと、凪はスマホを使わず、静かに口を動かした。
「あのさ……君の名前、まだ、聞いてない」
詩音は少し驚いたように目を開き、それから、照れたように頬を染めた。
スマホにゆっくりと文字を打ち込む。
《佐々木詩音です。大学1年生です》
凪はその画面をじっと見つめたまま、名前を確かめるように、唇を動かした。
「……しおん」
その響きが気に入ったのか、彼は何度か頷き、柔らかく微笑む。
《永倉凪。23歳。XENOって名前で音楽やってる》
詩音は画面を見たまま、ゆっくりと微笑んだ。
芸能人やアーティストに、興味を持ったことはなかった。
それでも〝XENO〟という名前だけは、何度も目にしたことがある。
CMや街頭広告、SNSの画面越しに──
顔も曲も、ちゃんとは知らなかったけれど。
それが、目の前のこの人だったなんて──
《やっぱり、すごい人だったんですね》
そう返す指先には、どこか緊張が混じっていた。
だが、凪はその言葉に、どこか照れくさそうな笑みを返した。
そして画面に、ひとことだけ言葉を乗せた。
《……俺はただ、君にもう一度会いたかっただけ》
それだけ。
けれど、その言葉の重みは、静かなカフェの中で、確かに詩音の胸に届いた。
***
カップの底が見え始めた頃。
テーブルの上には、ふたりのスマホが伏せられたまま、静かに置かれている。
沈黙が、気まずさではなく〝呼吸〟のように心地よく流れた。
詩音がグラスに指を添えると、氷がカラン、とかすかに鳴る。
その音に、凪はふと顔を上げた。
そして、スマホをゆっくりと持ち上げ、文字を打ち込む。
《……これ、訊いてもいいかわからないけど》
詩音は画面を見て、軽く首をかしげた。
彼は、一度ためらうようにスマホを見つめてから、慎重に続ける。
《〝聴こえない〟って、怖くない?
さっき名前を聞いたときみたいに、君は口の動きで俺の言ってることがわかってるみたいなんだけど……
たとえば夜道とか、地震とか……音が必要な場面で、困ったこととか……
俺、そういうの、全然わからなくて……》
詩音は、その文章を読みながら、少しだけ驚いたように目を丸くした。
そして、ふっと微笑んで、スマホに指を走らせる。
《大丈夫です。聞かれるのは平気ですよ。避けられるより、ずっと嬉しいです。
わたしは口の動きを読む読話を勉強したので、今は日常会話くらいなら口の動きを見ればわかるようになりました》
凪は「すごいな……」と息をついたように笑った。
詩音は、凪の表情を見て、そっと続きを打ち込む。
《怖い、と思ったことはあります。
でも、それは〝音がない〟こと自体じゃなくて〝周囲の人に状況を気づいてもらえない〟ことでした。
子供のころ、青信号で道を渡ろうとしたとき、救急車が近づいていることに気づかず、ぶつかりそうになったことがあります。
サイレンも、クラクションも、わたしには聴こえないから……でも、本当に怖かったのはそのあとでした。
「なんでそんなこともわからないの!」って怒鳴られて〝耳が聴こえない〟ことも伝えられず、ただ、ひたすら《ごめんなさい》って何度も頭を下げることしかできませんでした》
凪は、思わずスマホを持つ手に力がこもった。
何か、知らない痛みを見せられた気がした。
《音が聴こえないことより、自分でもどうしようもないことで怒られる方が、ずっと、心に残ります。
でも、音のない世界にも、慣れると〝静けさの豊かさ〟があるんです。
怖いのは不安じゃなくて、誤解なんですよね》
その言葉たちは、凪の中で何かを抉るように、けれど優しく届いてくる。
彼は少し考えてから、画面に打った。
《……ごめん。俺、今まで〝音のない世界〟って、ただ「不便で、かわいそう」なだけだって、どこかで思ってた。
自分にとって大事なものが、誰かにはまったく届かない世界なんだって……勝手に思い込んでた》
詩音は、それを読んでまた微笑んだ。
ただ、彼の真っ直ぐさが、少し愛おしく思えた。
《音楽って、聴こえなくても感じられると、わたしは思ってます。
リズムも、息遣いも、視線も。音がないぶん、すごく〝視える〟んです。
凪さんの曲、MVで流れてたとき……わたし、心臓がドクドクして、泣きそうになったんです。
あれは、ちゃんと〝音楽〟でした》
凪は、画面を見つめたまま、動けなかった。
自分の中にある〝音楽〟という言葉の輪郭が、知らないうちに、優しく更新されていく。
彼は、スマホを見つめたまま、ひとつだけ言葉を足した。
《……ありがとう。教えてくれて》
詩音はこくりと頷き、胸の前で手を合わせるようにして、小さく笑った。
その笑顔の奥にあったもの──
それは、音のない人生を歩んできたからこその〝耳には聴こえないけれど、確かに届く声〟だった。
***
スタジオの照明を落とすと、空間が息を潜めたように静まり返る。
凪は、ノイズキャンセリングと遮音性の高いイヤープラグを、両耳に深く差し込んだ。
骨伝導のヘッドホンは、まだ無音のまま首元にかかっている。
音を──完全に、遮断する。
それがきっと、彼女の世界に近づくための、最初の入口だと思った。
まるで水の中に沈んでいくようだった。
外の音も、空調の作動音も、自分の服が擦れる音さえも、何も届かない。
世界そのものが遠ざかっていく。
〝聞こえない〟というより〝存在しない〟
そんな錯覚に、背筋が冷たくなる。
──こわい。
凪はふっと息を吐き、プロジェクターの電源を入れた。
無音のMVが、白い壁に静かに揺れる。
だが、耳には何も響かない。視覚だけが、やけに鋭く残されている。
心臓の鼓動が速くなっていく。
自分が少しずつ、音のない空間に乱されていくのを感じた。
「……しおん」
──初めて、彼女の名前を声に出して呼んだ。
「あんたは……こんな世界で、いつも笑ってんのか……?」
そう呟いたとき、胸の奥がきゅっと縮まった。
彼女は、自分よりもずっと強いのかもしれない。
でも、その強さの裏にどれだけの孤独があるのか、自分にはまだ想像もつかない。
凪はそのとき初めて〝聴こえない〟ことがどれほどの断絶か〝感じ取るしかない〟ということが、どれほど神経をすり減らすのかを、その身で知った。
机の上のスマホを手に取り、メモ画面を開く。
そして、そこにそっと打ち込んだ。
《今度、俺のスタジオに来ない?地図、送るね。
君のためだけに鳴らす音を、そこで用意して待ってる》
何度も読み返してから、画面を閉じる。
凪は鍵盤の前に座った。
イヤープラグをしたままでは、音は聴こえない。
それでも、ひとつ鍵を押した。音が出ているかどうかは、わからない。
ただ、指先のかすかな反発。その震えだけが〝音〟の代わりだった。
「……こうやって、感じるしか、ないんだな」
彼は何度でも思い出す。
あの日、彼女が見せてくれた言葉を。
《振動。あとは景色とか、表情とか。音はなくても、感情で感じている気がします》
──今なら、少しだけ、わかる気がする。
彼は録音ソフトを開き、キーボードに触れた。
メロディではない。それは、呼吸のリズム。心臓のビート。風が頬を撫でる速さ。
すべてが〝君にだけ届く音〟になるように。
彼女が、世界をどう感じているのか。
その景色を、自分の中で音に変換していく。
「……君にだけ、届け」
鍵盤の上で、手を組むようにして、目を閉じる。
無音の空間で呟いた言葉は、やはり誰にも届かなかった。
でも、それでよかった。
この沈黙のなかでしか、生まれない音がある。
そう、信じたかった。
凪は、ボイスメモを起動し、静かに録音を始めた。
小さく、震えながら、音のない世界に、彼は潜っていく。
ただ、彼女の〝世界〟に届く何かを、そこに刻むために。