3dB ◆ まだ知らない君へ
夕暮れが差し込む、都内の大きなスクランブル交差点。
詩音は、人混みを避けるように歩道の端を歩いていた。
理由もないのに、なぜかそわそわと落ち着かない。
春だというのに、空気はどこか冷たいままだった。
ふと、空を見上げる。
大型ビルの壁面に埋め込まれた巨大スクリーンが、街の空気ごと、蒼に染めていく。
深く、静かに波打つような映像。
群青色の世界で、ひとりの男が音に抱かれるように歌っていた。
その横顔を見た瞬間、詩音の足が止まった。
(……あの人)
傘を差し出してくれた人。
カフェで、スマホ越しに言葉をくれた人。
目の伏せ方。身体のリズム。光に浮かび上がる、静かな表情。
どこかで見た気がする──なんて曖昧なものじゃない。
まさか、とは思った。
でも、間違えるはずがなかった。
彼の姿を見た瞬間、肌が、心が、記憶の奥を震わせた。
確かに、あの人だった。
鼓動が、少しだけ速くなる。
街を包む音のない喧騒のなかで、彼の存在だけが、確かな輪郭を持って迫ってくるようだった。
スクリーンの中の彼は、歌いながら泣いていた。
無音の世界で、その痛いほどの感情だけが、まっすぐに届いてくる。
耳に〝音〟は届かない。
それでも、街全体から、わずかな振動が流れ込んでくる。
低く響く、心臓のようなビート。跳ねるリズム。泣き出しそうな旋律。
耳ではない場所で、詩音は確かに〝音楽〟を感じていた。
──そのときだった。
スクリーンの前で立ち止まりはじめた人々の波が、視界に入る。
誰もが、画面に目を向けていた。
学生。サラリーマン。親子連れ。観光客。
老若男女の視線が、吸い寄せられるように一つの場所に集まっている。
中にはスマホを掲げて撮影している人もいた。
詩音のすぐそばで、数人の女性たちが手を叩きながら何かを叫んでいる。
声は聴こえない。
けれど、その身振りや口の動き、熱を帯びた表情だけで〝今ここで何かが熱狂的に騒がれている〟ことは、はっきりと伝わってきた。
スクリーンの中で歌う彼は、決して〝知られざる人〟ではなかったのだ。
たくさんの視線を惹きつけ、たくさんの心を動かしている。
(……もしかして、すごい人なのかもしれない)
詩音は、ただそこに立ち尽くしていた。
誰よりも近くで感じていた。
スマホを出すこともなく、ただ静かに──字幕の言葉を目でなぞりながら。
彼の名前や肩書きが、画面のどこかに出ていたのかもしれない。
けれどそのときの詩音には、何も目に入らなかった。
ただ、あの表情と、あの歌だけが、まっすぐに胸に響いていた。
《言葉じゃ足りない。音を重ねても足りない。だから──作りたいんだ。君が感じる世界を》
誰に向けた言葉なのかは、わからない。
けれど、詩音の胸は一気に熱を帯びた。
まるで、自分に語りかけられているような錯覚。
この人の音楽が、誰のものでもなく、自分の中だけで〝生きている〟ような気がした。
(……わたしのための、曲だったらいいのに)
ふと、そんなことを願ってしまう。
でも、それを伝えるすべもない。
名前も、知らない。
ただ、あの瞳と、あの沈黙と、あの傘のぬくもりだけが、記憶に焼き付いている。
彼のことを知りたい。
でも、それ以上を求めるのがこわい。
そんな矛盾が、大きく膨らんでいく。
それは、手を伸ばした瞬間に壊れてしまいそうな、あまりに繊細な距離だった。
だからこそ、今はまだこのまま、立ち尽くしていたかった。
***
人の波は次第に動き出し、さっきまで歓声を上げていた人たちも、それぞれの道へと戻っていく。
だが、詩音はまだ、その場を離れられずにいた。
目の前のスクリーンには、もう次のCMが流れている。
街のざわめきも、彼女には届かない。
それでも、心の奥でだけ〝あの音楽〟が鳴りやまなかった。
モニターに映っていたのは、ただの映像。
字幕と、光と、わずかな振動だけ。
それなのに──なぜか、涙が出そうだった。
「感動」とか「好き」とか、そういうはっきりとした感情じゃない。
もっとずっと手前の、言葉にならない場所で、胸がじんわりと揺さぶられていた。
(この人の作る音楽には、誰かを強く想う気持ちがある)
そう、確信に近い形で思った。
(もし、あの映像が──わたしのために作られたものだったとしたら……どんなに嬉しいだろう)
けれど、そんなはずはない。
たった一度、偶然の再会があっただけ。カフェで少し言葉を交わしただけ。
……なのに、胸の奥ではっきりと〝知っている〟気がする。
心のどこかが、彼の音を覚えている。
耳じゃなく、身体と感情で記憶しているのだ。
詩音はそっと胸に手を当てた。
何も言葉にできないまま、ただ、ぽつりと心のなかでつぶやく。
(……また、会いたい)
言えなかったことを、もう一度だけ。
今度は、もう少しだけ、ちゃんと伝えられたらいい。
たとえ聴こえなくても。たとえ言葉がなくても。
〝あの人〟に、もう一度会いたい。
彼が誰なのかは、まだ知らない。名前も、何も。
それでも──心はもう、覚えていた。
それはもう、漠然とした〝再会〟への期待ではなく〝確かめたい想い〟に近かった。
***
その日の夜、凪は静かな部屋で、スマホのメモを開いていた。
詩音とカフェで再会したあの日から、ずっと心のどこかに残っていた想い。
あのときも、名前は訊けなかった。
チャンスはあった。けれど、踏み込むことができなかった。
画面を開いたまま、ふと指が動き、文字が浮かぶ。
《でも、やっぱり……名前、訊いておくべきだったかな》
それは、誰に見せるでもない、ひとりごとみたいな文字だった。
会いたい。
もう一度、ちゃんと話したい。
そう思ったのに、連絡先を聞くことはできなかった。
あの静けさが壊れるのがこわかった。
あの子の中に、自分が〝音楽をする人〟として〝XENO〟としてインプットされるのも、少しだけ怖かったのかもしれない。
──もし、あの子があの映像を見て、自分を知ってしまったとしたら。
そう思うだけで、胸がちくりと痛んだ。
(でも……それでも、あの子が、あの映像を見てくれてたら──)
ほんの少しでもいい。
自分の音が、あの世界に触れられたなら。
それだけで、救われる気がした。
凪はスマホを伏せて、今度はボイスメモを起動する。
「……MV、見てくれたかな。気づいたかな。あの歌に込めたこと。
いや、そんなのわかるわけないか……」
一呼吸置いて、天井を仰ぐ。
「でも、伝えたかった。また会えたら──誘いたい。俺のレコーディングに。
あの子の目で、音を感じるその世界で……俺の音が、どう鳴ってるのか、知りたいんだ」
ボイスメモを止める。
静寂だけが、部屋にゆっくりと沈んでいく。
……それでも、その沈黙にすら、意味があるように思えた。
凪は目を閉じて、ゆっくり息を吐いた。
「……名前、知りたい」
今度こそ、ちゃんと──
あの沈黙を、言葉に変えられたら。
そう、祈るように願っていた。