30dB ◆ 世界で一番、やさしい音
暖かな春の日差しが差し込むリビング。
ぽろん、ぽろん──おもちゃの鍵盤が、少しだけ間の抜けた優しい音を響かせていた。
カーテンが揺れる窓辺には、世界的な栄誉を静かに物語るグラミー賞のトロフィー。
その隣には、深いブルーのリボンを結んだテディベアと、おもちゃのヘッドホンをつけたテディベアが仲良く座っている。
ふたりの前には、手のひらサイズの小さなくまのぬいぐるみが、ちょこんと置かれていた。
部屋の中央には、カラフルなクッションマット。
その上で、小さな男の子が子供用のピアノを楽しそうに鳴らしている。
キッチンからは、コーヒーの香ばしさと、クッキーの焼ける甘い匂い。
詩音がキッチンから戻ってくると、ローテーブルに置いたタブレットに文字を打ち込んだ。
《とおん、そろそろおやつだよー》
画面を見た灯音は、こくんと頷き、また鍵盤へ指を伸ばす。
当たり前に続く、親子の光景。
凪はその瞬間を、どうしようもなく愛おしいと感じていた。
「ぱぱー。このおと、なんのおとだとおもう?」
灯音は舌足らずな口調で、ぽろん、ぽろんと音を鳴らす。
凪は耳を澄ませた。
それはかつて、彼がリハビリのときに詩音へ何度も弾いて聴かせた、あのシンプルな和音に似ていた。
「何の音なんだ?」
凪が優しく問いかけると、灯音は得意げに鍵盤をひとつずつ押してみせる。
「これね、ままが、わらってるときのおと」
柔らかな長調。
「これ……ぱぱが、あたまなでてくれるときのおと」
少し低めで、安心する単音。
「これは〝だいすき〟のおとだよ」
三つの音が重なり、ひとつのハーモニーになる。。
凪は息を呑んだ。
アメリカでの一年半、来る日も来る日も詩音と二人で探し続けた音──
振動、光、感情。
その全部が、目の前の小さな息子の中で自然に溶け合っている。
灯音はいたずらっぽく笑い、今度は少し高くてきらきらした音を鳴らした。
「これはね、ままのおなかのなかの、あかちゃんのおと」
その言葉に、クッキーの皿を持ってきた詩音が、灯音の頭を柔らかく撫でる。
彼女のお腹は、やわらかなワンピース越しにかすかに分かるくらい、少しだけ膨らんでいた。
灯音は母親のお腹にそっと耳を当て、目を閉じる。
「すごくかわいいおんなのこなんだよ。ぼくが、ずーっとまもってあげるの!」
性別はまだ分からないはずなのに。
凪は驚いたように詩音と目を合わせる。
「女の子……なのか?」
「うん!はやくままとぱぱにあいたいな、っていってるよ」
灯音はにぱっと笑った。
凪は、もう何も言えなかった。
ただ、目の前の不思議な感性を持つ息子と、その隣で愛おしそうにお腹を撫でる詩音の姿を見つめる。
(ああ……そうか)
心の中で、静かに呟いた。
(俺が人生を懸けて探していた〝音〟は、世界を変えるような大きなものじゃなかったのかもしれない)
新しいアルバムでもない。
画期的なライブでもない。
ただ、こうして愛する人たちと過ごす穏やかな時間。
笑い声の気配、触れ合う指先のぬくもり。
未来への、静かな期待──その全部が、音楽だった。
凪はそっと手を伸ばし、詩音のお腹に自分の手を重ねる。
その上に、灯音が小さな手をぽん、と乗せた。
三つの掌が、ひとつの新しい命の上で静かに重なり合う。
それは、どんな名曲よりも深く、たしかに響く──
永倉家の〝音〟だった。
本編はこれにて完結となります!
ここまで読んでくださった方(調べる方法わからないのでどれだけいるか分かりませんが笑)
ありがとうございました!
今後は全章の微調整をしつつ、番外編や後日談などを投稿する予定です。
(唐突に作品を消してしまう可能性大ですが……笑)




