29dB ◆ 0dBのその先へ
「君が見てる世界の音は、俺が作るから」
凪がそう誓ったのは、まだ慣れない〝信号〟が、世界の輪郭を揺らしていた頃。
それでも、彼の声だけは詩音の心に真っ直ぐに届いていた。
──あれから、数年。
XENOこと永倉凪が立ち上げた、聴覚障害者のための音楽制作チーム
〝0dB Music PROJECT〟は、多方面にわたり積極的に活動を続けていた。
音が聴こえない人のための音楽。
聴こえにくい人にも届く音楽。
そして、耳ではなく〝心〟で聴く、すべての人へ向けた音楽を届けること。
今では、XENOのライブ会場には、たくさんの設備が常設されている。
【SILENT BEAT】の時とは違い、健常者と障害者が同じ空間で同じ熱狂を共有できるように、その技術は進化を続けていた。
骨伝導対応の座席:座面に組み込まれたデバイスが、音楽のリズムを身体に振動で伝える。
字幕リアルタイム投影システム:MCや歌詞だけでなく、会場の歓声や空気感までもが、詩的な言葉としてリアルタイムで投影される。
振動連動型ライト演出:音の強さやリズムに応じて光が変化し、視覚と感覚で〝音〟を体験できる。
手話パフォーマンスユニット:ステージの両脇で、音楽の世界観を手話と身体表現で再現する、独立したアートパフォーマーたち。
SNSでは、ある投稿がたびたび話題になる。
「〝音が聴こえないこと〟を〝音楽に触れられない〟とは言わせない。
音楽は耳だけじゃない。体で、心で、空気で感じていいんだ」
これは、凪がかつて詩音と交わした、ある夜の会話から生まれたプロジェクトの理念だった。
そして、プロジェクトは子どもたちの世界にも広がり始めていた。
詩音が監修するシリーズ絵本『音を描く絵本』は、ページをめくるたびに振動するパネルが内蔵され、色と光と揺れでメロディーを表現する。
さらに、詩音が大切に育ててきた企画「感情の音」シリーズも、静かに反響を広げていた。
「悲しい」はブルー。
「嬉しい」はイエロー。
「好き」はピンク。
言葉にならない心の揺れを、スマートフォンの画面の色の変化と細やかな振動だけで表現する短編コンテンツだ。
アプリを起動すると、物語に合わせて画面がゆっくりと赤に染まり、心臓の鼓動のようにスマホが震える。
音を〝感じる〟とはどういうことかを、子どもたちに直感的に、そして優しく教えていた。
詩音は、あるインタビューでこう語っている。
《〝感じる〟ことを止めなければ、音楽は誰にでも届きます。
それを、わたしは彼から教わりました》
そして、その活動はついに世界最高の音楽の祭典にまで届いた。
ロサンゼルス、グラミー賞授賞式。
今年から新設された「Best Immersive Music Experience(最優秀没入型音楽体験賞)」の候補として、XENOの【0dB Music PROJECT】がノミネートされていた。
会場の巨大なスクリーンに、プロジェクトの紹介映像が流れる。
ライブ会場で振動と光に身を委ね、涙を流す人々。
絵本に触れ、驚きに目を見開く子供たち。
その映像を、客席の最前列で、凪と詩音は並んで見つめていた。
隣には、プロジェクトのチーフエンジニアとして、この場に招かれた涼の姿もある。
大学を卒業した彼は、姉の世界を変えたこのプロジェクトに、自らの人生を捧げることを決めた。
「And the Grammy goes to...」
プレゼンターがゆっくりと封筒を開ける。
会場の誰もが息を呑んだ。
「──XENO, for the “0dB Music PROJECT”!!」
その瞬間、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
凪は信じられないというように目を見開く。
隣で詩音が泣きながら、満面の笑みで彼の手を握りしめている。
涼がその肩を強く叩いた。
ステージへ向かう凪の足取りは少しだけおぼつかない。
スポットライトの中心に立ち、トロフィーを受け取る。
彼は会場を埋め尽くすスターたちを見渡し、静かに口を開いた。
「今回、このような栄誉ある賞をいただき、本当に……ありがとうございます。
俺はずっと、自分の音楽がどこまで届くのかを追いかけてきました。
世界中に響かせたい。それだけを考えて走ってきたんです。
けれど、ある日気づきました。
《世界中に届く音》を作っていながら、たった一人──
一番大切な人には届けられないという事実に。
そのとき初めて、自分の音楽が〝欠けていた〟と感じました」
凪は、客席の最前列にいる詩音の方へ、ゆったりと視線を向ける。
「数年前のライブで俺は『たった一人に届かないなら意味がない』と言いました。
あの日の俺は、届かなかった現実に立ち尽くし、どうすれば《届けられるのか》だけを考えていました。
でも──今は違います。
届かなかったその一人が、俺に《音のない世界》を教えてくれた。
静寂の形、振動の色、光が持つリズム……
知らなかったものに触れたことで、俺の音楽は初めて《完成》に向かい始めました。
今日ここに立てたのは、彼女が見ている世界へ一緒に旅に出てくれた仲間たちのおかげです。
そして何より──その世界へ案内してくれた、たった一人の妻のおかげです。」
凪は瞳を閉じ、耳元で光るアクセサリーに指を添える。
「詩音。きみの静寂が、俺に道をくれた。
きみが教えてくれた0dBの世界から、俺の新しい音楽は始まった。
これは、きみに渡したかったラブレターが世界まで届いた証です。
……ありがとう。俺の音に、なってくれて」
深く頭を下げた瞬間、会場は大きな拍手の波に呑まれた。
嵐のようなスタンディングオベーションが、どこまでも会場に広がる。
***
グラミー賞の喧騒から数日後。
二人は、高知の静かな港の防波堤に座っていた。
凪の故郷の海は、今日も変わらず穏やかな波を繰り返している。
詩音は凪の肩にそっと頭を預けた。
インプラントを通して、波の音が微かなリズムとして頭の中に響いてくる。
まだ「音」というより、心地よい「信号」に近い。
でも、それで十分だった。
凪は何も言わずに、詩音の手を握りしめる。
その指が、ゆっくりと彼女の手のひらに文字をなぞり始めた。
〝し〟〝お〟〝ん〟
詩音も、凪の手のひらに指で返す。
〝な〟〝ぎ〟〝く〟〝ん〟
言葉はいらない。音もいらない。
触れ合うだけで、すべてが伝わる。
凪は、ポケットから指輪の入った小さな箱を取り出した。
(ずっと、渡せなかった)
結婚した時に渡すことも考えたが、あの頃の俺たちは、すでに〝それぞれの想い〟を分け合っていた。
2人の耳元で光る小さな輝き──
それは、ふとしたときに相手の存在を想い、無意識に触れてしまうほど、自然に肌へと馴染んだものになっていた。
だから急いで指輪を求めなかった。
「いつか夢が叶ったら、そのときに」
そんな未来の話を、当たり前のように語り合っていた。
その約束が本当に果たされた時──
世界が認めてくれたその時こそがふさわしいと、ずっと心に決めていた。
今回のグラミー賞は、そのひとつだった。
箱の中には、2つのシンプルな指輪。
内側にはごく小さな文字で、こう刻まれている。
〝Your heartbeat is my favorite song.〟
──君の心音が、俺の一番好きな歌。
凪は指輪を、詩音の左手の薬指にそっとはめる。
詩音の瞳から一筋の涙がこぼれ、夕陽を浴びてきらりと光った。
彼女は凪の胸に顔を埋め、おぼつかない、けれど世界で一番美しい声で言葉を紡ぐ。
「……あ、い、し、て、る」
凪は、その声を全身で受け止めるように、彼女を強く抱きしめた。
耳元で、詩音が贈った輝きが最後の夕陽を弾き返す。
──君の静寂は、俺の音。
──君の心音は、俺の歌。
音のない世界と音のある世界。
その2つを繋いで始まった物語は、今もたくさんの〝新しい音〟を育てながら、どこまでも続く未来へと溶けていく。
そして今日も、どこかで誰かが──
「感じる音楽」と出会っている。




